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お心入れ

高倉健のエッセイ『あなたに褒められたくて』について、もうすこし書く。

読んでいてハッと思ったのは、「お心入れ」というエッセイである。

「お心入れって、いい言葉ですよね。

お心入れがないんですよね、このごろ…端的に、どこどこの何でございますって、ちょっと高級といわれる料亭行くと、

『ええ、これは琵琶湖のシジミでございます』って。

『聞いてねえよ』って言いたいときがありますね。

どこどこの和牛でございますとか、これは何とかのヒレでございますとかって、みんな説明しちゃうんですものね…。

この自分が今、売る商品に関しての……それはある意味では自信なんでしょうけど、僕はだからお心入れっていうのは、お互いにわかっているって、何も言わないで出すんだけれども、これだけはあなたのために自分は選んできたんだって言いたいけれども言わない。で、出された方は、これだけ気を使って出してもらった、みんなわかってる……それはもうある意味では、文化だっていう気がするんですよね」

この部分を読んで、ハッと思ったことがある。

以前、偉い人たちに連れられて、和食料理の美味しい店に行くことになった。といっても、割り勘である。

その店の主人は、老舗の名店で何年も修業したという人で、たしかに料理は美味しかった。

偉い人たちは、

「料理も美味しいし、いい店だなあ。これから定期的に来ようか」

と言っていたのだが、私はあまりそんな気になれなかった。

もちろん値段が高いので、おいそれと来られる店ではないのはたしかなのだが、理由はそれだけではないような気がした。

高倉健のエッセイを読んでその理由がわかった。

それは、店の主人が、自らの料理についてやたらと説明をしたがるからである。それから、お酒についても同様である。

たしかに料理は美味しいし、自分の腕に自信のある方であることは間違いないのだが、ひとつひとつそれを説明なさるのである。

私にはそれがどうもなじめなかったのである。

考えてみれば、私が好きでよく行っていた飲み屋さんに共通していたのは、店の主人が余計なことをいわず、料理を作り、運んでくるところだった。

親しいもの同士で気楽に喋っているところに、黙って、スッと料理が運ばれてくる。

そういう店が理想なのだ。

おそらく、やたら料理について説明するという風潮は、客のほうにも原因があって、昨今の客は、料理についての説明を求めたがっているからだろう。

つまり提供する方とされる方のお互いが、高倉健のいう「お心入れ」を失わせてきたのである。

さて、この「お心入れ」は、日本の古きよき文化なのだろうか?

高倉健は、そうは書いていない。

同じエッセイの最後に、マイケル・ダグラスのエピソードを書いている。

映画「ブラックレイン」で共演したマイケル・ダグラスが、撮影が終わる10日くらい前の週末、総勢18名をレストランに招待してくれた。

そのときマイケル・ダグラスは、全員に、映画にちなんで特別にデザインしたTシャツをプレゼントした。真っ赤なリボンで結んで。

そのときの印象を、こう書いている。

「オシャレだなあって思いましたね。何日も前からその日のために別染にしてあって。

そんなことを微塵も言わないところが、またいいなあ。

じゃあ、心にそういうのいっさいよぎらないかって、決してそんなことないですよね、生身の人間ですから。そこだけは歯を食いしばって、言いたくないっていうのあるでしょ、大切なことは……。

要するに思いが入ってないのに思いが入ってるようにやろうとするから具合が悪いので、本当に思いが入ってるのに、入ってない素振りをするところが格好いいのかもわからないですね」

「お心入れ」は、日本人だけの「美徳」ではない。

思いを込める人と、思いをくみ取る人がいれば、どこにでも「お心入れ」は存在するのである。

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