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2014年11月

矢野顕子が歌ったホールにて

11月30日(日)

朝から大雨である。

シンポジウム開始は午後1時からだったが、朝9時から会場となるホールで打ち合わせをおこなった。

(お客さんが来るかなあ…)

心配だったが、開始直前には雨がやみ、最終的には、約100名が集まった。

私の愚鈍な司会はさておき、天候の悪いなか、この地味なテーマで、しかも派手な宣伝を打ったわけではないのに、100名の参加者を得たことは、快挙というべきである。企画したTさんやSさんたちによる、地道で周到な準備が功を奏したことはいうまでもない。

多くの卒業生や学生が駆けつけてくれた。

とくに4年生のSさんとWさんは、卒論準備で忙しいにもかかわらず、会場整理のお手伝いをしてくれた。先週会った卒業生のIさんも、仕事を終えて駆けつけてくれた。

いろいろあったが、4時前にシンポジウムが終わり、手伝ってくれた4年生や卒業生を交えて、夕方から打ち上げをおこなった。私のわがままで、同窓会をさせてもらったのである。

最後まで残ったのは、卒業生の二人のT君。

最近の職場の話を聞いているうちに、

「まじめな人が報われず、自分を高く売ろうとする人だけが生き残る組織」

になりつつあることに、最後は暗澹たる気持ちになる。

だがそれでも、それぞれの持ち場でがんばっていかなければならない。

「じゃあまた」

といって二人と別れたのが、午前0時前。

7時間近く飲んでいたことになるのか。

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夜の校舎ノスタルジー

11月28日(金)

夕方、都内での会議が終わり、新幹線で「前の勤務地」に向かう。

明日のイベントで司会をするためである。

夜8時頃に着いた。

(晩ご飯を食べたいが、誰かつきあってくれる人いないかなあ…)

いろいろ思いあたる人をあげてみたが、突然に誘える人が誰一人いないことに気づいた。

いや、突然に誘ったとしても、みんな忙しくてそれどころではないだろう。

ということで、ホテルにチェックインした後、所在ないので、「前の職場」までブラブラと散歩することにした。

(ひょっとして、誰かまだ職場にいるかなあ…)

と思って行ったが、図書館で学生が勉強していたのみで、案の定、仕事部屋のあるフロアーは真っ暗である。

そりゃあそうだ。あの当時、夜遅くまで職場に残っていた私のほうが、どうかしていたのだ。

だが、遅くまで残らないと授業準備や原稿が終わらなかったのだから仕方がない。

みんなどうやって、仕事をこなしているんだろう?

(ここで11年間、過ごしたんだよなあ)

30代をまるまる過ごした。いちばん勉強した時期だったと思う。

そんな感慨に浸りながら、正門を出て、まわり道しながらホテルに戻ることにした。

道すがら、いろいろなことを思い出したりする。

こういうことってないですか?

そういえば、あれって、どうなったんだろう、ということ。

たとえば、私の仕事でいうと、

「こんど、企画物の本を出すので、分担執筆してください」

と依頼が来て、まじめに書いて出したのだが、もう何年も出版される気配がない。

あれって、どうなったんだろう?

…という感じのことである。

散歩していて、そんなことをいろいろと思い出した。

依頼されたことを試行錯誤してなんとか仕上げて、依頼主に送ってみたのだが、それがはたしてうまくいったのかどうか、その後の話を聞いていない。

あれって、どうなったんだろう?

逆のパターンもある。

あることを頼んで、

「まかしておいてください。こちらでいい感じにして仕上げます」

と言われ、

「いい感じに仕上げました」

という報告だけは受け取ったのだが、どんな感じに仕上げたのかはわからない。

あれって、どうなったんだろう?

こういうことこそ、「便りのないのはよい便り」と思い込むしかないのかも知れない。

…と、一人で歩きながら妙に納得した。

そんなことを考えているうちにホテルに戻った。

ゆっくり散歩したおかげで、こちらの冷え込んだ気候にも、少し慣れたようだ。

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眼福の調査団

11月27日(木)

午後、都内で、「眼福の先生」を囲んで、今後の調査についての打ち合わせがあった。

傘寿を迎えた先生のもとに、私と同世代の研究仲間が4人集まる。

これが、「眼福の先生」を団長とする調査団である。

3年ほど前に、私は初めて「眼福の先生」を職場にお招きした。「前の職場」である。

そのとき、あるものを調査していただき、その成果を講演していただいたことがきっかけで、先生の中に、火がついたらしい。

先生はこれまで以上に全国各地をまわり、私も何度か調査をご一緒した。

そしてついに、調査団が結成されたのである。

「不思議なことに、それまでは腰痛がひどくて、寝たり起きたりの生活だったのに、あれ以来、腰の調子もいい」

調査のために全国を行脚したり、その調査成果をまとめて原稿を書くようになって、健康になったというのである。

ここで私は知るのである。

好奇心こそが、健康の秘訣である、と。

それともうひとつ感じたことがある。

この調査団に参加している私と同世代の4人は、いずれも、「眼福の先生」のもとで勉強したいと思い、先生とともに調査を続けている。

それはひとえに、先生の学問や人柄に対する深い尊敬の念からきている。

もし、自分が傘寿を迎えたとしたら…。

自分のやりたいことに共鳴して、ついてきてくれる「若い衆」が、どれくらいいるだろうか。

そう考えると、4人の「若い衆」がついてきてくれるというのは、「眼福の先生」にとっても、幸福なことなのではないだろうか。

それが、「眼福の先生」の学問的好奇心をさらに増幅させ、生命の活力になっているのである。

会議室は午後2時から5時までおさえていて、「まさか打ち合わせに3時間はかからないだろう」と思っていたら、先生のお話しはとまらず、あっという間に5時になってしまった。

会議室を出た「眼福の先生」が言う。

「雰囲気のいい時間になりましたね」

これはつまり、「一杯やりましょうか」ということである。

だが残念なことに、私たちはこのあと別の用事が入っていたので、「今日は申し訳ありませんが、これで」と申し上げ、先生と一献を傾けることはできなかった。

先生は、まだお話し足りなかったようだ。

私たちはまだまだ、傘寿を迎えた先生から、学ばなければならない。

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「なぐり」は永遠のテーマである

11月25日(火)

今の職場では、いろいろな業者の人と仕事をすることが多い。いずれも、職人肌の人たちである。

昨日(23日)と一昨日(24日)は、うちの職場で一般の人々を対象とした体験イベントをおこなった。年に数回一緒に仕事をしている職人さんたちによる、「昔ながらの印刷技術」を体験するイベントである。

かなり手の込んだ印刷技術なので、最初に職人さんが、その印刷技術について一般参加者に説明してくれるのだが、これが実におもしろい。

何より、自分の仕事について、実に楽しそうに喋っているのだ。

昔ながらの印刷技術のことを、職人さん自身が誇りに思っている証拠である。それでいて、最新の印刷技術のことを決して悪く言わない。それぞれによさがあるという。決して驕り高ぶってはいないが、一方でその道30年の自信は揺らがない。

私が職人さんに憧れるのは、謙虚にかつ誇らしく、自分の仕事を楽しそうに語れるからだろう。

与えられた仕事を、職人になったつもりで取り組めば、どんな仕事も楽しくなるのではないか、とさえ思えてくる。

今日は今日で、別の職種の職人肌の業者と仕事をする。

「俺達のような仕事をしている人間にとっては、『なぐり(カナヅチ)』は永遠のテーマなんスよ」

職人肌のSさんが私に言った。

なにやら深そうな言葉だが、どういうことかわからない。

「どういうことですか?」と聞くと、

「なかなか自分に合う『なぐり』が見つからなくて、ずっと探し続けているということです」という。

「なるほど」

「今のところ、いま使ってるコレがいちばん使い心地がいいんですがね。でも、この先、もっといい『なぐり』に出会えるかも知れない。それを探し続けているんです」

そういうと、Sさんが使っている「なぐり」を持たせてくれた。

「軽すぎてもだめだし、重すぎてもだめです」

「なるほど」

まるでワインの味をきわめるが如くである。

「むかし、舞台美術をやっていたことがありましてね。そのときは、セットをバラす(壊す)ことが多かったから、大きめの「なぐり」を使っていたんです」

「なるほど、目的によって使う『なぐり』も違ってくるんですね」

「そうです。先輩のOさんなんかは、大きい『なぐり』と小さい『なぐり』の、二刀流ですよ」

まるで宮本武蔵の如くである。

そう言われてあらためて見ると、人によって使っている「なぐり」の種類が違うことに気づく。人それぞれ、使いやすさというものがあるのだろう。

「むかしは、親方に『釘を打ち込むときは3発で決めろ』とよくいわれたもんです」

まるで狙撃手(スナイパー)の如くである。

「なぐり」1つでも、奥が深いのだ。

「『なぐり』は永遠のテーマである」

いい言葉だ。

大言壮語で「上から目線」の説教くさい言葉なんかよりも、こういう言葉のほうがグッと来る。

こういう言葉ばかりを集めて、本にしたいくらいだ。

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言わずにおれるか

11月25日(火)

先日、2011年3月に卒業した学生が職場に来てくれたのだが、そのとき話題にのぼった「3年目の卒業式」のことが、気になって仕方がない。

私も、根に持つタイプなんでね。

このままでは事態が変わらないと思い、「前の職場」の部長と担当職員さんにメールを書くことにした。

「ご無沙汰しております。突然の不躾なメール、お許しください。

メールを差し上げたのは、先日おこなわれた、「3年目の卒業式」に関してでございます。

先日、2011年3月に卒業した卒業生3名と会う機会があり、先日の「卒業式」について話題になりました。

「卒業式」に出席したSさんが、遅れて申し込んだせいか、色紙をもらうことができなかった、と言っていました。後日お送りするようなことを言われたようなのですが、私のところにも、その色紙は送られては来ませんでした。

なお、そのときの「卒業式」に出席した私の卒論指導学生は、ほかにAさん、Sさんがおります。Sさんも、同様の理由で色紙をもらっていないとのことのようです。

「卒業式」に出席したAさんは、私のところにギリギリに色紙が送られてきて、こちらも急いで返送したため、「卒業式」の手渡しには間に合ったようですが、名前のふりがなが間違っていたそうです。色紙だけでなく、受付など、すべての名前のふりがなが間違っていたそうです。

以上、「卒業式」に出席した3名に関しては、(名前のふりがなを間違えていたAさんを含めて)あらためて色紙をお送りする必要があるように思うのですが、いかがでしょうか。

また、先日会った3名の卒業生のうち、2名は「卒業式」に出席しなかった卒業生だったのですが、「なぜ卒業式に出席した人だけが色紙をもらえたのか」と、出席できなかったためにもらえなかったことに対して、不公平に感じているようでした。

当日の「卒業式」に出席しなかった卒業生に対しては、色紙は送らないという方針なのでしょうか?それではあまりにも不公平ではないかと思います。

すでに転出した人間が申し上げるのは大変おこがましいことなのですが、私が直接かかわってきた卒業生たちのことでもあり、ぜひ、以上の点に関して、ご検討いただければ幸いです。

お忙しいところ恐れ入ります。どうかご検討のほど、よろしくお願い申し上げます」

相変わらず、言わなくてもいいことを言っているねえ、俺は。

しかし、言わなければ、私の寝覚めが悪いのだ。

職場にとっては、ささいなことかもしれない。しかし卒業式を楽しみにしていた卒業生たちにとってみれば、一生に一度のことである。

これで、事態が改善されるかどうかは、わからない。「またうるさいことを言ってきやがった。やめたくせに」と思われる、と思う。それに、いまはそれどころではないのだろう。

それにしても不安なのは、これがいつものように私の「クレーム」であると処理されてしまうことである。

このようなトラブルや行き違いは、私の指導学生の身の上だけにふりかかったのではなく、おそらく、他の卒業生の中にも、同様の事態が起こっていた可能性がある。

そこまで想像力をはたらかせてくれるか、とても不安である。

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会いに行く旅・その2

11月23日(日)

「今回の企画展を見に行きます」と、いち早く連絡をくれた卒業生のIさんとMさんが来てくれた。

はるばる、5時間以上をかけて、電車を乗り継いで。

午後、展示を見ながら解説をしたり、職場で企画した体験イベントに参加してもらったり。

夕方、イタリアン居酒屋でワインを飲みながら、いろいろと話をする。

私が留学中、韓国に卒業旅行に来てくれたこの学年の卒業生たちには、ことのほか思い入れがある。

3月にも、2人がわざわざ送別会を開いてくれた

あれから半年がたったが、2人の身の周りにも、少しずつ変化が訪れているようで、そうした話を聞くのは、まるで身内が成長していく姿を見ているようで、うれしい。

2人もやはり、実習旅行のことがいまでも印象に残っているらしい。

IさんもMさんも、つい最近、実習旅行で訪れた場所に再訪したのだという。

「人生に影響を与えたんですよ、あの実習旅行は」

そうだったのか。私にとっては、毎年の授業の1つにすぎなかったのだが。

やはり「実習旅行」を、もう一度実施してみたくなった。

Iさんがつくづく言う。

「行きたい場所に行く旅行ではなくて、会いたい人に会いに行く旅行ができるって、いいですよね」

今回の企画展にわざわざ来てくれた人たちに、私はどれほど救われたか、わからない。

時間を忘れて話していたら、もう数時間もたっていた。

「名残は惜しいですけれど」とIさん。「遠かったけれど、また会える、ってわかりましたから」

「じゃあまたいつか」

握手をして別れる。

改札に入っていく2人のうしろ姿を見ながら、この先もこの2人の行く先を、折にふれて見守っていくんだろうなあ、と思った。

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会いに行く旅・その1

11月22日(土)

ギャラリートーク・2回目。

相変わらず愚鈍な解説をしてしまい、反省すること頻りである。

ギャラリートークに合わせて、「前の勤務地」から、何人もの人が来てくれた。

前の勤務地の同僚たちに加え、「前の職場」の卒業生たちと、「前の前の職場」の卒業生たち、総勢9人である。

いずれも、忙しい合間をぬって来てくれたのである。

久しぶりに、いろいろな話をした。

「前の職場」の卒業生たちはいずれも、震災のあった3月に卒業した人たちである。

一緒にお昼を食べながら話をする。先日「前の職場」で開かれたという「3年ぶりの卒業式」の話題になった。

「先生、私もあの卒業式に参加したんですよ」とSさん。

「え?でも色紙は送られてこなかったよ」

「3年ぶりの卒業式」に参加する卒業生たちに限って、指導教員が色紙を書いて渡す、みたいなことが行われたのである。

あるとき、一方的に「前の職場」から色紙が郵送されてきて、「卒業生のA君にメッセージを書いてすぐに送り返してください」という、ずいぶん乱暴なやり方だなあと憤った、と前に書いた。

「私とY子ちゃんは、少し遅れて参加申し込みをしたんです。てっきり、あとで色紙を送ってくれるはずだと思っていたんです」

「そうだったの?」

そのことを確認しなかった私の怠慢だった。

「それに先生、誤解ですよ」

「何が?」

「A君の申し込みが遅れたから、先生のところにギリギリに色紙が送られてきたって、ブログに書いていたじゃないですか」

「うん」

「調べてみたら、A君、ちゃんと期日までに参加申し込みをしていたんですよ!」

「そうだったの?」

「だからA君が悪いんじゃありません」

それはA君に申し訳ないことをした。Sさんの色紙がいまだ届かないことも含め、すべては私が状況を把握していなかったことが原因である。

しかも私は彼への色紙に、いきなり色紙が送られてきたことに対する愚痴を書いてしまったのだが、それも彼にとってひどいことをしてしまったと反省した。

「私も色紙、もらいたかったです。どうして全員にくれなかったんでしょうねえ」

「卒業式」に参加できなかったKさんが言った。

いつか、あらためてみんなに色紙を贈らなければならない。いちど贈ったA君にもあらためて、である。

夜、こんどは前の勤務地の同僚たちや、「前の前の職場」の卒業生2人と一緒に、お酒を飲みながらお話をした。

2人は、いまから12年ほど前の卒業生で、たしか8年ほど前に、もう1人の同僚と4人で、いちど都内で一緒に飲んだことがある。いまでも忘れずに、こうして訪ねてきてくれたのは、とてもうれしかった。

Nさんが言った。

「先生にお会いしたら、これだけは言っておかなくちゃって思っていたことがあるんです」

「え?何?」

「8年前に一緒に飲んだとき、先生が『こわい話』をしたこと、覚えてますか?」

私はまったく覚えていない。

「あの話が、すごくこわくて、それからというもの私は、あの話をずっと背負い続けながら生きてきたんです」

私は何となく思い出した。私がよくする「こわい話」というのは1つしかないので、たぶん「あの話」をしたんだろう、と思う。

「そんなにこわかったの?」

「そりゃあこわかったですよ。もうこわくてこわくて…でもあるとき、インターネットで何気なく調べていたら、先生が話した話とまったく同じ話を、タレントがしているのを見つけてしまったんです!」

そりゃそうだ。だって「あの話」は、そのタレントが作った「こわい話」をそのまま拝借しただけだもの。

「先生!ひどいです!私はてっきり、先生が実体験した話だと思って、その話を聞いたあとも、、ずーっとブルブル震えていたんですよ。不動産屋さんに行って部屋を借りるときも、その物件にあたったらどうしようかと、もうこわくてこわくて…」

「あれ、全部作り話だよ」

「そうだったんですか!ひどいです!ずーっとあの『こわい話』に苦しめられてきたんですよ!」

たしかに申し訳ないことをした。

私はある時期、話術を磨くために、学生たちとの飲み会とか実習旅行などの時に、その「こわい話」を披露していた。私にとって「こわい話」とは、「話術を磨く」ための手段にすぎなかったのである。

学生たちからしたら迷惑な話である。うかつに「こわい話」はするものではない、と反省した。

Nさんは言った。

「先生に連れていってもらった実習旅行、本当に楽しかったです。またみんなで行ってみたいです」

「またみんなで行きたいねえ」

そのとき、ふと考えが浮かんだ。

何年かしたら、また実習旅行を計画してみようかな、と。

そのとき、14年間にわたって私がかかわってきたすべての卒業生たちに、

「もう一度、学生時代の実習旅行をなぞってみませんか?」

と、案内状を出す。

そうしたら、いったい何人の人が来てくれるだろうか、と。

他愛もない夢だが、いつか実現したいと、ちょっと本気で思う。

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忘却の重み

11月20日(木)

韓国からのお客さんを迎えに、夕方、空港に行く。

職場の近くのホテルまでお連れしてチェックインをすませたあと、数人でささやかな歓迎会を開く。

明日一日、職場にお招きすることになっているのだ。

IT企業のエリートの方たちと飲んだり、韓国のお客さんをご招待して接待したりと、最近の私の仕事は、ナンダカヨクワカラナイ。

そんなことはともかく。

全然別の話。

福永武彦の短編小説に「遠方のパトス」というのがあって、そこに、

「また一日が過ぎて行く、一日は一日だけ忘却の重みを増すだろう」

という表現が出てくる。とくに「一日は一日だけ忘却の重みを増すだろう」という表現が2度も登場する。

福永武彦の文学を貫いているのは、「忘却」に対する悲しみ、とでも言おうか。過去が次第に忘却の彼方へと行ってしまうことへの悔恨が、彼の文学性を突き動かしているのである。

人はやはり、自分の目の前から去ってしまったものに対して、「一日は一日だけ忘却の重み」を増していくものなのだろうか?

そして、目の前にあるもの、いるものだけが、いまこの瞬間、大切なものであると映ってしまうのだろうか?

もしそうなのだとしたら、「一生忘れない」という思いは、どれほど確実なものなのだろうか?

私にはよくわからない。

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大人は判ってくれない

11月19日(水)

文字通りこき使われていて、肉体的にも精神的にも限界である。

そろそろアブナイんじゃないだろうか、という予感がする。生命の危機、という意味で。

141119_110001出張先での仕事がひとまず一段落したので、この町に来ると必ず立ち寄る喫茶店でコーヒーを飲み、そのあとブラブラ町を歩いていると、

「野口久光・シネマグラフィックス」

という展示が開催されていた。

野口久光って、一般にどのていどの知名度があるのだろう?映画ファンならば、誰でも知っているのだろうか。

私は20代の頃に、ある映画のポスターを見たのがきっかけで、野口久光の名前を知ったのであるが、その映画が何であるかは、ここでは明かさない。

戦前から戦後にかけて、おもにヨーロッパの映画のポスターのデザインを手がけてきた。展覧会では、彼が手がけた数多くの映画のポスターが展示されていた。

Tky200911270262いちばん有名なのは、フランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」のポスターである。

トリュフォー監督自身が、このポスターをとても気に入っていて、のちに自分の映画の中でこのポスターを使用したという逸話もあるそうである。

「大人は判ってくれない」という邦題もまた、センスがいいね。

もうひとつ有名なのは、ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」である。

Photo子犬の死骸を抱いてたたずむ少女の姿が、鮮烈な印象を残す。

実は私は、このどちらの映画も、見たことがない。

というか、展示されているポスターの映画のほとんどを、見たことがない。

「恐怖の報酬」くらいである。

自分がいかに、ヨーロッパ映画について無知であるかが、よくわかる。

本当の映画通って、こういう映画をすべて見ている人のことを言うんだろうな。

不思議なのは、野口久光の映画ポスターを見ていると、どの映画も見たくなってしまう。

展覧会では、野口久光がポスターを手がけた古いヨーロッパ映画の「予告編」が、エンドレスで上映されていたのだが、見ていると、どれも本編を見たくなってしまうのだ。

とりあえず、ルネ・クレマンという監督がすごい監督らしい、ということだけはわかった。

いまはまったく時間がとれないが、時間ができたら、古いヨーロッパ映画を見まくろう。

ちなみに野口久光は、一流のジャズ評論家でもあった。

渡辺貞夫は、野口久光のことを次のように評している。

「ジャズ評論家という人たちがたくさんいた時代、ぼくらが最も信頼していたのが野口先生でした」(野口久光『ジャズ・ダンディズム』講談社、2012年)

映画俳優やジャズミュージシャンの似顔絵をたくさん描いていて、とくに女優・リリアン・ギッシュが永年の憧れの人だったという。後年(1988年)、おばあちゃんになったリリアン・ギッシュに、これまたおじいちゃんになった野口久光が、自分の描いた(若い頃の)彼女の似顔絵をプレゼントしている写真というのが展示されていた。

この写真が、実にほほえましい。

きっとこの人は、惚れっぽい人だったんだろうなと思う。

1994年、84歳でこの世を去った。

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「おにぎり」と「おむすび」

11月18日(火)

朝9時から夕方6時過ぎまでひっきりなしに続いた4つの会議が終わり、またまた旅の空です。

日曜日とは反対方向の新幹線にとび乗り、明日は朝から「この時期、最も宿がとれない県」に出張である。

案の定、宿がとれず、隣の県に泊まることになった。

昨日は昨日で、朝9時半から夕方まで休みなく仕事が続いたあと、夕方は上司に連れられて、IT企業の偉い方との懇親会に参加させられた。

そこは、ご夫婦が切り盛りしているお店で、職場で飲み会があったり、職場にお客さんが来たりすると必ず利用する。だんなさんが厨房で料理を作り、気っ風のよさそうなおかみさんが、料理とお酒を運ぶ。私もいつの間にか、すっかり名前を覚えられてしまった。

さて、IT企業の偉い人、というのは、白髪の紳士である。

(IT企業のエリートとなんて、絶対に話はなんか合わないよな…)

と思っていたが、お話ししてみると、これがけっこう話が合うのだ。

ひと言で言えば「座持ちがいい」ということなのだろうが、自慢じみた話も、野心まる出しの話も出てこない。どんな話題にも柔軟に対応し、さらに面白い話の「引き出し」を持っている。目下の人間に対する「上から目線」も、異なる価値観を持つ人に対する「偏見」も持っていない。現政権に批判的なところも、私が描く「IT企業のエリート像」をくつがえすものである。

いままで、「前の職場」とかで「エンジニア系企業の偉い人」と話すと、腹が立つことばかりで、野心まる出しで上から目線で体制派で、みんなそんなものなのだと思っていたが、あれはたんに三流の人間だったということだな。

まあそれはともかく。

宴会が終わり、帰ろうとすると、おかみさんに呼び止められた。

「先生、『おにぎり』と『おむすび』の違い、わかりましたよ」

「え?」

何のことだか、記憶にない。

「ほら、この前いらしたとき、話題になったでしょう」

そういえば何となく思い出した。2週間ほど前、韓国から来たお客さんを接待するためにこの店に来たときのことである。

最後にビックリするくらい美味しい「塩むすび」が出たのだ。

「究極のおむすび」である。

そのときたしか、「おにぎりとおむすびの違いって、何でしょうねえ」という話題を私が出したようなのだ。

こっちはすっかり忘れていたのだが、おかみさんはそれがずっと気になっていたらしい。

「『おにぎり』は女性がよく使う言葉で、『おむすび』は男性がよく使う言葉みたいですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。あのあと、『おにぎりに関する研究』というブックレットがあることを知って、取り寄せて読んでみたんです」

なんと、そこまで気にしていたとは!

「薄い本なのに、800円もしたんですよ!先生にお貸ししますから、読んでみてください」

「あ…はい…」

別にこっちはそれほど「おにぎり」と「おむすび」の違いにこだわっていたわけではないのだが、どうやら私がそのとき、「おにぎり」と「おむすび」の違いが気になっていたように見えたらしい。

それでわざわざ調べてくれたのである。

「次にいらしたときに返していただければいいですから」

というが、次にこの店を訪れるのは、今週の金曜日である。

そのときまでに読んで返さないといけないと思い、出張先まで持っていって読んでみた。

…だがこの本を読んでも結局のところ、「おにぎり」と「おむすび」の違いがよくわからない。

「おにぎり」と「おむすび」の違いって、結局何だ?

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文字通りの公開講演会

11月16日(日)

朝、新幹線で講演会場に向かう。

講演会場に着くと、そこはオープンスペースになっていて、まるでラジオの公開生放送を思わせるような場所である。

てっきり会議室のような場所を想定していたのだが、そうではなかった。

こういう場所で講演するのは、生まれて初めてである。

(本当に人が集まるのかなあ…)

なにしろ、集客力のない私である。気軽に聴きに来られるようなスペースである分、人が集まらなければ目も当てられない。

午後1時、講演会がはじまると、とりあえず座席は埋まったようだった。

緊張で周りを見ることができず、かろうじて前のほうの席を見るのが精一杯だったのだが、ビックリしたことがあった。

「前の職場」の同僚のFさんが、一番前の席に座っているではないか!

この町に住んでいることは知っていたが、専門分野の異なる彼が、どうしてこの講演会の情報を知ったのだろう?

私は彼がふだんから忙しい身であることを知っていたがゆえに、わざわざ時間を作って聴きに来てくれたことに、感謝した。

「前の職場」にいた頃は、なかなかお話しする機会がなかったのだが、こうして職場を離れたあとも気にかけてくれるというのは、本当にありがたい。ただ講演会の後、すぐに帰ってしまわれたので、ちゃんとした挨拶もできなかったのが悔やまれた。

卒業生たちも何人か来てくれていた。この町に住む友人も駆けつけてくれた。

終わったあと、久しぶりに一緒にお酒を飲み、いろいろな話をした。

昨日に引き続き、応援してくれる人がいることのありがたみを感じた1日だった。

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「究極の鉛筆」をいただく

11月15日(土)

昨晩、出張先から戻り、今日は職場で、生まれて初めての「ギャラリートーク」である。

まったく経験がないのでわからなかったが、出たとこ勝負でやるしかない。

少し早めに会場に行ってみたら、ビックリした。

前の勤務地にいたときにお世話になった、Iさんが来ているではないか。

わざわざ片道5時間近くかけて来てくれたのだ。

「まさか、このために来たんじゃないでしょう?」

と私が聞くと、

「もちろんこのために来たんですよ。だって、デビューの日でしょう」

私は感激し、恐縮した。

Iさんとは、職場も専攻も異なっていたが、要所要所で、専門分野にかかわる仕事を一緒にした。頻繁にお会いしていたわけではなかったが、一緒に仕事をしたどれもが、私にとっては印象深いものだった。

午後1時半に開始した「ギャラリートーク」に集まったお客さんは、20人程度。決して多くはなかった。

やはり集客力がないんだな、私は。

「40分程度を目安に説明してください」と事前にいわれていたが、結局1時間半、トークをしてしまった。聴いているほうも疲れたことだろう。

ギャラリートークが終わって、帰りがけにIさんが、鞄から何かを取り出した。

「これ、どうぞ。3月に餞別をお渡しできなかったので」

見ると、プレゼント用に丁寧に包装された箱である。

同世代の男性から、丁寧に包装されたプレゼントをもらうというのは、これまであまり経験がない。

「これは?」

「『究極の鉛筆』ですよ」

「ありがとうございます!」

この稼業、筆記用具として鉛筆を使わなければいけない場面が多いので、まさに私にうってつけの贈り物である。

Iさんとお別れしたあと、包みを開けてみたら、使うのがもったいないくらいの「究極の鉛筆」が入っていた。

大切に使うことにしよう。

応援してくれる人がいるというのは、本当にありがたい。

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いまこそフュージョン!

11月13日(木)

出張4日目。

今日はとりたてて書くことがないので、「フュージョン」について書く。

先日、韓国人の知り合いと話していて、「フュージョン料理」という言葉を使っていたのだが、日本では、「フュージョン料理」という言葉は、あまり使われていないのか?

というか、「フュージョン」という言葉は、もはや死語なのか???

しかし、いろいろなジャンルを融合した「フュージョン」こそが、グローバル時代にふさわしい音楽である!と個人的には思う。「フュージョン料理」もしかり。

日本では、80年代にフュージョン音楽が全盛を誇った。

あの坂本龍一も、うんと若い頃はフュージョン音楽作家だったのだ。

坂本龍一のすごいところは、フュージョン音楽作家としても一流であるということである。

フュージョン音楽作家としての坂本龍一を、もっと評価すべきである。

まあそれはともかく。

私が高校生だった80年代、フュージョン音楽が好きだった。

日本のフュージョン音楽を代表する1曲をあげるとしたら何か、と問われたら、ナベサダの曲でもMALTAの曲でもない、迷うことなくこの曲をあげる。

ザ・スクエアの「Night Dreamer」である!

和泉宏隆のピアノがすばらしいことはいうまでもないが、それを支える安藤まさひろのギター、伊東たけしのアルトサックスのそれぞれのアドリブが、主張しすぎることなくいい塩梅を保っている。すべてにおいて、バランスが取れているのだ。

この曲こそが、私にとっての「ザ・フュージョン音楽」である。

ちなみにこの曲がおさめられているアルバム「ADVENTURES」は、捨てるところのないフュージョンの名盤である。

Travelers

All About You

ザ・スクエアの曲に限らず、フュージョンの曲のタイトルで使われている英語は、実に単純で、わかりやすい。誰もが気軽に入っていける音楽。それが、フュージョンなのである。

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このすばらしき、愚劣な世界

11月12日(水)

出張3日目。

このところ、ずいぶんお気楽な旅行記を書いてきて、

(何だあいつ、調子に乗りやがって)

と思われているだろうなあ、と想像する。

これを読んで人が離れていっても、去る者は追わずなので、仕方がない。

実際のところは、自分のふがいなさに落ちこむ毎日である。

こういうときは、何か本を読んで気を紛らわすしかない。

仕事が終わった夕方、町をぶらついていると、古本屋を見つけたので、久しぶりに古本屋で時間をつぶすことにした。

やはり古本屋というのは、ワクワクする場所である。

福永武彦全集のうち、「夜の三部作」がおさめられている巻が廉価で売っていたので、買うことにした。

福永武彦の「夜の三部作」は、「冥府」「深淵」「夜の時間」の三編の短編小説をさす。

ずいぶん前に読んだ記憶があるのだが、すっかりと忘れてしまった。

このうち、「冥府」を読み始める。

これは、ある男が死んで、死後の世界に行った話である。

…こう書いてしまうと、何となく安っぽく聞こえてしまうが、コンセプトとしては、以前に紹介した短編小説「未来都市」と同様の、「虚構の社会」をモチーフにした小説である。

彼がまのあたりにした「死後の世界」では、多くの人々が、「新生」、つまり生まれ変われるかどうかの裁判を受けている。

多くの人が、「秩序」のある生の世界に戻りたい、と考えているのだ。

その中に登場する人物の1人に、「自殺者」がいた。別名を「愚劣には耐えられなかった者」という。

なぜ彼は自殺したのか。

「僕は子供の頃から人生とは何と愚劣なものかと考えていました。長ずるに及んで、ますますその感を深くしました。学校も、仕事も、恋愛も、すべて愚劣でした。それに戦争というあの馬鹿げた代物、ところが平和もまた馬鹿げていました。要するに、何ひとつこれといって身を打ち込めるものはなかったのです」

かくして彼は自殺した。

しかし彼は、「死後の世界」の裁判で「新生」を強く望んだ。

当然、その希望は、陪審員たちによって却下される。

「君は人生が愚劣だからそれで死んだのじゃないか?何もわざわざもう一度、そんな愚劣な秩序に戻ることなんかあるものか?」

彼は答える。

「秩序に帰ったところでまた愚劣な人生を繰り返すだけだと言ったよ。確かに言った。しかし僕は、それからこういうことが分かったのだ。秩序がたとえ愚劣でも、此所ほど愚劣じゃないってことがね」

「諸君、僕はさっき、秩序では何もかも愚劣だと言いました。それは間違いではない。あそこでは死ぬことの他はすべて愚劣でした。しかし諸君、あそこでは一つの愚劣さともう一つの愚劣さとの間で、そのどちらかを選ぶことが出来た。戦争か平和か、ファシズムかマルクシズムか、映画かハイキングか、この女かあの女か、少くとも、生きるか死ぬか、それを選ぶことが出来た。しかるに此所では、自分で選ぶことは出来ない、何一つ出来やしない!」

陪審員たちは、彼のこの意見を「叛逆」と断じ、結局「新生」を認めなかった。「死後の世界」の価値観からすれば、それは当然のことであった。

この男が述べているように、この世界は、絶望に値するくらい、愚劣である。

それでも、自分で考え、どの愚劣を選択するかという選択の意志がこの世に存在する限り、生きる価値があるのである。

もし、自分で考えることをやめさせられ、選択の意志が許されなくなったとしたら、それこそが「暗黒の世界」であり「死後の世界」である。

この考えは、同じ福永武彦の短編小説「未来都市」にもはっきりとあらわれている。

福永武彦自身、この世界の愚劣に苦しめられながらも、それでも自ら考え、選ぶ意志を持つことが、最も尊いことだと、信じてやまなかったのだ。

そしてその対極にある世界を、「未来都市」や「冥府」の中で、寓話的に表現したのである。

私が、いまこそ福永武彦を読めと声を大にして言いたいのは、まさにそこである。

こんなことは、文学や芸術からしか、教わることができないのだ!

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「究極のたわし」を買う

11月11日(火)

出張2日目。

昨日、「店長の兄」からいただいた返信メールの中に、、

「愚弟のカフェからほど近い雑貨店で、今どきめずらしい棕櫚作りのたわしが売っていて、ものすごく良いですよ。奥様へのお土産にどうですか」

と書いてあった。

自然素材で作ったそのたわしこそ、「究極のたわし」である。

「究極の耳かき」を買った私としては、次に「究極のたわし」を買わねばならない。

そう、これからは、「究極」を求める生き方をするのだ!

仕事が終わった夕方、昨日に引き続き、古い町並み界隈を散策することにした。

店名を頼りに探すと、その店はすぐに見つかった。

そのお店は雑貨屋さんで、若いカップルとか、ちょっと自分にご褒美をあげたい働き盛りの女性とかに好まれそうな品揃えである。

つまり、ふだんの私だったら、絶対に入らないような店である(さすがのこぶぎさんにも、このお店はつきとめられないだろう)。

しかし、これから私は「究極」を求めることに決めたのだ!

町屋を利用したこぢんまりした店に入ると、とてもしゃれた器などが並んでいて、その隅っこの方に、遠慮深げに「たわし」が置いてある。

たわしをじーっと見ていると、若い女性店員が声をかけてきた。

「そこにあるのは、自然農園で作った紅茶です」

たわしの横を見ると、たしかに自然農園で作って無添加の紅茶の葉が置いてあった。

お茶に興味があると思われたらしい。

考えてみれば、たわしを妻の土産に買ったところで、「どうぞご自分でお使いください」と言われるに決まっているのだ。妻には紅茶をお土産に買うことにして、たわしは自分用に買うことにした。

かくして、「究極の耳かき」に続いて、「究極のたわし」を手に入れたのである。

夕方6時近くになったので、昨日に引き続き、「チェコで生まれた世界的作家の名前をつけたブックカフェ」に行くことにした。

(もう6時だから、今日はコーヒーではなくて、ビールでも注文して夕食をいただくことにするかなあ)

そう思いながら、カフェにたどり着いた。

だが、お店が真っ暗で、電気がついていない。

たしか定休日は火曜日ではなく、水曜日のはずである。

(おかしいなあ…。とうとう客足が少なくて、店じまいしちまったか…。あ~あ、こんなことなら、昨日はコーヒーだけじゃなくて、もっといろんな物を注文しておけばよかった。そうすれば、店長も夜逃げしなくてもすんだろうに…申し訳ないことしちまったなあ…)

入り口のところに何か貼ってあるので、店じまいの挨拶だろうかと思って近づくと、ハガキサイズの小さな紙に

「本日17時閉店。」

とあった。

ええええぇぇぇぇ!!!

せっかくビール飲む気満々だったのにぃ!

どうしてこういつもタイミングが合わないのか?

このお店には、私を寄せつけない力がはたらいているのかぁぁぁ!

あるいは店長は、「店長の兄」に似て気まぐれな性格だったりして。

その貼り紙の横に、もうひとつ小さな貼り紙があって、

「田島貴男ライブ」

を告知する貼り紙だった。12月7日にこのお店でライブをするらしい。

田島貴男って、オリジナル・ラブの田島貴男???

我々の世代にとっては、忘れてはならない実力派ミュージシャンである。

ブックカフェで、呼びたい人を呼んでライブをする、なんてのは、これまた私の理想である。

店長は、自分の好きなことをやりながら生きているように思えて、とてもうらやましい。

「とうとう店じまいしてしまったか」などと早合点をした自分を、恥ずかしく思った。

それにしても、せっかくなのだから、もう少し大きなポスターを作ればよかったのに。

「本日17時閉店。」と同じサイズの紙というのは、いくらなんでも遠慮しすぎである。

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「究極に飲みたいコーヒー」を飲む

11月10日(月)の続き。

「究極の耳かき」を買った私は、その足で次に、喫茶店に向かった。

プラハで生まれた世界的作家の名前をつけたブックカフェ」である。

はじめてこの店に訪れたとき、食事と一緒にコーヒーを注文したのだが、コーヒーが出てこなかった、という話は前に書いた。

それ以来、この店でコーヒーを飲むことが宿願だったのだが、前回も、飲むチャンスを逸した。

というわけで、「三度目の正直」である。

夕方5時すぎ、

「いらっしゃい」

お店に入ると、店長が一人、そして客は私一人である。

「ご注文は?」

「コーヒーをください」

「かしこまりました」

しばらくして、コーヒーが来た。

「ごゆっくりどうぞ」

Photo

1年かかって、やっとありつけたコーヒー。

期待通りの、優しい味だった。

私がめざしている味である。

昼間の、緊張の忍耐を強いられた仕事が、癒やされる思いだった。

会計の時に店長に話しかけようとしたが、

あれ?

1年前と、ずいぶん印象が違う。

私の記憶が不確かなせいかもしれないが、いまコーヒーを出してくれた方が、本当に店長なのかどうか、自信がなくなったので、話しかけるのをためらって、お店を出た。

お店を出たあと「店長の兄」にメールで報告すると、

「参考になる味だったでしょうか。愚弟に代わってご贔屓に感謝です」

と返信をいただいたので、

「私がめざしている、優しい味でした」

と答えた。

滞在中に、もう1回くらい行けるだろうか。

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「究極の耳かき」を買う

11月10日(月)

出張1日目。

夕方、仕事が少し早めに終わったので、毎年この時期、この地でおこなわれている大イベントを見に行く。

昨年までは、学生を引率して行ったのだが、今年からは一人である。

相変わらず、相当な混雑だ。

イベントの出口を出たところに、出店(でみせ)が並んでいるのだが、まず目についたのが、

「究極の耳かきあります」

と、手書きで大きく書かれた看板である。

(たしか、昨年も同じ場所にお店を出していたよなあ…)

毎年来るたびに、何となく気になっていたお店ではあった。

しかし今年は特別な思いで、その看板を見た。

なぜなら、昨日、「右耳に耳垢がだいぶたまっていますね」と、耳鼻科の先生に言われたばかりだからだ

これがもし医者ではなく霊能者だったら、「あなたの右耳にだいぶ悪い気がたまっています。あなたの運勢が悪いのも、そのせいです」と言われているようなものである。

つまり私が不運なのは、右耳にたまった耳垢のせいなのだ!

…と、つい昨日、思ったばかりなのである。

そのタイミングでこの店に来たら、「究極の耳かき」に、心を動かされないはずがない。

出店には、職人風のご主人が一人いて、紙やすりで木の棒をゴシゴシ研いでいる。

近づいていくと、

「お試しください」

と書いてあって、何本かの耳かきが置いてある。

例年なら通り過ぎるのだが、今年はそういうわけにはいかない。

手を伸ばして、そのうちの1本をとり、右耳に近づけた。

その瞬間、その職人風のご主人が、

(お客さん、いいのを選びましたね。見る目がある)

というような顔をした。

思い切って、その「究極の耳かき」で耳をゴシゴシしてみると、職人風のご主人が言った。

「お客さん、長めに持つタイプの方ですね」

長めに持つタイプ?

「あの、それって、耳かきの使い方にも、人によって癖がある、ということでしょうか」

私は聞いてみた。

「そうです。お客さんのように、耳かきを長めに持つ方もいれば、できるだけ先端に近いところで持つ方もいらっしゃいます。それによって、使う耳かきも違ってくるのです」

「ほう」

「長めに持つ方は、耳垢を掻き出すようにして取るのに対して、短めに持つ方は、耳垢をすくいだすように取るのです」

「なるほど」

もうこの時点で、私はもう完全にその主人の術中にはまっている。

「ですので長めに持つタイプの方だと、先端の引っかくところが、深く曲がっているやつの方がいいんです」

「そうですか」

「ええ、つまり、アールの部分がきつめの方がいいのです」

アール、と来やがった。

「これなんかいいかもしれませんよ」

といって、主人は、店頭には並んでいない「究極の耳かき」を取り出して私に渡した。

「ほら、先端の部分の曲がりがそちらにくらべて強めでしょう?」

「たしかにそうですね」

もうこうなると、この耳かきを耳に入れてほじらなければ、その場はおさまらない。

「たしかに、さっきのよりもよく取れそうな感じです」

「でしょう。長く使っていると、耳になじんできますよ」

もうこれが、殺し文句である。

「じゃあ、これください」

「ハイ、ありがとうございます」

すると、ご主人は、その「究極の耳かき」を、立派な竹筒の中に入れて私に渡した。

「これが専用のケースです」

専用ケースは楽器の「ピッコロ」くらいの大きさで、ぱっと見、まるで高価な横笛のようにも見える。

「究極の耳かき」の見た目は、ふつうの耳かきなのだが、専用の「高級竹筒ケース」に入れることで、より「究極度」が増した気がする。

というわけで、ついに私は「究極の耳かき」を手に入れたのである!

しかもビックリすることに、昨日の診療代よりも、「究極の耳かき」の方が少しだけ安いのだ!

まあ、このところずっと働かされていたのだから、自分へのご褒美に「究極の耳かき」を買ったところで、バチは当たらないだろうと、何度も自分に言い聞かせて、店をあとにした。

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中耳炎騒動

11月9日(日)

またまた旅の空です。

1週間ほど前から、右耳がおかしい。なんとなく違和感があるのである。

痛いわけでもないし、聞こえないわけでもない。たとえていえば、飛行機に乗ったときに耳に抱く違和感に近いのだが、体を動かすたびに「ゴソゴソ、ゴソゴソ」と、右耳の中で異音がするのである。

昨晩、妻の実家で夕食をとっていたときに、みんなにそのことを話すと、義妹が言った。

「それ、中耳炎ですよ」

「中耳炎?」

「気圧が変わると、耳が変な感じになるでしょう?」

「うん」

「ひどく疲れているときなんかに、気圧の変化を受けたりすると、中耳炎になったりするんです。前に私、それで中耳炎になりました」

義妹によると、ひどく疲れていたときに、気圧の低い高原に行ったら、中耳炎になってしまったというのである。

この義妹の説は、かなり説得力がある。

まず私は、ここ最近とても忙しく、疲れはてていた。

それに加え、ここ最近は飛行機に乗る機会が多い。先日などは、1週間のうちに2度も飛行機で福岡を往復したほどである。

疲れていることに加え、飛行機に乗って気圧の変化で耳がおかしくなり、中耳炎を引き起こしたのではないだろうか!

私は急に不安になった。

「…で、でも…、しばらくしたら自然治癒するでしょう?」

「ダメですよ。放っておいたら大変なことになりますよ。お医者さんに行かないと」

私はさらに不安になった。なにしろ私は、月曜日から1週間、出張なのである。

「とてもじゃないが、病院に行く暇なんかないよ」

「でも行かないと大変なことになりますよ。出張の合間に行くことはできないんですか?」

「できないよ。朝から夕方までずっと拘束されるからね」

「じゃあ明日(日曜日)に行けばいいじゃないですか」

月曜日は朝から出張先で仕事なので、日曜日のうちに出張先に移動しなければならなかった。日曜日は少し早めに家を出て出張先で別の用事を済ませようと思っていたのだが、背に腹は代えられない。予定を変更して出張先には夜に着けばいいことにして、まずは耳鼻科に行くことにした。

さて今日。

インターネットで調べてみると、家からバスで20分ほどのところに、日曜日も診療をしている耳鼻科を見つけたので、朝9時すぎに行くことにした。

診察時間は10時からだというのに、すでにビックリするくらいたくさんの人が待合室にいた。

この病院は、小児科、内科、耳鼻科、皮膚科を兼ねているので、とくに子どもが多いのである。

日曜日に診療している病院がほかにほとんどないのだから、仕方がないのだろう。

しかし、耳鼻科ならばそんなに患者は多くないだろうから、すぐにすむだろう。

念のため受付で聞いてみた。

「あのう…耳鼻科なんですけど、だいぶ時間はかかるでしょうか」

「そうですねえ。この人数ですからねえ」

「え?ここにいるみなさん、耳鼻科にかかっているんですか?」

「いえ、小児科も内科も耳鼻科皮膚科も、一人の先生が担当しているもので…」

なんと!この病院は、医者の先生一人で切り盛りしているのか!

あきらめて待つことにした。

待つこと2時間。ようやく診察室に入ることができた。

バーコード頭の、恰幅のいい先生である。

「どうしました?」

「あのう…1週間ほど前から、右耳に違和感を感じまして。ひょっとして何か重篤な病気ではないかと…」

ここで「中耳炎」という病名を出すと、「素人がわからないくせに病名を特定するな」と言われそうなので、言わなかった。

「ではちょっと右耳を拝見」

先生は私の右耳をのぞき見ながら言った。

「耳垢がだいぶたまってますねえ。…原因は耳垢です」

「み、耳垢???」

「左耳も見てみましょう。…左耳は何もないなあ。やっぱり右耳の違和感の原因は耳垢です」

そう言うと先生は、細長いホースのようなもので、右耳の耳垢を吸い出した。

「ちょっと我慢してくださいよ」

「イタイイタイ!」

「ほらとれました」

「先生、いま右耳が急に痛くなったんですけど、まさか重篤な病気じゃ…」

「それは、耳垢を取るホースが耳にあたったからでしょう」

念のため、のどと鼻と鼓膜を検査したが、何の異常もない。

「炎症も起きてないようですし、これで大丈夫だと思いますよ」

「薬は?」

「必要ありません」

結局、耳垢をとるだけで治療は終了した。

受付で会計を済ませる。

「2500円です」

に、に、2500円???!!!

耳垢を取っただけなのに???!!!

どんなプレイなんだ???

だが悔しいことに、耳垢を取ったおかげで、たしかに右耳の違和感がなくなったのである。

かくして、義妹によって不安を煽られた「中耳炎騒動」は決着した。

だがこれで一安心というわけではない。

なぜ左耳は耳垢がまったくなかったのに対して、右耳だけにビックリするくらいの量の耳垢がたまっていたのか?

それこそ、何か重篤な病気の前兆なのではないだろうか?

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遠方より来たる

11月8日(土)

遠方より、ヒョン(兄貴)来たる。

木曜日だったか、ショートメールが来た。

「いま東京出張中。土曜日の午前中にそちらの企画展を見に行きます」

奇跡的に、土曜日の午前中だけ何の用事もなかったので、

「職場でお待ちしています」

と返信した。

今日。

朝9時に職場に着いて待機していると、11時に、「着きました」とショートメールが来たので、入り口までお迎えにあがる。

年に1度お会いするかしないかというていどなのだが、会えば、昨日の話の続きのようにお話ができる一人である。

さっそく企画展会場にご案内する。

「忙しいだろうから、見るポイントだけ教えてよ」

と言われたのだが、気がついたら、昼食もとらずに、展示を見ながら4時間もお話をしていた。

「こんなにじっくりお話しできるとは思わなかった」

「またお会いしましょう」

夕方4時前にお別れし、私が家路を急いでいると、ショートメールが来た。

「時のたつのを忘れました。楽しい時間をありがとう」

そろそろ新幹線に乗った時間だろうなと、メールを見ながら思った。

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ああ!おくすり手帳

11月7日(金)

前回の記事は、太宰治の「水仙」風に書いてみたのだが(どこが?)、なんとも後味の悪い内容になってしまって、ひどく反省した。

これでまた人が離れていくなあ…。

今日はなんということのない話を書く。

月に1度、病院に行って診療を受け、処方箋で薬をもらっているのだが、4月にこちらに引っ越して最初に薬局に行ったとき、「おくすり手帳」というのをもらった。

前の勤務地の病院では、「おくすり手帳」をもらった記憶がない。

「これって、必要なんですか?」

「とても大事なものです。どんな薬を飲んでいるかというのを、記録しておく必要がありますから」

「はあ」

「次回以降も、必ずおくすり手帳を持ってきてください」

「わかりました」

と言ってはみたものの、「おくすり手帳」の重要性というのが、いまひとつわからない。

いろいろなお薬を飲まざるを得ない人にとっては切実なのだろうけれど、私がいま飲んでいる薬は、ずっと同じ薬なので、わざわざ記録する必要はないと思うのだ。

そんな感覚だから、次の月に薬局に行ったときに、「おくすり手帳」をうっかり忘れてしまった。

「すみません。おくすり手帳を忘れてきてしまいました」

「そうですか。じゃあまた作ります」

「いえいえ、前回作ってもらったので、作っていただかなくてもいいです」

「そんなわけにはいけません。とりあえず今日また作りますので、次回いらしたときに、前回作ったおくすり手帳をお持ちください。記録を統合して1冊にまとめますので」

「はあ」

だが、その次の月も、またおくすり手帳を持っていくのを忘れてしまった。

「すみません。またおくすり手帳を忘れてきてしまいました」

薬剤師さんは、またか、という顔をした。

「ではまた作ります」

「いえいえ、もう家には2冊あるんですが」

「ですので、次回いらしたときに、前の二冊を一緒に持ってきてください。記録を統合して1冊にまとめますので」

「はあ」

さらにその次の月も、持っていくのを忘れてしまった。

病院に行く途中に気がついたのだが、わざわざおくすり手帳を取りに家に戻るのは面倒くさい。

「すみません。また忘れてきてしまいました」

薬剤師さんは、完全に呆れ顔である。

どうして持ってこなかったんですか?と責めるような顔をしている。

「次回は必ず持ってきてください」

また、新しいおくすり手帳を作る羽目になった。

われながら、情けない。

だったらふだんからおくすり手帳を持ち歩いていればいいじゃないか、と言われるかもしれないが、月に1度しか必要のないものを、ずっとカバンの中に入れておくのはイヤである。

「どうして持ってこないんですか?」と、薬剤師さんは責めるような顔をするのだが、こっちだって忙しいんだから、そういつもいつもおくすり手帳のことばかり考えているわけにはいかないのだ。

なんだかんだで、自分のおくすり手帳が5,6冊くらいたまってしまった。

(困ったなあ)

これでは、どんどんおくすり手帳が増えるばかりである。

いまさらこれを全部薬局に持っていって、

「1冊にまとめてください」

とお願いしようものなら、

「どうしてこんなになるまで放っておいたんですか!」

と、また薬剤師さんに叱られるに決まっている。

それに、もはや最初のおくすり手帳がどれなのかも、わからなくなってしまった。

こんなことになるなら、日ごろからおくすり手帳を忘れないように心がけておくべきだった。

おくすり手帳のことを考えるだけで、気に病んでしまう。

ああ、薬局に行くのが憂鬱だ。

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お祈りメール

11月6日(木)

何と今日は、午後1時から午後7時半まで6時間半ぶっ続けの会議であった!

信じられん!

おかげで、都内で夜7時からおこなわれる高校時代の後輩のライブに行けなくなってしまった。残念。

インターネットのニュースで見たのだが。

世界的に有名な賞を取った科学者が、以前ある会社に在籍中、自分の「発明」をめぐって会社とひどくもめたそうなのだが、その賞をとったことがきっかけで、その会社と仲直りをしようとした。

「いままでのことは水に流しましょう。これからまた、一緒にやっていきましょう。一度ご挨拶に行きます」

と会社に提案したところ、会社側は、

「弊社に対する深い感謝を公の場で述べておられ、それで十分と存じております。貴重な時間を弊社へのあいさつなどに費やすことなく、研究に打ち込まれ、学問に大きく貢献する成果を生みだされるよう、お祈りしております」

と、丁重にお断りする回答をしたという。

いわゆる、就活でいうところの「お祈りメール」である。

もちろん、両者の間に何があったのかは、当事者しかわからないことなのだが、このニュースを聞いて、

(会社側は、よっぽど腹に据えかねるものがあったのだな)

(もう会社としては、この人とかかわり合いたくないのだな)

と思った。

その科学者は以前から、公の場でその会社のことをずっと悪し様に言っていたから、会社からしても、腹に据えかねるものがあったのだろう。

(仮にも、世話になった会社なのになあ…)

このニュースがとりわけ印象に残ったのは、私がつい最近、似たような体験をしたからである。

いまから20年ほど前、まだ私が大学院生だったときのことである。

海外から一人、大学院に入学したいという留学生が来日して、私がそのチューターをまかされることになった。

彼は非常に社交的な人だったので、すぐに打ち解け、意気投合した。

私にとっては、初めての外国人の知り合いだったので、たんなるチューターとしてではなく、友人として接しようとも思った。

私より少し年上のその人は、日本で早く学位をとって、本国に帰りたいという希望を持っていた。

ところが、実際には、これがなかなか難しかった。

異国の地で専門の道を究め、学位論文を出す、ということは、並大抵のことではない。

まず、大学院に入るまでが一苦労。

次に修士論文を書くまでが一苦労。

なんだかんだで、10年の歳月が流れた。

私はその間、ずっとその留学生の勉強のお手伝いをした。

献身的、というほどのものではないかもしれないが、それでも、かなり親身になって論文のお手伝いなどをしたのである。

そして彼は、なんとか学位論文を仕上げた。

それもまた、私にとってはかなり大変なお手伝いだったのだが、まあ詳細については言うまい。

いつだったか、彼は私に言った。

「私が帰国して、しかるべき職に就いたら、鬼瓦さんを必ずお招きします。こんどは鬼瓦さんが留学してください」

「ほんとですか、ありがとうございます」

「私たちは、これからも変わらず、友人ですから」

しかし、である。

彼が帰国してから、彼に関して、さまざまなことで不愉快な目にあった。

(日本にいるとき、あれだけ親身になってお手伝いしたのに、ちょっとひどい仕打ちだよなあ)

(あれだけ親身になってお手伝いした私に対して、そんな対応はないよなあ)

そんなふうに思う出来事が、何度もあった。

事情を知る人に、そのことを話すと、

「それはひどい。だって彼にとってあなたは恩人でしょう。その恩人に対して、そういう態度をとるのは、考えられない」

という。

友人だと信じて、できる限り力になったつもりなのに、その友人に、ひどく裏切られたような気持ちになってしまったのである。

(いまでもたまに、自分が親しいと思う友人に対して親身になればなるほど、友人に裏切られるような気がすることがあるのだが、それは、このときの経験があったからだと思う。)

風の噂で、彼がとても出世したこと、そして、彼に対する周囲の評判がとても悪い、ということを聞いた。

私はもう、自分から彼に連絡をとることをやめることにした。

そして先日、その彼から、実に久しぶりに電話が来た。

来年開催される、自分が会長をつとめる会の大きなイベントで、話をしてほしい、という依頼である。

「私が会長だからね。だからあなたをお呼びするんです」

「ちょっと考えさせてください」

しかし私はもう、かかわりたくなかった。

私は断りのメールを丁寧に書いて、最後にこう結んだ。

「イベントの成功をお祈りしております」

世界的に有名な賞をとった科学者と、かつてその科学者がお世話になっていた会社との関係が、なんとなく、その留学生と私との関係に、ダブってみえたのである。

しかし、と、また考える。

責めるべきは、相手のほうだけなのか?

山本周五郎の「武家草鞋」を読んだいま、自分にも非があるのではないか、と思えてならない。

本当に私は、彼に対して親身になってお手伝いできていたのだろうか?

そして今回、ひょっとしたら純粋な善意から私を招待してくれた彼に対して、私がむげに断ったという形になったのかもしれない。

器の小さいヤツだ、と思われるかもしれない。

ひょっとしたら世界的に有名な賞をとった科学者も、自分を袖にしたその会社に対して、器の小さい会社だ、と思っているのかもしれない。

しかしいまの私には、その会社の気持ちが、よくわかるのである。

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妄想のフランク・ダラボン

とにかくむちゃくちゃ忙しい!

私以上に忙しい同僚と話をしていたら、

「もう、殺せ!っていう感じです」

「そうですよね。『矢でも鉄砲でも持ってこい』といった心境ですよね」

と、意見が一致した。

そんなわけで、ここ最近は、しみじみとした文章が書けない。

せっかくこぶぎさんが力作のコメントを書いてくれたが、気のきいたコメント返しをすることもできない。

ということで、

フュージョンの話。

か、

フランク・ダラボン監督の話。

のどちらかを書こうと思ったが、今回は後者の方を書くことにする。

少し前、妻がレンタルビデオ屋からスティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督の映画「ミスト」(2007年)を借りてきたので、見ることにした。

映画じたいの出来は、すごくよかったのだが、なんとも後味の悪いというか、救いのない映画であった。

で、調べてみると、この映画は、スティーブン・キングが原作で、フランク・ダラボンという人が監督である。

この二人の組み合わせは、映画「ショーシャンクの空に」(1994年)と、映画「グリーンマイル」(1999年)もそうである。

「ショーシャンクの空に」は、いわずと知れた感動の名作で、私の大好きなアメリカ映画の1つである。

「ミスト」はホラー映画なので、「ショーシャンクの空に」的な感動の要素はいっさいなく、ひたすら「エグイ」映画である。

では、その2つの映画の間に作られた、「グリーンマイル」はどうか?

劇場公開当時、「ショーシャンクの空に」に続く感動作という触れ込みだったと記憶している。

だが妻によれば、「グリーンマイル」は、感動作というよりも、エグイ映画だ、という。

たしかにそうだ。感動的な部分もあるのだが、映像表現じたいは、かなり「エグイ」場面が出てくる。

「フランク・ダラボン監督は、本当は感動的な映画よりもエグイ映画が撮りたいのではないか?」

というのが妻の仮説である。

ここで、3作を時系列的にまとめてみると、

「ショーシャンクの空に」(1994年)…感動作。

「グリーンマイル」(1999年) …感動作だが、少しエグイ。

「ミスト」(2007年) …かなりエグイ。

という変化をたどっている。

フランク・ダラボン監督が本当に撮りたかったのは、「ミスト」みたいなエグイ映画だったのではないか?

そしてここからは私の仮説。

フランク・ダラボン監督は、本当は「ミスト」みたいなエグイ映画を撮るのが目標だった。

だが、最初からいきなりエグイ映画を作ってしまっては、人々に受け入れられなくなるかも知れない。

そこでまず、「ショーシャンクの空に」みたいな、誰もが受け入れやすい映画を作って、多くの人から高い評価を得る。

次に、前作の感動的なイメージを残しながらも、少しエグイ映画を撮って、その片鱗を見せる。

それが「グリーンマイル」である。

そしてこの2作で、「スティーブン・キング原作の映画といえば、フランク・ダラボン監督」という印象を多くの人に植え付けたところで、いよいよ自分が本当に作りたい作品「ミスト」に取り組む。

もしいきなり自分の作りたい映画を作ろうとしたら、ネームバリューもないので、予算も時間も十分にかけられず、満足のいく映画が撮れなかったかも知れない。

かくしてフランク・ダラボン監督は、10年以上かけて、自分が本当に撮りたい映画を作ったのではないだろうか?

…もちろんこれは、すべて私の妄想である。

フランク・ダラボン監督が、どんな人柄で、どんな映画の影響を受け、どんなことを考えているかなどは、まるで知らない。

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武家草鞋

とにかく忙しくて、仕事が全然追いついていない。

山本周五郎の短編小説「武家草鞋」(『つゆのひぬま』新潮文庫)を読む。

宗方伝三郎は、出羽国新庄藩の藩士だったが、新庄藩に家督問題が起こったさい、伝三郎が正論を貫いたにもかかわらず、理不尽な敗北を受け、藩を追われるようにして江戸にわたる。

「いつかは真実と虚飾の位置を明らかにしてみせる。そう思って孤独を通してきたのだが、結果としてはまるで逆になった、ーー偏屈なやつだ、ばか律儀な男だ、そう云って嘲笑する人々の声が聞こえるようで、かれは怒りのために幾たびとなく身を震わした」

かくして、伝三郎は新庄藩を出て、わずかな蓄えを持って江戸へ出るのである。

武士でなくともよい、清潔に生きる道でさえあればどんなことでもしよう、と。

だが江戸では、人々が銭儲けに翻弄されていた。銭さえもうければ、どんな品質の悪いものを売っても知らんぷり。筆を買えばすぐにダメになるし、買った草履を履けば、すぐに緒は抜ける。いいものを作るなどという考えはなく、売ってしまえばこっちのもの、という考えが蔓延していたのである。

伝三郎は、江戸でも、敗北感を味わう。

「これ以上は自分もそういう仲間にはいるか、それとも生きることをやめるか、二つのうち一つを選ぶより仕方がない」

そう思って江戸を出て、ほとんど行き倒れそうになったところを、老人に救われる。場所は、東海道の袋井の駅からやや離れたところだった。

「世間は広く人はさまざまです。思うようになる事ばかりでも興がないと申すではございませんか、まあ暫くはなにもお考えなさらず、できることならゆっくりとご保養くださいまし」

穏やかな日々を過ごす伝三郎は、やがて手仕事をはじめようと思い立ち、新庄藩時代に経験のある草鞋作りをはじめる。

雪国で育った伝三郎が作った草鞋は、武家草鞋といって丈夫なもので、評判もよかった。彼に生きる張り合いが生まれ、できることならこの山村で生涯を送りたい、と思ったのである。

ところがあるとき、いつも草鞋を持って行っている問屋から、「少し手を抜いて作ってほしい」と注文が来る。

不審に思う伝三郎に、問屋の手代が答える。

「丈夫すぎる草鞋では、壊れないので利益になりません。なに、丈夫だという評判がついたから、多少弱い草鞋を作っても大丈夫ですよ」

彼がたどり着いた理想郷もまた、同じ「世間」だったのだ。

「なんという見下げた世の中だ」

伝三郎は絶望し、草鞋作りをやめてしまう。

いっそ人夫になってしまおうと、こんどは切り通しの工事に参加する。

だがそこでまじめに働いていた彼は、ほかの人夫たちに煙たがられるのである。

一人だけまじめに働かれては困る。俺たちと同じように、適当に手を抜いてくれないと、と。

ますます絶望した伝三郎は、山に入り、故郷を思いながら山葡萄のつるに手を伸ばそうとすると、「俺の山を荒らすな」と、ひどい剣幕で怒られる。

みんなが、自分の利益のことしか考えない。

やることなすこと、何もかも敗北だ…。

絶望して、これまでのことを老人に話す。

老人はいう。

「世間は汚れはてている、卑賤で欺瞞に満ちているからつきあえない、だから見棄ててゆく…こう仰るのですね…しかしこの老人にわからないことが一つあります、それは、あなた自身のことです。…あなたはひと言もおのれが悪いということは仰らぬようだ。…世間がもし汚らわしく卑賤なものなら、その責任の一半はあなたにもある。世間というものが人間の集まりである以上、おのれの責任でないと云える人間は一人もいない筈だ、世間の卑賤を挙げるまえに、こなたはまず自分の頭を下げなければなるまい、すべてはそこからはじまるのだ」

「廉直、正真は人に求めるものではない。問題はまずあなただ、自分が責めを果たしているかどうか、そこからすべてが始まるのだ…」

老人の言葉が終わった頃、伝三郎に来客があった。

新庄藩での同僚の一人が、伝三郎を捜し当て、「お召し返し」を伝えに来たのである。つまり伝三郎の名誉が回復されたのである。

「どうして私の居場所がわかったのか?」と、伝三郎は尋ねる。

「袋井宿で草鞋を求めたとき、履き心地に覚えがあるので見てみると、新庄で我々の作る武家草鞋ではないか。そこでそなたがここにいることを知ったのだ」と、同僚は答えた。

そのやりとりを聞いた老人が言う。この最後のセリフがいい。

「宗方どの、草鞋がものを云いましたな」

…落語の人情噺にしたいような話である。

山本周五郎の短編小説には、しばしば「天の声」ともいうべき老人が登場する。そしてその「天の声」により、おのれの未熟さに気づくのである。

この小説も、その「天の声」が遺憾なく発揮された、山本周五郎の真骨頂である。

なお、この小説は戦時期に書かれた。以前読んだ『山本周五郎戦中日記』(ハルキ文庫)に書かれていた山本周五郎の煩悶が、同時期に書かれたこの小説に反映されているようで、とても興味深い。

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想像力と数百円

めったに会えない友人から、かなり最近忙しそうな感じの近況報告を伝えたメールが来たのだが、その最後に、

「いろいろありますが、私は元気です」

と結んでいて、そのひと言で、なんとなく安心した。

そういえばむかし、

「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです」

という映画のキャッチコピーがあったよなあ。あれは何の映画だったっけなあ、と記憶をたどっていくと、宮崎駿監督の「魔女の宅急便」のキャッチコピーだったことを思い出した。

映画のことは忘れちゃったけど、このキャッチコピーだけは覚えていたのである。

このキャッチコピー、誰が考えたんだろうと思って調べてみると、糸井重里さんだった。

だいたい、印象に残っているキャッチコピーをたどってみると、糸井さんにたどり着くことが多い。

似たような経験として、たとえば、子どもの頃に見たウルトラマンやウルトラセブンのエピソードで、妙に印象に残っているエピソードをあとで調べてみると、そのほとんどが実昭寺昭雄が演出した回のものだった、ということが、私の場合にはある。

自分の心に引っかかる「作風」というものが、やはりあるのだろう。

いやそもそも、糸井さんや実昭寺監督が、心に引っかかる作品を残す名人なのだ、と思う。

高校時代、コピーライターに憧れたりして、雑誌『広告批評』を、かなり熱心に読んでいた。

以前にも書いたことがあるが、糸井さんがコピーライターに見切りをつけた頃から、広告業界は、構造的に大きく変わりはじめた。

それからというもの、心に引っかかるキャッチコピーは、少なくとも私にとっては、すっかりなくなってしまったように思う。

私が好きな糸井さんのキャッチコピーは、以前に紹介したとおりだが、

「想像力と数百円」(新潮文庫)

も、そうとう好きである。

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俺たちに連休はない

疲れ切った…。

11月1日(土)~2日(日)

2日連続で、研究発表である。いずれも今回の職場のイベントにかかわっておこなわれた企画である。

初日は、職場の講堂で、最新の研究成果を市民の方々に広く公開するというイベント。270席ある講堂は満員になった。

朝10時から始まり、7名が登壇する。私は午後の2番手である。持ち時間は各30分。

午前中3名のうち、2人は、ここ10年ほど一緒に研究してきた同世代の研究仲間である。

いずれも、刺激的で、おもしろく、よどみなく、聴衆の心をガッチリとつかみ、しかもほぼ時間通りに話を終えた。

かなりハイレベルで、それでいておもしろい内容である。

(やっぱりさすがだよな…)

2人とも、研究者、教育者として、一流なのである。

私はとたんに自信を失った。

お昼休み、聴きに来てくれていた職場の人たちと会う。

「どうしたの?」私がうなだれている様子が気になったらしい。

「午前の、あの2人の発表を聴いて、自信をなくしました」

「大丈夫でしょう」

「いや、とても30分喋ることはできませんよ。帰りたくなってきました」

今回に限らず、いつも私は、登壇前は帰りたくなるのだ。

とくに不安なのは、「持ち時間の30分ももたずに、話がショートしてしまう(短く終わってしまう)のではないだろうか」ということである。私はいつも、その不安に駆られるのだ。

前の職場でも、授業のたびにその不安に駆られていた。

「そんなことないって。だって、百戦錬磨でしょう?」

百戦錬磨、か。

これまでいろいろな「修羅場」をくぐり抜けたことを思い出し、少し気が楽になった。

そして午後の研究発表。

結局、まあいつものことなんだが、ペース配分を間違えて、最後の方はかなり駆け足で話をして、2分オーバーで終わった。

結果的に土曜日のイベントは大成功だった。

とくに、この10年ほど一緒に研究してきた、同世代の研究仲間たちによってこのイベントが成功できたことは、

(ようやくここまできたか…)

と感慨深いものがあった。

夜は、韓国から来たお客さんを交えて、打ち上げである。

あまりに疲れたせいか、家に帰ったら、電気をつけたまま寝てしまった。

夜中に目が覚め、翌日の研究発表の予習をおこなった。

2日(日)。

この日は、職場の大会議室で、専門家を対象にした「国際シンポジウム」である。

持ち時間は1時間。しかも、専門家が満足するような内容の発表をしなければならない。

これがいちばんつらく、荷が重かった。

この機会だから、誰も踏み込んでいない新しい分野に挑戦しようという壮大な計画を立てたのだが、準備が不十分なまま本番にのぞんだ。

30名ほどの専門家が集まった。

発表者は3人。韓国からお招きしたお二人の方と、私である。

韓国からお招きしたお二人の発表はいずれもおもしろく、私の発表は刺身のツマていどのものだったが、討論は思いのほか盛り上がり、とてもいい雰囲気のうちに「国際シンポジウム」が終了した。

夜はまた、同じ店で打ち上げである。

韓国から来たお二人に、「とても有意義な会でした」と言ってくださったのがうれしかった。

それにしても、疲れた。

研究発表を、2日連続でおこなうなどということは、そうめったにあることではない。

ピッチャーでいえば、2連投である。

まあよくやったもんだ。自分をほめてやりたいよ。

この経験も、「百戦錬磨」の1つになるのだろう。

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