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武家草鞋

とにかく忙しくて、仕事が全然追いついていない。

山本周五郎の短編小説「武家草鞋」(『つゆのひぬま』新潮文庫)を読む。

宗方伝三郎は、出羽国新庄藩の藩士だったが、新庄藩に家督問題が起こったさい、伝三郎が正論を貫いたにもかかわらず、理不尽な敗北を受け、藩を追われるようにして江戸にわたる。

「いつかは真実と虚飾の位置を明らかにしてみせる。そう思って孤独を通してきたのだが、結果としてはまるで逆になった、ーー偏屈なやつだ、ばか律儀な男だ、そう云って嘲笑する人々の声が聞こえるようで、かれは怒りのために幾たびとなく身を震わした」

かくして、伝三郎は新庄藩を出て、わずかな蓄えを持って江戸へ出るのである。

武士でなくともよい、清潔に生きる道でさえあればどんなことでもしよう、と。

だが江戸では、人々が銭儲けに翻弄されていた。銭さえもうければ、どんな品質の悪いものを売っても知らんぷり。筆を買えばすぐにダメになるし、買った草履を履けば、すぐに緒は抜ける。いいものを作るなどという考えはなく、売ってしまえばこっちのもの、という考えが蔓延していたのである。

伝三郎は、江戸でも、敗北感を味わう。

「これ以上は自分もそういう仲間にはいるか、それとも生きることをやめるか、二つのうち一つを選ぶより仕方がない」

そう思って江戸を出て、ほとんど行き倒れそうになったところを、老人に救われる。場所は、東海道の袋井の駅からやや離れたところだった。

「世間は広く人はさまざまです。思うようになる事ばかりでも興がないと申すではございませんか、まあ暫くはなにもお考えなさらず、できることならゆっくりとご保養くださいまし」

穏やかな日々を過ごす伝三郎は、やがて手仕事をはじめようと思い立ち、新庄藩時代に経験のある草鞋作りをはじめる。

雪国で育った伝三郎が作った草鞋は、武家草鞋といって丈夫なもので、評判もよかった。彼に生きる張り合いが生まれ、できることならこの山村で生涯を送りたい、と思ったのである。

ところがあるとき、いつも草鞋を持って行っている問屋から、「少し手を抜いて作ってほしい」と注文が来る。

不審に思う伝三郎に、問屋の手代が答える。

「丈夫すぎる草鞋では、壊れないので利益になりません。なに、丈夫だという評判がついたから、多少弱い草鞋を作っても大丈夫ですよ」

彼がたどり着いた理想郷もまた、同じ「世間」だったのだ。

「なんという見下げた世の中だ」

伝三郎は絶望し、草鞋作りをやめてしまう。

いっそ人夫になってしまおうと、こんどは切り通しの工事に参加する。

だがそこでまじめに働いていた彼は、ほかの人夫たちに煙たがられるのである。

一人だけまじめに働かれては困る。俺たちと同じように、適当に手を抜いてくれないと、と。

ますます絶望した伝三郎は、山に入り、故郷を思いながら山葡萄のつるに手を伸ばそうとすると、「俺の山を荒らすな」と、ひどい剣幕で怒られる。

みんなが、自分の利益のことしか考えない。

やることなすこと、何もかも敗北だ…。

絶望して、これまでのことを老人に話す。

老人はいう。

「世間は汚れはてている、卑賤で欺瞞に満ちているからつきあえない、だから見棄ててゆく…こう仰るのですね…しかしこの老人にわからないことが一つあります、それは、あなた自身のことです。…あなたはひと言もおのれが悪いということは仰らぬようだ。…世間がもし汚らわしく卑賤なものなら、その責任の一半はあなたにもある。世間というものが人間の集まりである以上、おのれの責任でないと云える人間は一人もいない筈だ、世間の卑賤を挙げるまえに、こなたはまず自分の頭を下げなければなるまい、すべてはそこからはじまるのだ」

「廉直、正真は人に求めるものではない。問題はまずあなただ、自分が責めを果たしているかどうか、そこからすべてが始まるのだ…」

老人の言葉が終わった頃、伝三郎に来客があった。

新庄藩での同僚の一人が、伝三郎を捜し当て、「お召し返し」を伝えに来たのである。つまり伝三郎の名誉が回復されたのである。

「どうして私の居場所がわかったのか?」と、伝三郎は尋ねる。

「袋井宿で草鞋を求めたとき、履き心地に覚えがあるので見てみると、新庄で我々の作る武家草鞋ではないか。そこでそなたがここにいることを知ったのだ」と、同僚は答えた。

そのやりとりを聞いた老人が言う。この最後のセリフがいい。

「宗方どの、草鞋がものを云いましたな」

…落語の人情噺にしたいような話である。

山本周五郎の短編小説には、しばしば「天の声」ともいうべき老人が登場する。そしてその「天の声」により、おのれの未熟さに気づくのである。

この小説も、その「天の声」が遺憾なく発揮された、山本周五郎の真骨頂である。

なお、この小説は戦時期に書かれた。以前読んだ『山本周五郎戦中日記』(ハルキ文庫)に書かれていた山本周五郎の煩悶が、同時期に書かれたこの小説に反映されているようで、とても興味深い。

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