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2015年2月

ソウルの焼き肉屋で待ち合わせ

2月28日(土)

2日ほど過ぎてしまったが、OQ忌にあわせて、思い出話をひとつ。

「前の前の職場」の同僚だったOQさんは、毎年おこなわれる学外実習で、10人ほどのゼミの学生を韓国に連れていっていた。私やこぶぎさんもその学外実習に何度かついていった。私が「前の職場」に移ったあとも誘っていただき、部外者であるにもかかわらず参加させてもらっていた。

いつの実習の時だったが、覚えていない。ひょっとしたら、2001年の夏、私がはじめて、OQさんの韓国実習についていったときのことだったかもしれない。

そのとき私は、ひどく体調が悪くて、少し風邪気味だったことだけは覚えている。

ソウルに着いたとき、OQさんが言った。

「これからみんなで行く焼き肉屋さんで、人と待ち合わせているんだけど、一緒に食事してもいいかな」

「かまいませんよ」と私。「どういうかたです?」

「Sさんという人なんだけど」

「Sさん!?」私は驚いた。「Sさんって、あのSさんですか?」

「うん」

Sさんといえば私でも知っている思想家である。当代きっての理論派で、アメリカの大学を拠点に活躍している。私も背伸びをして本を読んでみたことがあるが、あまりに難解すぎて、挫折してしまった。

「お知り合いなんですか?」

「うん。いま、たまたまソウルにいるというので連絡をとってみたら、一緒に夕食でもということになって、焼き肉屋に来てもらうことになったんだ」

いまとなっては、どうやってその焼き肉屋で待ち合わせの約束をしたのかはわからない。あらかじめその焼き肉屋で夕食をとることをOQさんが決めて、Sさんに事前に伝えていたのか…?いやいや、OQさんがそこまで周到に準備をするはずはないから、とりあえず焼き肉屋に入ってから連絡をとったのだろう。

学生たちと一緒に焼き肉屋さんに入る。しばらくしてから、Sさんが現れた。

Sさんは店に入ってくるなり、挨拶もそこそこにOQさんの前に座り、まるで時間が惜しいかのように話しはじめた。

OQさんとSさんは、終始、難解な話をしていたが、体調が悪い私は、ただただ横で二人の会話をボーッと聞いているしかなかった。

ふだん、私やこぶぎさんやkさんの前でバカ話ををしているOQさんとは、全然違う。

なにしろ、(私のイメージでは)あの難解で気むずかしそうなSさんが(実際にはそうではないのだろうが)、わざわざOQさんに会いに焼き肉屋に来るというのが、私にとってはすごいことだった。

(まさか、本で読んだことのあるSさんと、ソウルの焼き肉屋で会うとはねえ)

日本やアメリカでお目にかかる機会は、まずないだろう。

そして、そんな形でSさんと会うことのできるOQさんに対しては、

(この人、実はすごい人なのかもしれない)

と、そのとき思ったのだった。

そういえばもう1人、OQさんのおかげで会うことのできた人がいる。金大中政権のもとで、日韓文化交流を進めたC先生である。C先生は、韓国を代表する哲学者であり、その時点でかなりのご高齢だった。

2000年秋、OQさんが講演会の講師として、「前の前の職場」にお呼びしだのだが、そのとき、夕食をご一緒した。C先生はとても気さくな先生だった。

OQさんに出会わなければ、SさんやC先生とお目にかかる機会もなかった。 まったく気負うことなく、SさんやC先生と会って話をするOQさんを思い出すにつけ、

(やっぱり、この人はすごい人だったのかも知れない)

とあらためて思う。

久しぶりにSさんの難解な本に挑戦してみるかな。

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名言の行方

前回書いた、「禁煙はたやすいことだ。私はすでに何千回もやった」という名言、というか、ジョーク。

これを言ったのは、アメリカの作家・マーク・トゥエインなのか?それともイギリスの劇作家・バーナード・ショウなのか?

ひょんさんとこぶぎさんのコメントのレベルが高すぎる!

本文記事よりもコメントのほうがレベルがはるかに高い。

私はただ単に、「月曜から夜ふかし」を見ていて気になったことを書いただけなのだ!

とくにこぶぎさんは、「引用探偵」という、妙な英語版サイトを見つけてきてくれた!

ここに、ほとんど答えが書いてあるではないか。

Yahoo!知恵袋みたいに、質問者がいて、それに対して「引用探偵」なる者が回答する、という形式になっているのだが、質問の部分については、すでに前回のコメント欄でこぶぎさんが翻訳してくれている。

質問の趣旨はこうである。

自分は友人に、「喫煙をやめるのは簡単だ。私はそれを何百回もしてきた」というマーク・トゥエインのジョークを言ったところ、友人は、「それはコメディアンのW.C.フィールズが言ったジョークで、トゥエインのものではない、しかも、これはもともと飲酒についてのジョークで、喫煙ではない」と文句を言われた。はたして真相はどうなのか?と。

重要なのは、それに対する、「引用探偵」の調査結果である。

原稿を書かなければいけないのでそれどころではなかったのだが、現実逃避をして、英語で書かれたこの調査結果を、まとめてみることにした。

あくまでも概略であり、誤読しているところもあるかも知れない。

書かれている内容は、以下の通りである。

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作家のマーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしかな証拠はない。

コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒」バージョンのギャグを言っている。だが、禁酒バージョンのギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。

最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトルの小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。

マーク・トウェインと禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのときの手紙が「マーク・トウェインと幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである。

禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカのオマハ・ワールド・ヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」

1932年に、鉄道が刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある

「車掌のキャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」

1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任が解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。

「何が問題なんです?私の仕事ぶりですか?」

「いや、仕事は問題ない」

「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」

「仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」

「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」

1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンのジョークがある。

先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」

1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。

禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。

1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。

ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプを一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」

マーク・トゥエインと禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまり、マーク・トゥエインと禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである。

1941年に、カリフォルニアの新聞のコラムニストに、酒飲みが理由で解雇された人のギャグがある。

「あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」

「わかりました。ではお酒をやめます。お酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」

これは、先の1935年の製材所の従業員が解雇されたときの話とまったく同じである。

1945年のリーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエインの名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたからである」が掲載されている。

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…ということで、やはり私が予想したとおり、「禁煙ジョーク」は、もともとテンプレートとしてあったもので、最初は主に「禁酒」だったものが「禁煙」に変わり、さらにマーク・トゥエインの死後、彼が言った名言として広まっていったようである。

このジョークが20世紀前半に集中してあらわれるのは、ひょんさんがいうように、この時期におけるトポスの再評価ともかかわるのかも知れない。

しかしまだわからないことがある。

バーナード・ショウは、どこに行った?

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どっちの名言でショウ

2月26日(木)

先日、あるテレビ番組で、偉人の名言というのを紹介していた。

いちばん印象深かったのが、ロシアの文豪・トルストイの

「人は自分の友に秘密を話すが、その人にもまた友がいるのだ」

という名言である。

友だと思って気を許して秘密(「ここだけの話」)を話すことはよくある。

だが、その友にも、気を許すことのできる別の友がいるのだ。

トルストイのこの言葉は、そのことを気づかせてくれる。

せめて私自身は、友から「ここだけの話」といって聞かされた話を、絶対に「ここだけ」にとどめておこうと決めているのだが、その姿勢が貫かれているかどうか、ときどき自分でも不安になることがある。

さて、その番組で紹介していた名言で、私が不思議に思ったのが、アメリカの作家・マーク・トゥエイン(1835~1910)の

「禁煙はたやすいことだ。私はすでに何千回もやった」

という名言である。

あれ?

この名言って、イギリスの劇作家・バーナード・ショウ(1856~1950)も言ってなかったっけ?

「禁煙なんて簡単なものさ。俺はもう100回もやっているんだからな」

子どものころ、私はこれをバーナード・ショウの言った「ジョーク」だと教わったぞ。

しかも不思議なのは、同じことを言っているのに、マーク・トゥエインが言うと「名言」になり、バーナード・ショウが言うと「ジョーク」と言われる。

名言でもジョークでもどっちでもいいや。この言葉は、いったいどちらが先に言ったのだろう?

生没年をくらべてみると、マーク・トゥエインの方がバーナード・ショウよりも20年ほど前に生まれているので、どうもマーク・トゥエインのほうが先に言った可能性が高い。

とすると、マーク・トゥエインの名言を、バーナード・ショウがパクッたのか?

それとも、バーナード・ショウは、それがすでにマーク・トゥエインの名言として巷間に流布していることを知らずに、まったく同じジョークを思いついたのか?

いや、第三の可能性がある。

実はこの名言が、古くからよく知られている「あるある」のジョークで、それがあるとき、有名な作家のマーク・トゥエインや、バーナード・ショウが言った言葉として、流布していったという可能性である。

よくよく考えてみれば、この言葉は、禁煙だけにあてはまる話ではない。

たとえば「禁煙」を「ダイエット」に置き換えて、

「ダイエットなんて簡単なものさ。俺はもう何百回もやっているんだからな」

としても、いまでも十分に通用するジョークになる。

つまり、

「○○なんて簡単なものさ。俺はもう何百回もやっているんだからな」

という定型文、いまで言うところのテンプレート?みたいのが昔からあって、そこに、「禁煙」をあてはめただけなんじゃないだろうか。

たぶん、マーク・トゥエインやバーナード・ショウの書いたものや発言などを徹底的に調べれば、どっちが先にこの名言を言ったのかといったこともわかるのだろう。

だが、今の私にはそれを調べる時間的余裕がないし、調べ方もよくわからないので、問題提起だけにとどめる。

ちなみに、タイトルの「どっちの名言でショウ」は、「ジョージ・バーナード・ショウ」のダジャレである。

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VIP来たる

2月25日(水)

午後、職場に、昨年10月にもいらした韓国のVIPのお一人が、随行員の方と一緒にいらっしゃった。

基本的には、韓国語がネイティブの同僚と、韓国留学経験の長い同僚の二人で対応すれば十分で、私の出る幕などないのだが、私も念のためお供することになった。

相変わらず、私はほとんど役に立っていない。

しかも、二人の同僚は、VIPとは専門分野が近いのだが、私は、まったく異なるのである。

難しい専門用語が飛び交う中で、必死に聞き取ろうと努力した。

何度でも書くが、語学が上達するための大前提は、母語のボキャブラリーをいかに多く身につけるかである。語学の力は、それまで得てきた知識に比例するのである。

ひとつの用事が終わり、次の用事まで時間があったので、少しの間、応接室で休んでいただくことにした。

「すみません」と同僚が私に言う。「別の用事を済ませなければなりませんので、少しの間、ここをよろしくお願いします」

「はあ」

そう言うと、韓国語の堪能な同僚二人は部屋を出てしまった。

さあ困った。応接室にいるのは、VIPと随行員の方と私の、3人である。私に、二人のお相手をしておいてくれというのである。

もちろん、日本語で会話することはできない。

いったいどうやって、この場をつなげばいいのだろう?

VIPが気を使って、いろいろと私にお話をしていただくのだが、私の知らない専門用語や固有名詞が多すぎて、私にはかなり難しい。

しかし、必死に聞き取りをして、私の頭の中にあるこれまでの知識を総動員しながら、専門用語や固有名詞を、頭の中で特定したり、推定したりしていく。

うなずいてばかりはいられない。話を聞いて、適当なところでコメントを言わなければならない。

そうでないと、話を理解しているというアピールができないのである。

話を聞きながら、(どんなコメントを返そうか…)とコメントを考えなければならない。

結局、話も何となくしか聞き取れず、気のきいたコメントも言えなかったが、それでもひと言二言、「おっしゃることは理解しましたよ」というアピールを込めたコメントを言った。

そうこうしているうちに20分くらいが経ち、ようやく同僚二人が戻ってきた。

「すみません。席を外してしまって…」と同僚二人がVIPに言うと、VIPは、

「いいんだ。おかげでその間、学術的な話ができた」

とおっしゃった。私は気のきいたコメントを言うことができず、自分のふがいなさに落ちこむばかりだったが、VIPは気を使っておっしゃってくれたのだろう。

夕方から、VIPと随行員のお二方を囲んで、総勢10名で歓迎会をおこなった。

VIPは先日と同じように、日本酒の地酒を水のように飲み干し、目の前にいるボンクラな私にまたいろいろとお話になった。私も分からないなりに、必死に聞き取ろうとし、リアクションをとった。

「今日のVIPは、ずいぶん心を開いてお話になっていましたね」

歓迎会が終わったあと、同僚が言った。私は何の役にも立っていないのに、歓迎会が終わって店を出たとたん、どっと疲れた。

たとえ不器用でコミュニケーションがうまくとれなかったとしても、何度かお会いする中で誠実に対応すれば、その気持ちは相手に通じるのではないか、と、韓国のVIPとお会いするたびに、そう思う。

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SNSにご用心

2月24日(火)

昨日に引き続き、今日もとりたてて書くことがない。

SNS、というのものには、ブログも含まれるそうだが、私の中では、FacebookやTwitterなどをすぐに連想する。

先月のことだったか。

A県で、研修会の講師をした翌日、B県に移動して、ある会社に出張したときのこと。

以前から知るCさんという方にお会いした。Cさんは私の顔を見るや、

「昨日、A県で研修会の講師をしていたでしょう?」

といわれてビックリした。

私は、前日にA県にいたことなど、Cさんに言っていないのだ。

「どうして知ってるんです?」

と驚いて聞くと、

「DさんのFacebookで見たんです」

という。

昨日の研修会の様子を撮った写真が、すでにDさんのFacebookにアップされていたらしい。

私は、Facebookをやっていないので、たしかめることはできなかったが。

研修会は公式行事だったし、私も正式に呼ばれていたので、別にFacebookにアップされていることじたいは何とも思わなかったが、驚いたのは、B県のCさんがA県のDさんのFacebookをチェックしていたということである。

もちろん、CさんもDさんも、交友関係が広い方なので、お互いにFacebookを見ていることは容易に想像はできる。

よくわからないが、Facebookで友達関係みたいなことを結んでいると、意識的にチェックしなくても、ほかの人の記事を見ることができるのだろうか。

いずれにしても、恐るべし、SNSである。

Twitterもまた然り、であろう。

思わぬ人から、「○○さんのTwitterでこんなことが書かれていましたね」と言われるようなことも、よくあるのではないだろうか。

で、それで、「○○さんって、Twitterやっているのか」と、そこではじめて気づいたり。

○○さんからすれば、思わぬところから、Twitterをしていることが明かされるのである。

やはり恐るべしSNSである。

そう考えると、私の知らないところで、いろいろなネットワークがはりめぐらされて、いろいろな情報が飛び交っているのかもしれない。

例の、「ははぁ~ん。さては俺のいないところで、みんなで寿司食ってるな」理論である。

人の口にのぼせないようにするには、どうしたらよいかについて、考えてみた。

ひとついいことを思いついた。

それは、

「読んでるあんたも同罪じゃ!」

と思わせる文章を書くことである。

そうすれば、たとえ読まれたとしても、オモテだって話題にする人も出てこないのではないだろうか。

ただ、SNS友達は減るけどね。

余談だが、最もTwitter本来の趣旨に合った使い方をしている人は、つぶやきシローだと思う。

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世界で一人しか書きませんでした

自分のふがいなさに、落ちこむ毎日である。

つくづく自分はダメ人間だと思う。

こういうときは、宇多丸さんとコンバットRECさんの対談を聞いたりして、ゲラゲラ笑ったりしている。

最近、コンバットRECさんに、なんとなくハマっている。あのダメ人間ぶりと妄想癖が、そこはかとなくよい。

世はダメ人間ブームのようだが、正真正銘のダメ人間って、コンバットRECさんみたいな人のことをいうんだぜ。そこのところを間違えないように。

1988年に浪人生だったというから、私とほぼ同い年の人なんだろう。

ところで最近、「まぼろしの人 茶木みやこ」という検索ワードで、このブログにたどり着く人が多いことを発見した。

なぜなんだろう?と思っていたら、35年以上前にTBSテレビで放映されていた「横溝正史シリーズ」、いわゆる古谷一行の金田一耕助モノが、いまDVDマガジンとなって発売されているという。初回は「犬神家の一族」。

もちろん私は、全話見ているので、買う必要はないのだが。

おそらくそのDVDマガジンを買って、「犬神家の一族」を見て、エンディングテーマの茶木みやこ「まぼろしの人」を聴いた人が、この歌についてもっと知ろうと思って、検索をかけてきたのだろう。

そこで、「まぼろしの人 茶木みやこ」で検索をかけてみると、なんと検索結果の最初のページに、私のブログの記事が出てきた。

茶木みやこの「まぼろしの人」なんて、私の世代ならば誰もが知ってる超有名な歌だと思っていたのに、この歌について触れているサイトって、実はほとんどなかったのだな。

これを機に、茶木みやこが再評価されることを、切に願うばかりである。

そういえば、これまで私が書いてきたブログの記事の中で、世界で私しか書かなかったテーマとか素材って、あるだろうか?

いろいろ思い返した挙げ句、「おしゃべり歌謡曲」で検索をかけてみた。

すると、私のブログが筆頭に出た。

いまから30年以上前に放送されていたNHKラジオの「おしゃべり歌謡曲」について、その思い出話をがっつり書いているのは、たぶん世界で私しかいない。

前回書いた「ニットウジ書店」の思い出も、たぶん世界で私しか書いていない。

「ニットウジ」を、本来の漢字に直して検索をかけ直しても、この書店について書いている人はいないのである。

そう考えると、どんなにインターネットが発達しても、世界は意外に淋しいのだ。

これからも、誰もとりあげないようなテーマを見つけて、世界で一人しか書かないような文章を書いていこう。

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原点はニットウジ書店

2月21日(土)

休日は、本屋さんで本を見ているときが、いちばんの至福の時である。

前の職場にいたころは、休日になると、市内に数軒ある「古書のリサイクルショップ」をめぐることが、唯一の楽しみだった。

そのルーツをたどっていくと、小学生のころ、母の実家の近くにあったニットウジ書店という、町に一つしかない、小さな本屋さんにいきつく。

母の実家は、県境を流れる大きな川のほとりにある、陸の孤島のような町にあり、その川のほとりに、小さな小さな本屋さんがあった。

名前をニットウジ書店といった。

盆と正月に、母の実家に遊びに行くと、私は決まってニットウジ書店に行って、漫画本を買った。

もちろん、私が住んでいた東京郊外の方が、大きい書店はいくつもあったのだが、私はこのニットウジ書店が好きだったのである。

後年、私が「前の前の職場」で、何かの折に体育専門の同僚と話をしたときに、その同僚がその川をはさんだ隣県の村の出身であることがわかった。私よりも少し年齢が上の同僚である。

私の母の実家がその対岸の町であることを告げると、

「○○町かぁ。子どものころ、川を越えて、その町の本屋さんまで、よく行ったなぁ」

「ニットウジ書店ですか?」

「そう!ニットウジ書店!うちの村には、本屋さんがなかったからねえ。一番近い本屋さんがニットウジ書店だったんだよ」

あの小さな本屋さんは、じつはその町だけでなく、あの川の流域の町々の「本文化」を支えていたんだ、ということが、あらためて分かった。

数年前に、祖母の法事でこの町を訪れたときに久しぶりにこの店の前を通ったが、すでに店じまいをしていたようで、シャッターが閉まっていた。

私の実家は、新宿から八王子に向かう私鉄の沿線にあり、駅に隣接してK堂というチェーン店の書店があった。だから子どものころはもっぱら、K堂で本を買うことが多かった。

ところで最近、自分にとって「本を買いたい」と思わせる本屋と、「買う気が起こらない」本屋がある、ということに気づいた。

必ずしも、大きい本屋さんだからといって本を買いたいかというとそうではない。むしろ、チェーン店の大型書店にいると、本を買う気が起こらなくなる場合がある。

一方で、時間を忘れて居続けられる小さな本屋さん、というのもある。

これはどういうことなのだろう?

一つ思い出したことがある。

大学を卒業したばかりのころだから、もう20年以上も前のこと、高校時代の友人のKさんにばったり再会したことがあった。

Kさんはそのとき、本の卸会社みたいなところに勤めていた。高校時代から、本が好きな人だった。

仕事の都合上、いろいろな本屋をめぐっているというKさんから、都内の本屋さんの話をいろいろと聞いた。

そのとき、どういう本屋さんがいい本屋さんなの?と聞いてみた。

Kさんは、大きい本屋さんがいい本屋さんだとは限らない、本屋さんの中には、店長さんや店員さんのこだわりが感じられる本屋さんがあって、そういうお店がいいお店だと思う、と答えた。

そのときに具体的に名前があがったのは、やはり新宿から八王子に向かう私鉄の、ある駅の前にある、○○という書店であった。

漢字二文字の書店は、その当時私の聞いたことのない本屋さんだった(のちにその書店は、この地域にいくつかの店舗があることがわかったが)。

さほど大きくない本屋さんだが、仕入れる本のチョイスだとか、本の並べ方などに、店長や店員のこだわりが感じられるのだという。

その話を聞いて行ってみると、たしかにいつも通っている本屋さんとは、少しこだわり方が違っていた。

いまでもたまにその本屋さんに行くのだが、その本屋さんに行くと、つい、多めに本を買ってしまう。知的好奇心をそそられるのである。

本屋さんには、「買う気にさせる本屋」と「買う気を起こさせない本屋」がある、というのはそういうことなのかと、私はKさんの話を思い出しながら思ったのであった。

そして「買う気にさせる本屋」の原点が、ニットウジ書店だったのだ。

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甘い汁を吸う人たち

現職の農水大臣が、13億円の補助金が決定していたある砂糖業界の運営するビル管理会社から100万円の献金を受けていたことが指摘されたが、大臣は「違法性はない」としながらも、その受け取った100万円を返金した。

政治資金規正法は、国の補助金の交付が決定してから1年間の政治献金を禁じている。

当時、農水大臣は、政権与党のTPP(環太平洋経済連携協定)対策委員長で、砂糖はTPP交渉で関税撤廃の例外を求める重要5項目の一つだった。

農水大臣は、その砂糖業界と、その砂糖業界が運営するビル管理会社は「法人格は別」であるとして、違法性がないことを強調した。

このニュース、数年前までだったら、大臣の進退を揺るがす事件になったかもしれないが、いまはすっかり、そんなことがなくなってしまった。

ジャーナリストたちも、これ以上は追求しようとしておらず、大きなニュースにはなっていない。

だが気になるのは、農水大臣と砂糖業界とのつながりである。

砂糖業界と政権与党とのつながりは、近代以降、かなり根深いものがある。

それを執拗に追っていたのが、松本清張であった。

なぜ、砂糖業界と政権与党は癒着してきたのか。

松本清張『現代官僚論』には、次のようにある。

「砂糖会社は、従来、政党と密接な関係を持ち、これが歴代の内閣や政党人の大きな資金調達源になっていた。そのためによく汚職が起り、日糖事件は世に有名である。

それが、戦後は原糖の輸入枠を設けて業者に割当て制をとることになった。それは黒い原糖を白く精製するだけのいわゆる「クリーニング屋」と悪口を叩かれている「精糖」だ。安い原糖を買って、クリーニングすることで高く売る砂糖業者が文字通り甘い汁を吸ってきたことは、これまで政党の食いものになったことでも分かる。」

松本清張が、砂糖業界と政・官との癒着について描いた小説は、以下の3つである。

「ある小官僚の抹殺」1958年

『中央流砂』1966年

『溺れ谷』1974年

松本清張の小説を読めば誰でもわかるように、農水大臣と砂糖業界との癒着は今に始まったことではなく、近代以来の長い歴史がある。もちろん、昨今のジャーナリストたちは、そんなことは百も承知なのだろうが、それ以上深入りする気配もない。

松本清張が生きていたら、どんな分析をしてくれるだろう、と思う。

なお念のため断っておくと、『中央流砂』は、砂糖をめぐる汚職事件をとりあげてはいるが、官僚組織の実態や行動様式を描くことに主眼を置いている。国の役所や役人の身近で働いてきた私にとっては、実に人間観察の参考になる本である。

ちなみに『中央流砂』と『現代官僚論』を読み合わせていくと、小説『中央流砂』に登場する官僚が、実在の官僚をモデルにしていることが、よくわかる。『中央流砂』で鍵を握る登場人物である「岡村局長」は、河野一郎農林大臣の下で、彼を支えてきた安田善一郎という官僚を、明らかにモデルにしている。

心覚えのために、書き記しておく。

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正解してもどうということのないクイズ

2月20日(金)

足の裏がまだヒリヒリするので、見てみると、足の裏の皮がむけていた。

どんだけ足の裏が弱いんだ?

喉の痛みはだいぶひいたが、咳は相変わらず止まらない。

左足の例の痛みも、まだ少し残っている。やはり夕飯に海鮮丼を食べたのがよくなかったか。

体調が悪いと、どんどんマイナス思考になる。

ある日突然、自分の味方だった人たちに見捨てられるんじゃないか、って不安になったりする。

よかれと思って言ったり書いたりしたことが、かえって人を不快にさせたりとか。

まあ人間なんてもんは、そんな感じで後悔と反省の繰り返しなのだが。

それで人が離れていったとしても、それはそれで仕方がないのだ。

出張の空き時間や移動中に、『立川談志 まくらコレクション』(竹書房文庫)という本を読んで、大笑いした。

「まくら」とは、落語の本題に入る前のオープニングトーク。そればかりを集めて書き起こした本である。

談志師匠の人となりについては、好き嫌いに分かれるだろうから、無理にお薦めはしない。

とにかくすべてのまくらが面白すぎるのだが、一つだけ、私が読んで妙におかしかったものを紹介する。

談志が佐藤栄作首相の家に行ったときの会話が秀逸である。

「紅茶でいいかね?」

「ええ、我慢強い方ですから、何でも結構です」

「我慢強い方ですから」っていう表現がいいねえ。いちどこのフレーズを使ってみたいものだ。

読んでいるうちに、落ちこんでいる自分がバカバカしくなる。

ということで、気分を変えてこぶぎさん向けクイズです。

私はなぜ、下の写真を撮ったのでしょうか?

Photo

ついでにもうひとつクイズ。

先週私が訪れた「市内に小さな川が流れている町」と、今週私が訪れたこの町に、共通してゆかりのある昔の偉い学者とは、誰でしょう?

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最弱の足の裏

2月19日(木)

またまた旅の空です!

…といっても、体調は最悪である。

咳が止まらないばかりか、咳をするたびに、喉が焼けるように痛くなる。

おかげで夜もあまり眠れない。

その上、左足も痛くなってきた。

例のあの病気である。

まさに満身創痍。

だが、仕事に穴を空けるわけにはいかない。

朝8時半、都内某所にある業者の工房から、車に乗って出発する。

業者のオッチャンの運転で、高速道路を颯爽と車が走る。

途中までは天気に恵まれ、雪化粧の山々が青空に映える姿がとても綺麗だった。

しかしこの感動を、とくに心を開いているわけでもない業者のオッチャンと共有する、というのも、なんだかなあ。

高速道路を走行して6時間ほどかかり、ある都市に到着した。

15年ぶりくらいに訪れた町である。

夕方、ミッションを無事に終え、業者のオッチャンと別れ、ホテルにチェックインした。

そういえばと、ふと思い出す。

友人のひょんさんが、旅先で見つけた雰囲気のいい喫茶店の写真を、たまにメールで送ってくれるのだが、…というのも、私が将来喫茶店を開くための参考にしてもらいたいために送ってきてくれるのだが…、その中に、彼がこの町に訪れたときに立ち寄った喫茶店の写真があったことを思いだした。

写真をたよりに喫茶店の場所を探すと、私が泊まっているホテルから、さほど遠くない場所にある。

試しに行ってみることにしよう。

ホテルのチェックインをすませたあと、ホテルを出て、その喫茶店に向けて歩き出す。

ボーッと歩いている道中、私がいま、どこに来ているのかわかんなくなってきた。

出張が続くと、自分がいまどこにいるのかわかんなくなる、というのは、出張の多い仕事の人にとっての「あるある」である。

今回もまさにそうだった。

大通りを歩いていると、「武蔵」だの「近江」だの「めいてつ」だのと書かれた大きな看板が、目に入ってくるのだ。

「あれ?俺って、武蔵野にいるのか?琵琶湖の町にいるのか?名古屋にいるのか?」

と、頭の中が混乱してきたのである。

いったん立ち止まって、

(ええぇっと、俺はいま、どこに来ているんだっけ?)

と呼吸を整えて必死に考え、なんとか思い出した。

喫茶店の場所は、いちおう事前に地図であたりをつけておいたのだが、絶対的な方向音痴の私は、案の定、その喫茶店を見つけられない。

路次を入ってみたりしたのだが、全然それらしい店がない。

道行く人にも聞いてみたが、誰もが「そんな店、知らない」という。

さては、騙されたか?

「迷ったときは、原点に帰れ」というのが、シャーロック・ホームズの推理の鉄則である。

そこで、来た道をもう一度戻り、大通りに出てみると、なんと、大通り沿いにその店があった。つまり私は、気づかずに通り過ぎていたのである。

どんだけ方向音痴なんだ?

だが、私が通り過ぎたのも無理はない。

Photoガラス張りになっているその店には、電気もついておらず、中に誰もいなかったからである。

おかしいぞ。事前に調べたところでは、定休日について何も書いてなかったし、営業時間は6時までとあったぞ。

いまは5時半である。

どういうことだ?

また私は、入りたかった喫茶店には入れなかったということなのかぁぁぁ???

どんだけ喫茶店運がないんだ???

これはもう、「入りたい喫茶店には入れない」呪いがかけられているとしか思えない!

(仕方がない。帰ろう)

来た道を帰っていると、途中で猛烈に両足が痛くなった。

尋常じゃない痛みである。

といっても、例の病気の痛みとは、まるで違う。

足の裏が、靴擦れしたみたいにヒリヒリと痛いのだ!痛くてこれ以上歩けないぞ。

おかしい。履いているのは、お気に入りの履き慣れた靴なのに!

なぜ足の裏が靴擦れしたみたいに痛くなったんだろう?

ハタと思いだした。

そういえば今朝、「靴下用カイロ」を靴下の底の部分に貼って、その上から靴を履いてきたのだった。

ふだん私はカイロをほとんど使わないのだが、今日は風邪をひいているので用心のためにカイロを使おうと思い、妻に、

「うちにカイロない?」

と聞いたところ、

「私が全部使っちゃった。靴下用カイロなら一つあるけど」

という。

「靴下用カイロ?そんなの効くの?」

「靴下の底の部分に貼って靴を履けば、あったかいよ」

「ふうん」

ということで、言われるがままに、靴下の底の部分に靴下用カイロを貼り、靴を履いて出かけたのだった。

しかし、ここで私は、もうひとつ肝心なことを思い出した。

私は子どものころから扁平足で、足の裏がビックリするくらい軟弱なのだ!

ちょっとでも足の裏に違和感があると、たちどころに足の裏がひりひりするほど痛くなるのである。

例えば子どものころ、履き慣れないビーチサンダルを履いたら、足がたちどころにマメだらけになって、最後は歩けなくなるほどヒリヒリと痛くなった、とか。

以前、浴衣を着て草履を履いたときなんか、草履が足に合わなくて、足の裏がヒリヒリと痛くなり、やはり歩けなくなってしまったこともある。

今回もそうだ。足の裏と靴底との間に、いままでに経験したことのない「違和感」が生じたため、足の裏が反乱を起こし、ヒリヒリと痛み出したのである。

私は即座に靴を脱いで、靴下にくっついていた靴下用カイロをベリベリとはがした。

すると、先ほどの痛みがウソのように消えていったのである。

(とんでもない災難だった!しかも、さほどあったかくもなかったし!)

これは、ふつうのカイロを使い切った挙げ句、足の裏が弱い私に靴下用カイロを勧めた妻が悪いのか?

それとも、私の足の裏が悪いのか?

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多事争論!

2月17日(火)

風邪がまったく治らず、体調が最悪なので、こういうときは極端なマイナス思考に陥ってしまう。

この数日のニュースを見て思ったこと3つ。

1.ある市で、基地の近くにある小中学校が軍用飛行機の騒音に悩まされているので、窓を閉めて授業ができるように教室にエアコンをとり付けてほしい、ということになったのだが、現職の市長が、これを認めなかったため、住民投票をおこなったという。

もともとエアコンを取り付ける方向で話が進んでいたのだが、市長が「扇風機で十分。子どもに冷房は不要」「暑いからエアコンを単純に与えるのではなく、子どもに厳しい環境で努力してもらうことも必要」としてこれを拒否した。

で、住民投票になったわけだが、投票結果自体はエアコン取り付け賛成派が反対派を上回ったのにもかかわらず、投票率が低く、賛成派は有権者の3分の1に満たなかった。市長はこの結果を受けて、慎重に判断するという。

この市長、何もわかっていないんじゃないか、と思う。

夏に、狭い教室に、児童や生徒が30名いるだけで、室温が相当上がるのだ。

ゆったりした市長室を、ひとりで涼しげに使うのとは、わけが違うのである。

ちなみに、前の職場で教室の冷房の温度を「28度」に設定するようにというお達しが来たことがあったが、これも、バカじゃないか、と思った。

夏に、大学生が100人いる教室で、室温を28度に設定すると、暑くて授業どころではなくなる。本部の理事たちは、何もわかっていないと思った。

この市長もたぶん、想像力がないのだ。

そのうち、「兵隊さんがあんなに頑張っているのだから、飛行機の音がうるさいなどとクレームをつけてはいけません。ましてや冷房をつけるなんて、頑張っている兵隊さんに失礼です!」

と言い出しかねないんじゃなかろうか。

いや、この市長に限らず、早晩、そんな空気の世の中になってしまうだろう。

一度、市長を含めた市の偉いオジサンたちが、夏に30人ほど、冷房のない教室で、窓を閉めたまま、まる一日授業を受けることをお薦めする。

2.私は、スポーツ観戦に、まるで関心がない。

それでも子どものころは、プロ野球に少しは関心があったが、今ではまったく関心がなくなってしまった。

メジャーリーグで活躍していた選手が、来年度以降の高額契約を蹴って、自分がもといた、日本のプロ野球球団に「里帰り」して、来年度からは日本のプロ野球でプレイをする、というニュース。

この復帰を、テレビのニュースでは、「男気」とか何とか、言っていた。

これも私にはよくわかんない。

まず、「男気」という前時代的な言葉を何の抵抗もなく使っている報道番組もどうかと思うのだが、まあ「男気」は百歩譲るとして、メジャーリーグを蹴って地元の球団に戻ることが、なぜ「男気」なのか?

これが、地元を飛び出して、未知の世界であるメジャーリーグの舞台に挑む、というのであれば、「男気」と言われても、まあそうかな、と思う。

ところがこれは、その逆である。

私には、「男気」というより「内向き」と思えてならないのだが、まあこれも、私がプロ野球事情をまるでわかっていないだけの話であり、私以外の全員は、そんなことは露も思っていないのだろう。

ただ私は、「内向き」を「男気」として賞賛する空気の世の中になってしまうことを、恐れるのみである。

3.有名な作家が、新聞のコラムで、人種隔離政策を平然と容認する文章を書いて、物議を醸している。

この作家は、以前からいくつもの問題発言をしている。おそらくこの作家固有の人間性に由来すると考えざるを得ない。

「女性がセクハラを受けたら、なぜその場で『やめてください!』と言えないのか。それを言わない女性が悪い」

みたいなことを、平然と書いているのだが、はぁ?こいつ何もわかってないなあと思う。

それが言える状況すらを、セクハラの加害者たちが封じていることに、この作家は、まるで想像しようとしない。

やはりこの作家も、人間に対する想像力が著しく欠如しているのだ。

ちなみに、この作家の夫も作家なのだが、やはりまったく同じ選民思想の持ち主である。

私は、この作家の本がなぜ人気があるのか、不思議でならない。

…というわけで、体調が悪いと、この世の中に絶望することばかりである。

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原稿ため込み党の追い込み

2月15日(日)

出張中の2月13日、メールで原稿の催促が来た。

「2月10日が原稿の締切になっていますが、進捗状況はいかがでしょうか。17日の午前に編集委員会で原稿の読み合わせをしなければならないので、16日(月)までにお送りください」

ええええぇぇぇぇぇっ!!!

すっかり高をくくっていた。

その原稿は、専門の話を一般向けに書いてくれという依頼で、400字詰めで10枚~12枚程度という指定字数であった。

与えられたテーマが、荷が重すぎるのと、なんとなく気乗りがしなかったため、締切が過ぎてもまったく手を付けていなかったのである。

それに、出張中にひどい風邪をひいてしまって、出張先で書くこともできない。

これは週末が勝負だな、と思ったが、14日(土)の午前中は、Mさんの蔵書を引き取りに行かなければならず、その作業ですっかり疲れてしまった。

それに、何を書いていいのか、この時点でもまったく分かっていない。

(仕方ない。明日の日曜日に賭けよう)

もう待ったなしである。

しかしやはり体の調子が悪く、午前中は身動きがとれなかった。

お昼を食べ、「さんまのまんま」を見ていたら、すでに午後1時半である。

(いかん!これでは今日一日も終わってしまう!)

とりあえず、車で職場に行って原稿を書くことにした。

ところが、ここで奇跡が起こる。

ラジオもかけず、音楽も聴かず、ひたすら運転していると、なんと原稿の神が降りてきた。

今まで、何を書いていいかまったく分からなかったのだが、仕上がりが何となく見えてきたのである。

職場に着き、仕事部屋で原稿を書き始める。

気がつくと、3時間半ほどで、おおよその原稿が書き上がっていた。

「そのていどの時間で書き上げられるなら、もっと早くはじめておけよ!」

と非難されそうだが、そういう問題ではない。

原稿とは、仕上がりのイメージができあがってはじめて、書けるものなのである。

だから大事なのは、仕上がりがイメージできるようにすることである。

たぶんこれは、原稿に限ったことではないだろう。

原稿の全体の構成が見えてきて、仕上がりがイメージできるようになること。

これを、「原稿の神が降りてきた」という。

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異端を継ぐ

2月14日(土)

昨年の夏、同業者のMさんが亡くなった。

通勤の電車の中で倒れ、そのまま帰らぬ人となったという。まだ50代後半という若さだった。

私は、一度しかお目にかかったことがなく、日常的なおつきあいはまったくなかった。

それからしばらくして、秋になったころ、Mさんと同門の方が私におっしゃった。

「いま、Mさんの大学の研究室の蔵書整理をしているんですよ。あなたにぜひお願いしたいことがある」

「何でしょう?」

「Mさんの蔵書の中に、韓国関係の研究書がたくさんあるんです。一度、研究室に見に来てもらえませんか。それで、もしあなたの希望の本があれば、それをひきとってもらいたい」

よくよく聞いてみると、次のようなことであった。

Mさんが亡くなったあと、今の大学の研究室をそのままにしておくわけにはいかず、遅くとも年度が終わる3月末までには完全に研究室を明け渡さなければならない。

そのために今、Mさんの奥さんと娘さんが中心になって蔵書の整理をしているのだが、何人かの同業者に呼びかけて、できるだけ蔵書をひきとってもらい、その残りを古本屋に売るなどして処分したい、というのが、奥さんの意向である。

もともと日常的なおつきあいのない私にその話が来たのは、同業者の中で韓国関係の研究書に関心があるのがは私くらいしかいない、というのと、Mさんの研究室が私の職場から比較的近い、という二つの理由によるものだった。

Mさんと日常的なおつきあいがなかったが、私はMさんの研究にとても魅力を感じていたし、Mさんのお人柄についても、いろいろな方から聞いて知っていた。

誰もがMさんについて口にするのは、次の二つである。

一つは、博覧強記である、ということ。

研究対象を日本だけではなく、中国や韓国など、東アジアまで広げて、あらゆることに好奇心を持っていた。その博覧強記ぶりは、多分野の専門家たちが驚嘆するほどであった。

もうひとつは、お酒をこよなく愛していた、ということ。

Mさんのことを語る人は、もっぱら、Mさんとお酒の席をともにすることがいかに楽しかったか、という話をしていた。

さて、私が一度だけお目にかかったというのは、今から7,8年ほど前の、小さな研究会の席である。

Mさんのところにご挨拶に行くと、

「前からあなたにお会いしたいと思っていましたよ」

と言われた。

研究会の席で、Mさんは何も見ずに、古今東西の事例をひきながら、滔々と発言された。私はそのお話に、すっかり引き込まれてしまった。

研究会が終わったあと、Mさんの行きつけの中華料理屋に行き、一緒にお酒を飲んだ。

「飲み助」という言葉がピッタリの人で、終始、楽しいお酒だった。

一度しかお話しする機会はなかったが、私もまた、Mさんの博覧強記ぶりと、飲み助ぶりの両方を実感したのである。

さて、蔵書整理に話を戻す。

奥さんと娘さんが研究室に赴いて蔵書整理をしているのだが、奥さんはお仕事をされているし、娘さんは大学に通っているので、時間の空いているときしか整理ができない。ついては、奥さんや娘さんが蔵書整理されている日に合わせて、来てもらえないか、という。

ということで、日程調整をして、Mさんの研究室を訪れることにした。

最初に訪れたのが、1月13日の午前である。

研究室を訪れて、驚いた。

膨大な蔵書量である。

日本の本だけでなく、中国で刊行された本や韓国で刊行された本もたくさんある。

ジャンルも、Mさんが関心を持ったあらゆる研究テーマのものを、徹底的に集めたことが、よくわかる。

(よく、こんな本見つけてきたなあ)

と思う本ばかりなのである。

「これでも、いろいろな方に本を持っていってもらったんですよ」と、奥さんが言う。

私は、正直、困ってしまった。

私の研究室は、すでにもう本であふれていて、これ以上、まとまった量の本を研究室に運び入れることはできない。

最初は、最小限のものだけをお引き取りしようか、とも思っていた。しかし、奥さんが言う。

「一冊でも多く活用してもらえれば、Mも喜ぶと思うんです」

たしかに、これだけのマニアックな本を、古本屋に引き取ってもらったとしても、そのあとはどうなるかわからない。とくに、ハングルで書かれた本であればなおさらである。

私は腹を括って、韓国関係の本をできるだけお引き取りすることにした。

それにしても膨大である。

ひきとろうかどうか迷うものもあったので、とりあえずこの日は最小限のものを段ボールにつめて、自家用車で職場の研究室に運んだ。それでも8箱くらいにはなったと思う。

だがその後も、迷った挙げ句にひきとらなかった本のことが気になって仕方がない。

2回目は、1月21日の午前である。

この日もまた、韓国関係の本を中心に、段ボール8箱ほどを引き取った。

それでもまだ、迷った挙げ句に引き取らなかった本があった。

「あのう、もう一度うかがってもよろしいでしょうか」と私。

「ぜひお願いします」と奥さん。

日程調整をした結果、あとは2月14日しかないことが判明した。

この日が、蔵書整理の最終日で、このあと、古本屋に本を引き取ってもらうことになっているのだという。つまりこの日がタイムリミットなのだ。

ということで今日の午前。

Mさんの研究室に向かう道中で、車を運転しながらつらつらと考える。

同業者の中でも、Mさんほど、幅広く、しかもマニアックに研究されている方はいなかった。

私がその蔵書の一部を引き継いだとしても、私がMさんほどに、その本を使いこなすことはないだろう。

では、かといって、ほかに関心を持ってくれる同業者は、いるだろうか?

私が長年、同業者たちを見てきて、思ったことが一つある。

それは、研究者というのはそのほとんどが、自分のしていること以外に関心を持たない、ということである。

前の職場でも感じたことだったが、ほとんどの同僚の研究室には、自分の専門分野の本がシンプルに並べられているにすぎなかった。

研究者は変人だと思われがちだが、とんでもない。

研究者こそ、常識にとらわれ、自分の殻から出ようとしない、視野が狭く、頭の固い人種なのである。

その点から言えば、Mさんはれっきとした変人である。異端といってもよい。

だが、変人とか異端こそが、突然変異のごとく、その分野を革新するパワーとなるのだ。

常識的で視野の狭い凡百の連中からだけでは、何も新しいことは生まれてこない。

では、Mさんの異端ぶりを、いったい誰が受け継ぐのか?

誰かが受け継がなければならない。

そこでハタと気づく。

蔵書を引き取るということは、Mさんの異端としての生き方をも、受け継ぐということなのではないか。

結局私は、Mさんの集めた韓国関係の蔵書のほとんどを、引き取ることにした。

全部で段ボール8箱におさめ、これで都合24箱である。

自分の研究室にもはや置いておくスペースはないが、まあ何とかなるだろう。

3回にわたる蔵書引き取り作業が、これで終了した。

「どうもありがとうございました」と奥さん。

「こちらこそどうもありがとうございました」と、お辞儀をして別れた。

大学生の娘さんが、8箱の段ボールを私の車まで運ぶのを手伝ってくれた。

台車を使って運んでいる道中、娘さんが私に聞いてきた。

「これ、全部ハングルで書かれた本ですか?」

「まあだいたいはそうです」

「ちっとも知りませんでした。韓国の本がこんなにあったなんて…。それにしても不思議です」

「何がです?」

「父は、韓国語が全然できなかったんですよ」

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その川のほとり

2月13日(金)

その川の名前を知ったのは、いつのことだったか。

何かの文章を読んだときに、その川の名前を知った。それはひどく感傷的な文章で、その中に、この川のことが少しだけ記されていた。名前の響きと、その川が市内を流れる小さな川だ、というところに、何となく惹かれていた。

私は、そのとき読んだ文章から、訪れたこともないその川の情景を、思い浮かべたものである。

このたびの出張では、忙しくて準備に時間がとれず、地図も何も持ってこなかった。

しかも、まったく土地勘がない。

出張初日のお昼休み、外のレストランで昼食をすませたあと、調査仲間のAさんが言った。

「この道をもう少し歩くと、○○川に出ますよ」

「○○川!」

私は、ほとんど忘れかけていたその川の名前を、思い出した。

そうか、あの川は、この町にあったのか。

午後、調査はこれまでにないほど順調に進んだ。

ただ、午後から私は、急に寒気がしてきて、体がだるくなった。

どうやら本格的に風邪をひいたらしい。

翌日。

調査が思いのほか早く終わり、帰りの飛行機まで時間があったので、調査仲間たちは、県内の名所を訪ねることにするという。

バスに乗って、大河ドラマで有名になった町をおとずれるというのだが、予定を聞くとかなりの強行軍で、風邪をひいている私には、とてもその体力がない。

私は、仲間たちと別れ、飛行機の時間まで市内を歩くことにした。

目的は、その川のほとりを歩くことである。

町のはずれの、国宝の五重塔があるお寺から、その川沿いの道を、町の方へ歩いて下っていく。

その小さな川は、閑静な住宅街の真ん中を静かに流れていく。

小さな川の両側には、散歩道があって、ゆっくり歩くのにはちょうどよい。

そして川の水は、透き通るほど美しい。川の流れる音も心地よい。

川の流れる音が心地よく聞こえるほど、町は静かなのである。

不思議である。

その川の景色は、私がずっと以前、その川について想像していた情景と、ほとんど変わりがなかったのだ。

途中、古びた喫茶店があった。

その店の名前も、たしかそのとき読んだ文章に出てきた名前である。

店の中に入ると、所狭しとアンティークがならんでいて、古きよき喫茶店、といった感じである。

そこで食べたミートソースは、いたってふつうの味だった。

しかし、町中を静かに流れる小さな川のほとりを散歩して、川沿いの喫茶店でひと休みする、という時間こそが、贅沢な時間である。

そして自分がかつて思い描いていた川の情景に出会うというのは、幸福なものである。

川のほとりは風が冷たかったが、私の体調は少しずつ戻っていった。

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ついに風邪をひく

2月12日(木)

恐れていたことが起こった。

どうやら本格的な風邪を引いたらしい。

調査は朝から始まったが、午後になって、急に寒気がして、ヘンな汗が止まらなくなった。

調査自体は夕方に無事終了したのだが、終了と同時に、さらに悪化していった。

ホテルの部屋が極度に乾燥していたためだろうか。

だるくてしかたがない。

まああれだけ無茶な移動を繰り返していたわけだから、自業自得である。

週末も、やらなければいけないことが目白押しで、明日の夕方東京に帰るまでには、熱を下げなければいけない。

はたして、熱は下がるのか?

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メタリックと背広と八丁味噌

2月11日(水)

またまた旅の空です!

飛行機で「黄色いガードレールの県」にやってきました。

泊まっているホテルは、この県出身の詩人の記念館のはす向かいです。

…まあわからないだろうな。

明日の朝から2日間にわたって、「眼福の先生とその仲間たち」による調査である。そのために、前日に現地入りしたのであった。

夜、みんなが現地に集合し、「眼福の先生」を囲んで食事をした。

傘寿を越える先生だが、お話しは尽きることがない。

例えば、こんなお話。

「眼福の先生」が東京の大学を定年退職したあと、ある地方の小さな私立大学で教鞭をとることになった。数年間の単身赴任が始まった。

研究に専念できた東京の大学とは勝手が違って、地方の小さな私立大学の学生は、とても個性的である。

「眼福の先生」といえば、その分野では知らない人はいない、というほどの碩学なのだが、地方の小さな私立大学の学生にとっては、そんなことはまったく関係ない。

先生の受け持っていた学生の中で、ひとり、ほとんど大学に来ない学生がいた。

たまに大学に顔を出すのだが、腰のあたりに、たくさんの金具のようなものをジャラジャラとぶら下げている。

今でいう「チャラ男」である。

眼福の先生は、その学生のことを「メタリック」と名付けた。

メタリックが、4年生になった。

卒論を出さなければ、卒業できない。

提出の直前になって、メタリックは「眼福の先生」に、卒論をどうしたらいいかわからない、と相談に来た。

それはそうである。だって、今まで全然大学に来ていないんだから。

さあ困ったのは、眼福の先生である。

メタリックに、どうやって卒論を書かせたらよいか。

困り果てたあげく、眼福の先生はメタリックに言った。

「君が今いちばん関心のあることを書きなさい。君は何に関心があるんだ?」

するとメタリックは、「よくぞ聞いてくれました」と、話を始めた。

メタリックは、バイクが好きで、ひとりでバイクを走らせて日本を一周したのだという。

彼が大学にほとんど顔を出さなかったのは、バイクで日本一周していたからだったのだ。

その話をじっと聞いていた眼福の先生が言った。

「じゃあ、そのことを書きなさい。君が、バイクで全国を旅している間、どんな人と出会い、どんな人に助けられ、トラブルをどうやって乗り越え、どうやって全国を一周したかを、事細かに書きなさい」

メタリックは、それを書いて、卒論として提出した。

文章はとても読めたものではなかったが、彼は先生に言われたとおり、バイクの旅の一部始終を事細かに書き記していた。

そして、なんとか卒業することができたのである。

卒業式の日。

眼福の先生は、メタリックの姿を見てびっくりした。

ふだん見慣れている、腰のあたりに金具をジャラジャラぶら下げた格好ではなく、およそ不似合いな背広を着てきたからである。

「君、その背広どうした?」

「僕は背広を持っていないので、お父さんに借りました」

どうりで似合わないはずである。

「先生、今までありがとうございました」

そう言うと、メタリックは先生にあるものを渡した。

「これは何だね?」

「八丁味噌です」

「八丁味噌?」

八丁味噌は、この地域の名物である。

「まさか君が、こんなに気がきく人間だったとは思わなかったよ」

眼福の先生が驚いて言うと、

「先生にお渡しするようにと、親に言われたんです」

背広も八丁味噌も、メタリックには、およそ不似合いなものだったが、メタリックにとってみれば、最大限の誠意だったのだろう。

「それ以来、八丁味噌が好きになってね」

「眼福の先生」は、あのころを思い出したように、そうおっしゃった。

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飛行機通勤

2月9日(月)

またまた旅の空です!

土曜日の夜遅くに韓国から成田空港経由で帰宅し、翌日曜日は、例によって体が鉛のように動かなくなってしまった。

で、月曜日の今日、職場で夕方まで仕事をして、夜7時半の成田発の飛行機で福岡に向かった。

明日(火曜日)、福岡で仕事をして、夜遅くに羽田空港経由で家に帰る。

その次の日の水曜日は、こんどは羽田空港から「ガードレールが黄色い県」に向かう。2泊3日で調査である。

つまり、今週は金曜日まで出張が続くのだ。

以上をまとめると、

4日(水)、家→成田空港→韓国

7日(土)、韓国→成田空港→家。

9日(月)、家→職場→成田空港→福岡

10(火)、福岡→羽田空港→家

11日(水)、家→羽田空港→「ガードレールが黄色い県」

13日(金)、「ガードレールが黄色い県」→羽田空港→家。

となる。

まるで飛行機で通勤しているみたいだな。

福岡に行くということで、今朝8時過ぎ、福岡に住む高校時代の友人、コバヤシにメールを打った。

「今日夜10時頃に福岡に着きます。もし時間あれば軽く一杯でも」

すると夜、

「まあ暇は暇です」

と返事が来た。

前にも書いたと思うのだが、どんなときにもすぐに対応してくれる友人は、福岡のコバヤシくらいなものである。

夜10時過ぎ、私が泊まるホテルの近くで落ち合うと、

「相変わらず、急に連絡してくるやつだな」

とコバヤシが言う。

「たしかに、急に連絡したのは、悪かったと思うよ」と私。

「前にお前、『急に連絡して食事につきあってくれる友人は福岡のコバヤシくらいなものだ』とブログに書いていただろう」とコバヤシ。「あんなふうに書かれたら、来ないわけにはいかないだろう」

コバヤシも、自身の「キャラ」というものを意識しているらしい。

私が、ここ最近、出張続きで「忙しくてイヤダイヤだ」と言っていると、

「お前、相変わらずだな。やっぱり人間ていうのは、いくつになっても変わらないものだなあ」

と感慨深げに言う。

「どういうことだ?」

と聞くと、

「お前は昔から、自分の置かれた境遇を『イヤだイヤだ』とのろっていた。しかし実際はそうではない。本当は自分から進んで、その選択をしているんだ」

「そうか?」

「そうだ。俺はそんなお前を、いつも面倒くさいヤツだと思っていたのだ」

相変わらずのダメ出しである。

まあいつものことなのだが。

福岡の魚と九州の焼酎を飲みながら、コバヤシがたまに通っている魚料理の美味しい店の話題になった。

「こんど時間があったら連れてってやるよ」とコバヤシ。

「どういう店だい?」

どうもその店の主人というのは、もともと湯布院かどこかのホテルの料理長をしていた人だったのだが、嫌気がさしたのか料理長を辞めてしまい、福岡の薬院というところで、小さな自分の店を持ったのだという。そこで、自分の作りたい料理を作って出しているのだそうだ。

その話を聞いて思い出したのが、私が「前の職場」にいたころにたまに通っていた、「よく喋るシェフのいる店」である。

「よく喋るシェフ」もまた、もともと大きなホテルで料理長をしていたが、あるときそのホテルを辞めて地元に帰り、住宅街の一角に小さな洋食屋を開いたのだった。

「いつも不思議に思うんだが」と私。「料理人っていうのは、最終的には、小さくても自分のお店を持ちたいものなのかね?ホテルの料理長をしていた方が安定していると思うんだが」

コバヤシはすぐさま答えた。

「料理人はさ、やっぱり、目の前でお客さんが自分の料理を食べてくれて、『美味しい』と言ってくれるのが、いちばん嬉しいんじゃないか?」

「なるほど、そうか」

「ホテルの料理長をしていたら、たくさんの人の料理は作るけど、お客さんの顔は見えないだろう。でも料理人の何よりの喜びは、目の前で食べてくれた人が『美味しい』と言ってくれることなんだと思うよ。だから、小さくても自分の店を持ちたいんじゃないだろうか」

なるほど、考えもしなかった。

「だが、俺の知ってるそのシェフは、いつも『こんなお店、辞めたい』と愚痴を言っていたぞ」

と、私は「よく喋る店のシェフ」が私にいつも愚痴を言っていたことを思いだして言った。

それに対してもコバヤシは答える。

「そりゃあ、店を持つってことは大変さ。休みの日は仕入れをしなきゃいけないし、たとえ営業時間が夜の数時間だけだったとしても、それ以上の仕込みの時間が必要だ。そう考えたら、休む暇なんてないだろう」

「そうだな」私はふたたび、「よく喋るシェフ」のことを思い出した。

「つまり、料理人として自分の店を持てるということは、それだけで大変な能力と努力を兼ね備えた人ということだ」

「じゃあ、俺の知ってるあのシェフもか?」

「もちろんそうだ。『イヤだイヤだ』と口では言っているが、好きでなければ、続けられないはずだ」

「それもそうだな」

「お前だってそうだろう」

私はハッとなった。

「お前だって、俺に会えばいつも『仕事がつらくてイヤだ』と愚痴を言うが、好きでなきゃ、いままで続けてこられなかっただろう」

「それもそうだな」

「だから、料理人も、お前も、同じなんだよ」

「なるほど、そういうことか!」私は溜飲が下がった思いがした。「俺の仕事でいえば、目の前にいる学生が、俺の話を聞いて面白いと思ってくれた瞬間が、いちばん嬉しい瞬間なのだ。その一瞬のために、この仕事を続けているのだといってもいい。それは料理人が、目の前のお客さんの美味しく食べている顔を見て嬉しくなるのと、同じことなんだな」

「そういうことだ」

「それに、授業は、事前の仕込みを丁寧にすればするほど、良い授業になる。いくら話術に長けていたとしても、仕込みをしていない口から出まかせのような授業は、実は面白くないのだ。これって、料理と同じだよな」

「そうだ」

「そして俺は、一瞬の楽しさのために、仕事が続けられるということなんだな」

コバヤシの言葉に、私が何かを気づく。

この関係は、高校の時から、ずっと変わらない。

「よし、締めはラーメンだ」とコバヤシ。

「体に悪いぞ」

と言いながら、高校時代に戻ったような食欲で、ラーメン屋に向かった。

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絶対に薦められない「表象詩人」

2月7日(土)

韓国から帰ってきた。

3泊4日、気の張り通しで、もうグッタリである。ただミッションはひととおりうまくいき、充実した旅ではあった。

旅のお供に、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を持っていったのだが、疲れてしまい結局読む気が起こらなかった。

これではいつまで経っても、アガサ・クリスティにたどりつけないではないか!

だが帰りの飛行機で、一緒に持ってきた松本清張の『表象詩人』(1973)を読んだら、これが実に面白く、一気に読み終えてしまった。

北九州の小倉に集まる在野の青年詩人たちの話が、やはり文学好きの青年「わたし」の視点で語られる。おそらく「わたし」は、清張自身を投影したものであろう。

ミステリー小説ではあるのだが、この小説のキモは、そこではない。

圧巻なのは、「わたし」の人間観察力と妄想力である。

この小説には、「わたし」を除いて3人の男性が登場する。

この3人の男性の心の動きを、「わたし」は、実に冷静に観察している。そしてそれを、クドいまでに文章化している。

たぶん、この本を読んだ多くの人は、この小説を「クドい」と思うのではないだろうか。とにかく、「わたし」の人間観察にもとづく妄想が、大半を占めるのである。

しかし私にはちょうどよい。むしろ読みながら、何か「ザワザワした感じ」をいだくのである。

こういう「ザワザワした感じ」を書かせたら、松本清張の右に出るものはいない。

語り手の「わたし」は、登場人物3人の心理を実に細かく分析し、自分の中で理路整然と理屈を組み立てていく。

だがその心理の動きは、まったくもって「わたし」の解釈に過ぎない。

読めば読むほどその「わたし」の妄想が浅はかなものに思えてしまうのだ。

あらためて思った。これって、ふだん私がしている思考回路そのものである!

その思考回路をクドいまでに文章化する松本清張は、やはり「人間観察と妄想」の天才といわざるを得ない。

清張自身が、妄想に悩み、嫉妬に狂う人間だったのではないだろうか。

そして私が若いころから松本清張の小説や文体に惹かれていたのは、まさにそこに共感したからであろう。

なので、この小説を読むことを、私は絶対にお薦めしない。一人でも多くの方が読まないことを祈るばかりである。

さてこの小説、多くの人が知る清張のミステリーの文体とは、やや異なる。

どちらかといえば、情緒的で格調高い文体である。

彼はここぞというときに、情緒的で格調高い文体で小説を書く。

そんな小説を読むたびに思う。松本清張は、本当は文学を書きたかったのだ、と。

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原稿ため込み党の中断

2月5日(木)

またまた旅の空です。

ソウルでの今回のミッションは、人と会って人脈を作る、というもの。非社交的な私がいちばん苦手とする仕事である。お会いして話をしてみると、いろいろなことが学べてそれはそれで楽しいのだが。

ソウル滞在中も原稿を書こうと思って、関係資料を山ほど持ってきたが、昼間、人と会ってお話しをするだけで緊張を強いられ、夜になるとグッタリと疲れてしまい、原稿を書くどころではない。

うーむ。原稿は書き進められるだろうか。しかし、負けるわけにはいかない(って誰に?)

日記を書く気力も出ない。

こぶぎさんが、コメント欄にとてもいい文章を書いてくれた。しばらくは、そちらを御味読ください。

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原稿ため込み党の近況

2月3日(火)

久しぶりに、終日職場での仕事。

午前中は3時間半の会議。午後は書類作りに文字通り追われる。気がついたら夜になっていた。

今日中にすませておかなければならない仕事が多いのは、明日から週末まで、また韓国に出張だからである。

というわけで、またまた旅に出ます!

だが、心配なのは原稿である。

いよいよ原稿の方も、シャレにならなくなってきた。

先週の出張先での執筆者会議の際に、再三確認されたのが、締切である。

「こんどの3月末までに必ずご提出ください」

「はあ。…いまさらで恐縮なのですが、分量がどれくらいでしょうか」

「先生には、85頁ほど書いていただきます。

「はあ。…で、1頁あたりの文字数はいかほどでしょう?」

「22字×44行です」

「…ということは…」

「968字です」

「968字ですか…」

私は古い人間なので、400字詰め原稿用紙に換算しないと、実感がわかない。

968字×85頁=82280字。

これを400で割ると、

82280÷400=205.7枚

400字詰め原稿用紙で205枚!!!

ちょいとした新書1冊の分量ではないか!!!

「もちろん、図版なども入りますので、差し引いて書いてくださってけっこうです」

図版分を引いて7割程度に原稿を減らしたとしても、143枚ほどである。

新書ならば書き殴るとか書き散らすといったことが可能かもしれないが、この仕事はそういうわけにはいかない。

この原稿は、どんなことがあろうとも誠実に取り組むことに決めたのだ。

うーむ。このバカみたいに出張続きの日程の中で、はたして書き上げることができるのか?

これだけではない。

400字詰めで10枚程度の原稿が2月初旬締切。

400字詰めで30枚程度の原稿が2月末締切。

この二つも、絶対に落とすわけにはいかない。

はたして、残された2カ月弱で、原稿の負債は返せるのか???

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ツッパリが死語ではなかった時代・2と2分の1

ツッパリが死語ではなかった時代

ツッパリが死語ではなかった時代・2

私の通っていた中学が、当時ものすごく「荒れた中学」で、そんな中で生徒会長をつとめていたことは、前に書いた。

そのときも書いたが、よく起こった事件は、「火災報知器事件」である。

休み時間になるたびに、何者かが、廊下の火災報知器のボタンを押して非常ベルを鳴らすのである。

ツッパリ連中の仕業であることは明らかであった。

だが、そのたびに授業が中断され、全校生徒が体育館に呼び出され、教頭先生が壇上に立って、犯人捜しをはじめた。

「非常ベルを鳴らした者は、名乗り出なさい!」

名乗り出なさい、といって名乗り出るヤツはいない。というか、犯人は明らかにツッパリたちなのである。

「非常ベルを鳴らすたびに、全校生徒の貴重な時間を、こうやって浪費しているんだぞ!」

いやいや、ツッパリたちはそれが目的だろ!教頭先生は、「不良グループには屈しない!」という姿勢をアピールしたが、それがかえって彼らを刺激したのである。

私はそのとき思った。

教頭先生の対決姿勢が、ツッパリたちをさらに刺激することになるのは誰の目にも明らかである。それを敢えてしているのは、教頭がわざと彼らを挑発しているか、よっぽどの大バカかの、どちらかだな、と。

予想通り、その後も非常ベルが鳴り止むことはなかった。

私も一度、教頭先生に

「君も生徒会長なんだから、名乗り出るように呼びかけなさい」

といわれ、仕方なく壇上で呼びかけたことがあるが、もちろん、名乗り出るヤツなんていない。

あとでツッパリたちに、

「生徒会長も大変だな」

と言われた。

(お前が言うな!)

と心の中で思った。

だが、生徒会とツッパリたちは、対立していたというわけではない。ツッパリたちの中には、私の幼なじみが何人もいた。

総番(この言葉も死語か?サル山のボスみたいなものだ)のアライ君とは、中学に入ってはじめて顔見知りになった。アライ君ははじめ、私を生意気だと思ったらしく、中1の時、廊下ですれ違いざまに、何の脈絡もなく、私の頭を思いっきりひっぱいたことがある。

私を武力で制圧しようとしたのだ!

だがその後、私が生徒会長になり、ツッパリたちといろいろな交渉事をしなければならない立場になったとき、幼なじみだったツッパリが、

「こいつ、いいヤツですよ」

と総番に進言してくれたおかげで、その後は総番と仲よくなったのである。

そのうち、中3になると、世代交代なのか、あるいは

「もうこんなバカなことはやってらんねえ」

と思ったのか、彼らはずいぶんとおとなしくなった。

そうそう、思い出した!

私の1学年上のツッパリたちの悪行に手を焼いていたとき、教頭先生の対決姿勢ではまったく埒があかず、われわれ生徒会は「総番の彼女」を通じて、なんとか彼らの行動を抑えてくれるようにお願いしたことがあった。「総番の彼女」と私は、実は幼なじみだったのである。

それが功を奏したかどうかは、覚えていない。

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寅次郎シンドローム

映画「男はつらいよ」の主人公・寅さんは、実に厄介な人である。

たまにふらっと、柴又のとらやに帰ってくると、面白いことを言って周りを笑わせたりして、客として歓迎されるが、それが長居をするようになり、柴又で毎日顔をつきあわせていると、しだいに厄介者と思われてくる。

寅さんは、「たまに会うと面白いが、しょっちゅう会うと厄介者」なのだ。

どうも私もそのクチで、久々に会ったりするとありがたいことに歓迎されたりするのだが、その頻度が高かったり、その間隔が短かったりすると、

「そんなに頻繁にはどうも…」

「たまにだからいいのにねえ…」

みたいに思われているのではないかというふしがある。

これを私は、「寅次郎シンドローム」と呼んでいる。

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