« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

いとまごい

10月29日(水)

岡本喜八監督の映画「日本のいちばん長い日」(1967年公開)。

御前会議でポツダム宣言の受諾を決定した1945年8月14日の正午から、玉音放送がおこなわれた翌15日の正午までの1日の出来事を描く。

日本映画屈指の傑作である。

ポツダム宣言受諾の可否や、終戦の詔勅の文言をめぐって、閣議は紛糾する。

だが、事態は一刻の猶予もない。この機を逃すと、日本は壊滅する。

閣議をかき回したのは、阿南陸軍大臣(三船敏郎)だった。

終戦やむなしという閣議の雰囲気の中で、ひとり阿南だけは、最後まで抵抗した。そこに、陸軍全体の意向がはたらいていたことは、いうまでもない。

陸軍は終戦に納得しない。その突き上げにあっていた阿南は、陸軍を代表する者として、閣議の場で、最後まで抵抗し続けるのである。

結局、ギリギリのところで決着し、終戦の詔勅の手続きがとられることになった。

深夜、閣議が終わったあと、阿南は、鈴木貫太郎首相(笠智衆)の部屋に訪れる。

彼は首相に対し、閣議を迷走させ、首相に最後まで楯突いたことを、深々と詫びるのである。

「これも、日本のためを思ってのこと。どうか数々の無礼、お許しください」

「いや、わかっております。私はね、阿南さん。これからの日本に、それほど悲観はしておりませんよ」

「私も、そう願っております」

ラグビーでいうところの、「ノーサイド」である。

そして阿南大臣は、鈴木首相にあるものを手渡す。

「これは南方にいる部下が送ってきたものですが、私はたしなみませんので、総理にぜひと思い、持ってまいりました」

そういって、桐の箱に入った最高級の葉巻のセットを首相に贈ったのである。

深々と頭を下げ、折り目正しく部屋をあとにする阿南大臣。

その後ろ姿を見ながら、鈴木首相がつぶやく。

「阿南君は、暇乞いに来てくれたんだね」

三船敏郎と笠智衆の間で交わされたこのシーンは、日本映画史上における、屈指の名場面である。とくに笠智衆の表情とセリフはすばらしい。

このあと、阿南大臣は自宅で自決する。

15日の正午の玉音放送が流れたあと、鈴木貫太郎首相は、内閣の総辞職を決める。

「これからの日本は、若い人にまかせるのがいいんでね」

そういって、老練な彼はいさぎよく首相の座を降りるのである。

彼もまた、阿南と同様に、暇乞いをしたのであった。

若者に譲り、自らはいとまごいする。

そのタイミングはいつだろうかと、この場面を見るたびに考える。

見届ける人がほかにもいるというのは、考えたらあたりまえのことなんだな。自分だけだと思い込んでいたことのほうが間違いであることに気づく。

自分の代わりはいないと思い込んで、よかれと思ってしたことが、さほどたいしたことでもなかったりするのは、世の常である。

その事実を受け入れて、世代交代して、静かに身を引いて、肩肘を張らずに接するというのが、美学というものなのかも知れない。

| | コメント (0)

お手紙小説

10月28日(火)

またまた、旅の空です。

書店で森見登美彦『恋文の技術』(ポプラ文庫)という本が目に入って、なんとなく惹かれて購入した。森見登美彦の小説を読むのは、初めてである。

タイトルのイメージと違い、ハウ・ツー本ではなく、れっきとした小説である。

しかも、全編が一人の人物による手紙の形式をとっている。

クラゲの研究をしている主人公の男は、京都の大学院から、遠く離れた能登の実験所に飛ばされる。

一人寂しく暮らす主人公は、文通修業と称して京都に住むかつての仲間たちに手紙を書きまくる。研究室の友人、先輩、作家になった大学の先輩、家庭教師先の小学生、そして妹…。

しかし、本当に届けたい人のもとに、手紙を書くことができない。

はたして彼は、本当に届けたい人のもとに、手紙を書くことができるのか?

約2時間の行きの飛行機の中で、一気に読んでしまった。

いやあ、バカバカしい!くだらない!

でもおもしろい!

ゲラゲラ笑いながら読んだが、書き散らしたクドい手紙が、最後にすべてひとつのもとに収斂され、大団円を迎える。

読みながら、ちょっと涙が出た。

主人公の男は、愛すべきダメ人間である。

しかし、ダメ人間が、お馬鹿でクドい手紙を書き続けることで、まわりの状況を少しずつ変えていく。

それは、ほんのちょっとした変化なのだろうけれど、みんなが少しずつ幸福に向かう変化である。

そして主人公自身も、おバカな手紙を書き続けた先に、「本当に届けたい人への手紙」の極意を手に入れる。

おバカな手紙を書き続けることで、主人公は、ほんの少しだけ、成長するのである。

人間が伝えたいことって、案外こういうことなんだな、というのを、あらためて思い知らされる。

| | コメント (1)

ラジオ番組の収録に行ってきました

10月26日(日)

なんと、ついにラジオ番組に出演しましたよ!

といっても、生放送ではなく、収録です。

本当は、TBSラジオの「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」か、「荻上チキのセッション22」のどちらかから、お声がかかりたかったんだけれど、そうではなく、日本でいちばん大きな放送局の、とてもまじめな番組からお声がかかった。

依頼されたのは夏のことだったか。私の本を読んだ制作者の方からメールいただき、番組で本にかかわるお話をしてくれと依頼されたのである。

ほんの少しの時間、インタビューか何かに答えればいいのかなと思いきや、なんと30分番組を4本収録するのだという。

つまり2時間しゃべらなければならないということなのだ。

番組の進行役に、大ベテランのアナウンサーの方がいるので、その方と対談するという形式らしい。

あらかじめいただいたメールに「原稿は必要ありません。来ていただくだけでけっこうです」とあった。

それにしても不安である。原稿なしで、2時間ももつのだろうか?

さて今日。

約束の時間である12時50分に、都内にある大きな放送局の入り口についた。

そこで制作スタッフの方と初めてお会いする。

「どうぞ、こちらです」

廊下を進んでいった。

(楽屋とかあるのかな?有名人とかに会えるのかな?)

と期待していたら、いきなりスタジオのブースに案内された。

「すでにアナウンサーの方がお入りです」

みると、すでに大ベテランのアナウンサーの方が、スタンバイしていた。

緊張していた私は、

(トイレに行っておいた方がいいかも)

と思っていたのだが、そんなヒマもなく、そのままラジオのブースに入り、進行役のアナウンサーの方とご挨拶した。

そのままイスに座り、

「それじゃあそろそろ本番です」

という。

ええ!ちょ、ちょっと!まったく心の準備ができてないよ!

私は、大ベテランのアナウンサーの方に聞いた。

「あのう…これ、全4回ですよね」

「ええ」

「だいたいの進行表とか、原稿とか、そういったものはないんですか?」

「ありません。この番組は、そういうのがないんです」

「はあ」

「先生の頭の中にあることを、自由にお話しいただければ、それでけっこうです」

ええええぇぇぇぇぇぇ!!!!

リハーサルもなく、進行表も原稿もなく、アドリブでしゃべれってか?

か、か、…買いかぶりすぎだ!

俄然緊張してきた。

ということで、テーマ音楽が鳴り、いきなり本番がはじまった。

時計をみると午後1時。

つまり、12時50分に放送局の玄関についてから、わずか10分後に、もう本番がはじまったのである。

ラジオって、こんな感じなのか?

だが、これでも私は、AMラジオのリスナー歴35年である!

これまで名人と呼ばれるパーソナリティのラジオ番組をいくつも聴いてきた。

どれほどAMラジオのDJに憧れてきたことか!

私は、これまでのリスナー経験を総動員して、本番に挑んだのである!

しかも驚いたことに。

30分番組を4本録るのだが、まるで生放送のように、時間をきっちりはかっているのである。

編集もしないのか???

…ということで、リハーサルなし、原稿なし、編集なしのノンストップで、30分番組4本を、あっという間に録り終えたのであった。

大ベテランのアナウンサーの方の、名人芸ともいうべき進行によるところが大きいことは、いうまでもない。

12月に、4回にわたって放送されるとのことですが、どうかひとつ、「リハーサルなし、原稿なし、編集なし」でしゃべっているのだ、ということを念頭に置いて、よかったら聴いてみてください。

すべてが終わって、プロデューサーらしき方に、

「ラジオ向きの声ですね」

と言われた。

たぶんすべてのゲストに言っているのだと思うが、そう言われたら、悪い気はしない。

テレビに出たいとは全然思わないが、やっぱりラジオっておもしれえ、と感じた1日でありました。

| | コメント (2)

坂本龍一とバート・バカラック

10月23日(木)

旅先の仕事でかなり疲れているので、「坂本龍一CM名曲」シリーズ第2弾。

坂本龍一が提供した、80年代の「サントリーオールド」のCM曲には、前回紹介した「Dear Liz」のほかにもあって、それが「水の中のバガテル」という曲である。

「バガテル」とは、フランス語で「ちょっとした曲」という意味だそうである。

このCM曲にはピアノバージョンもあり、本当はそちらの方が好きなのだが、見つけることができなかった。

次に紹介するのは、「資生堂エリクシール」のCMである。

なんとも時代を感じさせるCMだが、このCMのバックで流れている音楽も、坂本龍一がこのCMのために作った曲である。

CM中に流れているメロディが、曲のほぼ全部と思っていただいてよい。

この曲こそが、坂本龍一がバート・バカラックを意識して作った曲だと、私は信じて疑わない。試みに、バート・バカラックの名曲「エイプリル・フール」を聴いてみよう。

え?あのCM曲のどこがバート・バカラック的だって?

バート・バカラックのメロディアスな旋律の特徴を、坂本龍一がよくとらえているではないか!

もう1曲、坂本龍一のバートバカラック的な曲を紹介しよう。

大貫妙子「夏に恋する女たち」である。

作曲は大貫妙子だが、編曲は坂本龍一である。

編曲に注目して聴いてみると、これぞ、バート・バカラック的な音楽だと、誰もが納得するだろう。

坂本龍一はバートバカラックの音楽にひそかに憧れていて、職業的音楽家としての本領を発揮すべきときに、彼の中にあるバート・バカラック的要素が花開くのではないか、というのが、私の仮説である。

| | コメント (0)

くたばれ!グローバル

10月22日(水)

またまた旅の空です。

今回は、福岡から電車で1時間半ほどの町です。

夜にこちらに着いて、晩飯はイカの活き作り定食を食べました!

明日からこちらで仕事です。

さて。

時代はいま、グローバルなのだそうだ。

「前の職場」でも、「グローバル」にかかわる仕事をしたことがあるのだが、この「グローバル」について、ずっと違和感を感じていた。

その違和感の正体が、最近、なんとなくわかってきた。

日本でいう「グローバル」とは、「与しやすい国と仲よくなること」なのではないか?

たとえば、「ベトナム」。

「前の職場」では、ベトナムが、グローバル人材育成のための格好のフィールドとして重宝されていた。

最近、日本国内でベトナム人を雇用し、日本流のビジネス感覚を学ばせた上で、現地幹部としてベトナムに送り出す企業が増えているというニュースを見た。

もともとベトナムは、親日の国なのである。

そうか。「前の職場」でもベトナムとの交流に力を入れていたのは、そういうことだったのか。

ベトナムだけではない。

ペルー、インドネシア、ケニア…。前の職場が交流をさかんに進めてきた国は、ことごとくが親日の国である。

これらの国々に対しても、ベトナムに対するとの同じねらいがあるのかもしれない。

これって、首相の外遊についても同じようなことがいえるのではないだろうか。

いまの首相の外遊って、与しやすい国ばかりに行って、行くと具合の悪い国には、行かない。

まあもともとは、財界の意向なのだろうから、財界の意向が国の方針となり、それが大学のグローバル化の掛け声へとつながっているわけである。

学校のクラスでたとえれば、従順そうで仲のよい人にばかりいい顔をして、自分を嫌っている人とは、口もきかない。誤解を解こうともしない。

つまり、仲のいいところにだけ、上から目線でいい顔をしよう、というのが、いま大学が進めているグローバル化なのではないか。

…間違ってたらごめんなさいよ。

でも本当に大切なのは、関係がよくない、とされている人たちに対して、胸襟を開いたり、誤解を解いたりして、信頼関係を築くことではないだろうか。

…ま、こんなこと書いても誰にも理解されないと思うけど。

その点、妻はすごい。

妻はいま、ある国でおこなわれている国際学会に参加しているのだが、そこに集まっている日本を含めた4カ国は、とくに最近、政治的には最悪の関係になっている。

とくに3カ国のうちの1国は、「日本と国交のない国」なのである。

私は出発前、妻に、1つのミッションを出した。

「学会に参加している、国交のない国の人とお話をして、ツーショットの写真を撮ること」

というミッションである。

すると、昨日、出張先から妻からメールが届いた。

「ミッション成功しました!」

なんと、国交のない国の人と、ツーショットで写っている写真が、添付されていたのである。

二人の顔は、どことなくぎこちなかったが、でも二人とも穏やかな顔であった。

まさか本当に実現できるとは…。

もちろん、政治的にはきわめて困難な問題が立ちふさがっており、思想的にも、両者の溝は深い。

だが、一人の人間として、お互いを尊重し合うことは、どのような国の人に対しても、等しくおこなわなければならない。

この写真は、それが可能であることを示していた。

与しがたい国の人たちとも、個々のレベルで信頼関係を築いていくこと。

そういう人材を作ることこそが、本当の「グローバル化」につながるのではないだろうか。

…ま、誰にも理解されないと思うので、読み流してください。

| | コメント (0)

マツコ依存症

最近の唯一の楽しみは、マツコ・デラックスの出ている番組を見ることである。

これは妻と一致した意見なのだが、タモリの「笑っていいとも!」の後継者と、「徹子の部屋」の後継者は、マツコ意外には考えられない。

それに加えて私は、「笑点」の司会の後継者も、マツコがいいのではないか、と思っている。

理由は、「三波伸介にちょっと似ているから」。

まあそれはともかく、とにかく今の私は、マツコのトークが聴きたい、という「マツコ依存症」なのだ。

好きな番組は、お笑い芸人の有吉弘行と二人でトークをくり広げている「怒り新党」という番組である。

どういうところが好きか。

たとえば先日の放送では、こんな話があった。

マツコが30年ぶりに、幼なじみと会った、という話である。

幼なじみといっても、小学校でクラスが一緒だった、とかいったようなレベルではない。家族どうしが行き来していた、本当の意味での幼なじみである。

つまりマツコにとっては、特別な存在なのである。

あるとき、その幼なじみは、テレビに出ているマツコを見て、

「あいつ、ひょっとして俺の幼なじみなんじゃないだろうか?」

と思ったという。

なにしろ、幼いときとくらべたら、似ても似つかない姿に変わり果ててしまっているから、幼なじみにとっても、自信がないのだ。

その幼なじみは、逡巡したあげく、知り合いを通じて、自分の連絡先を教えることにする。

で、教えてもらった連絡先にマツコが連絡をとって、晴れて再会したのである。

30年ぶりに会った幼なじみとは、まったく違和感なく話すことができた、という。

まるで、昨日の話の続きをするように、である。

マツコは、幼なじみとの再会を、素直に喜んだ。

いままで、自分はたった一人で、味方なんて誰もいない、と思って生きてきたけれど、幼なじみと会って、「自分はいままで、たんなる意固地だったのかも知れない。本当は自分の周りには、味方がいるのかも知れない」と思ったのだという。

その幼なじみは、海外赴任していて、日本に戻るのは年に1回程度。つまり、そうやたらに会えるわけではない。連絡をとるのも、ごくたまに、である。

だがめったに会えないものの、そうやって海外で、幼なじみががんばっているというのを考えただけで、自分も頑張ろうと思えるのだ、と、マツコは述懐した。

「ね?キモチワルイ話でしょう?」

最後にマツコが自虐的におどけて言った。

たしかにマツコは、そういうことを言うようなキャラクターではない。もっと世間にケンカを売るような発言のほうが、本来はふさわしい。そのマツコが、しんみりとこういう話をすることは、ふだんのキャラクターからすれば、ちょっと「キモチワルイ」のである。

だが、40歳を過ぎたおじさんにとっては、こうした心境の変化を、隠すことなく話せるというのは、実になんというか、共感できるのだ。

しかし私がそれ以上に、この番組をすごいと思うのは、この話を聞いている、有吉の受け答えである。

有吉は、マツコのこの「キモチワルイ話」を、決して茶化すことなく、真剣に聞いているのである。

ふつうだったら、「あんたのキャラクターじゃないよ!」とか何とか言って、笑いに変えるのだろうが、有吉は、ひたすら、マツコの話を聞き、ときに共感するのである。

些細なことだが、そこが、この番組のすごいところだと思う。

マツコがこの番組でよく見せる「ダメな部分」「弱い部分」を、茶化すことなく有吉が聞く、というところが、この番組の真骨頂だと、私は思うのだ。

だから見ていて、心地いいのだ。

ここで私は知るのである。

友人の話は、茶化すことなく聞くのが大事なのだ、と。

| | コメント (0)

燃え尽き症候群

先週の苛酷な仕事がひとまず一段落して、いまは完全な「燃え尽き症候群」である。

何もやる気が起きず、ボーッとして一日を過ごしている。

坂本龍一の音楽ばかり聴いている。

とくに坂本龍一のCM音楽である。

CM音楽は、職業音楽家としての坂本龍一の手腕が遺憾なく発揮されていて、聴いていて実に心地よいのだ。

何も書く気が起こらないので、私が好きなCM曲を2つほど。

この2曲は、坂本龍一の音楽を代表する名曲だと、個人的には思う。

サントリーオールドのこのCM曲は、のちに「Dear.Liz」というタイトルで、坂本龍一のライブなどで演奏されることになる。

「リゲイン」のCMで火がついた坂本龍一の「energy flow(エナジーフロー)」という曲がバカ売れし、インストゥルメンタルのシングルとしては初めて、週間のオリコンチャート1位を記録したことがあったが、同じ時期に作られた「Yamazaki」のほうがいい曲なのに、なぜこちらは売れなかったのだろう、あの曲が売れるんだったら、この曲が売れてもおかしくないのに、と、たしか坂本龍一がどこかで語っていたことを思い出す。

私もまったく同じことを思った。「energy flow」よりも明らかに、こっちの方が名曲である。

たまたまのめぐり合わせで、「energy flow」が万人に評価されたにすぎないのだ。

そう考えると、本当の名曲というのは、万人の評価のかげで埋もれているということが、ざらにあるのだ。

研究だってそうですぜ。

| | コメント (2)

最も苛酷な3泊4日 ~雨のち晴れ~

10月15日(水)

朝10時、韓国のお客様6人をホテルまでお迎えにあがって、今日は1日、東京観光にご案内する。

朝から、あいにくの雨である。

どうしてこう、オモテにお連れする日に限って、雨が降るのか。まったく、私の日ごろの行いが悪いとしか思えない。

それに、一昨日のように、VIPと1日中、相合い傘では、VIPにも申し訳ないと思い、傘を買ってお渡しすることにした。

1時間半かけて、上野に到着。

ここで1時間ほど自由時間をとり、自由に見学していただくことにしたのだが、VIPが私におっしゃった。

「『○○○』という本を、手に入れたいのだが」

『○○○』というのは、日本の本である。昨日のレセプションの時に、どなたかに薦められた本らしい。

上野公園では、さすがにその本は売っていない。

「わかりました。何とか探してみます」と私。VIPは、私に書籍代を渡した。

さっそく、東京駅前の丸善に電話で聞いてみたところ、「在庫があります」という。

私は急いで、上野公園から、東京駅に向かい、丸善で、その本を購入した。

ふたたび上野公園に戻り、集合場所で、その本をVIPにお渡しした。

「おお!あったのか!ありがとう。こんどメシでもごちそうしないとな」

上野で昼食をすませたあと、午後は浅草に向かうことにした。

するとこんどは、随行員の方が

「昨日、『×××』という本を紹介されたので、手に入れたいのですが」

「わかりました。何とか探してみます」

浅草で、自由時間を1時間ほどとって、見学していただいている間、私は浅草じゅうの本屋を駆けまわり、運がいいことに、その本を見つけたのだった。

集合場所の雷門で、その本をその方にお渡しした。

「私のためにわざわざ買ってきてくださったんですか?ありがとうございます」

雨の中、東京観光は、いろいろとミスがあったが、無事に終わり、また1時間半ほどかけて、ホテルに戻った。

今日は、日本での最後の夜である。

VIPが、「鍋が食べたい」とおっしゃったので、ホテル近くの海鮮居酒屋で、海鮮鍋を食べながら、お酒を飲むことになった。

3日間もずーっと一緒にいたので、もう話題も尽きてきたのだが、VIPが、おもむろにおっしゃった。

「この間、いろいろとお骨折りしてくれた3人に、挨拶をしてもらおう」

突然のご指名である。

私は韓国語で、簡単なお礼の言葉を述べた。

同僚2人も、もちろん韓国語で同様に感謝の言葉を述べた。

すると、VIPがおっしゃった。

「君たちのいまの挨拶が、本当の開幕の挨拶だ」

私はそのお言葉に、ちょっとうるっときた。

和やかな雰囲気で1次会が終わり、例によって2次会である。

さすがにVIPはお疲れのご様子で、10時過ぎにホテルにお戻りになった。

残ったのは、私たち3人と、VIPの随行員の方おひとりの、計4人である。

私も、さすがに疲れたので、先に失礼することにし、10時40分頃に店を出て家に戻った。

10月16日(木)

昨日の雨はあがっていた。

いよいよ、VIPの帰国の日である。

出発は午前10時半だが、少し早めにホテルに到着すると、ロビーで同僚がグッタリしていた。

「どうしたんです?」

と聞くと、

「あのあと、深夜3時まで飲んでいたんです。で、結局家に帰れずに、ホテルに泊まることに…」

「そうだったんですか…」

なんと、私が帰ったあとも、若い随行員の方と、2次会が続いていたらしい。

午前10時半にホテルを出発し、11時半に空港に着いた。

チェックインの手続きを終え、いよいよお別れである。

「お疲れさん」とVIP。

「ありがとうございました」

VIPや随行員の方々と固い握手をして、お別れした。

「お疲れさまでした」

「無事終わってよかったです」

「本当によかったです」

午前11時半すぎ。私たちの疲労は極限に達し、言葉少なに、空港で解散した。(完)

| | コメント (0)

最も苛酷な3泊4日 ~1枚の色紙~

10月14日(火)

この日は朝から開幕式のため目のまわるような忙しさで、職場の自分の仕事部屋に立ち寄る時間すらなかった。

開幕式が終わった夕方、少しだけ時間ができたので、職場のメールボックスをのぞいてみると、私宛てに、速達の封筒が届いていた。「前の職場」からである。

(何だろう?)

封筒を開けてみると、1枚の色紙が入っていた。

(……?)

同封されていた書面によれば、18日(土)、つまり今週の土曜日に、震災の起こった年(2011年)に卒業式ができなかった卒業生たちのために、「前の職場」が卒業式をあらためておこなうのだという。

それじたい、初耳である。

ついては、その「卒業式」に参加する卒業生に色紙を渡したいので、指導教員である私に、その学生に対するメッセージを書いて、送り返してほしい、というのである。

色紙を見ると、色紙の上半分に、私の指導学生であるA君の名前と、部長先生のメッセージが印刷されたシールがデカデカと貼ってある。

どうやら、A君に渡す色紙、ということらしい。私のメッセージは、部長先生のメッセージが貼ってあるシールの下の余白部分に書け、ということらしい。

締切を見て、驚いた。

「10月16日(木)必着でお願いします」

えええええぇぇぇぇぇ!!

いまは14日の夕方である。

前日の13日は、3連休の休日だったので、この封書が届いたのは、今日、すなわち14日であることは間違いない。

それを、16日に届くように送り返すには、遅くとも明日(15日)の早い時間までに、メッセージを書いて投函しなければならない。

どういうこっちゃ???

しかも、である。

私がその年度に指導した学生は、A君だけではない。5,6人はいたはずである。

ほかの人たちに渡す色紙は、ないのだろうか???

状況がまったく飲み込めないのだ。

あらためて考え直してみるに、おそらくA君だけが、18日の「卒業式」に出席するので、当日の出席者にだけ色紙を渡すということなのだろう。

じゃあ、「卒業式」に出席できなかった人たちには、どうするのだろう?

それにしても、である。

何の前触れもなく、いきなり色紙が送りつけられ、「ここにメッセージを書いて、至急送り返してくれ」とは、ずいぶん乱暴な話である。

ふつうならば、事前に説明があり、何日も前に色紙が送られてきてしかるべしである。

とくに職場を離れてしまった私には、まったく状況が飲み込めないのだ。

へそ曲がりの私は、考えた。

はは~ん、さては、思いつきだな、と。

直前になって、「色紙を渡す」なんてことを思いついちゃって、それで、こんなギリギリになって送られてきたんだろうな。

震災の年の2011年3月、卒業式はおこなわれなかった。

それを、あらためておこなう、ということは、とてもすばらしいことだと思う。

本来ならば、この趣旨に手放しで賛同すべきであろう。

色紙を渡すことも、いいアイデアだと思う(ただし、指導教員からのメッセージが、うれしいものかどうかは別である)。

だが私は、どこか解せないところがあった。

なんとなく、上から強制されているような気がしたのだ。

私は、上から強制されることが、なによりも嫌いなのである。

しかも、この日は、朝から忙しくて、気持ちにまったく余裕がない。

このあともすぐに、レセプションが待っていて、何時に終わるかわからない。

そもそも、この日私が、メールボックスに入っていた速達の封筒に気づかなかったら、どうするつもりだったのだろう?

とりあえず私は、色紙と返信用封筒を鞄の中に入れ、職場を出て、レセプション会場に向かった。

この日、深夜2時まで、韓国のお客様におつきあいし、ホテルに泊まったというのは、先に書いたとおりである。

色紙にメッセージを書く時間は、まったくなかったのである。

翌朝、早めに起きて、ホテルの部屋でメッセージを書いた。

だがあまりに疲れていて、気のきいた言葉が思い浮かばない。

私は、心に余裕がない、といういまの気持ちをありのままに、A君にメッセージを書いた。

A君の代の卒業生たちとは、卒業式は行われなかったものの、卒業旅行として一緒に温泉に行ったし、卒業して1年後も、みんなで温泉に行った。

その意味では、すでに十分すぎる思い出が、私の中にも、おそらく彼らの中にも、あっただろう。

だからいまさら、「卒業おめでとう」というのも、気恥ずかしい。

それに、もしそのメッセージを言うならば、A君だけでなく、すべての卒業生に言うべきであろう。

へそ曲がりの私は、そんな気持ちを、隠すことなく、A君宛ての色紙に書いたのである。

およそ、卒業祝いのメッセージとはほど遠いものになってしまった。

A君、怒るかなあ。

まあ、私がへそ曲がりの人間だということは、A君もわかっているだろうから、笑って許してくれるだろう。

書き終わって、急いでポストに投函したが、間に合ったのかどうかは、定かではない。(続く)

〔訂正〕

上の記事で、「卒業式」で色紙を渡すのは、直前に思いついたのではないか、と書きましたが、A君が出席の申し込みをだいぶ遅れてから出したために、私のところに色紙が送られてきたのもギリギリになったようです。お詫びして訂正いたします。

| | コメント (0)

最も苛酷な3泊4日 ~開かない幕はない~

10月14日(火)

開幕式当日。

朝10時にVIPの宿泊するホテルまでお迎えにあがり、タクシーで20分ほどかけて職場に着く。

VIPたちが社長室を表敬訪問し、社長と30分ほど歓談する。

その後、展示を見ていただき、昼食をお召し上がりいただいたあと、午後からいよいよ開幕式である。

講堂でおこなわれた開幕式には多くの人たちが集まり、3人のVIPがご挨拶された。

無事、開幕式が終わり、次に招待客を展示場まで案内して、展示の解説をしなければならないのだが、私ともうひとりの同僚は、VIPのおひとかたと、今後についての打ち合わせをした。

夕方、打ち合わせが終わり、ふたたびタクシーでホテルに戻る。

今日はこのホテルで、レセプションがあるのだ。

レセプションは2部形式になっていて、第1部は多くの人を招待した立食形式。第2部は、円卓に座ってこぢんまりとした雰囲気でおこなわれる。

第1部は立食だったので、入れ替わり立ち替わり、お客様とお話ししたいという人がやってきて、そのたびに、通訳をしなければならなかった。

第2部は、お客様6人が2人ずつ、3つの円卓に分かれ、1つのテーブルにそれぞれ通訳者が張り付く。1つのテーブルに、7名が座ることになっている。

ここでもまたプレッシャーだったが、話題が途切れないよう、必死に通訳した。

9時半にレセプションが終わり、2次会、3次会とおともすることになった。

結局、深夜2時までおつきあいした。

この日は私が宿直当番だったので、ホテルに宿泊した。

まったく気を抜くことのできない1日だった。

翌日は、朝からVIPたちを東京観光にご案内しなければならない。(続く)

| | コメント (0)

最も苛酷な3泊4日 ~VIPと相合い傘~

10月15日(水)、いよいよ展覧会が開幕した。

ここまで至るのに、筆舌に尽くしがたい道のりがあったが、そんなことを書いたところで、他人にとってはどうということはないのだろう。

13日(月)から3泊4日で、このたびの展覧会に全面的にご協力いただいた韓国のVIP3名、随行員3名の計6名が、14日(火)の開幕式に合わせておいでになることになった。

私の仕事は、ほかの同僚2人と一緒に、この6名のお客様のアテンドをすることである。

13日(土)のお昼に空港に到着されたお客様をお迎えするところから、16日(木)のお昼に空港から出発されるのをお見送りするまで、気を抜くことなく、ずーっとアテンドしなければならない。

それが、私に課された仕事である。

13日は、あいにく台風の影響で、雨が降っていた。

お昼、6名のうちの4名が空港に到着することになっていた。私ともう1人の同僚が、お客様を空港でお迎えして、夕方の懇親会までの間、車で移動して、ある美術館にご案内することになった。

しかし、あっという間に展示を見終わってしまった。

時計を見たら、まだ3時にもなっていない。

(困ったな…)

すっかり目論見がはずれてしまった。これでは間がもたないではないか。

「どこか行きたいところはございませんか?」

と、VIPにうかがったところ、

「そうねえ。初秋の雰囲気が感じられる、風情のあるところがいい」

「……」

私は困ってしまった。かなり漠然としたご希望である。

するとVIPが続けた。

「たとえば、古いお寺とか」

古いお寺、と聞いて、空港の近くに古くて大きなお寺があることを思いだし、ふたたび車に乗って、空港近くのお寺に向かった。

だが外は大雨である。雨の中でVIPを歩かせるのはしのびなかったが、ほかの選択肢がなかったのだから仕方がない。

車を降りて、傘をさして歩くことにした。

だがここで驚くべきことが。

VIPは、傘を持っていないのである。

台風が来ていることはわかっているはずなのだが、にもかかわらず、傘をお持ちになっていないのだ。理由は「重いから」だという。

なるほど、VIPは、傘を持たないのか。

VIPと相合い傘をしながら、お寺をご案内することになった。

雨で足もとも悪いし、さぞ不快だろうと思いきや、そんなことは全然なかった。さきほどの美術館よりも反応がよかった。おそらく、お寺の古い建物が、VIPの関心を呼んだのだろう。

(よかった。これで間がもったぞ)

夕方5時過ぎ、車でホテルに向かい、チェックインのお手伝いをしたあと、夜7時からはホテルの近くのお店で、お客様を囲んで20人ほどの懇親会である。

お昼においでにならなかった2名のお客様も、夕方の飛行機で空港に到着し、ここで合流した。

テーブルは4つに分かれているので、それぞれのテーブルに通訳がはりつく。

1つのテーブルを任されるのはプレッシャーだったが、お客様が退屈しないよう、必死に話題をつないでいった。

夜9時半すぎに。懇親会が終了。

お客様が「2次会に行こう」と言われる可能性も想定していたが、みなさんそのままホテルに戻られた。

「今日は、2次会ないみたいですね」

「そうですね」

2次会がないことを同僚と確認した。

VIP担当の3人は、お客様が3泊している間、同じホテルに、それぞれ1泊することになっていた。宿直のようなものである。この日は、同僚のうちの1人がホテルに泊まり、翌日が、私の宿直の日であった。

初日が終わり、ホッとして帰途についた。

明日は、開幕式とレセプション。いよいよ本番である。(続く)

| | コメント (0)

助監督Cから、最後のお願い

10月11日(土)

先日、こぶぎさんがくれたコメントの「オチ」の部分を、諸般の事情によりこちらで勝手に書き換えたら、

「それぢゃオチないぞ!まるで最初から面白くないコントを書いていたみたいじゃないか!」

との抗議がきて、その顛末を、自身のブログで詳しく書いておられる。

たしかに、コメントを勝手に編集したのは申し訳なかったなあ、と思い、お詫びのしるしに、いままでこのブログの中で曖昧な表現で書いていたことをひとつだけ、明らかにすることにする。

ここ最近、私は「イベント準備で忙しい」と書いてきたが、その「イベント」というのは、「展覧会」のことである!

…え?みんな知ってた?

来週水曜日、15日から、いよいよスタートする。

今週はその準備に追われていたのである。

大規模な展覧会の実施に関わる、という経験は、まったくの初めてなのだが、経験してみて、わかったことがある。

それは、展覧会の準備というのは、映画製作とか、舞台公演とよく似ているのではないか、と。

…といっても、映画製作にも舞台公演にも関わったことがないので、想像で言っているにすぎないのだが。

企画をして、脚本を書いて、キャストを決めて、演出をして、公開する。

展覧会は、まさにこの一連の流れによって成立する。

そして、美術さん、大道具さん、小道具さん、照明さんなど、じつに多くの「職人さん」もかかわっている。彼らが、監督の指示のもと、展示を具体化していく。

まさに、映画のスタッフと同じである。

しかも、「完璧」をめざそうとすると、実に細部にわたって、地味な作業が必要となる。

映画でいえば、「構図」とか「ライティング」とかいったものである。

「1センチ左」とか、「1ルクス下」といった、微妙な調整を、すべての展示品についておこなう。

見せ方ひとつひとつに、細部までこだわる。

それでいて、展示品ひとつひとつの健康状態に、常に配慮しなければならない。

私が好きな「神は細部に宿る」の言葉通り、細部にまでひとつひとつ想いを込めれば、その展示に、生命が吹き込まれるのではないか。

…と、エラそうなことを書いているが、「じゃあお前は、映画製作でいえば、どんな役割を果たしたんだ?」というと、

「助監督C」

くらいの立場で、この展覧会にかかわった。

新米助監督である。

助監督なので、監督を補佐して、さまざまな仕事をおこなった。

脚本をお手伝いしたり、3週間ほどかけて、キャストを集めたり、協力会社の方々と、接待のために深酒をしたり…。

今週はずっと、朝から晩まで、展示場にはりついて、監督と一緒に準備をしていた。

そして夜8時半、ようやく、展示が完成した!

この1週間、忍耐勝負の仕事で、監督も私も、意識朦朧で、クタクタである。

これだけ苦労しても、なかなか、この苦労は、わかってもらえないのだろうな。

…ということで、助監督Cから、最後のお願いです。

もしお時間があれば、10月15日から12月14日まで開催される展覧会に、ぜひお立ち寄りください。

「難解な内容だ」との批判は、甘んじて受けます。

お時間が合えば、私がご案内します。

もし見に来ていただければ、嬉しくて涙が出ます。

それでは、お元気で、ごきげんよう。

| | コメント (0)

動機の鑑定

テレビドラマ「古畑任三郎」第2シリーズ「動機の鑑定」。

Pic_s古美術商を営む春峯堂主人(澤村藤十郎)は、美術館の館長(角野卓造)と組んで、美術館が持つ「慶長の壷」を自らの鑑定でむりやり国宝に仕立てあげるが、その壺は、陶芸家・川北百漢が春峯堂主人のこれまでの悪事を告発するために作った贋作の壺だった。このことが世間に公表されることを恐れた春峯堂主人と館長は、川北百漢を殺害し、さらに春峯堂主人は、弱気になり自首を切り出した館長を、「慶長の壺」で、撲殺するのである。

このとき、凶器として使われた「慶長の壺」は、本物の壺だったのか?贋作の壺だったのか?

館長殺害当時、犯行現場には、本物の壺と贋作の壺が並んでいた。

春峯堂主人はあろうことか、国宝級の本物の壺で、館長を撲殺したのである。

かくして国宝級の「壺」は、凶器に使われることによりその生命を失い、贋作だけが、この世に残ることになった。

見紛うばかりの、2つの壺。本物の壺と、贋作の壺。

春峯堂主人は、館長を撲殺するためにとっさに壺を手に取ったとき、本物と贋作を見間違えたのだろうか?

そうではなかった。

自供した春峯堂主人が、古畑に最後に言ったセリフが、印象的である。

「古畑さん、あなたひとつ間違いを犯してますよ。あの時私には分かってました・・・どっちが本物か。知っていて、あえて本物で殴ったんです。要は何が大事で何が大事でないかということです。

なるほど、慶長の壷には確かに歴史があります。しかし裏を返せばただの古い壷です。それにひきかえて、いまひとつは現代最高の陶芸家が焼いた壺です。私1人を陥れるために、私1人のために、川北百漢はあの壺を焼いたんです。それを考えれば、どちらを犠牲にするかは・・・

物の価値というのはそういうものなんですよ、古畑さん」

不特定多数の人たちが評価するモノだけが、価値のあるものとは限らない。

自分ひとりのために作られたものが、その人にとって価値のあるものなのである。

それはモノだけでなく、文章でも同じである。

書くのに費やした時間もまた、その価値に含まれる。

| | コメント (1)

戦場の愚鈍者

10月8日(水)

朝から晩まで、来週からはじまるイベントのための作業が続く。

思ったより難航しており、はたしてどうなるか…。

その間にも、いろいろな仕事がふってきたり、いろいろな注文がついたりする。

「こっちは超人じゃねえんだから、そう何でもかんでもできると思うなよ!」

と言いたくなるところだが、ふつうの人だったら、これくらいこなせるのかも知れない、と思い直す。たぶん、自分が愚鈍なのだろう。

「言うは易く行うは難し」

の言葉を実感する今週である。

| | コメント (0)

今世紀最大の二日酔い

相変わらず「甲斐がない」ことばかりしているが、性分なのだから仕方がない。

10月6日(月)~7日(火)

いよいよ職場のイベントの開始を来週にひかえ、私の身のまわりは臨戦態勢になった。

いわば戦場である。

夕方5時過ぎ、朝から続いた仕事をひとまず切り上げ、今回のイベントの準備のため来日した、韓国からのお客さん4人をアテンドするため、職場の近くの台湾料理屋に行く。

飲み放題コースだったのと、4人がとてもいい人たちだったので、…そうなると私は、調子に乗るのである…ガンガン飲み始めた。

焼酎のストレートをガンガン飲んだのがいけなかった。

2次会の途中から、まったく記憶がない。

翌日の早朝、気がつくとホテルにいた。

一緒に飲んでいた同僚が、「こいつ、このまま家には帰れそうにないな」と思ったのだろう。職場の近くのホテルに、私を放り込んだのである。

とにかく、頭がガンガンする。

胃の中のものも、全部外に出してしまった。

極度の二日酔いである!

朝7時過ぎ、ホテルのベッドの上でのたうち回っていると、携帯電話が鳴った。

「いまホテルまで来たんだけど、何号室?」

なんと、妻からの電話である。

これもあまり記憶にないんだが、昨晩、ホテルに着いたあと、妻に電話したらしい。

妻は、「ホテルに泊まるんだったら、着替えが必要だろう」と、なんとわざわざ、自宅から片道1時間半かけて、私が泊まっているホテルにやってきたのである。

ということは、逆算すると、朝5時に起きて、自分の職場とは正反対の方向にある、私の職場近くのホテルまで来てくれたことになる。

妻は、着替えと、二日酔いに効くドリンク剤、そして水を持ってきてくれた。

考えてもみたまえ。

たとえばあなたの夫が、大事なお客さんをアテンドするつもりが、自らが酔いつぶれて、自力で家に帰れなくなって同僚の助けを借りてホテルに泊まり、翌朝9時から会議があるというのに、極度の二日酔いで頭がガンガンしていたとする。

…ここまで書いただけでも、私が「サイテーのダメ人間」ということがわかるだろう。

そんなサイテーのダメな夫に対して、早朝5時に起きて、1時間半かけてホテルまで着替えを持ってくるなんて妻が、いるだろうか?

で、妻はそのあと、ふつうに出勤。

…え?あなたも当然そうするって?

もしそうだとしたら、これを「一生頭が上がらない」と言わずして、何と言おう。

おかげで、頭がガンガンしながらも、朝9時からの会議に支障なく出席できた。

2時間半の会議が終わったあと、午後は都内で会議である。

電車を乗り継いで1時間半かけて、都内の会議に出席した。

会議で責を果たしたあと、夕方ふたたび職場に戻り、少し仕事をして、家に戻った。

…ということで、今日は「戦場」から離れ、「会議な日」であった。

それにしても、イベントの準備もまだ始まったばかりだというのに、こんなに酔いつぶれてしまっては、周りの同僚たちにも、なんとも申し訳がない。大反省である。

| | コメント (0)

HKS総選挙

「どうもマウンテンが頭一つ出ているんじゃないか、って思うんですけどねえ」

「たしかにイベントに行くなど貢献していましたね。でも本命はむかしからアイランドでしょう?メンバーの中では古参だし、見た目も悪くない。下馬評でもそうですよ」

「そうなんですけど、ふだんの様子を見ていると、意外とマウンテンなんじゃないか、と。何より、アイランドは性格が悪い(笑)」

「たしかに(笑)。あの人の悪さ、何とかなりませんかね。一方、マウンテンはよく話題にも出ているし、「ちゃん」づけで呼ばれてますしね。似たような感じで、ビレッジはどうです?」

「ビレッジはまだ入って間もないでしょう」

「でももうすっかりなじんでいるみたいですよ」

「それにちょっと若い」

「見た目は老けているけどね。じゃあヒルズはどうです?」

「ヒルズだとかなりイケメンすぎてちょっと生々しすぎませんか」

「たしかにそうですね。メンバーの中では、ヒルズかアイランドが見た目としては無難だと思うんですがね」

「どう感じるかは人によりけりですよ。スターはどうです?」

「スターは年をとりすぎてますよ。それにムードメーカーにすぎません」

「そうですよね。位置的には準レギュラーっていう感じだし。そうするとやっぱりマウンテンあたりが優勢だと思えてならないんですがね」

「私はまだ、アイランドの線を捨て切れていませんけどね」

「やはり両者が有力なようですな」

| | コメント (0)

休日出勤、でした

10月5日(日)

俺のすることには「甲斐がない」と嘆く日々。

台風接近で暴風雨の中、今日は、10月15日から2カ月間にわたっておこなわれる職場の大々的なイベントの準備のために、休日出勤する。

「最も苛酷な9月」も、このイベントのための仕事である。

開催まであと10日だが、膨大な量の校正が終わらず、いよいよ切羽詰まってきた。夜遅くまでかかったが、まだ終わらない。

明日からは、いよいよラストスパートである。

地味なイベントだし、知り合いはみな忙しいし、職場は遠いところにあるし、おそらく、見に来てくれる人はほとんどいないんだろうな…。舞台裏ではすげえがんばってんだけど。

そんななか、2週間ほど前、数年前の卒業生のMさんから、メールが来た。

このイベントを、Iさんと一緒に見に来てくれるとのことで、さっそく日程調整をしてくれた。

MさんとIさんは、見に来るのを楽しみにしているのだという。

嬉しくて涙が出そうになった。

少なくともこの二人のために、このイベントを成功させよう。

この二人が、来てよかったと思ってもらえるイベントにしよう。

それこそ、「甲斐がある」というものである。

| | コメント (0)

甲斐がない

10月5日(日)

「三千世界の松の木が枯れても おまえさんと添わなきゃ 娑婆へ出た甲斐がない」

これは、映画「男はつらいよ」に出てくる、寅次郎の啖呵売の一節。

もともとは、「越中おわら節」の一節である。

「娑婆へ出た甲斐がない」というフレーズが好きである。

私のやることなすことは、たいてい「甲斐がない」ことばかり。

このブログは独り言だから別として、たとえばよくあることだが、よかれと思って練りに練って長い文章を書いたとしても、甲斐がないことが多い。そもそも文章とは、読み手が自身の都合に合わせて読むものだから、当然といえば当然である。

よかれと思っておこなったことも、甲斐がないことが多い。

いっそ、甲斐がないことはしない、に越したことはないのだが、甲斐がないとわかっていても、し続けてしまうのが、私の性分だったりもする。

「三千世界の松の木が枯れても」、である。

|

肉声

高校時代の部活の友人、Bが自殺したのは、大学4年の時のことである。

その日、僕は福井県にいた。大学のゼミ合宿が終わり、ゼミの友達に、「もう少しこのあたりを観光してから帰ろう」と誘われたのだが、ひどく疲れてしまい、その日の新幹線で東京に帰ることにしたのである。そうしたら帰宅した晩、Bの訃報を電話で知らされたのであった。

「詳しくはわからないけど、自殺したそうです」

と、後輩が電話で伝えてくれた。

僕はすぐに、やはり高校時代の部活の友人であったKに電話した。

Kはこの日、岡山にいて、やはり先ほど、東京の家に戻ったのだという。よくよく聞いてみると、どうやら僕とKは、同じ新幹線に乗って、東京に戻ってきたらしい。

「不思議な感じだよな。Bが呼んだのかもしれないな」

ふだん、迷信を信じない僕も、そのときばかりはそう思った。

高校時代の吹奏楽部で、BとKと僕には、ある共通点があった。

それは、3人とも、高校に入って初めて楽器をはじめた、ということである。

同期のほとんどは、中学時代から吹奏楽をやっていた「経験者」ばかりだった。高校に入ってから吹奏楽をはじめた「初心者」は、この3人だけだった。

最初は、楽器の音を出すことさえままならなかった3人。ほかの人たちにくらべてはるかにおくれをとっていた3人は、いつしか、自然と仲よくなった。

僕とKは、ちゃらんぽらんな人間だったが、Bは、恐ろしいほど「真面目」で「堅物」だった。滑稽なほど、「真面目」だった。

高校2年になって、Bが指揮者になった。

自分で立候補したのか、ほかの人に推薦されたのかは、覚えていないが、たぶん自分で立候補したのではないかと思う。そもそも、「吹奏楽初心者」が指揮者をする、というのは、かなり勇気がいる。「高校から吹奏楽をはじめたお前に何がわかる」という目で見られることも、なくはないので、あまり例のないことなのだ。

彼のくそまじめな指揮は、時に笑いを誘ったが、彼の指揮に不満を持つ者は、ほとんどいなかった。誰よりも真面目に、「スコア」を研究していたことを、みんな知っていたからである。

高校卒業後、3人はそろって1浪し、僕は都内の大学へ、BとKは、地元の近くの国立大学に入学した。

大学3年の時、高校のOBで吹奏楽団を立ち上げた。そこで3人は再会し、Bはふたたび、楽団の指揮者になった。

大学4年になり、Bは国家公務員をめざし、Kは民間企業の就職活動をし、僕は大学院進学を考えた。お互い、自分たちのことが忙しくなり、会う機会も少なくなった。

就職活動に忙しくなる前のことだったか、Bとお酒を飲んだことがある。

彼はいっぷう変わったところもあったので、同期が集まる飲み会に参加することは稀だったが、めずらしくそのときは、彼も参加したのであった。

そこで彼は、めずらしくぐいぐいと日本酒を飲み、恋愛の悩みを、僕に語っていた。

くそまじめで堅物なBが、そんな話をするのは、意外だった。

いま思えば、真面目だろうと堅物だろうと、そういう悩みは誰しももつ、ということは、重々わかっているのだが、そのときは、

「へえ、お前みたいな真面目なやつでも、恋の悩みなんてものがあるのか」

と、ただただ驚いたのだった。

Bが自ら命を絶ったのは、それからしばらくたった、その年の7月末のことであった。

最初、進路のことで悩んでいたのだろうか、と思った。だがあとで聞くと、彼は国家公務員の試験に合格していたという。

遺書などは残されておらず、彼がなぜ、死を選んだのか、誰にもわからなかった。

なんて馬鹿なことをしたんだ、と思った。

卒業後の進路も決まって、これからの将来は約束されたようなものじゃないか、と。

あるいはその理屈は、残された者の勝手な言い分なのだろうか?

彼には、僕などにはわからない、深い心の闇があったのだろうか?

考えてみれば僕は、彼について、何も知らなかったのだ。

お酒を飲みながら、恋の悩みを聞いた、あのときだけが唯一、彼の内面をかいま見た瞬間だったのかも知れない、と。

彼にとって、この世の中は、生きにくい世の中だったのだろうか?

もし「真面目」で「堅物」な彼が生きにくい世の中だったのだとしたら、いったいこの世の中は、誰のためにあるのだろう?

後日、友人と一緒に彼の家を訪れた。

彼のお母さんと、初めてお会いして、お話をうかがった。

お母さんは、「その日」の出来事を、淡々と、僕たちに語ってくれた。

お母さんにとっても、息子がなぜ死を選んだのか、わからないようだった。

僕たちに語りながら、「その日」のことを、何度も思い返しては、思いあたることを探しているようにも思えた。

「いちど、息子のお墓に行ってやってください。ちょっと遠いんですけど、鎌倉にあるんです」

1年後の命日に近い日、僕は友人のKと一緒に、鎌倉に行った。

駅からバスに乗り、終点で降りて、小高い丘に登る。

見晴らしのよい場所に、彼のお墓があった。

家に帰ってから、久しぶりにカセットテープを聴いてみた。

高校2年の春休みに行われた、定期演奏会の時のテープである。

このときの演奏会は僕にとって最も思い出に残るもので、僕は感慨深く、その演奏を聴いた。

演奏会が終わり、会場が拍手で包まれた。

テープを止めずに、しばらく聴いていると、拍手の音に混じって

「ありがとうございました」

と、観客へ向かって感謝の言葉を叫ぶ声が聞こえた。

指揮をしていた彼の声である。

ふつう、指揮者は、演奏会が終わって、会場が拍手に包まれても、お客さんに向かって

「ありがとうございました」

と声を出すことはない。黙って礼をするのが、礼儀なのである。

だが彼は、感情を抑えきれずに、

「ありがとうございました」

と大声で、客席に向かって叫んでしまったのである。

(馬鹿だなあ、客席に向かって「ありがとうございました」だなんて…)

でもそれが、この世に残された、彼の唯一の「肉声」だったことに、僕はそのとき、気づいたのだった。

| | コメント (0)

最も苛酷な10月のはじまり

10月2日(木)

最も苛酷な9月」を、何とか乗り越えた。

少なくとも与えられた仕事に関しては、穴を開けることはなかった。

私にとってこの1カ月は想像を絶する旅だったが、たぶん誰も、この苛酷さは理解してくれないだろう。

旅と並行して、「ものづくり」もおこなった。

これもなんとか完成。

「こんな(大変な)仕事は、わが社でも初めてです」

と、職人さんをかかえる業者の営業担当の人が言っていた。

このときの苦労も、私と職人さんにしかわからないことだろう。

苦労話を書き始めると、自慢話になってしまうので、やめることにする。

さて、ここまでは、ほんの序の口。「最も苛酷な9月」は、たんなる序章にすぎない。

ここからがいよいよ「最も苛酷な10月」のはじまりである。

| | コメント (3)

北へ

10月1日(水)

気がついたらもう10月。

3週間ぶりに、職場に出勤する。

といっても、夕方からまた、北のほうへ出張なのだ。

矢継ぎ早に仕事がふってくる。

「忙しいのは重々承知なのだが…」と、上司から、また新しい仕事を言い渡された。

もうこうなったら、「矢でも鉄砲でも持ってこい」といった心境である。

久しぶりに事務室に顔を出したら、いろいろな人に「出張お疲れさまでした。大変だったでしょう。お身体は大丈夫ですか」といわれた。

小さい職場なので、私が3週間、大移動の出張をしていることを、みんな知っているのだ。

そういってくれる人たちがいるだけで、がんばろう、と思えるから不思議である。

とくに応援してくれているのは、事務補佐員の方々である。

私はまだこの職場に来て間もないし、どんな人間かもわからないはずなのに、気にかけてくれるというのはありがたいことである。

事務補佐員の方が仕事部屋にやってきた。

「今日このあと、北のほうへ出張なんですよね」

「ええ」

「これ、もらい物の梨なんですけど、出張の前にこれを食べて元気をつけてください」

ほんの少しだったが、梨をいただいた。

「ありがとうございます」

ありがたくって、涙が出るね。応援してくれる人がいる、というのは嬉しいものである。

夕方、職場を出て、5時間以上かかって、北の町に到着した。

明日の仕事を終えれば、ひとまず、この長い旅が終わるのだ。

もうひとふんばり、がんばろう。

| | コメント (0)

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »