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お祈りメール

11月6日(木)

何と今日は、午後1時から午後7時半まで6時間半ぶっ続けの会議であった!

信じられん!

おかげで、都内で夜7時からおこなわれる高校時代の後輩のライブに行けなくなってしまった。残念。

インターネットのニュースで見たのだが。

世界的に有名な賞を取った科学者が、以前ある会社に在籍中、自分の「発明」をめぐって会社とひどくもめたそうなのだが、その賞をとったことがきっかけで、その会社と仲直りをしようとした。

「いままでのことは水に流しましょう。これからまた、一緒にやっていきましょう。一度ご挨拶に行きます」

と会社に提案したところ、会社側は、

「弊社に対する深い感謝を公の場で述べておられ、それで十分と存じております。貴重な時間を弊社へのあいさつなどに費やすことなく、研究に打ち込まれ、学問に大きく貢献する成果を生みだされるよう、お祈りしております」

と、丁重にお断りする回答をしたという。

いわゆる、就活でいうところの「お祈りメール」である。

もちろん、両者の間に何があったのかは、当事者しかわからないことなのだが、このニュースを聞いて、

(会社側は、よっぽど腹に据えかねるものがあったのだな)

(もう会社としては、この人とかかわり合いたくないのだな)

と思った。

その科学者は以前から、公の場でその会社のことをずっと悪し様に言っていたから、会社からしても、腹に据えかねるものがあったのだろう。

(仮にも、世話になった会社なのになあ…)

このニュースがとりわけ印象に残ったのは、私がつい最近、似たような体験をしたからである。

いまから20年ほど前、まだ私が大学院生だったときのことである。

海外から一人、大学院に入学したいという留学生が来日して、私がそのチューターをまかされることになった。

彼は非常に社交的な人だったので、すぐに打ち解け、意気投合した。

私にとっては、初めての外国人の知り合いだったので、たんなるチューターとしてではなく、友人として接しようとも思った。

私より少し年上のその人は、日本で早く学位をとって、本国に帰りたいという希望を持っていた。

ところが、実際には、これがなかなか難しかった。

異国の地で専門の道を究め、学位論文を出す、ということは、並大抵のことではない。

まず、大学院に入るまでが一苦労。

次に修士論文を書くまでが一苦労。

なんだかんだで、10年の歳月が流れた。

私はその間、ずっとその留学生の勉強のお手伝いをした。

献身的、というほどのものではないかもしれないが、それでも、かなり親身になって論文のお手伝いなどをしたのである。

そして彼は、なんとか学位論文を仕上げた。

それもまた、私にとってはかなり大変なお手伝いだったのだが、まあ詳細については言うまい。

いつだったか、彼は私に言った。

「私が帰国して、しかるべき職に就いたら、鬼瓦さんを必ずお招きします。こんどは鬼瓦さんが留学してください」

「ほんとですか、ありがとうございます」

「私たちは、これからも変わらず、友人ですから」

しかし、である。

彼が帰国してから、彼に関して、さまざまなことで不愉快な目にあった。

(日本にいるとき、あれだけ親身になってお手伝いしたのに、ちょっとひどい仕打ちだよなあ)

(あれだけ親身になってお手伝いした私に対して、そんな対応はないよなあ)

そんなふうに思う出来事が、何度もあった。

事情を知る人に、そのことを話すと、

「それはひどい。だって彼にとってあなたは恩人でしょう。その恩人に対して、そういう態度をとるのは、考えられない」

という。

友人だと信じて、できる限り力になったつもりなのに、その友人に、ひどく裏切られたような気持ちになってしまったのである。

(いまでもたまに、自分が親しいと思う友人に対して親身になればなるほど、友人に裏切られるような気がすることがあるのだが、それは、このときの経験があったからだと思う。)

風の噂で、彼がとても出世したこと、そして、彼に対する周囲の評判がとても悪い、ということを聞いた。

私はもう、自分から彼に連絡をとることをやめることにした。

そして先日、その彼から、実に久しぶりに電話が来た。

来年開催される、自分が会長をつとめる会の大きなイベントで、話をしてほしい、という依頼である。

「私が会長だからね。だからあなたをお呼びするんです」

「ちょっと考えさせてください」

しかし私はもう、かかわりたくなかった。

私は断りのメールを丁寧に書いて、最後にこう結んだ。

「イベントの成功をお祈りしております」

世界的に有名な賞をとった科学者と、かつてその科学者がお世話になっていた会社との関係が、なんとなく、その留学生と私との関係に、ダブってみえたのである。

しかし、と、また考える。

責めるべきは、相手のほうだけなのか?

山本周五郎の「武家草鞋」を読んだいま、自分にも非があるのではないか、と思えてならない。

本当に私は、彼に対して親身になってお手伝いできていたのだろうか?

そして今回、ひょっとしたら純粋な善意から私を招待してくれた彼に対して、私がむげに断ったという形になったのかもしれない。

器の小さいヤツだ、と思われるかもしれない。

ひょっとしたら世界的に有名な賞をとった科学者も、自分を袖にしたその会社に対して、器の小さい会社だ、と思っているのかもしれない。

しかしいまの私には、その会社の気持ちが、よくわかるのである。

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