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絶対に薦められない「表象詩人」

2月7日(土)

韓国から帰ってきた。

3泊4日、気の張り通しで、もうグッタリである。ただミッションはひととおりうまくいき、充実した旅ではあった。

旅のお供に、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を持っていったのだが、疲れてしまい結局読む気が起こらなかった。

これではいつまで経っても、アガサ・クリスティにたどりつけないではないか!

だが帰りの飛行機で、一緒に持ってきた松本清張の『表象詩人』(1973)を読んだら、これが実に面白く、一気に読み終えてしまった。

北九州の小倉に集まる在野の青年詩人たちの話が、やはり文学好きの青年「わたし」の視点で語られる。おそらく「わたし」は、清張自身を投影したものであろう。

ミステリー小説ではあるのだが、この小説のキモは、そこではない。

圧巻なのは、「わたし」の人間観察力と妄想力である。

この小説には、「わたし」を除いて3人の男性が登場する。

この3人の男性の心の動きを、「わたし」は、実に冷静に観察している。そしてそれを、クドいまでに文章化している。

たぶん、この本を読んだ多くの人は、この小説を「クドい」と思うのではないだろうか。とにかく、「わたし」の人間観察にもとづく妄想が、大半を占めるのである。

しかし私にはちょうどよい。むしろ読みながら、何か「ザワザワした感じ」をいだくのである。

こういう「ザワザワした感じ」を書かせたら、松本清張の右に出るものはいない。

語り手の「わたし」は、登場人物3人の心理を実に細かく分析し、自分の中で理路整然と理屈を組み立てていく。

だがその心理の動きは、まったくもって「わたし」の解釈に過ぎない。

読めば読むほどその「わたし」の妄想が浅はかなものに思えてしまうのだ。

あらためて思った。これって、ふだん私がしている思考回路そのものである!

その思考回路をクドいまでに文章化する松本清張は、やはり「人間観察と妄想」の天才といわざるを得ない。

清張自身が、妄想に悩み、嫉妬に狂う人間だったのではないだろうか。

そして私が若いころから松本清張の小説や文体に惹かれていたのは、まさにそこに共感したからであろう。

なので、この小説を読むことを、私は絶対にお薦めしない。一人でも多くの方が読まないことを祈るばかりである。

さてこの小説、多くの人が知る清張のミステリーの文体とは、やや異なる。

どちらかといえば、情緒的で格調高い文体である。

彼はここぞというときに、情緒的で格調高い文体で小説を書く。

そんな小説を読むたびに思う。松本清張は、本当は文学を書きたかったのだ、と。

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