第九のスズキさん
続・第九のスズキさん
続々・第九のスズキさん
7月13日(日)
数日前、母から電話があった。
「第九のスズキさんのお宅にいつ行くの?本の整理のこともあるから、早めにうかがったほうがいいわよ」
「第九のスズキさん」は、母の高校時代の友人の夫である。2年前、講演をしている最中、壇上で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
定年までずっと市役所の職員をしていたが、趣味として、ベートーベンの第九が日本でどのように受容したかについての研究を続け、あるとき、その研究成果をまとめた本を出版した。
定年後は、福祉施設や児童養護施設などで要職を務め、とくに児童養護施設では、とても面倒見のいい園長さんとして、人望が厚かったという。
あまりに突然だった死は、人々に衝撃を与えた。告別式では、第九をこよなく愛した故人を偲んで、音符の形にした花を、祭壇に供えたという。
「第九のスズキさん」の家には、膨大な資料が残された。
私自身は、「第九のスズキさん」にお会いしたことはない。
でも、その資料をひと目見てみたいと思い、母にお願いして、「第九のスズキさん」のお宅に伺うことを約束していたのだ。
そして今日、ようやく「第九のスズキさん」のお宅に、母と一緒におじゃますることになった。
住宅街にある、2階建てのふつうのお宅である。
しかし、中に入ってビックリした。
各部屋に、大きな本棚がいくつも置いてあり、そこに膨大な数の本が並べられていた。
部屋だけではない。廊下にも本棚が並べられていた。
一部屋まるまる、書庫のようになっていた部屋もあった。
「すごい量でしょう」と、第九のスズキさんの奥さん。「突然逝ってしまったんで、整理がつかなくて、そのままにしているんです。生前は、あまりにごちゃごちゃしているので片づけようとすると、『触るな』と怒られたんです。雑然としていて、私には何が何だかわからなくて」
たしかに、本が雑然と並んでいた。まるで、私の家の本棚のごとくである。
「第九の研究が終わったら、今度はキリスト教の研究をするんだと言って、聖書だとかキリスト教の本だとかを、集め出したんです」
居間にある本棚には、キリスト教に関する本が並べられていた。
各部屋の本棚を見せてもらって、驚いた。
てっきり私は、ベートーベンの第九に関する本が集められているとばかり思っていた。
しかし、実際は全然違っていた。
文学、音楽、美術、宗教、哲学、歴史、民俗、ありとあらゆるジャンルの本が、所狭しと並んでいたのだ!
それらを、一つ一つ見ていく。
一見、雑然と並んでいる本だったが、それなりの「法則」にしたがって並んでいることに気づいた。
おそらく「第九のスズキさん」は、彼なりの基準で、本棚の本を並べていたのだ。
それをじっくりと見ていくと、「第九のスズキさん」の思考過程が、手に取るようにわかってきた。
まさに、「本棚に人生あり」である(今日の名言!)。
私は、本棚の本を観察した結果を、まるで絵解きのように奥さんに報告した。
「たしかに一見すると、本が雑然と並んでいるように見えます。でも、ご自身の関心や優先順位にしたがって、書斎の本棚、寝室の本棚、物入れ部屋の本棚に、それぞれ分けて本を並べていたようです」
「そうですか…」
1つの本棚の中でも、棚一つ一つに意味を込めて、ご自身の基準で分類された本を並べています」
「ちっとも知りませんでした」
「本棚をみると、スズキさんの思考過程が、手に取るようにわかります」
私がそういうと、奥さんは驚いていた。「まるで、あなたが夫と話をしているみたいです…」
奥さんは、こんなエピソードを紹介した。
「夫は本当になんにでも首を突っ込む人でねえ。まだハンセン病に対する偏見が強かった時代に、『ハンセン病の病院に行こう』と言って、一緒に行ったことがあったんですよ」
「そうですか」
「私はその頃、ハンセン病は恐ろしいという偏見を持っていて、そのことを夫に言うと、『それは間違いだ』と言うんです。今でこそ、偏見はなくなりつつありますけれど、まだ映画『砂の器』が公開される前でしたからねえ」
なぜ、「第九のスズキさん」は、ハンセン病に関心を持ったのか?
それは、日本における第九の歴史を調べていくうちに、ハンセン病の歌人と第九との関係を物語るエピソードを知ったからではなかったか。
そのことは、本の中にも記されている。
第九について調べたことがきっかけで、ハンセン病に対する関心が生まれたのである。
1つのことに没頭していくうちに、あらゆる分野に関心が波及する。
それが、「第九のスズキさん」の思考過程なのだ。
おそらく、一見バラバラに見える本のコレクションも、それですべて説明できると思う。
ここから私たちは、学ぶだろう。
1つのことに没頭することが、やがてあらゆることへの興味・関心へと波及する。
これこそが、「研究」の本質である、と。
「夫は、寅さん映画の大ファンだったんですよ」奥さんが続けた。「夫は、寅さんを地で行くような人でした。困った人がいたら、どこまでも親身になったりしてねえ」
なるほど、寅さん、か。
晩年、児童養護施設の園長さんとして慕われた「第九のスズキさん」は、突然、なんの予告もせずに、この世を去ってしまった。
映画「男はつらいよ」の最終回を、山田洋次監督は次のように構想していた。
それは、寅次郎がテキ屋稼業をやめて幼稚園の用務員になり、かくれんぼをしている最中に息をひきとり、町の人が思い出のために寅次郎のお地蔵さんを作る、というものである。
「第九のスズキさん」の最期と、寅さんの最期が、なんとなく重なるようにも思えた。
「第九のスズキさん」が書いた本を、1冊いただいた。サイン入りである。
「いいんですか?」と私。
「どうぞ。サインをしたまま、家に置いてある本が何冊か残っているんです」
そこには、「歓喜満堂」と書いてあった。
「歓喜」とは、「歓喜の歌」、すなわち第九のことであろう。ご自身も第九を歌うことを趣味としていた「第九のスズキさん」は、第九でお客さんが一杯になることを、いつも夢見ていたのだ。
「これ、夫が最後に書いた、自己紹介の原稿です。告別式のときに、そのコピーをみなさんに配ったんです」
手書きの原稿である。
自己紹介の最後の欄に、「夢」という欄があった。
そこには、2つの夢が書いてあった。
「(1)自分の図書館を創ること
(2)もう一冊本を書くこと。テーマ『クリスマスと日本人』」
そうか。
第九の研究が一段落した後、今度は、「クリスマス」が日本でどのように受容されたかをテーマにした本を、書きたかったのだ。
だから、キリスト教に関するあらゆる文献を収集していたのだ。
しかし、この夢は、叶わないまま、「第九のスズキさん」は旅立ってしまった。
もし、「第九のスズキさん」が、クリスマスの本を書いたとしたら、どんな本になっただろう、と、私は夢想した。
時間があっという間にたち、おいとまする時間になった。
「またおいでください」
「またうかがいます」
最後に奥さんが言った。
「夫が生きているときに、あなたに会わせたかった。あなたとなら、時間を忘れて、自分の好きなことをお喋りできたでしょうね」
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