コピペ天国
広島の平和記念式典での首相のスピーチが、去年とほぼ同文で、「コピペしたのではないか」という疑惑が持たれている、というニュースがあった。
「首相 コピペ」で検索すると、それに関するニュースが出てくる。
これについて、思い出したことがあった。
前の職場の、前の学長のときの話である。
職場が発行している「基盤教育だより」(以前は「教養教育だより」といった)では、毎年4月に、学長が「新入生へのメッセージ」というのを、1頁を使って掲載する。
私はそれを読むのを「楽しみ」としていたのだが、あるとき、大変なことに気がついた。
学長の「新入生へのメッセージ」が、前の年のそれと、まったく同文だったのである!
(どういうこっちゃ???)
ビックリして、バックナンバーを取り寄せて検討してみると、なんと、その前の年も同文、その前の年も同文…。
つまり、学長が就任してから毎年、まったく同文の「メッセージ」が、悪びれることもなく掲載されていたのである!
こんなことってあるのか???
しかも、2011年3月11日の東日本大震災のあとも、震災についてまったくふれることなく、同文のメッセージが掲載されているのである!
つまり、若者たちにとって人生を変えるくらいの大きな出来事があっても、それにまったくふれることなく、メッセージを文字通り「官僚的」に送り続けていたのだ!
私は、悪びれることなく、平然と、毎年同文のメッセージを「コピペする」学長の見識を、疑わずにはいられなかった。
もっと驚いたのは、周りがそれに対して、無反応だった、ということである。
前の学長は、官僚からの「天下り」学長で、学長就任当時、それはそれは、学内から批判されたものだった。
反対の急先鋒となった教員たちは、とにかく「天下り学長」が許せないと、声高にアジテーションを行った。
あれほど、声高に天下り批判をしていた教員連中は、この件、つまり「あいさつのコピペ」に関しては、誰ひとり、批判の声をあげなかったのである。
私はそのとき、一部の教員たちによる「天下り学長批判」が、いかに本質を見ていないものであるかが、よーくわかった。
お題目のように「天下り」を批判することは、何ら本質的な批判にはならない。
「あいさつのコピペ」に見られるような、学長の「見識のなさ」こそを、批判すべきなのである。
前の学長は、とても「いい人」だった。それは、じかに話してみると、よくわかる。
大学経営も、「可もなく不可もなく」という感じで、任期を全うした。
だが、「あいさつのコピペ」を、悪びれることなくやってのけることは、私には、どうしても許すことができなかった。
私はその一点において、学長を「学長」として認めることができなかった。
学長の「あいさつ」は、学生にとって、「心をふるわすようなもの」でなければならない。
新入生に対して、全身全霊をもってメッセージを送るためには、「コピペ」であってはならないのだ。
なぜなら、「コピペ」とは、「思考停止」を意味するからである。学生たちに対して、「思考停止」を表明することになるのだ。
しかし彼にはそのことがわからず、それを平然とやってのけたのである。
その「資質」をこそ、批判すべきだったのである。
そして今、「首相 コピペ」のニュースを見て、私は知った。
優秀な官僚とは、どのような人を目の前にしていても、「あいさつのコピペ」をして悪びれない人たちのことをいうのだ、と。
皮肉なことである。
大学では、「コピペはするな」と教える。
だが、最終的に出世するのは、「コピペ」しても悪びれない人たちなのだ。
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