「TOMORROW 明日」と「小さいおうち」
8月9日(土)
前にも書いたことがあるが、黒木和雄監督の映画の映画「Tomorrow 明日」(1988年公開)は、長崎に原爆が落とされる直前の24時間の日常生活を描いた映画である。井上光晴の小説が原作だそうだが、原作は読んでいない。
いわゆる戦争映画なのだが、戦闘シーンは、まったく描かれていない。庶民の日常生活が淡々と描かれるだけである。もちろん、数時間後に、原爆が落とされるなどということは、誰ひとり思っていない。
だが、このあと、原爆が落とされることを、私たちは知っている。結婚も、出産も、失恋も、恋人との別れも、友の死も、数時間後には、すべて無に帰してしまうのだ。
映画を見ているわれわれは、それを知っているので、何気ない出来事が、一つ一つ意味のあるものだと思って見てしまう。
そしてあの震災のときも、前日はきっとこんな感じだったのだろう、と、映画を見てあらためて思いを馳せた。
興味深かったのは、DVDの特典映像の、黒木和雄監督と脚本家の松田正隆氏の対談である。
この映画のファンを自称する松田氏は、この映画のいろいろ場面に「意味」を見いだし、絵解きをしてみせるのだが、実際この映画を作った監督は、
「なるほど、そういうことですか」
「いま言われて初めて納得しました」
「ほう、そういう見方をすればわかりやすいですね」
といったように、監督本人はほとんど意識していないのである。
あるいは、監督の意図していないところに、松田氏は気づいた、というべきか。
だがこれが、この映画の本質である、と思う。
「享受する側」は、「当事者」の意図しないところに、意味を見いだす場合がある、ということを知るのである。監督ですら意図していないところに、観客は意味を見いだすのだ。
現にこの映画は、そう見ずにはいられない映画なのである。
それは人生そのものにもあてはまる。
人は、他人の人生に、ときに本人以上に意味を見いだそうとする。
本人にとっては些細なことであったとしても、である。
だがそれを、「共感」というのではないだろうか。
さて、戦争中(あるいは戦前)の日常を描いたものとして、最近読んだ中島京子の小説『小さいおうち』がある。
これは、戦時下の市井の人々の生活や感情に徹底的にこだわった小説である。軍部や政治家は出てこないが、それだけに、戦争が静かに忍び寄ってくる様子が、むしろリアルに伝わってくる。
8月8日の朝日新聞で、中島京子氏が「『戦前』という時代」というエッセイを書いている。これもまた、必読である。
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