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2014年8月

最も苛酷な9月のはじまり

8月31日(日)

いよいよ明日から、「人生で最も苛酷な9月」に突入する。

これまで人生で過ごした9月の中で、最も苛酷な9月、という意味である。

手始めは、明日から4日間、1日6時間喋り続ける、という仕事である。

ということで、またまた旅の空です。

「9月は1カ月間、仕事に専念しろ」という神の啓示も、いただいたばかりである。

ということで、仕事に邁進いたします。

…といいつつ、こちらに呼んでいただいた先輩と再会を祝して日本酒を酌み交わしていたら、すっかり深酒してしまった。

まだ仕事も始まっていないのに、これでは先が思いやられる。

ではまたのちほど。

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シン・ハギュンは、市川雷蔵だ!

C48d4537_2韓国映画「高地戦」(2011年)を、DVDで見た。

日本でも公開され、評判が高かったので、劇場で見たかったのだが、その機会を逸してしまっていた。

この映画が、「朝鮮戦争映画」のまぎれもない傑作であることは言うまでもない。だがそれ以上に驚くのは、主演のシン・ハギュンである。

シン・ハギュンには失礼だが、映画「JSA」(2000年)を見たとき、シン・ハギュンがこれほど主役を張れる俳優だったとは、誰が予想しただろうか。

…いや、そう考えるのは私だけで、みんなあたりまえに予想してたのか?

いまや、韓国では押しも押されぬ実力派俳優である。

試みに、この映画で共演したコ・スと比較してみるがよい。コ・スはいわゆるいまどきの「イケメン俳優」に属するが、シン・ハギュンは、やや違う。

どちらかといえば、歌舞伎役者顔である。

そこで思いあたったのだが…。

シン・ハギュンは、市川雷蔵である!

正確に言えば、市川雷蔵的な雰囲気があるのである!

そう考えれば、彼が頭角を現してきたというのも、うなずける。

たとえば、なんでもよい。市川雷蔵が主演した、、「炎上」(原作は三島由紀夫「金閣寺」、市川崑監督、1958年)でも「破戒」(島崎藤村原作、市川崑監督、1962年)でも、「陸軍中野学校シリーズ」(1966年~)でも、たとえばこれをシン・ハギュンが演じたとしたら、と想像してみるがよい。

どれも、しっくりくるではないか!

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シン・ハギュンは、市川雷蔵だ!

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続・散髪屋は人生だ!

8月28日(木)の続き。

夕方、行きつけの散髪屋に行く。

いつものように担当は、Y県S市出身のGさんである

オサレな散髪屋なので、30代前半のGさんもまた、オサレである。理容師と客、という関係でなかったら、話をする機会など絶対になかっただろう。

Gさんは来月から、いよいよ故郷のS市に戻り、散髪屋を開業する。

「妻も子どもも、新しい土地でうまくくやっていけるか、心配です」とGさん。Gさんにとっては、大きな決断だったのだろう。

散髪が終わった。

「短い間でしたけれども、ありがとうございました」とGさん。

「こちらこそ。いよいよですね」と私。「S市のどのあたりに開業されるのですか?」

「RN中学校のすぐ近くです。店の名前はまだ決まっていませんが」

「機会があったら、散髪しに行きますよ」

「ぜひ来てください」

私のことだから、いつか、わざわざ訪ねていくだろう。

袖すり合うも多生の縁、といってね。

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拾う神あり

8月28日(木)

朝9時から、都内で3時間の講義をする。

ずいぶん前に、私の本を読んだというある人から電話で依頼があって、職人さんたちの講習会で講義をしてほしい、と依頼が来たのである。

この春に出した本は、一般向けの本であるにもかかわらず、ビックリするくらい売れなかった。まあ中身が地味だから、仕方がない。

受講した職人さんたちは、ほとんどが30代の若い方々で、これからこの分野を担っていく方ばかりである。こちらの滑舌の悪い話を、3時間辛抱して聞いていただいた。

最初は、私の本が、職人さんの役に立つはずがない、と思い込んでいたのだが、いやむしろ、職人さんたちにとって必要とされていた本だった、ということに、あらためて気づいた。

本の内容を講義したのだが、むしろ職人さんたちのほうが、現場でいろいろな体験をされている分、こちらのわからないこともよく知っていて、逆に教えられることが多かった。

私の書いた本など、まったく顧みない人のほうが多いのだが、職人さんたちにとってこの本は、ご自身の仕事の中で、おそらくこれからの指針となっていくのではないか、と、少し勇気が出た。

これから、この方面でつながりができれば、なにより嬉しい。

まさに、捨てる神あれば拾う神あり、である。

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「前の職場」を訪れる

8月27日(水)

午後の会議に出席するために、「前の職場」に日帰り出張である。

4月に職場が変わってから、始めて「前の職場」を訪れる。なぜか照れくさい。

お昼少し前に着き、正門から入って、イチョウ並木を歩く。

「夏休み」とはいえ、みんな忙しく働いているらしく、オモテや廊下をムダに歩いている人はいない。みんな仕事部屋か会議室にこもっているのだろう。

とある部局に立ち寄り、作業仲間のSさんやT君と合流して、慌ただしくランチをすませる。

積もる話はあるのだが、なにしろ時間が短くて、何から話していいかわからない。

昼食が終わって、会議がはじまるまでの時間、とある場所に待機していると、職員さんがやってきた。

「先生ヒドイです!私たちに何も言わないなんて!」

今回、「前の職場」に出張することは、関係者やごくわずかな人以外、言わなかったのだ。

「どうしてわかったんです?」

「まるわかりですよ」

「???」

「先生が正門からイチョウ並木を歩いている姿が、事務室の2階の窓から一部始終、まる見えでした」

なんと!誰も見ていないと思って、イチョウ並木を油断して歩いていたら、その一部始終が2階の事務室の窓から見られていたのだ。

「私の歩いているところの一部始終を、職員のみなさんが見ていたんですか?」

「ええ。なんか、挙動不審な感じでした」

「はあ…そうでしたか…」

まるでヒッチコックの「裏窓」である。

まあ別に隠すことでもないから、いいのだが。

午後1時半から始まった会議が、3時少し前に終わり、3時からは別の打ち合わせである。

かくして2つの所用が終わり、古巣の部局をふらついて同僚と懐かしい話をしているうちに、6時になった。

(ひょっとして、軽く一杯ってことになるのかな…。あんまり遅くなると明日に差し支えるから、遅くとも最終の一本前の新幹線には乗りたいな…)

などと,、例によって自意識過剰の私はひそかに期待していたのだが、今日会った人の誰もが忙しく、それどころではなかったようで(また被害妄想がはじまった)、おとなしく退散することにした。

私も明日が早いし、結果的にはそれでよかったのだが。

会うべき人たちに一通り会えたというだけで、奇跡というべきであろう。

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続・謎のオカベさん

ふだん、めったにメールが来ないこぶぎさんから、韓国滞在中にメールが来た。ブログを見て送ってきたものと思われる。

「ハタチの女子風のコメント書こうとしましたが、思いつかず失礼しました。 だって、この人たちの好物は「恋バナ」ですから、どうにも歯が立ちません。 さて、8/29-9/1にゼミ旅行でソウルに行きますが、鬼瓦先生とは入れ違いかし ら。今回は国楽院の土曜名品公演を観覧予定(学生はのらないと思いますが)」

これに対する私の返事。

「韓国は25日までいます。9月1日から某大学で集中講義なのです。ちょうど入れ違いですな。残念。謎のオカベさんコントは次回に」

これに対するこぶぎさんの返事。

「残念。こううまくいかないばかりだと、謎のオカベさんと会えたこと自体が、相当なナゾです」

ここで、「謎のオカベさん」について注釈をしておかなければならない。

以前、ブログにも書いたが、「前の前の職場」のOさんは毎年、学生を韓国に引率する実習をしていて、私やこぶぎさんは、その実習についていくのが常だった。私は職場が変わってからも、Oさんの実習に参加していた。

ある年の実習のときのこと。博多港からフェリーに乗って釜山港につくと、どこからともなく「オカベさん」というおじさんがあらわれて、我々の実習に同行することになった。Oさんに聞いてみると、「知り合いだ」というのだが、それ以上のことはわからない。オカベさんも、何も語らずに、ニコニコと実習についてくるだけである。

数日後、実習が終わって我々一行が釜山港から博多港へ向かう船に乗ろうとすると、

「じゃあ、私はこれで」

と、そのままどこかへ立ち去ってしまった。

結局、オカベさんが何者だったのか、わからずじまいで、それ以来私たちの間では、「謎のオカベさん」と呼ぶようになった。

それから数年たって、こぶぎさんとそんな話になり、

「もしどちらかが、学生を引率して韓国に行くことがあったら、もう一方が、『謎のオカベさん』みたいに、事情も言わずに合流して、実習が終わったら何も言わず去って行く、という遊びをしよう」

ということになった。「謎のオカベさんコント」とは、そのことである。

しかし私は、昨年度で教師稼業を廃業してしまったため、あとはこぶぎさんが、学生を引率して韓国に行く機会をとらえるしかない。

そして今年、ようやくその機会がととのったと思ったら、もうちょっとのところで日程が合わず、「すれ違い」になってしまった。

「こううまくいかないばかりだと、謎のオカベさんと会えたこと自体が、相当なナゾです」というこぶぎさんの言葉は、そのことを指している。

本当に、人生というのは、すれ違いが多い。

私の実感だと、親しい人ほど、すれ違いが多いような気がする。離れたところにいれば、なおさらである。

「会えたこと自体が、相当なナゾです」というこぶぎさんの言葉は、「会えること自体が、奇跡です」と言っているに等しい。

人間はすれ違うことがふつうで、もしすれ違うことがなければ、それは「奇跡」であるとして、感謝すべきことなのだろう。

ふだん忙しくて、心に余裕がない人であれば、なおさらである。

もっと穿った見方をすれば、心に余裕がないことが、すれ違いをもたらしているともいえる。

もしもすれ違うことなく、どこかでまた会うようなことがあれば、それは、自分や相手の心に余裕があるということと、深く関係しているのかも知れない。

そう考えると、「謎のオカベさん」は、心に余裕がある人だったんだろうな。

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ハ・ジョンウに敵なし

8月25日(月)

いまや韓国映画は、「ハ・ジョンウに敵なし」といった趨勢である。

13_21_46__53acf15a8affaf230329韓国映画「群盗」は、ハ・ジョンウとカン・ドンウォンの二人が主役の映画だが、ハ・ジョンウの勢いは、とどまるところを知らない。

舞台は1862年の韓国・全羅南道地方。悪質な方法で農民から収奪をする武官(カン・ドンウォン)と、それに対して立ち上がる民衆。その1人が、ハ・ジョンウである。

日本でいえば、百姓一揆、というのがそれに近いのだろうが、農民が悪質な武官と戦う、という構図は、どうしても映画「七人の侍」を連想してしまう。

1399442573_693867映画の中で、農民の側に立って武官と戦う僧侶が登場するが、私にはその僧侶が、「七人の侍」で志村喬が演じた「勘兵衛」に見えて仕方がない。

とすると、ハ・ジョンウは、三船敏郎演じた「菊千代」の役回り、ということになる。

言ってみればいまのハ・ジョンウは、最も勢いがあったころの三船敏郎、とも言えるのではないだろうか。

韓国版「七人の侍」を作るとしたら、ぜったい菊千代はハ・ジョンウだな。

なぜ、ハ・ジョンウは、かくも映画界で引っ張りだこなのか?

ハ・ジョンウの出る映画、そしてハ・ジョンウのたたずまいは、なんとなく香港ノワールのそれを彷彿とさせる。

映画「黄海(「ファンヘ」、邦題は「哀しき獣」)は、まさに香港ノワールを彷彿とさせる映画である。

香港ノワールが衰退したいま、それに代わるものとして、ハ・ジョンウがもてはやされているのではないだろうか。

…もっとも私は、「香港ノワール」というジャンルの映画を見たことがないので、想像で言っているに過ぎない。

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コリアン・ドリーム

ナム先生の結婚式のときのこと。

2級クラスのときに習ったクォン先生から、驚くべき話を聞いた。

「2級クラスのクラスメートに、リュ・ルさん、ていう中国人留学生の女の子がいたでしょう?」

「ええ。すごく美人の女の子でしたね。たしかそのまま大邱の大学に入学して、韓国語教育学を専攻したんじゃなかったでしたっけ?」

韓国語教育、というのは、ネイティブの韓国人でも、専攻するのがなかなか難しい分野といわれている。中国人留学生のリュ・ルさんは、そこにあえて進学したのだった。

語学院にいたころから、「韓国の大学に入学したら、韓国語教育を専攻したい」と常々言っていた。語学院で韓国語を勉強しているうちに、韓国語教育のおもしろさに目覚めたらしい。

「韓国語教育専攻はね、韓国人だってなかなか難しいのよ」と、韓国語の先生はリュ・ルさんに何度か忠告したが、それでも自分の意志を貫き、大邱の大学に入学して韓国語教育を専攻した。

「そう。リュ・ルさん、いま何していると思います?」

「さあ」リュ・ルさんと机を並べて勉強したのは、もう5年も前のことになる。

「ソウル大学の大学院生なんですよ」

「えええぇぇぇっ!!!???」

私はびっくりした。ソウル大学といえば、韓国でいちばんのエリート大学である。そこの大学院に進学したということは、「超」がつくくらい、優秀だということである。

「そういえば、リュ・ルさん、同じクラスの男の子とつきあってましたよね」とクォン先生。

「ええ、タン・シャオウェイ君でしょう?」と私。

「そうそう。たしかある日、2人がカップルTシャツを着てきて、あのときキョスニム、びっくりしていたでしょう?」

「ええ」そのときのことは、よく覚えていた。たしかリュ・ルさんは、つきあっていた韓国人の学生と別れて、クラスメイトのタン・シャオウェイ君とつきあい始めた。その熱愛ぶりは、こちらが見ていても恥ずかしくなるほどだった。

だが、ほどなくして二人は別れた、と、風の便りで聞いたのだった。

タン・シャオウェイ君がその後どうなったのかは分からないが、リュ・ルさんは、自分のやりたいことを、あれから5年がたった今でも、韓国で続けているのだ。

多くの中国人留学生たちが、早く中国に帰りたいと思いながら韓国で仕方なく勉強している中で、これは相当、強い意志である。

「コリアン・ドリームだね」とは、妻の言葉。妻もリュ・ルさんのことはよく知っていた。

それにつけても思い出すのは、2級クラスで机を並べていたころ、リュ・ルさんの韓国語の実力は、私とさほど変わりなかったことである。

それを考えると、彼女の「伸び代」が、いかにすごいものであったかがわかる。

韓国語の先生方にとっても、自分たちがリュ・ルさんの進路を決めるきっかけとなったのだから、「冥利に尽きる」というものであろう。

たまにこういう若者がいるから、教師をやめられないのではないか、と思う。

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人と会う仕事

8月24日(日)

ソウルで、2人の人と会う約束をしていた。午前に1人と、午後に1人である。

韓国では、人と会って話をしなければならない機会が多い。人と会って、お話をして、信頼関係を築いて、仕事が円滑に進むようにする、というのも、仕事のひとつなのだ。

人と会って話をするというのが苦手な私が、いまやそんな仕事をしなければならないのだから、苦笑を禁じ得ない。

ただ、たまに思うのだが、「自分は教師に向いている」「自分は教えることが好きである」と思い込んでいる人が、よい教師であるとは限らない。

「自分は教師に向いていないのではないか」と常に煩悶している人のほうが、むしろよい教師だったりするのではないか。…と、私はそうやって自分を慰めつつ、14年間教師稼業を続けてきた。

いまの仕事も同じである。「人と会って話をするのが苦手」という意味では、私はいまの仕事に向いていない。

しかしそれくらいに思っているほうが、案外うまくいくのではないか、と、やはり自分に言い聞かせている。

根拠はないけれど。

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かなりカオスな、ナム先生の結婚式

8月23日(土)

私の韓国語の先生の1人である、ナム先生が結婚することになった。

6月に韓国でお会いしたときに、「結婚式にはぜひ来てください」と言われ、その後、自宅に招待状まで届いた。

あとで聞いた話だが、韓国では結婚式の招待状を片っ端から送るらしい。出欠の返事を出す必要がないので、当日、何人が来るか分からないそうである。

「ぜひ来てください」というのは社交辞令だとしても、私はどうも、「親しい人のイベントには遠くからでもわざわざ駆けつける」というのが性分のようで、おりしもこの時期韓国に行く用事があったので、1日、大邱まで足をのばして、結婚式に参加することにしたのである。

相手が望むと望まないとにかかわらず、よかれと思って「親しい人のイベントに遠くからでも駆けつける」。寅さん流に言えば、「忙しい体にやりくりをつけて」駆けつけるのである。こういうときいつも思うのだが、「オレって馬鹿なお人好しだなあ」と。

ソウルから大邱までは、KTXで2時間近くかかる。新幹線で東京から仙台に行く感じである。

東大邱という駅で降りて、そこから路線バスに乗って、30分ほどかかって招待状に書かれている式場に到着する。

もはや大邱は、私にとって「東京より勝手が分かる町」なのだ。

式場に着いたのは、式が始まる10分くらい前であった。

ここから私は、日本では決して経験したことのない、驚くべき結婚式を経験することになる。

韓国の結婚式は、いわゆる儀式を行う「結婚式」と、「食事」とに分かれる。

結婚式に呼ばれた人はみな、「結婚式」と「食事」に出席するのである。

服装は、日本だと正装がふつうだが、韓国では、ややカジュアルな格好でもかまわない。

私は、ネクタイもせず、上着も着ず、半袖のYシャツで参加した。

受付でご祝儀を渡す。だいたいご祝儀の相場は5万ウォン(日本円で5000円)くらいだという。

私は、日本で買ったド派手な御祝儀袋に5万ウォンを入れて持っていった。

ちなみに韓国の御祝儀袋は、日本のような派手なものではなく、白い封筒である。

だから私の御祝儀袋だけが、異常に目立ってしまった。

さて、受付で御祝儀を渡すと、それとひきかえに「食券」をくれる。

ここが大事である。ここで食券を受け取らないと、あとで食事ができないのである。

式が始まるまでの時間、新婦と一緒に写真を撮ったりする。

2私も1枚、ナム先生と一緒に撮らせてもらった。

さて、12時、いよいよ式の開始である。

式場に入ると、ものすごい人の数である。

開始時間ギリギリに入ったため、座る椅子がなく、立ち見になった。

Photo_2先にも書いたように、招待状を片っ端から出す上に、出欠の返事をもらわないので、当日に何人来るかは、まったく分からないのである。

そこで、式場には人があふれることになる。

これもまた、韓国らしい。

新郎新婦が入場し、牧師の前に立つ。

最初に賛美歌を歌うのだが、牧師様がマイクを使って歌うので、牧師様の歌声しか聞こえない。

その後、牧師様の「講話」がはじまる。

Photo_3目の前の新郎新婦は、立ったまま、その講話を聞き続けなければならない。

牧師様の話は次第に熱が入り、30分近く話し続けた。

その間、新郎新婦は、牧師様の目の前で立ったまま、牧師様のありがたい「講話」を聞かなければならない。

「ずいぶん、話が長いですね」と、となりにいた語学院のクォン先生に言うと、

「韓国ではふつうですよ」という。

賛美歌をマイクを使って歌い、30分にわたってトークをくり広げる。

これではまるで、「牧師様のワンマンショー」ではないか!

聞いている人も飽きてきたようで、雑談がはじまる。そればかりか、途中で席を立つ人が次々とあらわれた。

私は空いた席に座ることができた。

しばらくすると、ナム先生のオンニ(姉)が、私のところにやってきた。

「これ、昨日スジョン(ナム先生の名前)がキョスニムに書いた手紙です。あとで読んでください」

「はあ」

30分ほどたってようやく牧師様の講話が終わり、「宣誓」がおこなわれたあと、ケーキカット、そして余興と続く。

日本だと、ケーキカットや余興は披露宴のさいに行われるが、韓国では、式の中で行われるのである。

Photo_4余興では、職場の同僚で親友のアン先生が歌を歌い、次いで教会の友人たちが合唱で2人を祝福した。

余興が終わり、親族や友人たちとの集合写真を撮って、式がひとまず終わる。ここまでが、約1時間である。

式が終わると今度は、隣接する食堂で、「食事」がはじまる。

食堂の前におばちゃんが立っていて、先ほど受付でもらった「食券」を回収する。食券を持っていた者だけが、食堂を利用できるのである。

食堂に入って驚いた。

Photo_5ビュッフェ形式とは聞いていたが、まるで「学食」ではないか!という感じの食堂である。

さらに驚いたのは、すでに多くの人が食事を始めている。そればかりか、もう食事を終えて帰ってしまった人もいる。

先ほどの結婚式で、飽きちゃって席を立った人たちが、早々と食堂に移動し、食事を始めていたらしいのだ。

日本の披露宴とは、似ても似つかない。

勝手に食べ始めて、食べ終わったら勝手に帰る。

当然、席は自由席で、早い者勝ちである。

これこそが、韓国の結婚式の真髄である!

話には聞いていたが、実際に体験してみると、これがじつに面白い。

来賓の挨拶も、友人のスピーチも、一切ない。

それどころか、新郎新婦じたいも、その場にはいないのだ。

(なんだ?単にオレは食事に来たのか?)

じつに新鮮な体験である。

あとで聞くと、この間、新郎新婦は伝統服に着替え、家族に挨拶する儀式を行っているのだという。

「運がよければ、新郎新婦が食堂に来るはずですよ」と、隣にいたクォン先生が言った。

食べ終わったころ、伝統的な韓服に着替えた新郎新婦が食堂にやってきて、テーブルごとに挨拶にまわるのだが、すでにこの頃になると、大部分の人が食べ終わって帰っちゃっている。残っているのは、数グループだけである。

Photo_6それでも、お色直しした新婦を見ることができたのは幸いだった。

式が終わり、KTXに乗ってソウルへとんぼ返りするため、30分ほどかけて東大邱駅に向かう。

東大邱駅のホームでKTXを待っていると、「キョスニム!」と呼ぶ声がする。

振り向くと、Tシャツ姿のナム先生夫妻だった。

あれ?ついさっきまで、伝統的な韓服を着て式場にいたのに!

何なんだ!この歌舞伎のような早替えと瞬間移動は???

この慌ただしさは、いかにも韓国人らしい。

「これからチェコへ新婚旅行なんです。早く空港に行かないといけません。キョスニム、今日はわざわざ来てくださってありがとうございました」

私と同じKTXに乗って、インチョン空港に向かうとのことだった。

2人にとっては、慌ただしい1日だっただろう。

KTXの中で、先ほどもらった手紙を開いた。

「キョスニムはいまや私たち家族の一員のようです」

とあった。

たとえていえば、親戚のおじさんが遠くからわざわざイベントに足を運んだ、というニュアンスが、一番近いのだろうと、手紙を読みながら思った。

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続・いまさらヨン様

8月22日(金)

韓国をひとり旅をしていた大学時代の後輩と、韓国の田舎町の駅で合流し、古いお寺の後ろにそびえている山に登る。

昨年に続き、後輩と韓国で合流するのは、2度目である。日本ではほぼ会わないのだが、旅先の韓国で会うのが、この時期の風物詩となりつつある。

この山登りが、思いのほか大変で、ヘトヘトになった。

山を下り、昼食をとったあと、すこし離れた、ある場所へ向かう。

隣接している施設に入ると、解説員をしている人が、日本人の女性だった。最初は、あまりにも韓国語が流暢なので、ネイティヴの方かと思った。

その方も、我々が日本人だと分かると、親切にもいろいろと施設内の説明をしてくれた。

しかし、こんな田舎町で、日本人が解説員の仕事をしているのは、じつに不思議な感じである。

私は聞いてみた。

「ここには、日本人はほとんど来ないのではないですか?」

「いいえ、けっこう来ますよ」

「それはどうしてです?」いくら歴史マニアといえど、わざわざこの地を訪ねる人はそうはおるまい。

「以前、ヨン様がここへやってきて、そのときの様子を、紀行文にまとめたことがあるんです。写真も撮ったりして。ほら、後ろにヨン様のサインが飾ってあるでしょう」

よくみると、受付の後ろの壁のところに、ヨン様のサインが書かれた写真が貼ってあった。

私は思い出した。以前買った、ペ・ヨンジュン著『韓国の美をたどる旅』の中に、たしかにこの地を訪れたことを書いた箇所があったのだ。

「その本を読んだヨン様ファンの方々が、わざわざここを訪れるんです」

私はびっくりした。

この場所じたいは、ヨン様とはなんの関係もない。ドラマのロケ地でもないのだ。

にもかかわらず、ヨン様がここに訪れた、というだけで、それを読んだヨン様ファンが、交通の不便な場所であることも顧みず、わざわざ「巡礼」に来るのだ。

試みに、ヨン様ファンらしき人のブログを探してみると、この『韓国の美をたどる旅』に触発されて、ヨン様がこの地の紀行文を書くために訪れた日と同じ4月9日にこの地を訪れ、ヨン様が立った場所と同じ場所に立った、という感慨を記したブログがあった。

ヨン様がそのときに感じた空気と同じ空気を感じたい、と思ったのだろう。

すげえな、ヨン様ファン。明らかにヨン様は、その人にとって生きるエネルギーになっているのだ。

だってヨン様が行かなければ、その場所のことなど興味を持たなかっただろうから。

そう考えると、ヨン様は、やはりすごい。

『韓国の美をたどる旅』は、誰もが知る名所ではなく、あまり人に顧みられず、それでいて美しい場所を選んでいる。

この場所は、まさにそれにふさわしい場所である。

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続・斧を持つのが世界一絵になる男

8月21日(木)

今日は移動日。

夜、時間があったので、ソウルの映画館で映画を見ることにした。

3キム・ユンソク主演の映画「海霧(ヘム)」。

キム・ユンソクは、たびたびこのブログでも取りあげてきたが、私が最も好きな俳優のひとりである。

キム・ユンソクこそは、「中年の星」である!

キム・ユンソクが出ているだけで、私はもう大満足なのである。

さて、私が彼につけたキャッチフレーズは、

斧を持つのが世界一絵になる男

今回の「海霧」もまた、キム・ユンソクがやたらと斧を振り回していた。

こうなるともう、制作者の側も、キム・ユンソクに「斧を持たせたい!」と思っているとしか、思えない。

「キム・ユンソクに、どういうシチュエーションで斧を持たせたら絵になるのか?」という発想から、この映画が企画されたのではないか、とすら思えてくる。

…まあ、そんなことを妄想しながらこの映画を見ているのは、たぶん世界で私だけだと思うが。

さて、この映画の企画者は、韓国映画界の巨匠、ポン・ジュノ監督である。

どうもポン・ジュノ監督は、「限られた人たちによる、限られた空間の中での、わけのわからないパニックもの」というジャンルが好きなのではないか、という気がしてきた。

ポン・ジュノの代表作「グェムル」がそうだし、最近の「雪国列車」もまた、そうである。

妻によれば、ポン・ジュノが企画にかかわった「南極日誌」もまた、同じテイストだという。

そして、これらの映画に共通することが、もう一つある。

それは、どの映画も、登場人物のほとんどが死んでしまい、最後に2人だけが生き残る、という点である。

これははたして偶然なのか?

さて、この映画は、「漁船」という限られた空間の中でくり広げられる、サイコサスペンスである。これだけ聞くと、ヒッチコックの傑作「救命艇」を思い浮かべるが、内容はもっとわけがわからない。セリフも全羅道訛りがキツイので、ほとんど聞き取れない。だが、めちゃくちゃ面白い。

だって、キム・ユンソクがやたら斧を振り回すんだもの。

私は「斧を持ったキム・ユンソク」を見られただけで大満足なのであるが、おそらく日本で公開されることはないだろうな。

…という、関心のない人にはまったくワカラナイ話でございました

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またまた旅に出ます

8月20日(水)

2週間ほど前、「個人探偵事務所」(比喩)に、電話で調査の依頼があった。

ありがたいことに、初めての依頼主である。震災後は、「この県から依頼された仕事は断らない」と決めていたので、当然、お引き受けすることにした。

ところが日程調整が難しい。日程を調整した結果、今日(20日)しか私の都合がつかないことが判明。急遽、新幹線に乗って県庁所在地の駅まで向かった。

まことにおこがましい話だが、私のような者に依頼してくれる人は、初めから私と問題意識を共有していただいているので、仕事がスムーズに進むのだ、ということに、最近気づいた。問題意識を共有していなければ、はじめから私には依頼しないわけで、この仕事が楽しい理由が、問題意識を共有できる人と仕事ができるということだと、ようやく自分なりに分かってきたのである。

なんとか無事に役目を果たし、午後、早い時間の新幹線で戻ることになった。

ところが、である。

平日の昼間だというのに、どういうわけか指定席はもちろん、自由席まで満席で、1時間半、ずっと立ちっぱなしだった。お盆が過ぎたとはいえ、夏休みだからだろう。

とんぼ返りですっかり疲れてしまったが、明日からはまた、韓国である。

ということで、しばらく韓国に行ってきます。

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祖母の葬式

昨日の記事を書いていたら、祖母の葬式のときのことを思い出した。

祖父は私が3歳の時に他界したので、ほとんど記憶がない。

身内の死を初めて身近に感じたのが、祖母の死であった。

今でこそ、葬祭場を借りてお葬式をやるのがあたりまえになっているが、昔は葬式を自宅でやることも多く、祖母のときも、自宅で葬式をすることになった。

狭い畳敷きの部屋に、大きな祭壇がもうけられた。

お通夜が始まった。

お坊さんが読経を始めると、突然、家の中が真っ暗になった。

祭壇の電気の容量が大きすぎて、ブレーカーが落ちたのである。

「おい!誰だ?こんなときに電子レンジを使ったヤツは!」

それはまるで、コントのようなタイミングだった。

そんなこんなで、お葬式はドタバタで、祖母の死を悲しんでいるようなヒマはなかった。

父が喪主の挨拶をしたが、これが、まあへたくそな挨拶だった。

だいたいうちの父は、ビックリするくらい喋るのがヘタなのだ。

(はずかしいなあ。オレが挨拶をした方がよっぽどマシだ)

すべてが終わり、いよいよ出棺である。

孫たちが棺を持ち上げ、霊柩車まで運ぶのだが、私は棺を持ち上げた瞬間、ボロボロと涙が流れて、止まらなくなった。

それまで、全然泣いていなかったのに、である。

祖母の死は大往生だったので、すんなりと受け入れていたはずなのだ。

にもかかわらず、自分の意志とは無関係に、涙が止まらなくなったのである。

なぜあの時だけ、涙がボロボロと出て止まらなかったのだろう。

いまだによくわからない。

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祖母のこと

父方の祖母が他界したのは、私が大学2年の時の年末、12月26日のことである。もう25年も前のことである。

3カ月ほど入院したのち、老衰で死んだ。

祖母とはずーっと同居していたが、私とはいつも喧嘩ばかりしていた。

意固地な祖母のことを、私は嫌っていたのである。

祖母は祖母で、私が勉強ばかりしていることを快く思っていなかった。

祖母は学業とは無縁の暮らしをしていたせいか、文盲で、自分の名前をカタカナで書くのが、やっとだった。

そのことが、私をさらに勉強に駆り立てた。

高校のとき、アルトサックスを始めたということを祖母に言うと、

「それはラッパみたいなものか」

「うん」

「そんなもの、やめてしまえ」

と言った。

ずいぶん理不尽なことをいうものだと、そのときは腹が立って仕方がなかった。

私の父には、ずいぶん年の離れた兄がいた。私にとっては叔父である。

といっても、私は会ったことがない。父ですら、自分の兄に会ったことがない。

太平洋戦争で、戦死したからである。

祖母にとっては、長男にあたる。

祖母から、その長男の話を聞くことはなかったが、長男を戦死させたことを、誰よりも悔やんでいたのではないか、と、だいぶ後になって気づいた。

祖母は毎朝、欠かさず、仏壇の前でお経を読んだ。

文盲の祖母だったが、お経を読むことだけは欠かさなかった。

入院する前日まで、毎朝、お経を読み続けた。

英霊は靖国に眠る、といわれたが、祖母は一度も靖国神社を参拝したことがない。

息子は国に殺された、自分のせいで死んでしまった、と思っていたからであろう。

だから毎日お経を読み続けたのである。

長男、つまり私の叔父は、軍隊でラッパを吹いていたと、あるとき聞いた。そして戦争のさなかに、中支方面で戦死した、と。

私がアルトサックスを始めたといったとき、猛反対したのは、私もまた長男と同じように、軍隊でラッパを吹く役回りをさせられるのではないか、と、祖母が思ったからではないだろうか。

そんなことを繰り返してほしくない、と思ったのかも知れない。

祖母が死んだのが、12月26日。

長男が死んだのが、6月26日。

つまり、祖母は長男の月命日に死んだ。

私が物心ついてから、祖母は、なにも働くことなく、なんの趣味もなく、ただただ、毎日を漫然と過ごしているように見えた。

この人は、なんのために生きているのだろう、と、私には不思議だった。

だから私は祖母とは違い、一日一日を意味ある日にしよう、と思った。

しかしその考えは、間違っていたと、今になって思う。

祖母は、残りの人生を、長男のために生きたのではないだろうか。

若くして戦死した長男の冥福を祈り続けることが、祖母がこの世で課された、祖母にしかできない使命だったのではなかったのか。

そして、そのつとめを果たした祖母は、長男の月命日の日に、天に召されたのである。

祖母は生前、何も語らなかったので、私はただ、それを想像するのみである。

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運命の序曲

8月16日(土)

今年の夏休みは、雨にたたられた。

1年ぶりの「星空の映画祭」。8月16日(土)の上映作品は「アナと雪の女王」である。

まだ見ていない私は、ぜひ見に行きたかったのだが、朝から雨が降ったりやんだりである。しかもその雨も、ゲリラ豪雨のような激しい雨である。

しかし夕方から雨が上がった。

映画は夜の8時からである。

(夜まで天気はもつだろうか?)

ここ数日の天気の様子だと、いまは雨がやんでいても、いきなり大雨が降ってくる、という可能性が高い。

もし映画を見ている最中に雨でも降られたら、完全なぬれねずみになり、目も当てられなくなる。

そこまでして見に行くべきだろうか?

しかし、たとえ一人でも見に行くぞ!と息巻いていると、

「1200円払ってずぶ濡れになって映画を見るのか、数百円払ってDVDを借りてきて快適な家の中で見るのか、の選択ですな」と妻。相変わらず、容赦なく人を追い込むのが上手い。

その言葉にダメ押しされて、

(やっぱりやめよう)

と、映画を見に行くのをやめにした。

そうなると次に願うのは、「雨が降ってほしい」ということだけである。

どうか自分の決断が誤りでなかったと、安心させてほしい。

すると、夜9時過ぎ、おそらく映画のクライマックスの時間あたりで、大雨が降ってきた。

(やはり行かなくてよかったのだ)

と安堵した。

しかし、このままでは何かおさまりが悪い。何か別の映画が見たい。

そこで、たまたま手元にあった映画「戦争と人間 第1部 運命の序曲」(1970年公開)のDVDを見ることにした。

映画「戦争と人間」は、全部で3部構成だが、第1部だけでも、ゆうに3時間20分はある。全部見ようとすると、9時間23分かかる。

昭和初期の日本とアジアを描いた映画だが、今の時代状況と、とてもよく似ていることが、この映画を見ると、よくわかる。たとえば、「格差社会」が、人々の意識にどのような影響を及ぼすか、など。

この映画を見て、誰の、どの発言に共感するかを、試してみたい気がする。とくに指導者といわれている人たちに対しては。

監督の山本薩夫は、左翼系の監督なので、この映画もしばしば「左翼系映画」と、保守派からは揶揄されることが多い。とくにいまの時代の雰囲気からすれば、とうてい受け入れられる映画ではないのだろう。

しかしそれは偏見である。右とか左とかに関係なく、セリフには、胸を打つものが多い

たとえば、「アカ」として逮捕された青年が、まだ中学生の弟に言うセリフは、とりわけ印象的である。

「信じるなよ。男でも、女でも、思想でも。本当によく分かるまで。

分かりが遅いということは、恥じゃない。後悔しないための、ただひとつの方法だ。

威勢のいいヤツがいたら、そいつが何をするか、よーく見るんだ。

お前の上に立つヤツがいたら、そいつがどんなメシの食い方をするか、ほかの人にはどんなモノの言い方をするか、言葉やすることに裏表がありはしないか、よーく見分けるんだ。

人が何と言おうが、自分が納得できないうちは、絶対にするな」

これは別に、左翼の思想ではない。人間として誇り高く生きるための知恵である。

「思考停止するな」というメッセージである点において、どんな人間でも、心すべきことである。

なぜ、あの時代、戦争に突っ走ったのか?

それは、「想像力の欠如」と、「思考停止」による、と私は思う。

私が最も恐れるところは、そこである。

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同じ靴を2足買う

8月15日(金)

なんと、ファッションの話題ですよ!

毎年この時期、アウトレットに行くことが恒例になっているが、正直なところ、アウトレットに行ったところで、買うものは何もない。

理由は、自分の体型に合う服が、全然売っていないからである。

いや、売っているのかも知れないが、探すのは至難の業である。

しかし、1つだけ、買えるものがある。

それは、靴である。

そのことに気づいてからというもの、アウトレットでは「靴だけを買う」と決めている。

さて、身につけるものの中でいちばん大事なものは何か?

それは靴なのではないか、と、最近思うようになってきた。

「足は第2の心臓」といわれる。

靴の善し悪しで、健康が決まると言っても過言ではないのだ。

だから、靴選びは、慎重にしなければならない。

今年の5月の大型連休のときに、アウトレットの靴屋さんで買った靴が、じつに履き心地がよかった。

人生で、これほど履き心地の良い靴に出会ったことはない。もう、ほかの靴が履けなくなってしまったのである。

そこで、今日のアウトレットの目的は、5月に買ったのと同じ靴を買うことと定めた。

しかし、靴にははやりすたりがあるので、5月に売っていたものが、8月にも売っているとは限らない。

そうなると、せっかく気に入っていた靴に、二度と出会えなくなる可能性がある。そこが恐いところである。

まさに、靴との出会いは、人間と同じ。一期一会なのだ。

さて、5月のときと同じ店に行って注意深く探してみると、はたして同じ靴があった。

親友と再会した気分である!

…ちょっと大げさか。

色は、黒とこげ茶の2種類があるようである。

いま私が履いているのは、黒である。

(どっちもいいなあ。…ええい、2足買っちゃえ!)

そうと決まったら、私に合うサイズの在庫があるか、店員さんに確認しなければならない。

急いで店員さんを見つけて、声をかけた。

「あの、この靴の在庫、ありますか?」

「色は黒とこげ茶がありますけど」

「両方です」

「は?」

「ですから、両方です」

「サイズはいかがいたしましょうか?」

「これと同じものでお願いします」

そういうと私は、自分が今履いている靴を脱いで、店員さんにみせた。

「わかりました。少々お待ちください」

(ははあ~ん。同じ靴を買うのね)という表情をして、店員さんは店の奥に引っ込んだ。

店の奥から戻ってきた店員さん。

「こげ茶のこのサイズのものは、在庫がこれ限りしかありませんでした」

あぶないあぶない、危うくこげ茶が買えなくなるところだった。

Images_2無事に2足買うことができた。

家族には馬鹿にされたが、同じ靴を2足買うという行為は、ふつうのことなのか?それともバカげた行為なのか?

自分ではよくわからないが、痛風持ちの私にとっては、履き心地の良い靴は、何ものにも代えがたい。

歩くのが苦にならない靴というのは、最高である。

そういう靴に出会ったときは、すこし心が軽くなるから、不思議である。

だから思うのだ。

気持ちが憂鬱なときは、自分にとって心地よい靴に出会え、と。

それは、自分にとって心地よい人に会うがごとく、である。

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山に向かって行けば

8月14日(木)

中央道を車で八王子方向に向かう。

ひとつ確かめたいことがあった。

荒井由実(ユーミン)の「中央フリーウェイ」の歌詞の一節、

「右にみえる競馬場、左はビール工場」

の意味については、以前に書いたことがある

もう一つ引っかかっていたのは、冒頭の歌詞、

「調布基地を追い越し、山に向かって行けば」

という部分である。

(「山に向かって行けば」とあるけれど、山なんかあったかな?)

それを確かめたかったのである。

調布インターをすぎたあたりで、カーステレオでユーミンの「中央フリーウェイ」をかけた。

すると、驚くべき光景が眼前にあらわれる。

たしかに、前方に山が見えたのである!

調布インターを過ぎたあたりから、中央道は、やや西南西方向に進路を変える。

すると前方に、稲城市の多摩丘陵が、忽然と目の前にあらわれてくるのだ。

そうか。この「山」というのは、多摩丘陵のことなのか。

それからほどなくして、中央道はやや西北西に向きを変え、多摩丘陵は見えなくなる。

曲をかけたまま走り続けると、ちょうど「右にみえる競馬場、左はビール工場」の歌詞のあたりで、まず右手に競馬場が見える。

やがてその左前には、ビール工場が見えてくる。

以前にも書いたとおり、ここは絶対に、「右に見える競馬場」の方を先に歌わなくてはいけない。なぜなら、実際に中央道を走っていると、まず右手に競馬場が見え、そのあと、左手にビール工場があらわれるからだ。

そして、歌詞の最後、

「この道はまるで滑走路 夜空に続く」

中央道が、西南西方向から西北西方向に向きを変えると、多摩丘陵は見えなくなり、眼前には遮るものが何もなくなる。目の前に広がるのは、空だけである。

これはまさに、滑走路と呼ぶにふさわしい。

つまり、

「調布基地を追い越し 山に向かって行けば」

「右に見える競馬場 左はビール工場」

「この道はまるで滑走路 夜空に続く」

という流れは、実際に中央道を車で走ってみて、刻一刻と変わってゆく風景や皮膚感覚を、かなり忠実にユーミンが歌詞に仕立てていったことを示しているのである。

もし、あなたの車が中央道で調布インターにさしかかったとき、ユーミンの「中央フリーウェイ」を聴いてみるがよい。

ユーミンの見た風景と皮膚感覚を、追体験できるはずである。

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夏休み特別企画・チャック・マンジョーネ特集

このブログの「アクセス解析」、というのをみて驚いたのは、最近「ウォーキング・マイ・ベイビー」という検索ワードで、このブログにたどりつく人がやたら多い、ということである。以前、「刑事コロンボ 忘れられたスター」のついての記事を書いたからである。

何だろう?最近、「忘れられたスター」がテレビででも放映されたのだろうか?

それともう一つビックリしたのは、最近のアクセス解析って、ビッグデータっていうの?このブログを見ている世代とか、性別とかというのが、パーセンテージでわかるんだね。

あの数値って本当なんだろうか?

何がビックリしたといって、このブログを読んでいる人たちの性別の内訳。

なんと、女性が84%、男性が16%という内訳なのだ!

このブログの読者のじつに8割以上が女性である!

もうひとつビックリしたのは、世代である。

最も多いのが、20代で、43%。次いで多いのが、30代で、30%、40代以上は20%である。

…ということはですよ。

このブログの最大の読者層というのは、「20代の女性」ということになる。

絶対ウソである!

だって、このブログは、20代の女性が読む要素がゼロだもの。

20代の女性に向けた記事など、ひとつも存在しないのだ!

むしろコメント欄を見てわかるように、こぶぎさん、ひょんさん、そして個人的にメールでコメントをくれる同い年の盟友Uさんといった、40代以上の「ぼ、ぼ、僕らは中年探偵団」しか、熱心な読者はいないはずなのだ。

これはいったい、どういうこっちゃ?

マーケティングの理論からいえば、20代の女性の購買意欲をそそるような記事を書かなければいけない、ということである。

これからは、最新のファッション事情とか、いま流行の歌謡曲とか、おしゃれなカフェだとか、行列のできるスウィーツのお店だとか、20代の女性をターゲットにした記事を書けということなのか?

しかし私は、「アナと雪の女王」すら、まだ見ていないのだ!

とても、20代の女性をターゲットにした記事など書けない。

逆にこちらから、20代女性に向けて流行を仕掛けていけばいいのか???

…ということで、夏休み恒例の音楽特集です。

今回は、私の大好きなチャック・マンジョーネです!

世界的に知られるフュージョンの神様。もうみなさんはご存じですよね。

トランペット奏者というより、フリューゲルホルン奏者として有名ですね。

今回は、世界的にも大ヒットした、2曲をお届けします。

まず最初は、「Feels So Good(フィール・ソー・グッド)」です!

どうです?心が爽やかになる曲でしょう?心が上向きになる曲です。

ただ、チャック・マンジョーネの曲を聴いていつも思うのは、「ちょっとクドいな」ということです。

そう、チャック・マンジョーネは、「クドいオッサン」のための曲なのです。

ではもう1曲。

次は「Children Of Sanchez(サンチェスの子どもたち)」です。

この曲は、私にとってことのほか思い出深い曲なのです。

1曲目の「Feels So Good」も、この「サンチェスの子どもたち」も、日本では吹奏楽団用にアレンジされているのですが、高2のとき、私が初めてソロをとったのが、この「サンチェスの子どもたち」だったのです。もっとも私は、フリューゲルホルンではなく、アルトサックスでしたけれど。

いかがでしたか?

爽やかだけど、クドい曲。

これがまさに、チャック・マンジョーネの本質なのです。

そのクドさのよさは、オッサンにしかわかるまい!

ではみなさん、よい夏休みを!

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10秒間の覚悟

1年くらい前だったか。

妻に勧められて、映画「グッド・ウィル・ハンティング」(1997年公開)を見た。

当時無名だったマット・デイモンが、ハーバード大学在学中に書いた戯曲をもとに、親友であるベン・アフレックと一緒に脚本を共同執筆し、紆余曲折を経て映画化された。主役のウィルを、マット・デイモンが演じ、親友のチャッキーをベン・アフレックが演じている。私生活でも親友同士の二人が、映画の中でも親友を演じたのである。

マット・デイモン演じるウィルは、わかりやすくいえば、フリーターである。エリート大学の清掃員などのアルバイトをしながら、ふだんは不良仲間たちと、つるんで遊んでいる。素行の悪い青年だった。

しかし、このウィルには、とてつもない才能があった。

それは、数学の才能である。

その才能を見いだしたのが、エリート大学の数学の教授である。

エリート大学の教授は、なんとかしてウィルに学問をさせたいと思うのだが、ウィルにはまったくその気がない。それどころか、自分の殻に閉じこもるばかりである。

彼には、深い心の傷があったのだ。

そこで教授は、自分の学生時代の親友で、コミュニティカレッジで心理学を教えるショーン(ロビン・ウィリアムス)のもとに、彼を連れていく。最初はショーンを馬鹿にしていたウィルだったが、次第に、ショーンが自分と同じく深い心の傷を負っている人であることがわかり、心を開いていくようになる。

…とまあ、映画は実際に見ていただくとして、私が大好きな場面は、ウィルとチャッキーの二人の場面である。

ウィルは、不良仲間たちと、酒とケンカに明け暮れていた。その仲間のひとりが、チャッキーであった。

親友のチャッキーは、ウィルが、とてつもない才能を持っていることを、知っていた。

レンガ積みのアルバイトの休憩中に、二人はこんな会話をする。

ウィル「俺は一生ここで働いたって平気だぜ」

チャッキー「親友だからハッキリ言う。20年経って、お前がまだこの家に住んでたら、俺はお前をぶっ殺してやる。これはマジだ」

ウィル「なに言ってんの?」

チャッキー「俺が50になって、工事現場で働いててもいい。だがお前は宝くじの当たり券を持っていて、それを現金化する勇気がないんだ。お前以外のみんなはその券をほしいと思ってる。それをムダにするなんて許せない」

ウィル「……」

チャッキー「俺はこう思ってる。毎日、お前を家まで迎えに行き、酒を飲んでバカ話、それも楽しい。でも一番のスリルは、車を降りて、お前んちの玄関に行く10秒間。ノックしてもお前は出てこない。何の挨拶もなく、お前は消えてる。そうなればいい」

ウィル「……」

本当の親友とは何だろう、と考えたとき、たぶん、こういうことなのだろう、と思わせるセリフである。

こういうことを、言える覚悟。

と同時に、親友の家の玄関にたどり着くまでの10秒間、

(ひょっとして、あいつ、いないんじゃねえか。何も言わずに、オレのもとを去っていったんじゃないか)

と思うスリル、というのが何ともいえず、いい。

彼は、毎日そう思って、親友の家の玄関をノックする。

その覚悟こそが、親友の証しなのではないか。

…この場面を、親友同士のマット・デイモンとベン・アフレックが演じている、というのも、「虚実皮膜」な感じがして、よい。

ああ、また「グッド・ウィル・ハンティング」が見たくなった!

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私鉄沿線

8月12日(火)

生きていると、ごくたまに、映画みたいなことが起こる。

私がふだん通勤に使っている電車は、小さな私鉄会社の電車である。

N国際空港に向かう旅行客がよく利用する。

私の職場は、都内とは正反対、つまりN国際空港方面にあるので、幸いなことに、ひどい通勤ラッシュに見舞われるということは、ほとんどない。下りの電車の中は、どちらかといえば、通勤する人よりも、旅行客のほうが多いのである。

同僚は自動車通勤が多かったり、通勤時間がバラバラだったりするので、電車の中でめったに知り合いに会うこともない。

さて、今日。

昨日の旅で心身ともにすっかりと疲れ果てて、通勤のときは虚脱状態で、ボーッとしながら電車の座席に座っていた。本を読むわけでも、音楽を聴くわけでもなく、うつらうつらとしていた。

すると、

「先生、先生!」

と呼ぶ声がする。

見上げると、

「私です。Yです」

なんと!今年3月に卒業したYさんだった。

無防備にも野面(のづら)で電車に乗っていた私は、ビックリした。

「Yさん!あービックリした」

「私もビックリしました。先生、これからお仕事ですか?」

「うん。Yさんも?」

「ええ」

「いまどのあたりに住んでいるの」

「この私鉄の沿線です」

Yさんがこの3月に卒業したあと、Aという国内の航空会社に就職し、N国際空港で働くことになったことは知っていた。つまり自宅からN国際空港に出勤する途中、たまたま乗った車両に、私が乗り合わせていた、というわけである。

考えてみれば私と職場が近いので、同じ電車に乗り合わせることも、理屈ではあり得るわけなのだが、それにしても驚いた。

話せば長くなるが、Yさんは、私が直接指導した学生ではない。だが、Yさんが1年間の海外留学から帰った後の大学4年になってから、お話する機会ができたのであった。

Yさんには、仲のいい親友のNさんがいて、Nさんもまた、私の直接の教え子ではなかったが、海外留学経験者だったこともあり、やはり私とお話しする機会が多かった。

YさんとNさんのやりとりを聞いていると、「この二人は、本当に仲がいいんだなあ」と、うらやましく思ったものである。とくにお酒を飲んだときの二人の丁々発止のやりとりは、面白かった。

で、YさんもNさんも、卒業後は関東に住むことになる、というので、いつか食事会をしましょうと、追いコンのときになんとメアドの交換までしたのである!

しかし月日がたつのは早い。私はもちろん、YさんもNさんも、新しい環境に慣れるのに必死で、それどころではなかったのである。

(二人とも直接の教え子というわけではないし、もうすっかり忘れられているのだろうな)

と思っていた矢先に、Yさんと再会したという次第。

私の職場の最寄り駅は、N国際空港駅よりも手前にあるので、「じゃあまた」と、私が先に降りた。

すると、ほどなくして携帯にメールが来た。

「先ほどはまさか電車内で再会するなんて、驚きました!今度Nと近況報告を兼ねて、一緒にご飯でも食べに行けたら嬉しいです!では私はいまから仕事に行ってきます!」

もうすっかり社会人なんだなあ、と、感慨深く思った。

私は返信を送った。

「私も誰も知り合いが乗っていないと思い無防備だったのでビックリしました。こんなことってあるんですねえ。すっかり社会人の顔になっていて、頼もしく思いました。食事会、実現させましょう。お仕事頑張ってください」

するとYさんからすぐに返信が来た。

「本当にこんな偶然ってあるんですね。社会人の顔なんてまだまだです。入社してから、つらいこともたくさんありましたが、なんとかやっております。いろいろな近況報告もしたいですし、Nにも連絡して、日程の候補がきまったら連絡いたします。先生もお仕事頑張ってください!」

このメールは、私をずいぶん励ました。私は、さらに自分を励ますがごとくに、返信を書いた。

「つらいことも多いでしょうけれど、一日一日乗り越えていきましょう!」

昨日までの憂鬱な気分が、いつの間にかどこかへと消えていった。

電車の中で偶然に再会する、なんて、映画みたいな話だが、これがあるんだな、実際に。

ただひとつ心配なことがある。

私が忙しすぎて、はたして食事会は本当に実現するのだろうか?

まあ、こういう出来事があっただけでも、十分である。

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ロードムービーにはほど遠い

8月11日(月)

友人から、

「出張が多いみたいなので、疾走感あるロードムービー的なブログをお願いします」

と要望をもらった。たしかに私もロードムービーが大好きなのだが、現実はそうなかなかうまくいかない。

先週、東北の中核都市にお勤めのある方から、調査の依頼があった。

めったにお会いすることのないお方で、私が職場を移ったこともご報告していなかったこともあり、大変申し訳ないことに、ほうぼう手を尽くして私の連絡先を突き止めていただいたらしい。

以前からお世話になっている方で、私よりはるか年上の大ベテランの方だが、私のことを信頼していただいていて、調査の依頼をいただいたのである。

笑われると思うが、私は自分の仕事の中で、「探偵調査」に比している仕事、というのがあって、今回の依頼がまさに、自分が「探偵調査」に比している仕事だったのである。

これは引き受けないわけにはいかない。

だが、日程的にはかなり厳しい。

「申し訳ありません。8月は11日くらいしか空いていません」

「わかりました。ではそれでお願いします」

ということで、急遽、またひとつ、出張が増えることになった。

おりしもお盆休みの帰省ラッシュの時期である。

新幹線の席が取れるか心配だったが、さいわい、臨時の新幹線の席が空いていた。

二人がけの席の窓側に座ると、発車ギリギリに乗り込んだ巨漢の男性が、私の隣の席に座った。

私よりも、かなりデブなオッサンである。

なんたって、座席からはみ出るくらいの横幅の人なんだから。

とたんに座席が窮屈になった。

(何でよりによって、デブ二人が隣り合わせに座らなければならないんだ?)

新幹線が出発した。

不思議なことに、私の周りの座席は、ガラガラである。

通路をはさんだ、3人掛けの座席の列なんて、誰ひとり座っていないのだ。

周りはあんなに席が空いているのに、何でよりによってデブ二人が隣どうしなのか?

JRの予約システムで「デブは隣同士に座らせる」とプログラムされているのか?

隣のデブは、座るなり、グーグー寝てしまった。

肘と、大股開きの足がこちらの席をがっちりと封じていて、これでもう私は、身動きがとれない。

これはもはや「ロードムービー」ではない。「コメディ映画」である。

結局、終点まで、デブ二人が窮屈な2人掛けの席に座っていた。

(酷い目にあったもんだ)

駅に着いた。依頼主の方とは、駅で待ち合わせである。

いつも依頼調査の前は、緊張する。

はたして、依頼人を満足させる結果を導き出せるのか?

こればかりは、蓋を開けてみなければわからない。

調査場所に行き、依頼人3人が見守る前で調査を始めて、なんとか、結果を出すことができた。

「ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ呼んでいただいてありがとうございました。今回の調査結果は、近いうちに必ずレポートにまとめてお送りします」

これでまた仕事が増えたが、こればかりは仕方がない。

「ありがとうございます。もう一つお願いがあるのですが」

「何でしょうか?」

「今回の調査などもふまえまして、11月に講演会を…」

「はあ」

これでまた仕事が増えた。スケジュールがどんどん埋まってゆく。

だが、今日の仕事は、私がお世話になっている方からの依頼ということもあって、何としても全うしなければならない。

こうやって、自分の首が絞まっていくのである。

ひととおり仕事が終わり、あらためてこれまでの自分を振り返ってみた。

今回の調査の件は別として、私は、自分が振り回されるタイプだ、と思ってきた。

だが、違うのではないか。

自分で自分を振り回しているのではないか。

自分で自分を巻き込んでいるのではないか。

勝手に自分で自分を振り回して、結果的にはぶざまな形で終わるのである。

行った先の人たちは、みないい人ばかりであるが、旅をする私自身が、ぶざまなのである。

これでは、「疾走感あふれるロードムービー」なんぞ、無理である。

振り回されていると見えながら、結局は一人相撲の部分がかなり多い。

「まさか真に受けて本当に来るとはね」

「いいのいいの。どうせ好きで勝手にやってるんだから放っておけば。どうせこっちは、そこまで頼んでいないんだし」

「でも、あんまり好き勝手にやらせるとつけあがるから、注意してあげた方がいいんじゃない?」

「そうねえ。放っておくとつけあがるからねえ」

という声が、ほうぼうから聞こえてきそうである。

やはり、ロードムービーにはほど遠い。

何やってんだ?オレ。

…という、自己嫌悪が頭をもたげてきた夜でございました。

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「TOMORROW 明日」と「小さいおうち」

8月9日(土)

前にも書いたことがあるが、黒木和雄監督の映画の映画「Tomorrow 明日」(1988年公開)は、長崎に原爆が落とされる直前の24時間の日常生活を描いた映画である。井上光晴の小説が原作だそうだが、原作は読んでいない。

いわゆる戦争映画なのだが、戦闘シーンは、まったく描かれていない。庶民の日常生活が淡々と描かれるだけである。もちろん、数時間後に、原爆が落とされるなどということは、誰ひとり思っていない。

だが、このあと、原爆が落とされることを、私たちは知っている。結婚も、出産も、失恋も、恋人との別れも、友の死も、数時間後には、すべて無に帰してしまうのだ。

映画を見ているわれわれは、それを知っているので、何気ない出来事が、一つ一つ意味のあるものだと思って見てしまう。

そしてあの震災のときも、前日はきっとこんな感じだったのだろう、と、映画を見てあらためて思いを馳せた。

興味深かったのは、DVDの特典映像の、黒木和雄監督と脚本家の松田正隆氏の対談である。

この映画のファンを自称する松田氏は、この映画のいろいろ場面に「意味」を見いだし、絵解きをしてみせるのだが、実際この映画を作った監督は、

「なるほど、そういうことですか」

「いま言われて初めて納得しました」

「ほう、そういう見方をすればわかりやすいですね」

といったように、監督本人はほとんど意識していないのである。

あるいは、監督の意図していないところに、松田氏は気づいた、というべきか。

だがこれが、この映画の本質である、と思う。

「享受する側」は、「当事者」の意図しないところに、意味を見いだす場合がある、ということを知るのである。監督ですら意図していないところに、観客は意味を見いだすのだ。

現にこの映画は、そう見ずにはいられない映画なのである。

それは人生そのものにもあてはまる。

人は、他人の人生に、ときに本人以上に意味を見いだそうとする。

本人にとっては些細なことであったとしても、である。

だがそれを、「共感」というのではないだろうか。

さて、戦争中(あるいは戦前)の日常を描いたものとして、最近読んだ中島京子の小説『小さいおうち』がある。

これは、戦時下の市井の人々の生活や感情に徹底的にこだわった小説である。軍部や政治家は出てこないが、それだけに、戦争が静かに忍び寄ってくる様子が、むしろリアルに伝わってくる。

8月8日の朝日新聞で、中島京子氏が「『戦前』という時代」というエッセイを書いている。これもまた、必読である。

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思い立ったら義理堅い

8月8日(金)

仕事が夕方に終わり、少し時間があったので、以前に行った「プラハで生まれた世界的作家の名前をつけたブックカフェ」に行くことにした。前回飲めなかったコーヒーを飲もうと思ったのである。

140808_165001古い町屋を改装したカフェは、店長のセンスが生かされた、おしゃれな店である。

お店の前まで来ると、なにやら音楽が聞こえる。スチールドラムの音だろうか。

入り口の貼り紙を見ると、今晩はこのお店で、おしゃれな音楽会が開かれるらしい。6時半開場、7時開演とあった。

ただいま夕方5時を少しまわったところ。

店内から聞こえてくるのは、そのリハーサルのようで、少し店内を覗いてみると、店長が、設営のために忙しく動き回っていた。

6時半まで待って、音楽会を聴きにお店に入るか?

私は逡巡した。

汗だくのオッサンがひとりで、小さなお店のおしゃれな音楽会を聴く、というのは、あまりにも恥ずかしい。 席がひとつ、無駄になるに違いない。

どうせ今日、この町にもう1泊するから、明日また来ることにしようか。

「店長の兄」にメールをした。

「お店の前まで行ったのですが、今晩は音楽会をやるみたいで、店内はその準備に追われているようでした。 汗だくのオッサンが1人で音楽会を聴きに行くのも恥ずかしいので引き返すことにし、明日もし時間があればリベンジしたいと思います」

まあ、何もことわることはないのだが、いちおう店の前まで来たことを、伝えようと思ったのである。

すると返事が来た。

「実は私も昨日までその町にいたんです。弟の店には5日に行きました。会えたら愉快でしたなあ。明日もし行けたら、声をかけてやってください」」

なんと!すれ違いだったのである。

どうも、いつもこういうことが多い。

しかし、これはなんとしても、明日行かなければならない。

思い立ったら義理堅いが、思い立たなければつい忘れてしまう、というのが、私の性格なのだから。

8月9日(土)、帰る日。

朝から台風の影響で、大雨洪水警報が出ていた。

(困ったなあ)

雨脚は強くなるばかりである。

インターネットで調べてみたら、11時半開店とある。

(うーむ、11時半までお店が開くのを待っていたら、この台風だ、鉄道が運休してしまうかも知れない)

ということで、「無念の撤退」を決断した。

そのことを「店長の兄」にメールで知らせた。すると、「大雨洪水警報が出ているし、そもそも店もやってない可能性もある」とのこと。

そりゃそうだ。

ずぶ濡れでおしゃれなカフェに入る、というのも、どうもうまくないし。

まあ11月にもこの町に来るから、そのときこそ、このお店でコーヒーを飲むぞ!

ということで、台風がひどくなる前に、私鉄と新幹線を乗り継いで、家路に急ぐことにした。

新幹線の中で、「同い年の盟友・Uさん」から、久々にCメールが来た。

Cメールなのに、かなり深い議論が始まった。

何回か議論の応酬があったあと、

「携帯だと長文無理!」とUさん。

そりゃそうだ。

お互いガラケーである上に、Cメールは字数制限があるので、言葉を吟味しながら文字を打たなければならない。

「クドい2人」にとっては、まどろっこしいこと甚だしい。

…が、時間を忘れてメールのやりとりをしているうちに、いつの間にか東京駅に着いていた。

東京は雨が降っておらず、涼しい風が吹いていた。

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コピペ天国

広島の平和記念式典での首相のスピーチが、去年とほぼ同文で、「コピペしたのではないか」という疑惑が持たれている、というニュースがあった。

「首相 コピペ」で検索すると、それに関するニュースが出てくる。

これについて、思い出したことがあった。

前の職場の、前の学長のときの話である。

職場が発行している「基盤教育だより」(以前は「教養教育だより」といった)では、毎年4月に、学長が「新入生へのメッセージ」というのを、1頁を使って掲載する。

私はそれを読むのを「楽しみ」としていたのだが、あるとき、大変なことに気がついた。

学長の「新入生へのメッセージ」が、前の年のそれと、まったく同文だったのである!

(どういうこっちゃ???)

ビックリして、バックナンバーを取り寄せて検討してみると、なんと、その前の年も同文、その前の年も同文…。

つまり、学長が就任してから毎年、まったく同文の「メッセージ」が、悪びれることもなく掲載されていたのである!

こんなことってあるのか???

しかも、2011年3月11日の東日本大震災のあとも、震災についてまったくふれることなく、同文のメッセージが掲載されているのである!

つまり、若者たちにとって人生を変えるくらいの大きな出来事があっても、それにまったくふれることなく、メッセージを文字通り「官僚的」に送り続けていたのだ!

私は、悪びれることなく、平然と、毎年同文のメッセージを「コピペする」学長の見識を、疑わずにはいられなかった。

もっと驚いたのは、周りがそれに対して、無反応だった、ということである。

前の学長は、官僚からの「天下り」学長で、学長就任当時、それはそれは、学内から批判されたものだった。

反対の急先鋒となった教員たちは、とにかく「天下り学長」が許せないと、声高にアジテーションを行った。

あれほど、声高に天下り批判をしていた教員連中は、この件、つまり「あいさつのコピペ」に関しては、誰ひとり、批判の声をあげなかったのである。

私はそのとき、一部の教員たちによる「天下り学長批判」が、いかに本質を見ていないものであるかが、よーくわかった。

お題目のように「天下り」を批判することは、何ら本質的な批判にはならない。

「あいさつのコピペ」に見られるような、学長の「見識のなさ」こそを、批判すべきなのである。

前の学長は、とても「いい人」だった。それは、じかに話してみると、よくわかる。

大学経営も、「可もなく不可もなく」という感じで、任期を全うした。

だが、「あいさつのコピペ」を、悪びれることなくやってのけることは、私には、どうしても許すことができなかった。

私はその一点において、学長を「学長」として認めることができなかった。

学長の「あいさつ」は、学生にとって、「心をふるわすようなもの」でなければならない。

新入生に対して、全身全霊をもってメッセージを送るためには、「コピペ」であってはならないのだ。

なぜなら、「コピペ」とは、「思考停止」を意味するからである。学生たちに対して、「思考停止」を表明することになるのだ。

しかし彼にはそのことがわからず、それを平然とやってのけたのである。

その「資質」をこそ、批判すべきだったのである。

そして今、「首相 コピペ」のニュースを見て、私は知った。

優秀な官僚とは、どのような人を目の前にしていても、「あいさつのコピペ」をして悪びれない人たちのことをいうのだ、と。

皮肉なことである。

大学では、「コピペはするな」と教える。

だが、最終的に出世するのは、「コピペ」しても悪びれない人たちなのだ。

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風のかたみ

8月7日(木)

今回の出張は、今日と明日の2日間、朝から夕方までみっちりと仕事をする。

かなり気を使う仕事で疲れたので、簡単に書くにとどめる。

福永武彦の長編小説『風のかたみ』は、平安時代の都を舞台にした王朝小説、というべきもので、『今昔物語』をイメージした世界観が、小説全体をおおっている。

私はこの小説が大好きで、最近久しぶりに、読み返してみた。

やはりこの小説はすばらしい。

まず、登場人物のセリフがすべて気高くてすばらしい。惚れ惚れするような言葉にあふれている。

小説全体を貫く、「人の想いのすれ違い」は、まさに福永武彦の小説の根幹のテーマともいえるもので、それを説話的・寓話的に描くことで、さらにストレートに読者の心に訴えかけている。

まあ、この小説にハマるかハマらないかは、私にとってのリトマス試験紙だな。

実はこの小説は、20年ほど前に、高山由紀子監督により1度映画化されたことがある。

主人公の大伴次郎親信を坂上忍、小説の「狂言回し」的存在である陰陽師役を岩下志麻が演じていた。

当時私は劇場でこの映画を見たが、これがかなりの「珍作」だった。

そもそも、原作の小説では陰陽師が男性であり、それを岩下志麻が演じていることじたいが、かなり「アレ」な感じである。

たとえば、「かぐや姫の物語」を製作した高畑勲監督が、同じクオリティと世界観で「風のかたみ」を映画化したらどうだったろう、と夢想したりする。

ちなみに私のこのブログのタイトルの「風の…」は、「風のかたみ」からとっております。

それくらい、私はこの小説が大好きなのだ。

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都合のいい人

8月6日(水)

またまた旅の空です。

夕方ギリギリまで職場で仕事をして、慌てて旅支度をして職場を出た。

山の上にある職場を出て、小型のスーツケースを引きずりながらリュックサックを背負って、汗だくで坂道を下ろうとすると、横を通る車の窓から、職員さんの声がした。

「出張ですか?」

「ええ」

「大変ですねえ。駅までお送りしましょうか?」

「いいんですか?」

「どうぞ」

「助かります」

地獄に仏、とはこのことである。

この炎天下、重い荷物を引きずりながら山道を下り、15分かけて駅まで歩くのは、かなりキツイ。

お言葉に甘えて車に乗せてもらうことにした。

それにしても、ふつうだったらこんな「汗だるま」、キモチワルくて絶対に自分の車に乗せたがらないはずだが、見ていてよっぽど哀れに思ったのだろう。

「すみません。こんなに汗だくで」

「いいえ、こちらは大丈夫ですよ。先生、出張多いですよね」

「ええ」

そういえば、この職員さんは、教員の出張の動向を把握する部署にいる方だった。

「この前も、同じように重い荷物を持ちながら駅に歩いて行かれるのを見て、大変だなあ、と」

「はあ、そうでしたか」やはりかなり哀れに見えたらしい。

私は思いきって聞いてみた。

「あのう、私って、ほかの同僚にくらべると、出張が多いほうなんでしょうか」

「何言ってるんです?『多いほう』なんてものじゃありません。飛び抜けて多いです」

「そうなんですか」全然知らなかった。

「事務室に、先生方の出張予定ををまとめたホワイトボードがあるでしょう?」

「ええ」私はあまり見たことがないが、たしか、マジックで教員の名前を書いたマグネットがあって、出張のさいには、そのマグネットを出張の出発日の所に置き、出張の期間を、マジックで「→」と書くのである。

…どうもわかりにくいな。

つまり、教員が出張の場合は、教員の名前が書かれた円いマグネットがホワイトボードに貼られて、「○→」というように、何日から何日まで、その教員が出張であることがわかるように書き込むのである。

「今月は、先生のマグネットが足りなくなったんです」

「そうなんですか」

名前が書かれたマグネットは、各教員一人ひとりにつき2,3個用意されているはずなのだが、1カ月に5回も6回も出張する私の場合、そのマグネットの数が足りなくなった、というのだ。

…どうもわかりにくい話ですみません。

「ですので、先生だけ特別に、マグネットを多めに作った方がいいんじゃないか、とみんなで言っていたんですよ」

「そうだったんですか…」

私は落ち込んだ。出張が多い職場だとは聞いていて、(まあこんなものなんだろうな…)と思っていたが、さにあらず、私はハナっから桁違いに出張の数が多かったのだ。しかも、新人1年目から、である。

どおりで疲れると思った。ふつうに考えて、こんなに出張が多いはずはないもの。

これではいくらなんでも、1年目から飛ばしすぎである。

どうしてこんなことになったのか???

自らを振り返ると、どうも私は、「便利屋」のように、便利に使われる人らしい。

いろいろな人に、いろいろなことを頼まれ、それは親しみを込めて頼んでくるのだろうとこっちは思うので、できるだけ必死にそれに応えようとするのだが、どうも違うのではないか、という気がしてきた。

たんに「便利に使われる人」「都合のいい人」なのではないだろうか。

私は「話を聞く人」であり、「便利に使える人」なのだ。

そういう役回りなのだ。

そのことを、肝に銘じなければならない。

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やっぱり世間は狭い

8月5日(火)

2日間にわたる会議が終了した。

大きな会議だったが、いくつかのグループに分かれてのワークショップ形式で行われた。会議には、各地から外部の委員の方々も参加された。

1日目の会議が終わってから、ある方が私に声をかけてきた。

「お久しぶりです」

私はビックリした。2013年2月に、柑橘類で有名な県のX大学を訪問したときに対応してくださったYさんが、同じ会議に出席されていたのだ。

前回お会いしたときは、前の職場の仕事の一貫で、Yさんの職場を訪れていた。

「こんなところでまたお会いするとは」と私。

「職場、変わられたんですね」

「ええ」

不思議である。1年半ほど前とはまったく違う立場で、しかもまったく違う仕事で、お目にかかるとは。

「この前、うちの大学で大きなイベントをやりましてね。前の職場の方にも報告していただきました」

「そうですか」

1年半ほど前に1度しかお会いしておらず、しかも今回の会議でも所属するグループも異なるので、本来ならば、まったく話題が合わないような二人なのだが、なぜか懇親会でも、旧知の間柄のように話が盛り上がった。

人のつながり、というのは、まことに面白い。

とくに自分の専門分野とはかかわらない人とのつながりは、醍醐味である。

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鍵はどこへ消えた?

8月4日(月)

今の職場が前の職場と最も違うところは、「仕事部屋の鍵の管理の方法」である。

前の職場の場合、自分の仕事部屋の鍵は、自分が常に持っていることになっていた。

だが、今の職場は違う。

建物の玄関には、24時間体制で守衛さんがいて、通勤したときは、その警備員さんに、自分の仕事部屋の鍵をもらって、自分の仕事部屋を開けるのだ。

で、仕事が終わり、帰るときに、仕事部屋の鍵を閉めて、鍵を建物の入口の守衛さんに戻す。

つまり、自分の仕事部屋の鍵は、自分で持っていてはいけない。職場を出るときは、守衛さんに預けなければならないのである。

今の職場に着任して2カ月くらいたつと、すべての守衛さんが、私の顔と名前を覚えてくれて、私が職場の入口に入ると、何も言わずとも、仕事部屋の鍵を渡してくれるようになった。

さて、今日。

午前に定例の仕事があり、午後にまるまる会議があった。会議のあとは、すぐに懇親会である。

今日の懇親会場は、バスを仕立てていくほど、遠い場所にある。

夕方5時30分に、玄関前に集合、ということだった。

会議が終わり、急いで自分の仕事部屋に戻り、あとかたづけをして、懇親会に向かうバスに乗らなければならない。

ところが、ここで困ったことが起きた。

自分の仕事部屋の鍵が見当たらないのである。

理由は、仕事部屋があまりに散らかっていて、鍵をどこに置いたのかわからなくなったためである。

…と、ここまで書いて、賢明な読者諸賢はすでにおわかりのように、私は新しい職場に着任して、わずか4カ月で、すでに仕事部屋が散らかって、どうにもならなくなっているのである!

(おかしいなあ、鍵、どこにやったんだろう)

汗だくで、仕事部屋の中を探すが、鍵が出てこない。

ドアをノックする音がした。

「あのう…そろそろ準備をお願いします。懇親会場に行くバスが来ていますので」

「わかりました」

だが、いくら探しても鍵が出てこない。

「はやくしてください」

「わかりました」

大急ぎで部屋を出て、建物の入り口の守衛さんにやむを得ず言った。

「あのう、仕事部屋の鍵がみつからなくって…。これからすぐに出なければならないので、申し訳ありませんが、スペアキーで鍵をかけていただけますか?」

守衛さんが不思議そうな顔で答えた。

「それは別にかまいませんが、…ひどい汗をかいていらっしゃいますが、大丈夫ですか」

守衛さんは、私の顔を見て、川に落ちたかのような汗をかいていることに、不審を抱いたようだ。

鍵を必死に探したのと、それが見つからなかったことで、私は通常の大汗に加え、冷や汗をかいていたのである。

「大丈夫です」

と言ってはみたものの、どう考えても、尋常な汗の量ではない。

なにしろ、屋根があるのに、大雨にうたれたような汗をかいているのである。

それにしても、自分の仕事部屋の鍵を、自分の仕事部屋の中で見つからないなんて、もはや「つける薬がない」くらい、最低である。

(ああ、いまここで死にたい)

と思いながら、バスに乗り込み、懇親会場に向かったのであった。

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水谷豊にハズレなし

8月3日(日)

今日も一日安静にしていたので、とくに何も書くことがない。そこでテレビドラマの話を書くことにする。

私の考えた格言の1つに、「水谷豊にハズレなし」というのがある。

水谷豊の主演しているドラマに、ハズレはない、という意味である。

私が子どものころに見ていたのは、「熱中時代」「熱中時代刑事編」「事件記者チャボ」「気分は名探偵」「あんちゃん」「刑事貴族」など、いわゆる日本テレビで放映されていたドラマである。

これらはいずれも面白かった。

あと、TBSテレビで、山口百恵と三浦友和が主演した「赤いシリーズ」というのがあるが、この二人が主演をつとめない第5作目「赤い激流」では、水谷豊が主演をつとめていた。「赤いシリーズ」の中で、最も視聴率が高かったのは、山口・三浦コンビのドラマではなく、この水谷主演の「赤い激流」であったといわれる。

私自身も、当時最も印象に残ったのが、「赤い激流」だった。いまでも劇中に流れるショパンの「英雄ポロネーズ」の旋律が、頭の中に流れることがある。

それはともかく。

水谷主演のドラマの中でいちばん好きだったのは、日本テレビの土曜グランド劇場枠で放映されていた「あんちゃん」であった。

1982年放映のドラマだから、私が中2のときに、リアルタイムで見たドラマである。

このドラマは、「女子プロレスのマネージャー兼トレーナーの田野中一徹(水谷豊)が、父の急死をきっかけに郷里である宇佐木町に戻り、家業の住職を継ぎ一人前の住職として成長してゆく姿を描く」(うぃきべでぃあより引用)。

女子プロレスのマネージャーが、いきなり寺の住職になるという発想が、いかにも奇抜だが、当時、女子プロレスブームだったことが背景にあるのだろう。

私の記憶では、一話完結のヒューマンドラマで、日常に起こるさまざまな出来事を、主人公・田野中(水谷豊)の目を通しで描いていく、というものだった。ときに田野中は、身の回りで巻き起こる出来事に積極的にかかわっていき、微妙で複雑な人間関係を解きほぐしていったり、問題を解決していったりしながら、自らも成長していく、といった内容だったと記憶する。

どんな内容のエピソードがあったか、いまではまったく忘れてしまったのだが、私はこのドラマが大好きで、その「大好き」という感覚だけは、いまだに残っているのである。

いまから14年ほど前、私は縁のない土地で慣れない教員をすることになった。

教員と学生との距離、というのは、おそらく都会よりは近いものであったと思われる。学生たちは、日々、いろいろな悩みや相談を、もちかけてきた。

なかには、解決できるかどうかもわからない、難しい相談もあった。

だが、何らかの答えを出さなければならない。

答えを出さずとも、何らかの方向性を出さなければならない。

そのとき、決まって私の頭の中にあらわれたのが、水谷豊のドラマ「あんちゃん」であった。

ドラマの中で、「あんちゃん」こと田野中は、僧侶ということで、人々に頼られる。お坊さんならば、何か解決をしてくれるのではないか、と、人々がすがるように訪れるのである。

だが、田野中は、もとはといえば女子プロのマネージャー。僧侶としての経験を積んできたわけではなく、いわば新米なのである。

自分は僧侶とはいっても、人に頼られるにふさわしい人物ではない。

だが、困っている人をなんとかしてあげたい。

そこで彼は、一緒に思い悩みながら、なんとか解決の方向を見つけていこうとする。

そしてその経験を重ねながら、自分自身も成長していく。

子どものころに見た、「あんちゃん」を、私はいつしか自分の生き方と重ね合わせていたのである。

ひょっとして、いま、このドラマを見たら、私の記憶は間違っていて、自分が思っていたドラマとはまったく内容の違うものかも知れない。

私が「あんちゃん」に対して思い描いていたイメージは、私自身が、あとになって、勝手に作り上げたものかも知れない。

それにしても、である。

私が、あの町での14年間の教員生活で、心の支えになっていたのは、ぼんやりとした記憶の中にあるドラマ「あんちゃん」だったのだ。

その事実だけは、変わらないのだ。

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気分は夏休み

8月2日(土)

相変わらず体調が思わしくないので、この週末は極力何もせず、休養をとることにした。

ということで、まる一日泥のように寝た。

自宅から歩いて3分の所に大きな河川敷があるのだが、今日の夕方、そこで花火大会があるというので、出かけることにした。

河川敷の花火大会を見に行くなんて、25年ぶりくらいである。

たまたま何も予定のない週末に、家から歩いて3分のところで花火大会があるとは、なんとラッキーなことか!

…何か悪いことが起こる前兆か??

といったいつものマイナス思考を振り払って家を出ると、家の前の道は、河川敷に向かう人ですでに長蛇の列である。

その列に混じって歩いて行くと、河川敷に出た。

すると、ビックリするような数の人が、すでに河川敷にあふれていた。

そればかりではない。川の上にはなんと、屋形船が列をなしているではないか!

花火大会って、こんなに盛り上がるものなのか?と、ちょっとなめきっていた自分を反省した。

7時15分に花火大会が始まった。

打ち上げ花火には、いくつかのパターンがあることに気づいた。

1つめは、単発の大きな花火を、堂々と一つ一つあげていくもの。これは、伝統的な打ち上げ花火のやり方である。

2つめは、連続して次々と花火を派手に打ち上げるパターン。

花火大会ではこれがいちばん盛り上がる。

3つめは、通常の高さよりも低い位置に、花火を打ち上げるパターン。

この3パターンの違いは何なのだろう?と、私の中で妄想がはじまった。

単発の大きな花火を一つ一つ打ち上げていくのは、おそらく老練の花火職人さんによるものではないだろうか?

連続して花火を派手に打ち上げる、いわば「見せ場を作る花火」は、まさにいま脂ののった、中堅どころの花火職人さんによるものではないだろうか?

そして3つめの、通常よりも低い位置に花火を打ち上げるのは、まだ修行中の新米の花火職人さんによるものではないだろうか?

もちろん、根拠はまったくないのだが、どうもそんなふうに思えてきて仕方がなくなってきた。

それで花火が打ち上げられるたびに、

(いまのは老練の職人さんだな、さすがに風格があって、1発1発を丁寧に打ち上げているな)

とか、

(これは中堅の職人さんだな。さすが、連続の打ち上げ花火は勢いがあるな)

とか、

(これは新米の職人さんだな。おそらく打ち上げデビューなのだろうな)

とか、いちいち舞台裏を妄想しながら見ていたのである。

そのことを妻に話すと、

「もっとふつうに花火を見られないのか!?」

と呆れられた。

8時半までの1時間15分は、あっという間だった。

多額のお金をかけた打ち上げ花火が、1時間半であっという間に消えてしまう。

それはあたかも、夢を見るがごとくである。

その夢を見に、多くの人が集まる。

ひょっとしたら、打ち上げ花火を見る、というのは、いちばんぜいたくな遊びなのかも知れない。

…と、つかの間の夏休み気分を味わったのでありました。

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はやくも満身創痍

8月1日(金)

風邪をひいたうえに、右足が痛い。

だが最近の血液検査の結果では、尿酸値がふつうレベルにまで下がっていたのだから、もはや何が原因で足が痛いのかが、わからない。

たんに疲労がたまると足が猛烈に痛くなるという病気なのか?

昨晩遅く、新幹線と私鉄を乗り継いで、5時間かけて出張先の近くの宿に着いた。

今日は6月に一緒に仕事をした職人さんたちとの仕事である。

師匠も来られ、かなりダメ出しをいただく。

やはり師匠は厳しいなあ。

あたりまえのことだが、私は初年兵なのだ。

朝10時から始まった仕事が夕方に終わり、また5時間かけて私鉄と地下鉄と新幹線を乗り継いで帰宅した。

自分のふがいなさに落ち込むことばかりだが、自分の本の評判については、気になって気になって仕方がない。

先日、「オサレなナイスミドルの雑誌」に紹介された、という話は書いた。

あのあと、茶道関係の雑誌の新刊紹介の欄にも紹介されていることを知り、雑誌を取り寄せてみた。

短文ながら、じつに的確に紹介されていて、とてもうれしかった。

ひょっとしたら、いちばんよく本質をとらえた紹介文かも知れない。

本を出したばかりのころ、4月末頃だったか、あるところから電話が来た。

「この夏に、建築の職人さんたちの研修会をするのですが、その研修会で3コマの授業を担当してください」

縁もゆかりもない方からの依頼である。

「私がですか?どうして私が?」

「先生の本を読んだからです。ぜひ、本のテーマにかかわるお話をお願いします」

…ということで、8月末に、建築の職人さんたちの前でお話をすることになった。

私の父方の祖父は、大工さんだった。私が3歳の時に他界したので、ほとんど記憶にない。

父は不器用だったため、祖父の跡を継がず、サラリーマンになった。

私は父に輪をかけて不器用だったため、もの作りとは無縁の道を歩もうと決意した。

そんな私が、何の因果か、建築の職人さんたちの前でお話をすることになったのだから、これを祖父の導きといわずして、何というのか。

しかもいま、もの作りの末端でお手伝いをしているのだ。

…まあ冗談はともかく、専門外の人たちに理解されるというのは、何よりありがたいことである。

たしかに「味方は外にいる」のだ。

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