忘却の重み
11月20日(木)
韓国からのお客さんを迎えに、夕方、空港に行く。
職場の近くのホテルまでお連れしてチェックインをすませたあと、数人でささやかな歓迎会を開く。
明日一日、職場にお招きすることになっているのだ。
IT企業のエリートの方たちと飲んだり、韓国のお客さんをご招待して接待したりと、最近の私の仕事は、ナンダカヨクワカラナイ。
そんなことはともかく。
全然別の話。
福永武彦の短編小説に「遠方のパトス」というのがあって、そこに、
「また一日が過ぎて行く、一日は一日だけ忘却の重みを増すだろう」
という表現が出てくる。とくに「一日は一日だけ忘却の重みを増すだろう」という表現が2度も登場する。
福永武彦の文学を貫いているのは、「忘却」に対する悲しみ、とでも言おうか。過去が次第に忘却の彼方へと行ってしまうことへの悔恨が、彼の文学性を突き動かしているのである。
人はやはり、自分の目の前から去ってしまったものに対して、「一日は一日だけ忘却の重み」を増していくものなのだろうか?
そして、目の前にあるもの、いるものだけが、いまこの瞬間、大切なものであると映ってしまうのだろうか?
もしそうなのだとしたら、「一生忘れない」という思いは、どれほど確実なものなのだろうか?
私にはよくわからない。
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