名優は名随筆家なり
1月1日(木)
これはまったく個人的な意見だが、高倉健は、いい作品に恵まれなかったのではないか、と思う。
私は高倉健の出演作を熱心に追いかけていたわけではないのでよくわからないが、高倉健の代表作は何か、といわれると、ハタと困ってしまう。なにしろ初期の任侠映画は全く見ていないのだ。
私個人としては「遙かなる山の呼び声」(山田洋次監督、1980年公開)なのだが、多分そう思う人はいないだろう。
「八甲田山」(森谷司郎監督、1977年公開)かも知れない。
「ブラックレイン」(リドリー・スコット監督、1989年公開)もよかった。
「ブラックレイン」のラスト、ともに事件を解決したアメリカの刑事(マイケル・ダグラス)と、空港で別れる場面。
日本の捜査風習に最初は嫌気がさしていたマイケル・ダグラス扮するアメリカの刑事は、やがて高倉健扮する刑事と友情を深めていく。
別れ際、マイケル・ダグラスは高倉健に日本式のお辞儀をする。
すると高倉健は言う。
「違う。親友は、こうする」
そう言って、高倉健はマイケル・ダグラスと、固い握手を交わすのである。
このラストシーンは、何度見てもグッと来る。
高倉健の話す英語は、聞いていて心地よかった。
あとで聞いたところでは、高倉健は英語やフランス語が堪能だったという。
かなりのインテリだったのではないか、と想像する。
高倉健のエッセイ集『あなたに褒められたくて』を読んでみたいと、以前から思っていたのだが、タイトルが何となく照れくさくて、今まで手に取ることができなかった。
思いきって、読んでみることにした。
これが、実にすばらしい。
私が勝手にイメージしていたものとは全然違っていた。
高倉健は、稀代のエッセイストである。じつに味わい深い文章を書く。
実際、この『あなたに褒められたくて』は、第13回日本文芸大賞エッセイ賞を受賞しているという。
なぜもっとたくさん書いてくれなかったのだろう、もっと高倉健のエッセイが読みたい、と思わずにはいられなかった。
半生を自慢げに書いた文章でもない。
著名人との交友録でもない。
ましてや、演技論などでもない。
むしろ、旅先で出会った、名もない人たちとの一期一会が、エッセイ全体を貫いている。
高倉健は、俳優というより、旅人である。
そこで出会った人たちとの何気ない交流が、気負うことなく記されている。
「内蒙古の赤ん坊」は、国境を越えて出会った人との、終生にわたる「絆」を感じさせる名篇である。
一期一会を抱きしめる旅人。
個人的にいちばん好きなのは、「善光寺詣り」というエッセイである。
自分がなぜ毎年の節分の日に善光寺詣りを欠かさずおこなうのか?なぜ善光寺をお詣りすると自分の中で気分が晴れやかになるのか?
好奇心の赴くまま、自分の先祖に関する歴史的考証の森に分け入り、読者を不思議な感覚の世界へと導いてゆく。
過去への考証と、現在の人々との一期一会の描写が、心地よく交差する。
最後の文章がまたいい。
「三十年間のお詣りで仏様にいうことはいつも同じだったような気がする。
『昨年中は有難うございました。こんなに気ままに生きて、昨年はまたしかじかの人の心を傷つけてしまいました。反省します』と手を合わせる。
何か頼んだ覚えは一度もない。これからも同じことを祈り続けると思っている。
しかし、よく考えてみれば、その時々、一番気になっている人の名を挙げ、その人に何とかご加護を与えてください、と祈っている。頼みごとはしない、などといいながら、やはりお願いしてるじゃないか」
エッセイを読む限り、高倉健は煩悶の人である。
そうした自分の気持ちとどう折り合いをつけていくのかが、このエッセイで語られている。
このエッセイを読み終わり、私は思うのだ。
「今年からは、高倉健のように生きよう」と。
…ん?そう書くと、
「ふざけんなてめえ!なに勘違いしてやがるんだ!」と失笑を買いそうである。
正確に言えば、
「今年からは、高倉健のような境地で生きよう」と。
どうせこれからも、旅は続くのだろう。
一期一会を抱きしめて生きる。
そして高倉健が悔恨したように、自分のせいで人を傷つけることのないように生きる。
これが、今年の目標です。
あけましておめでとうございます。
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