驕るものたち
6月23日は沖縄慰霊の日。
『上野千鶴子の選憲論』(集英社新書)で、「琉球共和社会憲法C私(試)案」(『新沖縄文学』48、1981年)の全文が引用されている。
この憲法試案の前文というのが、すばらしい。ごく一部だけ紹介する。
「浦添に驕るものたちは浦添によって滅び、首里に驕るものたちは首里によって滅んだ。ピラミッドに驕るものたちはピラミッドによって滅び、長城に驕るものたちもまた長城によって滅んだ。軍備によって驕るものたちは軍備によって滅び、法に驕るものたちもまた法によって滅んだ。神によったものたちは神に滅び、人間によったものたちは人間に滅び、愛によったものたちは愛に滅んだ。
科学に驕るものたちは科学によって滅び、食に驕るものたちは食によって滅ぶ。国家を求めれば国家の牢に住む…」
「九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が国内の民を殺りくするからくりであることを知らされた。(中略)われわれはもうホトホトに愛想がつきた。好戦国日本よ、好戦的日本国民と権力者共よ、好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない」
今の状況を予言するような文章である。
「○○に驕るものたちは○○によって滅ぶ」というのは、すべてにあてはまる本質であるように思う。「科学に驕るものたちは科学によって滅び」なんて、まさに今、どこぞで起こっていることそのまんまじゃん。
同じことを感じたのは、むかし、立川談志が、落語のマクラで、
「いいかい、病院は患者のためにあるんじゃないぜ、医者のためにあるんだぜ。学校は生徒のためにあるんじゃないぜ、先生のためにあるんだぜ。国会は国民のためにあるんじゃないぜ、国会議員のためにあるんだぜ…。そう考えれば、世の中で起こっていることが全部説明できる」
と言っていたのを聞いたときである。なるほどこれが、世の中の本質か、と。
昨今起こっている、さまざまな出来事は、すべてこの理屈で説明できるではないか。
とすれば、私たちがめざすことは、じつにはっきりしている。
病院を患者のもとに取り戻せ。
学校を生徒のもとに取り戻せ。
大学を学生のもとに取り戻せ。
国会を国民のもとに取り戻せ。
…じつに単純明快である。
だがこんな単純なことに、多くの人は向き合おうとはしない。
それが私には、不思議でならない。
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