氷点下のソウルを歩く
12月20日(土)
土日は本務がないので、氷点下のソウル市内を歩くことにした。
まる一日、誰とも話をしないので、こういうときは、いらないことをグダグダと考えてしまう。寒いから、なおさらである。
たとえば、このブログにしばしば登場する高校時代の友人、福岡のコバヤシ。
例に挙げて恐縮だが、彼ならば差し障りがないので、彼を例にとって書かせてもらうと。
福岡のコバヤシとはいまでも仲のよい友人だが、高校のころは、よく喧嘩をした。
喧嘩、というか、私が調子に乗って自分のペースで身勝手でクドいことを言ったりするので、コバヤシが呆れて、口をきかなくなる、ということが、何度となくあったのである。
そうした局面は、今でもたまにおとずれる。
最近、福岡に出張に行く機会が多くなり、コバヤシと会う機会が増えたのだが、メールのやりとりをしていると、やはりあのころのように、私がつい自分のペースで身勝手でクドいことを書いたりする。
さらに、その身勝手さに自分自身が気づき、こんどは卑屈で自虐的なメールを送ってしまうのである。私の悪い癖である。
これがもし若いころだったら、コバヤシもキレて、また距離を置かれてしまうところだろう。
だが最近は、私の卑屈なメールに対して、真っ正面から反論したりたしなめたりするのではなく、むしろかなり気を使った表現で「大人の対応」をしてくれるので、おかげで関係が悪化せずに済むのである。
まったく、恥ずかしい限りである。
「30代以降の友人関係においては、メンテナンスが大事」と、ジェーンスーも言っていた。ちょっとしたことで、ボタンのかけ違いのまま一生を終える可能性だって、十分にあるのだ。
私はいまだに成長していないが、コバヤシはやはりそのあたりをよくわかっているのである。
翻ってみるに、私の周りの友人には、そういう人が多い。卑屈で自虐的な私を、「大人の対応」で交わしてくれるからこそ、なんとか私は友人関係を維持させてもらっているのだ。
…とまあ、そんなことをグダグダと考えていた。
また別の話。
先日、ある老齢の偉い方とお酒を飲んでいたら、その方がいい心持ちで酔っ払って、同じ話を何度も繰り返していた。
酔って同じ話を繰り返す、というのは、よくある話だが、その方は以前はそういうことがなかっただけに、ちょっとショックだった。大変失礼だが「老い」のせいだろうか、と思ってしまったのである。
同じ話を繰り返す、というのが「老い」のあらわれだとすると、なぜ人は老いると、同じ話を繰り返すようになるのだろうか。
前に話したことを忘れてしまうからだ、というのが一つの有力な仮説だろう。
だが私は、それだけではないと思う。
老いると、視野が狭くなるのではないだろうか。
今までいろいろな話題に目配りしていたことが、だんだん視野が狭くなることで、自分の関心が固定化され、結局、一方的で同じような話しかできなくなってしまうのではないだろうか。
今までいろいろな話に対応できていた脳が、しだいに対応できなくなり、自分の目下の関心事に対してしか、反応しなくなってしまう。
…ずいぶん乱暴な仮説かも知れない。
しかし、最近私が身の周りで漠然と感じていることを言語化すると、以上のようになってしまう。
それが「老い」とともにおとずれるとみてよいのか、あるいは単に、その人の個性が年齢を重ねるとともに強調されていくのか。
どうもそのへんがよくわからない。
自分もやがてそうなるのか、あるいは、すでにそうなっているのか。
…などということを、グダグダと考えていた一日であった。
やはり、まる一日誰とも話をしないというのは、よくない。
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