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名優は名随筆家なり・高峰秀子編

高峰秀子の出演映画といえば、学生時代にリバイバル上映で「浮雲」(成瀬巳喜男監督、1955年公開)を見たのと、最近DVDで「張り込み」(松本清張原作、橋本忍脚本、野村芳太郎監督、1958年公開)を見たくらいなので、高峰秀子について何か評論めいたことを書ける立場ではない。

女優の高峰秀子が、たぐいまれなる文筆家であったことはよく知られている。

彼女が自身の半生を綴った自伝的随筆『私の渡世日記』は、日本を代表する屈指の半生記といえる。

なにしろ、文章が小気味よい。そして冷静である。

高倉健のエッセイが感傷的なのと、ひどく対照的である。

そして、恐るべき記憶力を駆使して書かれている。

さらに、自身の歩みを、日本の昭和史と重ね合わせて叙述していて、現代史のテキストとしても有益である。高峰秀子自身が、相当な勉強家であったことがうかがえる。

いろいろな著名人との出会いが描かれているが、私がとくに印象的だったのは、彼女が師の一人と仰ぐ、山本嘉次郎とのエピソードである。

山本嘉次郎は、戦前の映画監督である。あの黒澤明が若い頃、師事した監督である。

戦後は、不遇の晩年であったという。

高峰秀子は記す。

「昭和二十年の敗戦後、山本嘉次郎は、時代の激変にあえぎ、あやしげな酒とヒロポンの常用で、みるみる体力を失っていった。山本嘉次郎に欠けていたものは「人を押しのける強靱さ、図々しさ」だけだった。人一倍優しく、やわらかな山本嘉次郎の神経は、戦後の混乱にさか撫でされ、ボロボロとなり、むちゃな痛飲や薬に走るよりほかに、逃げる道がなかったのかもしれない」

それでも山本嘉次郎は、多くの人に慕われていた。

「現場で働く人間にとって、何より嬉しいのは同じ現場の人間に慕われることである。山本嘉次郎の喜びは、私自身の喜びである。そういう意味で、山本嘉次郎は、ちょっと妬けるほど「幸せな人」であり、私には忘れることの出来ない師であり、兄であり、遠く離れた父のような人であった」

私には山本嘉次郎が、多くの芸人に慕われ、最後は不遇なまま破滅的に幕を閉じた泉和助という芸人と、ダブって見える。

それはともかく。

印象的なのは、次の場面である。

高峰秀子がまだ20代の初め頃、退屈そうに空を眺めていると、山本嘉次郎が「ドッコイショ」と、彼女の横に腰を下ろした。

「デコ、一人で、何を考えていた?」

「別に、なんにも…」

「デコ、つまんないかい?」

「つまんない」

「そうかなァ…例えばサ、ホラ、あの松の木を見てごらん。なぜこっちへ向かって曲がっているんだと思う?」

「?」

「たぶん、海のほうから風が吹くんで自然に曲がっちゃったんだよね」

「……」

「普通の人でもタクワンは臭いと思うだろう?でも俳優は普通の人の二倍も三倍も臭いと感じなきゃダメなんだな」

「……」

「なんでもいいから興味を持って見てごらん。なぜだろう?どうしてだろう?って……。考えるっていうのはワリと間が持つよ。そうすると世の中そんなにつまんなくもないよ」

たわいもない話である。だが高峰秀子は気づく。

「松の木やタクワンの話にかこつけて、彼が私に言いたかったのは、どうせ役者になるなら「プロになれ」ということだったのだ」

「好きも嫌いも仕事と割り切って、演る以上はプロに徹しよう。持てない興味をつとめて持とう。人間嫌いを返上して、もっと人間を知ろう。タクワンの臭みを、他人の五倍十倍感じるようになろう」

「私の目からウロコが落ちた。それから三十年。曲がりなりにも役者の道を歩み続けて五十歳になったいま、あのときの山本嘉次郎の言葉がなかったら、いったい私はどうなっていただろう、と慄然とする」

すごいのは、高峰秀子の感性である。

山本嘉次郎のこのたわいもないお喋りから、高峰秀子は、「演るからにはプロに徹する」という生き方の指針を、導き出したのである。

山本嘉次郎は、そんなつもりで言ったわけではなかったかもしれない。

よしんば、彼がそういうつもりで言ったとしても、その何気ない言葉から「プロに徹しろ」という生き方の指針を読み取れる人は、ごく稀である。

高峰秀子が俳優として評価されるだけでなく、文筆においてたぐいまれなる才能を発揮し、多くの人に愛されたのは、この感性によるものではないか、とも思う。

山本嘉次郎の言葉に感化される以前に、高峰秀子はすでに「人間を知る」という点において、比類なき才能を持っていたのではないか、と私は思うのである。

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