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その業(ごう)は、肯定できるか

立川談志の落語のマクラに、

「なぜ政治家は悪いことをするのか」

というのがある。

「人間は、いいことばかりすると、身がもたないのだ。だから、つい悪いことをするのだ」

というのが、談志の主張である。

たとえば、理想に燃える政治家がいたとして、いいことばかりしていたとする。

だが、そんなことが、現実には長続きするはずがない。人間、いいことばかりしていては、身が持たないのだ。

だから、政治家は悪いことをしたがるのである。

理性的ではない心の動き、これを「業(ごう)」という。

そして落語の本質は、「人間の業の肯定」である、と談志は言う。

落語に登場する人物は、理性に反して、ついうっかり、悪いことをしてしまったり、怠けてしまったりする。

そうした人間の「業」を肯定してあげるのが、落語なのだ、と。

肯定、というのは、賛成、という意味ではなく、「人間とはそういうものだ」と、認めることである。

たとえば、「戦争はよくない。武器を持たずに、平和をつらぬこう」という国があったとする。

だが政治家たちは、そんな理想ばかりで政治を行っていけば、どこかでつまらなくなり、飽き足りなくなってしまうのではないか。

そこで、理性に反して、「ちょっとくらい武器を持って、戦争をしてみよう」と思うようになる。

つまり政治家たちは、落語に出てくる熊さん、八っつぁんと同じように、理性的ではなく、心が弱く、愚かな人間なのだ。

決して、理性でものを語っているわけではない、ということに、私たちは、注意すべきである。

理性的な判断のできない愚かな彼らを、憐れみをもって見つめるべきである。

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