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2015年3月

原稿牛歩党の躍進

3月31日(火)

おさらい

3月末までに、ある本の分担執筆の原稿を提出しなければならない。

1ページ968字で、85ページ分。すなわち82280字である。

これを400字詰め原稿用紙に換算すると、205枚分である。

図版が入ることを考慮して、7割程度に減らして書いたとして、143枚ほどである。

執筆者会議でこの話を聞いたのが、1月の末であった。

ところで先週、出張先で分担執筆者3人と、たまたま会う機会があった。

「原稿、どうですか?」

恐る恐る聞くと、3人が3人とも、

「締切日が来たら書き始めようと思っています」

と答えた。

えええぇぇぇぇぇっ!!大丈夫なのか?

折しも同じ日、原稿の依頼主からメールが来た。

「締切日の3月31日が近づいております。もし、遅れるときには編集事務局の体制の見直しが必要となりますので、いつまでには提出できるとの連絡をお願いいたします。よろしくお願いいたします」

依頼主側のほうは、かなり切羽詰まった言い回しである。というか「遅れるときには編集事務局の体制の見直しが必要となる」とは、脅しに近い言い回しである。これまでさんざん執筆者に困らされた経験があるんだろうな、と私は想像した。

こうなったら、節句働きでも何でもして、締切までに出してやろう。

出張先には必ず資料を持っていき、仕事の合間に少しずつでも書き進めていった。

その結果…。

3月31日、ようやく原稿が完成した!

61000字ほどである。400字で150枚程度。

書き始めたのが、年明けくらいからだから、3カ月ほどかけて、コツコツと書いてきたことになる。

ようやく原稿は、私の手を離れるのだ。

ただし、まだ荒削りの状態なので、編集作業の過程で、大幅に直さなければいけないかも知れない。

図版も選定しなければならない。

完成するまで、これから先も長いが、ひとまず、一区切りがついた。

次の原稿に取りかかろう。

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アトリエ村、からの沖縄料理

3月30日(月)

「言いにくいことなんですけど」

「何でしょう」

「3月末までに、もう一度アトリエ村にご足労願えないでしょうか」

「えええぇぇぇ!!!またですか?今月で3回目ですよ」

「すみません。最後の確認がまだ少し残っていたんです」

「わかりました。ただし今月末までということですと、あとは30日しか空いていません」

「それでけっこうです。お願いします」

ということで、朝6時すぎに家を出て、新幹線と在来線と車を乗り継いで、4時間近くかかってアトリエ村に到着した。

最後の確認作業を終え、アトリエ村での滞在時間は1時間半ほど。

建物を出ると、目の前は例の高校の野球部のグランドである。

高校球児たちが練習をしていた。

そうか、いまは春休みなんだな。すっかり忘れていた。

そういえば、新幹線の中も、子ども連れの乗客が多かった。

この時期を狙って、子ども連れで家族旅行をする人は多い。

他人様が休んでいるときに働くことを、節句働きというそうだ。

私もさしずめ、節句働きである。

それにしても、我ながらよく働くねえ。

原稿だって、ゴールは見えてきた。

「春休みだから、月曜日でも練習しているんですね」

車で送ってくれる業者の人に言った。

「ええ、そうですね。とくに春休みは、他県の高校の野球部との練習試合が多いんですよ」

「そうですか。どうやってここまで来るんです?」

「バスに乗ってこのグランドまで来るみたいです」

「でも、ここの高校の部員たちは違うんでしょう?」

「そうです。この山の下までバスで来て、そこから走ってこの山をかけ登ってくるんです」

彼らはあくまでも、この山を走ってかけ登らなければいけないみたいだ。

他県から来た高校の野球部員が山の上までバスで来ることを、彼らはどう思っているのだろう?

逆に、山の上までバスに乗ってきた他県の高校生部員たちは、走って駆け上がってくるこちらの野球部員のことを、どう思っているのだろう。

「私、この高校を絶対に応援しますよ」

車はアトリエ村を降りていった。

新幹線に乗り、東京に戻る。夕方、都内でひょんさんと久しぶりに会って、飲むことになっていた。

沖縄料理のお店である。

約束の時間より少し早く着いてしまったので、お店の近くをブラブラ散歩することにした。

この町を初めて歩いてみて知ったのだが、びっくりしたことに、「東京」と名のつくたいそうな名前の神社がこの町にあることを知った。

神社じたいはこぢんまりしているのだが、それにしてはずいぶんと大仰な名前である。

さらに境内に入ってびっくりした。

お詣りに来ている人たちが、全員若い女性である!

しかも、御守りを買うのに長蛇の列ではないか!

平日の夕方なのに、これほど多くの若い女性がお詣りに来ているのは、どういうわけだろう?何か御利益でもあるのか?

あとでひょんさんに聞いてみると、

「パワースポットだからだよ」という。

たしかに、たまたまいま読んでいる岡本亮輔『聖地巡礼』(中公新書)という本に、この神社が紹介されていた。

「平日でも多くの女性の姿が見られ、それに合わせて対応策がとられている。夏に境内で涼しく過ごせるように、神社では全国初のドライミストが設置されている。授与品も工夫され、思いを寄せる相手の心を開かせるという意味を込めた鍵をかたどったお守りや、カップル用に二つ一組になった紅白巾着のお守りなどが頒布されている」

さて、沖縄料理の店である。

狭い店だが、週初めの月曜日だったためか、客は我々しかおらず、

「今日は貸し切りですね」

と、その店のおかみさん。久しぶりにオリオンビール、泡盛を飲む。

ひょんさんと四方山話がはずんだ。

壁に「いちゃりば兄弟」という色紙が貼ってあった。

「ぴんから兄弟」みたいなグループだろうか?

「この、『いちゃりば兄弟』ってのは、何です?」

「一度会えば、誰でも兄弟のように親しくなる、という意味の沖縄の言葉です」

「なるほど。このお店は、もう何年続いているんです?」

「10年です。最初は、沖縄料理を教えるために、1年だけ東京にいようと思っていたら、お店を出すことになって、10年たっちゃった。70歳の時に上京したんですよ」

「え?すると、いまは…」

「80歳です」

とても80歳にみえない。

「とてもそうは見えません。お元気ですね」

「そんなことないです。私が元気なうちにまた来てください」

「またうかがいます」

結局最後まで貸し切り状態だった。

たぶんこれだけのヒントでは、何というお店かはわからないだろう。

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こぶぎさんを待ちながら

3月29日(日)

朝、東京に帰ろうと思い、駅に向かう。

バス停を見ると、「前の前の勤務地」行きの直行バスがあることを知る。

(「前の前の勤務地」に寄り道して帰るか…)

誰か遊んでくれる人はいるだろうか?

卒業生は忙しいみたいだし、「前の前の職場」の同僚だったKさんならば大丈夫だろう。か。

Kさんに電話したら、「大丈夫ですよ」という。

「ちなみにこぶぎさんはいらっしゃいますかね?」

私はこぶぎさんに連絡をとる手段がない。

「職場と自宅に電話をかけてみます。あと、メールもしてみます」とKさん。

しばらくしてKさんから、

「こぶぎさんと連絡がとれないです。今日は天気がいいからさしずめ、自転車にでも乗っているんでしょう」

ということで、こぶぎさんには会えそうにない。

午前11時に駅を出発して、2時間15分かけて、「前の前の勤務地」に到着した。

昼食をとりながら、Kさんと四方山話をする。

「こぶぎさんはすっかりアウトドア派ですね」

「ええ、先日も、スキーに行ったと言ってましたし。最近は、食べ物のカロリーを自転車の距離数に換算してばかりいるようです。げっそり痩せましたしね」

「そうですか」私もうかうかしていられない。

むかしの時代劇のお話やら劇伴のお話やらで、2時間ほどたった。

「そろそろ帰ります」と私。「今日は急に呼び出してしまい、すみませんでした」

「いえいえ。結局こぶぎさんは来なかったですね。メールも出しておいたんですけど」

「次こそは、げっそり痩せたこぶぎさんが見られるでしょう」

Kさんと別れ、東京に向かう新幹線に乗った。

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カーナビのあるひとり旅 ~再会と再訪~

3月28日(土)

出張先での仕事は昨日のうちに終わったが、いま妻がアメリカに出張中なので、そのまま家に帰ってもどうということはない。

だったら3月末締切の原稿を書けよ!という話なのだが、そんな気にもなれない。

「仕事」ではない旅をしてみようと思い、レンタカーを借りて、旅に出ることにした。

行き先は、以前訪れたことのある海辺の町である。

その町に行く途中に、卒業生が住んでいたことを思い出した。

海辺の町出身のSさんは、卒業後に公務員となり、海辺の町に行く途中にある、内陸の町に配属されたのだった。

少し前にもらったメールに、体調を崩したと書いてあって、まじめなSさんのことだから、仕事で無理しすぎたのだろうと心配にもなったのである。

海辺の町に行く前に、その町に立ち寄ることにして、Sさんにメールをしたところ、ほんの短い時間だったが、会うことになった。

同じ県内なのに、車を借りた場所から高速道路を使っても2時間ほどかかる。

実に淋しい町である。

「先生、こんな辺鄙なところまで、本当にいらしたんですね」

「それにしても、遠いところだねえ」

「何もない町でしょう」

「体調はどうですか」

「だいぶよくなりました」

2時間ほど、話をした。

「海辺の町に行く途中に、道の駅があります。そこで売っている『かぼちゃまんじゅう』がオススメです」

「わかった。必ず買うよ」

再会を約束して、お別れした。

再び車で海辺の町に向かう。

Photo途中の道の駅でかぼちゃまんじゅうを買った。1個120円。

素朴な味で、美味しかった。

海辺の町に到着。

以前おとずれた場所におとずれてみた。

Photo_2まずは、陶磁器を売っているお店である。

2年ほど前、このお店の老夫婦から、「震災を生き抜いたお猪口」をいただいた。

2年前と変わらず、営業しているようだった。

中に入ろうと思ったが、以前、老夫婦と長話をしてしまったことを思い出し、今回は遠慮することにした。

Photo_3続いて訪れたのが、「2011,03,11 GROUND ZERO 風の広場」。

もともとこの場所は美容室だったところで、この店を経営していた方が、津波で流されたこの場所を「GROUND ZERO 風の広場」と名付けて、あのときの記憶をとどめようとしたのである。

周囲は重機が入り、すっかり造成されていたが、この区画だけは、かろうじて2年前のままだった。

(あのときのサーファー風の男性は、いまどうしているのだろう?)

「風の広場」のはす向かいに、倒れかけた建物があり、美容室を経営していたそのサーファー風の男性は、そこの2階に「震災資料館みたいなフリーコミュニティースペース」というのを作って、2年前は、そこでお話を聞いたのだった。

(まだやっているのだろうか…)

Photo_5その建物に行ってみると、もはや「震災資料館みたいなフリーコミュニティースペース」という看板ははずされていて、2階に上るための案内板もなかった。

再会は叶わなかった。この2年間で、何かが変わってしまったのかも知れない、と思った。

しかしその一方で、この一帯は、2年前に訪れたときと、ほとんど変わらなかった。

Photo_6商店街は、以前と変わらず、仮設店舗のままである。

昨日会議が終わったあとに、会議でご一緒した先生に連れていってもらった駅の構内のお寿司屋さんの本店がこの町にあり、津波で流されてしまったと聞いた。

その本店は、いまも仮設店舗で営業をしていた。

いろいろと複雑な感情が交錯しながら、この海辺の町をあとにした。

…さて、ここからはどうでもいい話。

レンタカーを返しに行かなければならない。

レンタカーについているカーナビの指示するままに車を走らせると、どんどん内陸部に入っていく。

途中、トイレ休憩をするために、道の駅に車をとめ、用を足してトイレを出る。

Photo_7道路をはさんで、道の駅の向かい側にあるレストランが視界に入った。

(どこかで聞いたことのある店の名前だなあ…)

思い出したぞ!

以前、こぶぎさんが「肉汁たっぷりのハンバーグ定食」を食べたという、あのお店だ!!!

こぶぎさんが来たことのある場所をはからずも再訪してしまったというのは、まるで聖地巡礼をしてしまったような感じがして、なんとなく悔しい。

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家族の春休み

3月27日(金)

新幹線と在来線を乗り継いで、片道4時間の出張である。

北へ向かう新幹線には、これから観光に行くという家族連れの人が多い。

とくにいまは子どもたちの春休みの時期なので、なおさらそいう時期なのだろう。

朝9時。東京駅から新幹線に乗り込む。

私が窓側の席に座っていると、上野駅から、家族の一団が乗ってきた。

全部で7人。アラフォーの女性、そしてその女性の両親と思われる老夫婦、さらにはその女性の子どもたちと思われる4人。合計7人である。

子どもたちの父親は仕事で来れないので、母親と、その両親、つまりおじいちゃんおばあちゃんとで、旅行に行くことになったのだろうと、私は想像した。

イヤな予感がしたが、案の定、私の座席の付近に立ち止まった。

私の隣の席と通路をはさんだ2列、さらに私の後ろの席の4列に、その家族が席を陣取った。

それにしてもものすごい量の荷物である。

なんなんだ、この荷物の量は?

ほどなくして、その意味がわかった。

「はい、ではこれから朝ご飯のお弁当を配りまーす」

その女性が大声で言うと、袋からひとりひとりのお弁当を取り出して、子どもたち4人に配った。手作りのお弁当である。

微笑ましいといえば微笑ましいのだが、それにしても弁当が大きい。

ひととおり配ったあと、今度は、

「では次に、おにぎりを配りまーす」

といって、子どもたちにおにぎりを2つずつ配りはじめた。

さっきの大きなお弁当は、おかずだけ入っているお弁当のようだ。

おにぎりは、ひとつが、ソフトボールくらいの大きさの、大きなおにぎりである。

「次に飲み物を配りまーす」

紙パックの牛乳を、みんなに配った。

(おにぎりに牛乳って…)

「次にデザートを配りまーす」

今度は、スーパーで買ったと思われる、いちごのパックを子どもたちに渡した。

袋から、食べ物が次々と出てくる。朝からどんだけ食べるんだ!

それだけではない。

「お昼のお弁当は、棚の上に上げておきますね-」

なんと、お昼のお弁当も作ってきたのか!!!

どんだけ弁当を作ってきたんだ???

ここでようやく、荷物が多い理由がわかったのである。

さて、その女性の両親と思われる老夫婦。

この老夫婦は老夫婦で、自分たちの分の弁当を作ってきていた。

やはり、どんだけ食べるんだ?というくらいの数のおにぎりを作ってビニール袋に入れていた。

案の定、食べるおにぎりはそのうちの1,2個である。

(食べる分量を考えて作ってこいよ!)

いちばんびっくりしたのは、大きなビニール袋の中から、レタスまるごと1個をとりだしたことである。

おもむろにレタスの葉っぱをちぎって、その場でサラダを作り始めたのである!

さらに、ドレッシングをびんごと持ってきていて、作ったサラダにかけていた。

(ここはお前らの家か!)

あっという間に私の周囲は朝ご飯のにおいに包まれた。

こうなったらもう原稿を書くどころではない。私はパソコンをとじて、カバンにしまった。

大騒ぎのうちに「朝ご飯を配る行事」が終わり、今度はその家族たちが、一心不乱に朝ご飯を食べ始めた。

大食いの私が見ても、

(朝からこんなたくさんは食えないよ)

というくらいの量である。

「お母さん、梅干し持ってこなかったの?」とその女性が、母親に聞いた。

「あら、持ってこなかったわよ」

「この炊き込みご飯で作ったおにぎり、自分で作ったんだけど、味がないのよねえ」

「お醤油ならあるわよ」

お母さんはカバンの中から、こんどは醤油のビンをとりだした。

(だからここはお前らの家か!)

しばらくして今度は後ろに座っていた子どもたちが

「お腹一杯でもう食べられない」

と駄々をこねてきた。

それはそうだろう。大食いの私だって見てるだけでお腹一杯になる量なのだ。

「じゃあおにぎりは食べずにとっておきなさい」

と、母親らしきその女性は言った。

「お昼ご飯はどうするの?」

「新幹線が11時半に着くから、向こうに着いてから食べるわよ」

私は急に心配になった。

いま、朝の9時半である。

この時間に朝ご飯をモリモリ食べるのはいいのだが、そうこうしているうちにもうすぐにお昼である。

彼らはほどなくして、また同じ量の弁当を食べるのだろうか?

大量に余ったおにぎりとレタスは、どうするのだろう?

せっかく観光地に行くのに、地元の美味しい料理を食べる機会は、あるのだろうか?

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アラフォー山本周五郎の苦悶

毎日の疲労の原因は、このブログにあるということがわかった。

これを書くだけで、毎日かなりの時間がとられる。おかげで本業の原稿が進まない。

なにも命を削ってまで、書くほどのことではない。

ずっと以前に書いてお蔵入りにしていたものを公開することで、お茶を濁すことにする。

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『山本周五郎戦中日記』は、さながら原稿執筆日記である。日記は簡潔だが、そのときの心情がじつに率直に吐露されている。

原稿が思うように書けないことへの苦悶が語られていて、大作家でもそんなことがあるのか、と、救われる気持ちになる。

たとえば、昭和18年12月8日の日記。

「大東亜戦三周年の日である。四日から「にが虫」にかかっているが筆が進まない。今日も終日紙を汚しただけで終った。(中略)「にが虫」はついに失敗した。是はいかんぞと思っていると「侍豆府」もだめになった、一つつまずくと続くものである。やはりよく検討してから取りかからないと悪い」

「筆が進まない」という表現が、日記には何度も出てくる。

日記の中で、たびたび、自分に言い聞かせているような文章を書いている。前回あげた文章も、そのたぐいであろう。

いちばん笑った、というか面白かったのは、昭和19年10月19日から21日にかけての日記である。

10月19日。

「己には仕事より他になにものも無し、

強くなろう、勉強をしよう。

己は独りだ、これを忘れず仕事をしてゆこう。

神よ、この寂しさと孤独に

どうか耐えてゆかれますように。

 今日までの己は自分を甘やかしすぎた。

 己は今こそ身一つだ。

 なんにもない。

 浦安の茫屋(ぼうおく)にいた時の己に帰るのだ

 なにも有(も)たぬがゆえに

 すべてを有(も)つのだ。

 仕事だ、仕事だ。」

明らかに、仕事に向かうように自分を奮い立たせる文章である。

翌10月20日の日記。

「仕事せず。(中略)明日から仕事をしよう」

昨日の決意はどこへ行ったのか、「俺、明日から本気出す」と言っているのである。

さらにその翌日、10月21日の日記。

「やはり元気が出ない。気力が虚脱したようで、なにをする気持ちにもならない」

あれだけ、「仕事だ、仕事だ」と、日記に自分を奮い立たせる文章を書いたにもかかわらず、結局、2日間、やる気が出なかったのだ。

あれだけ多くの傑作を生み出す山本周五郎ですら、そうである。

私のような凡人が、何を恐れることがあろうか。

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エアー卒業祝賀会

3月25日(水)

昨年までの14年間の教員生活で、漠然と思っていたことは、

「教員が思っているほど、学生は教員のことに関心がない」

ということだった。

自分自身を振り返ってみてもわかる。

大学時代に教わった教員に、ほとんど思い入れがない。

今度は自分がその立場になってみると、まことに因果応報というべきものである。

たまに思い出したように卒業生から連絡が来ることはあるが、基本的には、私のことはしだいに忘れられてしまったり、呆れられてしまったりするものである。

さて今日。3月も終わりだというのに、出張先は風が冷たい。県南だということに、すっかりだまされてしまった。

出張先での仕事が、意外と早く、お昼過ぎに終わった。

新幹線で東京に向かおうと思い、ふと考えた。

(そういえば、今日は卒業式だったよな…)

出張先から「前の勤務地」までは、東京行きとは反対方向の新幹線に乗れば、それほど時間がかからないはずだ。

「乗換案内」で調べてみると、12時半頃の新幹線に乗り、途中で新幹線を乗り換えれば、2時40分頃に前の勤務地に到着する。

2時40分、というと、ちょうど卒業祝賀会が終わる頃の時間である。

私は、冒頭に書いたようなことを思いだした。

(いまさら俺が行ってもなあ…。それに、どうせ間に合わないし…)

結局、東京行きの新幹線に乗り、家に帰った。

さて、夜。

「拝啓、鬼瓦先生へ」

と題するメールが来た。いつも消息を伝えてくれる、4年生のSさんからである。

「お元気ですか!

私たちは元気です

本日無事卒業式を迎えました!!

先生も身体に気をつけてください、身体が資本です。

私たちも先生の教えを生かし、

早寝早起き朝ご飯をすることを誓います。

(本文はC君が書きました!!)

いまは、卒業おめでとう会ですヾ(o´∀`o)ノ」

メールには、卒業祝賀会と、その2次会の写真が添付されていた。

(みんな、無事に卒業したんだな…そしてそれを、わざわざ私に報告してくれたんだな)

私はSさんの心遣いに、涙が止まらなくなった。

やはり、無理をしてでも駆けつければよかったかなと、一瞬思った。

しかし不思議なのは、

「私たちも先生の教えを生かし、早寝早起き朝ご飯をすることを誓います」

という部分である。

俺、C君に「早寝早起き朝ご飯」なんて言ったことあったっけ?

まあいい。

私は「卒業おめでとう!幸多かれ!」と返事を書いた。

しばらくして今度は、同じく私の指導学生だった4年生のOさんからメールが来た。

卒業祝賀会での晴れ着姿の写真も添付されていた。

Oさんは、4月から出版関係の仕事に就くことになった。

「本日無事大学を卒業することができました。

大学生活ではいろいろなことがありましたが、大学で過ごした時間はとても楽しく、有意義なものでした。共に学ぶ友人に恵まれ、また多くの先生方と出会い、お話を伺う機会を得た環境の中で、私はそれまで出会ったことのなかったような、さまざまな感情と向き合い、悩みながら、少しずつ将来への指針を見出だすことができたような気がします。

大学生活をこんなに有意義なものにできたのも、鬼瓦先生のおかげです。本当にありがとうございました。

これからの社会生活でも、大学で学んだこと、感じたことを忘れずに大切にしながら、成長していきたいと思います。そして、いつか鬼瓦先生の本を出版するという目標に向かって、頑張っていくつもりです。

不安定な天気が続きますが、お身体に気をつけて、お仕事頑張ってください。

また何か思うことがあれば、メールを送るかもしれません。きっと送ると思いますので、お忙しい中恐縮ですが、その時はよろしくお願いします。

本当にお世話になりました。ありがとうございました」

読んでいて涙が止まらなくなった。

「それまで出会ったことのなかったような、さまざまな感情と向き合い、悩みながら、少しずつ将来への指針を見出すことができたような気がします」

という部分に、である。

Oさんだけではない、私がかかわったほかの4年生もみな、自分の頭で悩み、考え、自分自身で将来の指針を見出してきたのだ。

それは、私が間近で見てきたことなので、よくわかる。

そしてそのことこそが、大学生活で最も誇るべきことである。

私は返事を書いた。

「笑われるかも知れませんが、メールを読み、涙が止まりません。

教員としてもっとできることがあったのではないか、と思いつつ、昨年、私は大学を去りました。

だからずっと、今の4年生にみなさんには、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

そのことが、今でも悔やまれます。

Oさんが無事に卒業できたのは、ご自身の力以外の何ものでもありません。

それは、誇りに思ってよいことだと思います。

社会に出たら、大変なことがたくさん待ちかまえているでしょう。何か思うことがあったときには、いつでもメールください。どんな些細なことでもかまいません。おそらく私は、それ以上の長い返信を書くでしょう(笑)。それはお約束します。

それから、きっと私の本を出版してください。約束ですよ。それまで、いちばんいいネタをとっておきますので。

では体に気をつけて、いい仕事をしてください。

またお会いしましょう」

卒業祝賀会に出席せずに卒業をお祝いすること。

これを、「エアー卒業祝賀会」という。

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リーダーシップの教科書

加東大介『南の島に雪が降る』(ちくま文庫)について、もう少し書く。

ニューギニアの部隊に、エノケン一座の如月寛多がいると、兵士たちの間で話題になった。

エノケン一座の如月寛多といえば、当時としては有名な、今でいう「お笑い芸人」である。

加東は、上司の村田大尉に頼み込んで、如月寛多を演芸分隊に転属させることにした。

ところが、である。

本名を青戸と名乗る、如月寛多を見たとき、加東は唖然とした。

こいつはニセモノである!

俳優である加東は、内地で如月寛多をよく見ていて、知っていたのである。

自分が知っている如月寛多とは、似ても似つかないヤツが、如月寛多の名を騙っていたのである。

加東は、上司の村田大尉に報告する。

「如月さんではありません。ニセモノです」

しばらく考え込んだ村田大尉は、加東に言った。

「いいじゃないか。オレたちは、ここで死ぬかも知れないんだよ。もう生きて帰れないとすれば、内地の長谷川一夫よりは、ここにいるニセモノの如月寛多のほうが、ありがたみがある。俺はそう思うがね。どうだろう?」

この上司の言葉で、加東はニセモノの如月寛多を受け入れることにする。

実際に舞台に立つと、この「ニセ如月寛多」は、実に芸達者だった。演芸に憧れ、一時期ホンモノの如月寛多に弟子入りしていたこともあるという。

たちまち「ニセ如月寛多」は、人気者になった。もうすっかり、ニューギニアでは彼こそが正真正銘の「如月寛多」だったのである。

さて、終戦を迎え、内地へ帰ることを今か今かと待っていた、ある日。

内地に帰れることを信じて、マクノワリ歌舞伎座は、引き続き公演を行っていた。

上司の村田大尉が、加藤を呼び出す。

「もうすぐ内地に帰れるかも知れない。そこで、青戸伍長のことなんだがね…」

青戸伍長とは、ニセ如月寛多の本名である。

村田大尉の提案はこうであった。

「もし、我々が内地に帰れたとしたら、彼をニセ如月寛多のままで帰すわけにはいかない。内地には、ホンモノの如月寛多がいる。如月寛多を詐称していたことがばれたら具合が悪かろう。

ところがねえ。青戸だけ本名に戻させたんでは、みんなに怪しまれるよ。そうなったら、いつかはばれるかも知れない。可哀想じゃないか。あんなにやってきたんだものねえ。そこで一計を案じたんだ」

そして村田大尉は、敗戦を機会にマクノワリ歌舞伎座の座員たちが名乗っていた各自の芸名を、一律に禁止するという提案をしたのである。

「少し不自然な感じがしないでもないが、まあしかたがないだろう。それで青戸が傷つくのを防げるものならね」

死の淵にいた兵士たちを喜ばせるためにと、ニセ如月寛多を許可した村田大尉が、こんどはニセ如月寛多のことを案じて、彼のために最大限の配慮を提案したのである。

加東はこのときの気持ちを、こう述べている。

「どこまで、気のまわる人なのだろう…。私は、心から頭がさがった。

『よく、わかりました。その命令は、私が伝達します』」

さて、この上司の提案は、実際に内地に帰って、功を奏したのかどうか?

それはこの本を最後まで読んでほしい。

この本で描かれている村田大尉は、いってみれば「理想の上司」である。

真のリーダーとは、こういう人のことをいうのだ。

そして、それを受けとめる部下もいなくてはならない。

もし、本気でリーダーシップだの組織論だのといったことを学びたいのならば、凡百のハウ・ツー本などよりも、この本を読むべきである。

この本を読んで、理想のリーダー像やあるべき組織の姿を思い描けなければ、そもそもリーダーになる資格などないと、肝に銘じるべきである。

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おとなの週末

3月22日(日)

久しぶりに、何の予定もない日。

しかも今日は、妻が所用で実家に戻っている。

髪が伸びてきたので、散髪屋に行くことにした。

白髪染めのクリームみたいなヤツを髪に塗ってもらっている間の15分間、何もすることがないので、店員さんは、雑誌を持ってきてくれる。

いつも持ってくるのは、「Number」と「おとなの週末」の2冊である。

同年代の男性諸氏なら、どちらを選びますか?

私はスポーツにまったく関心がないので、「Number」は読まない。

必然的に、「おとなの週末」を読むことになる。

この雑誌は、都内のグルメな店を紹介する雑誌で、表紙はいつも、美味しそうな料理のドアップの写真である。

これが実に恥ずかしい。

これを私が読んでいると、

(お前、どんだけ食いしん坊なんだ!)

と、絶対まわりが思っているよなあと、軽く死にたくなる。

これを食欲ではなく性欲でいえば、女性の裸がドアップで写っているようなものである。

だが、ほかに読むものがないのだから仕方がない。

2か月ほど前から、ある女優さんがその雑誌に、見開き2ページのエッセイを連載しはじめた。

聞き慣れない名前の女優さんだったが、あとでテレビを見ていると、いまやドラマやCMに今や引っ張りだこの、私と同年代くらいの綺麗な女優さんだった。

連載第1回の文章によれば、その女優さんはブログをやっていて、そのブログの文章がなかなか面白いということで編集者の目にとまり、めでたく連載が始まったらしい。

今や引っ張りだこの綺麗な女優さんだし、文才もあるとなれば、ほうっておくわけにはいかないだろう。

だがエッセイを読んでみたら、実に何というか、ふつうの文章である。

さてその連載第1回の冒頭で、正確な記述は忘れてしまったが、次のようなことが書いてあった。

「女優というと、食生活もさぞ華やかなイメージでしょうけれど、実際は、スーパーに行って、半額の値札がついたお総菜を探して、1円でも安いものを買うという、とても地味な食生活なんです。そんなワタシが食べものについての連載を始めるなんて…」

たしかに、綺麗な女優さんでも、地味な食生活なのかも知れないな、と思いながら、その部分を読んだ。

私はその次の月もまた、「白髪染め待ち」の時間になると「Number」と「おとなの週末」が渡され、やはり「おとなの週末」のほうを読むことにした。

その女優さんのエッセイを楽しみにするようになった。この雑誌にはほかに、エッセイらしいエッセイがないからである。

毎回、あるひとつの料理を取りあげて、その料理に関する美味しい店を紹介するという趣向らしいのだが、読んでみて気がついたのは、紹介しているお店が、どれもこれもオシャレなお店ばかりなのである!

(おかしいなあ、連載第1回のときは、女優の食生活は地味なものですと書いていたのに…)

いったいどうなってんだ?

私は、

「私のお薦めは、新橋にある居酒屋『大統領』です!」

とか、

「やっぱり、ペヤングソース焼きそばと卵かけご飯の組み合わせは最強ですね」

とか、そういう文章を期待していたのだ!

今回は、「ミートソース」を取りあげていた。

毎回、3種のお店を紹介しているようなのだが、今回は、1つめが「母が作った心のこもったミートソース」、あとの二つは、オシャレなお店のミートソースだった。

(やはり今回も、オシャレだったか…)

毎回、いつも期待を裏切られるなあと思いながら、ついその「ふつうのエッセイ」を読んでしまうのだ。

読んでいたらミートソースが食べたくなったじゃねえか!

ということで今夜はミートソースを作ることにした。

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あざなえる縄の如し

3月20日(金)

一日たりとも、平穏な日というのがない。

今日もまた、片道4時間以上かかる場所に日帰り出張だった。

いいかげん、東海道新幹線も乗り飽きたぞ!移動のしすぎで疲労困憊である。

今日は気分的にとてもイヤな仕事だったが、それも仕事のうちなのだから仕方がない。

仕事をしていると、いろいろなことが起こる。

こちらが誠意をもって行っているつもりでも、相手が悪意をもって受け取る、といったことはよくある。

そんなときは、いくら「自分は純粋に誠意をもってやっているのだ」といっても、相手に通じない。

わかりやすい例でいえば、震災ボランティアがそうだ。

自分は純粋に何かの役に立ちたいと思ってボランティア活動をしているつもりでも、別の人から見たら、「売名行為だ」とか「偽善者だ」とか言われたりすることは、よくある。

そういう人に、いくら自分が純粋な気持ちでそれをしているかを説明してみても、おそらくは通じないだろう。

では、自分は純粋な人間で、他者は悪意ある人なのか?

おそらくそうではない。

自分も自分で、悪意をもって他者の行動を理解してしまうこともある。

その時々の立場や感情によって、それを善意と解釈するか悪意と解釈するかは異なるのである。

おそらくそれは、そのときの個人的な感情に大きく左右される。

悪意の背景には、嫉妬とかコンプレックス、あるいは抑圧された感情、といったものがあるのだ。

そういう感情から解放されない限り、自分だけが純粋な気持ちであると嘆いてはいけない。

まずは自分を疑うことからはじめよとは、山本周五郎が小説「武家草鞋」でテーマにしていることである。

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例の講演会

3月19日(木)

例の講演会の日。

会場は、家の最寄りの駅から快速で1時間半ほどかかる場所である。

まったく、どうしてこう毎日長距離を移動しなければならないのだろう。

お昼頃に会場に着き、メールの依頼主である老紳士と会う。

メールの依頼主に会った印象は、なるほどメールの印象の通りの人だ、ということだった。

ただ話してみると、メールのときに感じたほど悪い人ではない。あまりに悪い人を想像していたためか?

やはり、実際にあって話してみるのがいちばんだ。

それよりも、である。

お昼を食べ終わって控室に戻ると、お一人、私にお茶やお菓子を出してくれるご婦人(私の母親ぐらいの年齢の方なのだが)が待機していた。「控室担当」なのだろう。

そのご婦人が私に段取りを説明した。

「講演会開始の5分前に、1ベルが鳴ります。次に講演会開始時間に2ベルが鳴ります」

「はあ」

講演会場は、ちょっとした演奏会ができそうな少し大きめのホールだった。私はそのホールの舞台裏にある「楽屋」のひとつを、控室として使わせていただいていた。

「1ベルが鳴りましたら、私が舞台袖までご案内しますので、そこでいったん待機していただきます」

「はあ」

「2ベルが鳴ったと同時に、司会が、先生のご紹介をいたします」

司会というのは、メールを送ってきた依頼主の老紳士のことである。

「司会による講師ご紹介が終わったあと、先生にはそれに続けてすぐに舞台に出ていただいて、ご講演をはじめていただきます」

「はあ」

「それまでは、この控室でおくつろぎください」

「わかりました」

ところが、である。

そのご婦人は、その説明が終わったあとも、控室にずっといて、私を退屈にさせないためなのか、ずーっと私に話しかけてくるのである。

(困ったなあ…。講演の準備をしたいのになあ)

それに、どんどんお茶を勧めてくる。私は勧められるがままに、お茶を飲み続けた。

30分くらいたった頃、

ブー!

1ベルが鳴った。

「1ベルが鳴りました。舞台袖までご案内します」

「はい」

結局、講演開始ギリギリまで、30分以上もそのご婦人のお話を聞いてしまい、準備もままならないまま舞台袖に待機することになった。

舞台袖には、もう1人、私の母親ぐらいの年齢のご婦人がいらっしゃった。「舞台袖担当」なのだろう。

2ベルが鳴るまで、沈黙が続く。

すると突然、私はあることが気になった。

どうやら尿意をもよおしたようなのである。

さっき、あれだけお茶をがぶがぶ飲んだからなあ。ふつうだったら、講演前に水分はとらないことにしているのだが。

しかしもう時間がない。2ベルまであと2分くらいである。

はたして2時間、舞台上で我慢できるか?

いや、我慢できないんじゃないか?

心の中で、シミュレーションしてみた。

(やっぱり無理!)

私は舞台袖担当のご婦人に聞いた。

「あのう…、ちょっとトイレに行きたくなったんですけど、大丈夫でしょうか」

「早く行ってください!」

慌てて、舞台裏のトイレに駆け込んだ。

トイレで用を足していると、

ブー!

2ベルが鳴った!

どうしよう!おしっこがとまらないぞ!

すでに、司会の講師紹介が始まっているのが聞こえた。

まだとまらない!

用を足し終わるやいなや、慌ててトイレを飛び出し、舞台袖に走った。

舞台の上ではいままさに講師紹介が終わったところだった。

ちょうど私が舞台袖に戻ったと同時に、

「それでは先生、よろしくお願いいたします」

と、私を舞台へうながす司会の声が聞こえた。

私は何事もなかったかのように、上手袖から出て舞台中央の演台に立ち、客席にお辞儀をした。

100人以上の人が会場に集まっていた。そのほとんどは、平日の日中に時間が空いている、お仕事の一線を退いた方々ばかりである。

あとはノンストップである。A4の配付資料30枚を使いながら2時間、休みなく喋り続け、講演会は終了した。

聞いている方々がどのような感想を持ったかわからないが、2時間休みない話を聞いて、脳が疲れたことには違いない。

無事に終わってよかった。

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再びアトリエ村へ

3月18日(水)

先々週に続き、再び日帰りでアトリエ村に行く。

前回製作したモノの最終確認を行うためである。先々週と同じ時間の新幹線に乗り、在来線に乗り換え、最寄りの駅まで車で迎えに来てもらう。アトリエ村の工房に着いたのは、家を出てから4時間後のことであった。

最終確認も無事に終わり、工房の車で再び山を下りることになった。

Nishiyama_53車に乗ろうとして、工房の前にある野球のグランドにふと目がとまった。

高校生が、野球の練習をしている。

私の中で疑問がわいてきて、運転してくれる工房の人に聞いた。

「彼らは、どうやってこのグランドまで来てるんですか?」

前にも書いたが、工房のあるこのアトリエ村は、びっくりするくらい標高の高い山の上にあるのである。しかも、公共の交通手段はなく、自家用車などを使わなければ、たどり着けないのだ。

「ああ、彼らは、走ってここまで来てるんですよ」

「は、走って!!??ここはずいぶん山の上ですよ」

「ええ。彼らの高校は、以前、甲子園大会で準優勝したことがありましてね」

グランドの看板を見ると、○○高校グランド、と書いてあった。

「この高校でレギュラーを勝ち取るためには、このグランドまで10分でかけ登らなければならないんです」

「じゅ、10分ですかっ!?するとつまり、この山を10分以内でかけ登ってこのグランドにたどり着いた者だけが、レギュラーになれる、ということですか?」

「そういうことです」

たしかに合理的だ。この過酷な現場に10分以内にたどり着けるかどうかでレギュラーが決まる、というのは、実に公平な条件である。

この先、この高校が甲子園大会に出るようなことがあったら、必ず応援することにしよう。

車がゆっくり走り出し、アトリエ村を出て坂道を下る。

アトリエ村の入り口に、小さな祠があった。

また私の中に、疑問がわいてきた。

「あの祠(ほこら)、いつ頃からあるんです?」

アトリエ村は、バブル期に造られた人工的な集落であり、昔からある集落ではない。古くからある集落だったら、その集落の入り口に祠があるというのもわかるのだが、いつのまにか誰彼となくアトリエや工房をここに造って住み始めた人たちが、何かのきっかけで、この祠を集落の護り神として作ったのだろうか、と私は想像したのである。

「私も詳しくはわかりませんが、このアトリエ村のあった場所は、高度経済成長期にもともとゴルフ場を作るという目的で造成されたそうで、その時にここにお地蔵さんを安置したそうです」

「なるほど。ではアトリエ村ができる前からすでにあったのですね」

「そうですね。ゴルフ場計画は、結局頓挫してしまうのですが、こんどはバブルのころに、この造成した場所に芸術家たちがアトリエを作り始めたんです」

「なるほど」

うーむ。アトリエ村の話は、聞けば聞くほど面白い。高度経済成長からバブル、そして今に至るまでの、この国の歴史の縮図のような場所である。

だが、アトリエ村での仕事も、今後しばらくはないだろう。

ひょっとしたら、今日が最後かも知れない。

いつか仕事抜きでこのアトリエ村を訪れて、日がな一日ボーッとしてみたいものだ。

そんな日が、来るだろうか。

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移動人生

3月17日(火)

相変わらず、むちゃくちゃな仕事の仕方をしている。

午前中は、都内で会議である。朝、家を出て、1時間半ほどかけて、都内のビジネス街に行く。

そこで2時間ほど会議をしたあと、お昼をはさんで、こんどは午後の会議に出るために、職場に向かう。

「ずいぶん重そうな荷物ですね」

都内の会議に出ていた新米の同僚が、私がいつも背負っているリュックサックを見て言った。その同僚は、午後の会議に出る必要はないため、午前の会議が終われば、そのまま都内の自宅に帰ることになっていた。

「持ってみますか?」と私。

「ええ」同僚が私のリュックを持つ。「あっ!すげえ重い!何かのトレーニングですか?」

「いえ、どこででも原稿が書けるように、資料を常に持ち歩いてるんです」

「…そこまでしないといけませんか。これを持って職場に戻るんでしょう?俺にはとてもマネできないな」

都内のビジネス街から職場までは、電車と徒歩で2時間半ほどかかる。

職場に着いたのが2時半。会議は1時から始まっていたので、1時間半遅れて到着したことになる。

4時に会議が終わった。

ここまで、移動時間は合計で4時間、会議時間は合計で3時間半。

…いや、職場から家まで帰宅するのに1時間半かかっているから、今日の移動時間は、全部で5時間半である。

その間、ずっと重い荷物を持ち歩いている。

明日もまた早朝から、使うかどうかもわからない重い荷物を持って、片道4時間ほどかかる場所を日帰りする仕事である。

原稿はなかなか進まない。

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輪の中にいる

昨日に引き続き、わかりにくいお話。

3月16日(月)

土曜日に行われた、前の勤務地でのボランティア活動定期会合で、講師としてお呼びしたTさんと、打ち上げの席ではじめてお話しした。私とほぼ同世代の方である。

初対面の方との話は、どうも苦手なのだが、いろいろと話しているうちに、私が研究者として尊敬している、Nさんの話になった。

Nさんは、ある県の高校の先生をしていて、そのかたわら、地元の研究者として活躍していた。いまから25年以上前に、50歳の若さで亡くなった。没後、2冊の遺著が出版された。

学界ではあまり目立たない方だったが、私は学生時代にこの方の本を読み、専門分野は異なるが、いつかこんな本を書いてみたい、と思うようになった。

そして昨年、私はNさんへのオマージュとして、一冊の本を書いた。そのことは、その本の中でも触れている。

そのことをTさんに話すと、Tさんはびっくりした顔をした。

「実は僕も、Nさんが憧れの研究者だったんです!」

Nさんと同じ県に住み、Nさんと同じ専門分野の研究者であるTさんにとって、Nさんは憧れの存在だったという。

「僕の最初の勤務先が、Nさんが教師をしていた高校だったんです。それで何か運命的なものを感じて、Nさんの研究の足跡をたどったりしました。いまもNさんの教え子さんという方が何人もいらっしゃるのですが、お話をうかがうと、いまでもN先生のことを慕っているんですよ」

「そうですか」

「こんど、うちの県にいらしてくださいよ」

「え?」

「Nさんとゆかりの深いフィールドをご案内します。Nさんの足跡をたどりましょう」

「ぜひお願いします!」

ひとしきり、Nさんの話題で話がはずんだ。もちろん、Tさんも私も、Nさんにお会いしたことはない。ただ本の中のNさんを知るのみである。にもかかわらず、まるで思い出話を語り合うように、話は尽きないのだ。

ということで、今年中に、Nさんの足跡をたどることに旅をする!

帰り際、初対面だったTさんと握手を交わして、お別れした。

不思議だなあと思った。初対面の人と、一度もお会いすることのなかった人の思い出話に花を咲かせるなんて。

さて翌日の日曜日。

朝早い新幹線で「前の勤務地」を離れ、今の職場に向かった。午後から職場で研究会なのである。

研究会が終わり、夕方から懇親会が始まった。20名近くが参加したが、そこには、昨年の夏に50代後半の若さで急逝されたMさんの出身大学の後輩のみなさん(といっても、私よりも年上の方ばかりだが)が何人もいらしており、私もその方々の近くに座ることになった。

そこでの話題は自然と、「同門」のMさんの話になる。

以前にも書いたように、私はMさんとは出身大学も違うし、お話ししたのは一度だけだったが、これまた不思議なご縁で、Mさんが亡くなったあと、Mさんの職場の蔵書の一部を引き取らせてもらうことになった。

私は、ほかの方々とは違い、Mさんとの生前の思い出はまったくといっていいほどない。研究論文を通じてしか知らないのである。

しかし蔵書には、Mさんのこれまでの足跡がしっかりと残されていた。おそらくMさんは、このときこんなことを考えていたんだろう、と蔵書の一冊一冊を見ながら、私は想像をめぐらせた。

私はそのことを「同門」のみなさんにお話しした。

たぶんそれは、「同門」のみなさんも知らない、私しか知らないことである。

不思議な感じである。生前の思い出などまったくないのに、私はまるで、Mさんの思い出を語っているのだ。

二日続けて、そんな不思議な体験をした私が思ったことは、二つある。

ひとつは、生前にどれだけ会っているかどうかは、その人との近さをはかるバロメーターではない。

もうひとつは、亡くなった人について語り合うとき、その人は、その輪の中にいるのである。

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登場人物の多い一日

3月14日(土)

前の勤務地で続けていたボランティア活動の、年に1度の定期会合である。毎年、3月11日の前後に行われる。

集会室のような部屋に、多くの人たちが集まった。

「あ、先生!」

最初に私に声をかけてくれたのは、人生の大先輩、傘寿を越えたIさんである

「昨年は忙しかったですけど、今年こそはまたこちらで調査したいものです」と私。

「その時は、ぜひ声をかけてください」

「はい、必ずご連絡します」私は約束した。

次に声をかけてくれたのは、「特急のすれ違う駅の町」につとめるSさんである。

一昨年から、「特急のすれ違う駅の町」で私がお手伝いしていた仕事が再開することになったのだが、Sさんは、その担当者であった。

まさかこんなところでお会いするとは、私はびっくりした。「特急のすれ違う駅の町」からここまでは、ゆうに3時間はかかるはずである。

全然別のところで一緒に仕事している人と、その仕事とは全然違うことで、また別の場所で会う。人間のつながりというのは、まことに面白い。

「ダブルKさん」(ダブル浅野的な意味で)と会う。まずは「前の前の職場」のKさん。

「こぶぎさんはお元気ですか?」と私。こぶぎさんの連絡先を知らないので、その消息はKさんに聞くしかない。彼のブログで消息を知ろうと思っても、いまアップされている記事はすべて1年前に書かれたものばかりで、消息を知るにはまったく役に立たないのだ。

「最近は、スキーにばかり行っているみたいですよ。冬は雪のために自転車が乗れないそうなので」

あの運動嫌いなこぶぎさんが、今はもうすっかり自転車とスキーにはまっているのだから人生というのは、本当にわからない。

次に世話人代表のKさん。

「職場が変わっても、お客さん、少ないでしょう」

私に会うなり言った言葉である。私は昔から、マイナスオーラを出す人間なので、イベントを企画しても人がほとんど集まらなかった。そのことを知っているKさんは、今の職場でもそうなのだろう、という意味で、そう言ったのである。

私に会うと、相変わらず口が悪いのだが、その口の悪さは、おそらく父親譲りなのだろう。長いつきあいなので、もうすっかり慣れてしまった。

「どうして、私たちにちゃんとお別れを言ってくれなかったんです?」

そういえば、昨年3月にこの地を去るとき、ボランティアの仲間たちにちゃんとお別れを言わないまま、引っ越してしまったのだった。引っ越しが忙しかったということもあるが、お別れの言葉を言ってしまうと、何となく関係が切れてしまうような感じがして、言い出せないままこの地を離れたのである。

「それは、その…、いつでもまた戻れるように、と思って…」私はKさんに言った。

続いて、卒業生の「ダブルT君」(ダブル浅野的ではない意味で)。

会合の総合司会を後輩のほうのT君が担当し、閉会の言葉を先輩のほうのT君が担当した。

彼らの成長ぶりに、驚いた。

とくに、T君の閉会の挨拶は練った内容で、喋りの技術が格段に進歩していた。場数を踏んだ成果だろう。最近は、ラジオにも出演して好評を博したらしい。

さらに二人にとって後輩にあたる、2年生のU君も、頼もしい。

そしてトリプルTさん(ダブル浅野的ではない意味で)。

残念ながらお話しする機会を逸してしまったが、この3人にお会いすると、本当に安心する。

大学院生のYさん。

この3月で大学院を修了し、4月からは、Yさんにとってはいままでまったく縁のなかった町に、就職することになった。

大学2年の時から4年間、ボランティア作業の中核として大活躍した。

それがきっかけで、研究テーマを見つけて大学院に進み、さらにこの4月からは自分の専門を生かせる職場に就職することができた。

私はボランティア活動でしかおつきあいがなかったが、まるで自分の卒業生のことのように嬉しい。

しかも、就職先は新天地だというのがいい。Yさんの大学の先輩であるK君もまた、数年前に新天地に就職したが、新天地に就職すると、人間はたくましくなるのだ。それは、K君が証明している。

仕事仲間のSさんとYさん。同志、といってもよい。

現場を何よりも大切にする姿勢を、私はこの二人から学んだ。だが二人がそれぞれ属する職場の上層部は、現場にまったく関心を持とうとしない。地道な現場が、次第に職場から排除されようとしている。

二人はこれからますます忙しい立場になるが、それでもなお、二人はぶれることなく、抗い続けるだろう。

そして最後に、同い年の盟友・Uさん。

Aさんが、2年間にわたる被災地支援の仕事から戻り、その入れ替わりで、4月からUさんが被災地支援の仕事で隣県に赴くことになった。単身赴任である。しかも仕事の現場は、私も関わりのある「特急がすれ違う駅の町」なのだ。

「朝、起きられるの?」私は心配した。奥さんがいなければ、Uさんは何もできないのではないかと思ったからである。

「大丈夫」と、Uさんは言った。

Uさんもまた、少しの間だけれど、この町を離れるのか。

先日Uさんは、いちどわが家に泊まりに来いよ、と言ってくれたが、実現するのは少し先のことになるなあ。

「特急のすれ違う駅の町」で、会うことにしようか。

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真夜中のメール

3月13日(金)

深夜0時半。

寝入りばな、ウトウトしていたところへ、携帯メールの着信音が鳴った。

誰だろう?と思って携帯電話を開いてみると、高校時代の友人、福岡のコバヤシからだった。

「コバヤシです。夜分失礼します。

ジローのバンドがまた福岡に来たので、こちらの友達と聴きにいってきました」

ジローというのは、高校時代の部活の2年後輩で、いまはジャズミュージシャンとしてビッグバンドでサックスを吹いている。決して安定した仕事ではないミュージシャンの道にジローを進ませたのは、大学時代にコバヤシがジローにそうアドバイスしたからだと、コバヤシは今でも思っていて、そのことがずっと心に引っかかっていたと、いつもコバヤシは言っていた。そのあたりのいきさつについては、以前に書いたことがある

「はるばる東京から和歌山、神戸、山口ときて、福岡まで1000㎞の道のりを車で来たそうです」

ジローもまた、私と同じで旅暮らしなんだな。

「非常に楽しいバンドで、あっという間の楽しいひとときでした。

ジローも紆余曲折があったのでしょうが、今ではよい仲間に恵まれて楽しそうに演奏しており何よりです」

コバヤシも、ジローの演奏を心から楽しんだらしい。メールはさらに続く。

「貴殿もあまりマイナス思考に陥らないように、といっても無理なのかも知れませんが、多少は前向きに頑張れるとよいですね」

私はハッとした。コバヤシは、私のブログを読んで、私が最近マイナス思考に陥っていることを感じ取ったらしい。

それで心配してメールをくれたのか。

「しかし、酔っ払ってこんなしょうもないメールを打つようになるとは、私も歳をとったものです。

ではまたそのうち」

たしかに、ふだん私に悪態ばかりついているコバヤシが、めずらしく感傷的になり、これほど私を気遣うメールをくれたというのは、初めてなんじゃないだろうか?

よっぽど今晩は、気分がよかったのだろう。

私も歳をとったせいか、最近はふだんめったに会えない人とひさしぶりに会ったりすると、「これで最後かも知れない」というつもりで会うことにしている。そう思うと、その時間がとても貴重に思えてくるのである。

コバヤシが、いままでそんなことはなかったのに、私をいたわるようなメールをよこしたというのも、あるいは彼自身も、そんな境地に達しているからではないか、と想像した。

何より、後輩のジローが福岡に来るたびに、律儀に彼のライブを聴きに行っていることがそのことを示している。

眠かったが、短い返事を書いた。

「コバヤシ殿

メールありがとうございます。こちらは相変わらず旅続きです。

ジローも旅を続けてきたんですね。それにしても貴殿は律儀です。

マイナス思考からようやく脱出できました。しばらくは大丈夫だと思います。

またそのうち」

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原稿ため込み党改め、原稿牛歩党の寄り道

3月13日(金)

常に原稿のことは考えているのだが、なかなか進まない。

旅先に、原稿を書くための資料をたくさんもってきているのだが、旅先では、せいぜい書いても数行だったり、前に書いた部分を推敲したりして終わってしまう。

原稿は牛歩の歩みであり、旅先に持ってきた資料はたんに重いだけで、ほとんど使わずに終わってしまう。その繰り返しである。

さらに悪いことに、そういうときに限って、小説を読みたくなってしまうのだ。

中島京子の『小さいおうち』(文春文庫)を読んで、この作家の語り口が心地よいと思った。

同じ作家の『イトウの恋』(講談社文庫)という小説を読む。

明治時代に日本を訪れたイギリスの女性紀行家・イザベラ・バードと、彼女に付き添って通訳をつとめた伊藤鶴吉をモデルにした小説で、小説の中ではそれぞれ、「I・B」と「伊藤亀吉」という名で、物語が進行する。

中学校教師の久保耕平は、たまたまこの「伊藤亀吉」の手記を発見し、顧問をしている郷土部の生徒・赤堀君、そして劇画作家の「田中シゲル」という女性と、イトウの人生をたどる調査を始める。

イトウの手記には、通訳として一緒に旅をするイトウの、親子ほど年齢の離れたI・Bへの恋心が切々と書かれていた。

小説中に登場する手記は、もちろんこれは作者の創作だが、I・Bに対するイトウの想いの機微を、実に丁寧に記している。これ自体がひとつの「手記文学」ともいうべきものである。

ただ、これははたして「恋」とよぶべきものなのかは、読者の判断にゆだねられるであろう。もっと深いところの、人間同士の絆というべきものだと、私は思う。

明治に生きたイトウの手記と、その謎を解き明かす現代の3人の思いが交錯する文体は、『小さいおうち』の手法を彷彿とさせる。

ほかの人があまり書かないであろう、私が印象に残った場面をひとつ。

この手記を読み解く主人公、中学校教師の久保耕平と、生徒の赤堀君は、言ってみればシャーロック・ホームズとワトソンの関係になぞらえられるが、二人が、中学校の文化祭の準備をしているとき、何気なしに会話をする場面がある。

「ねえ先生」

赤堀は言った。「このイトウという人はさ、教科書に絶対載らない人だよね」

「そうかな?」

「だって偉い通訳だったからってさ、日本の政治を動かしたわけじゃないもんね。それにさ、恋愛しても片思いで、実らなかったみたいだしさ」

「実らなかったのかな?」

「実ってないじゃないか。それに『恋愛しました』なんてことで教科書に載る人はいないわけだしね。ねえ、絶対教科書には載らないね」

「そりゃ載らないかもしれないね」

「かもしれないじゃないよ。ぜったい載らないんだよ」

「それは赤堀にとっては、いいことなの?悪いことなの?」

「いいことでも悪いことでもないよ。だけど載らないことはたしかなんだ」

「教科書には載らなくても、先生はこの人が好きだな」

「俺だってけっこう好きだよ。だからこうして準備してるんじゃないか」

どうということもない会話だが、この会話の中にこそ、作者のまなざしが読みとれるように思う。

このとき赤堀君は、歴史は教科書に載らない無数の人たちで構成されていることに気づくのである。

そしてそれこそが、イトウという人物を借りて、作者が小説という媒体で表現したかったことなのではないだろうか。

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忘れない生き方

3月11日(水)

旅先で、この日を迎えた。

旅先は、一昨日から思いのほか寒く、昨晩は雪が降った。

この町の観光案内図を見たら、なんと私の名前を冠した公園があるので、びっくりした。この名前の公園は、たぶん日本でここだけだろう。

4年がたち、私はどのくらい、あのときのことを忘れずにいるだろうか。

「あのときのこと」というのは、出来事という意味ではない。あのときに困惑し、不安になり、絶望し、そして高揚した感情のことである。

今でも忘れない光景がある。

その年の3月11日が金曜日。土日をはさんで、3月14日に臨時の会議が開かれた。

職場に居合わせた教員が全員集められたその会議では、結局事態もつかめぬまま、ほとんど何も決まらずに、終わったと記憶する。

会議が終わって仕事部屋に戻ると、私の仕事部屋の前の廊下に、当時3年生だった私の指導学生がいた。どうやら私が戻るのを待っているようだった。

その学生は、私を見るなり、

「先生!」

と叫んで、わっと泣き出した。

「どうしたの?」

「両親と連絡がとれないんです」

その学生の実家は、津波の被害に遭った町にあり、両親の安否が全然わからないのだという。

あの日から4日目になろうとするのに、両親に連絡がとれない。両親の安否がわからない。

その学生は、あの日から今日に至るまで、両親の安否を確認するためにどれだけ手を尽くしたかを、泣きじゃくりながら話した。

ふだんは前向きで、何事にもへこたれない学生が、私を見るなり、何かが決壊したかのごとく、泣きじゃくったのである。

20歳を過ぎたばかりの学生が、4日間も、両親の安否もわからず、かといって実家に駆けつけることもできず、たったひとり、アパートでじっとしているよりほかはないという状況を、想像してみるがよい。

私はその学生に、どのような言葉をかけてあげればよいのか?

「大丈夫だよ」か?

「心配ないよ」か?

「がんばりなさい」か?

どれもが、空虚な言葉である。

適切な声をかけてあげるのが仕事であるはずの私が、かけるべき言葉も見つからないまま、絶句してしまったのである。

あのときほど、自分の無力感を感じたことはない。

せめて、その学生を励ますような言葉をかけるのが自分に与えられた役割だろう、と思っても、その言葉すら、出てこなかったのである。

自分は、なんと役に立たない人間なのだろう。

いちばん言葉が必要なときに、その言葉が、出てこないのだ。

私はこの仕事、失格である。

今でもその時のことを、ありありと思い出す。

私の周囲で、次第にあの日のことが忘れられていく姿を、私は昨年のこの日あたりから、まのあたりにしてきた。たぶん私自身も、かなり忘れてしまっているのだろう。

「あの日を忘れない」というのは、出来事だけではなく、あの日にわき起こった感情をも含めて、忘れないということだろうと思う。

あの日いちにち、朝、昼、そしてあの時間、さらにその後、どのような感情で過ごしたのか。

どんな人たちと、どんな言葉を交わしたのか。

そのことを、折にふれて思い出すことにしている。

少し前に書いた「こだわる生き方」、というのは、いいかえれば、「忘れない生き方」である。

だから「こだわる生き方」を貫こうとすると、つらくなるのだ。

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やはり私が悪いのか?

3月8日(日)

またまた愚痴ですみません。

メール、というのが、いまだに私にとっては心を乱す存在である。

先走った物言いをして、相手に不快な思いをさせてしまったりすることはよくあることで、そのたびに落ちこんでしまう。

逆に、いただいたメールが実にそっけないものだったりすると、何か俺の言動に相手を不快にさせる原因があったのではないかと、それでまた落ちこんだりする。

全く面倒な性格である。

…という私の面倒な性格を棚に上げて、これから書く愚痴は、例の講演依頼主からのメールの続きである。

「当日配布する資料は、講演会の1週間前までにメールで結構ですからお送りください。資料印刷要員が待っています」

という、まるで脅しのようなメール(もちろんこれは私の被害妄想なのだが)におびえた私は、取り急ぎ図版原稿だけを、先にPDFにして、添付ファイルで送ることにした。

その枚数が、なんとA4で14枚。このほかに、文章形式の資料がA4で16枚ほどあるが、これは後ほど送ることにした。

図版資料をA4で14枚だと、ファイルの容量が大きすぎて添付ファイルで送ることができるか心配だったが、なんとか、戻ることなく送ることができたようだった。

すると、翌日に返事が来た。

「資料は届きましたが、プリントがうまくいきません、ほかの方々にもお願いしてありますが再度、何回かに分けて送っていただけませんか」

またメッセージはこれだけである。「お送りいただき、ありがとうございました」のひと言もない。

「資料は届きましたが、プリントがうまくいきません」という意味がよくわからない。届いたけれどプリントアウトできない、というのは、こちらの責任ではないと思うのだが。

あるいは、やはりファイルの容量が重くて全部は届かなかったという意味だろうか?

私はそう解釈して、こんどは大容量ファイルのダウンロードサイトに図版資料をアップして、そこからダウンロードしてもらうようにメールを送った。

すると返事が来た。

「大容量ファイルのダウンロードサイトはうまくできませんでした。図版の元原があれば幸いです」

大容量ファイルのダウンロードサイトがうまくできなかったというのは、どういうことだろう?単に、「ダウンロードの仕方がよくわからない」ということだろうか?だったら、そう書けばいいのに。

それに、最初から「メールでお送りいただくほかに、念のため図版の元原稿を郵送してください」と依頼してくれればよかったのだ。

ここまでのことは、たいしたことではない。問題は次である。

依頼主のこのメールには、最後に次のようなことが書かれていた。

「それと資料の多さですが、講演会を2時間以内で終了できますか?終了時間は伸ばせません、時間内での終了が借用条件ですので」

メールはこれで締めくくられていた。

私はこの言葉に、目を疑った。

ふつう、依頼する人間に対して、こんな書き方をするか?

ことわっておくが、依頼主は、私よりもはるかに人生経験の豊かな、ご年配の方である。

今までいろいろな講演を引き受けてきたが、こんな言われ方をしたことはない。

私が依頼主だったら、ウソでもこう書くだろう。

「力のこもった資料、ありがとうございました。当日の講演時間は、会場の都合から質疑応答を含めて2時間でございますので、時間的に窮屈かとは思いますがよろしくお願い申し上げます」

講演会は一期一会。こっちはよかれと思って力を入れて資料を作ったのに、「そんなに資料が多くて、2時間で終了できますか?会場の借用条件が2時間しかないんですよ」と、まるでこちらを責めるような書き方をしている。

読者諸賢。

これは私の被害妄想なのだろうか?

いつもの悪い癖なのだろうか?

こんな細かいことにこだわる私のほうが悪いのだろうか?

大部な配付資料を作ってしまった私が悪いのか?

私はもう、自分の常識的な判断というものが、わからなくなってしまった。

メールは、私の心を乱すばかりである。

しばらく旅に出て、頭を冷やします。

〔追記〕

後日談。

依頼主に講演会の配付資料を速達で送ったところ、社会経験が豊富な年配の依頼主から、

「資料届きました」

とのひと言だけのメールが返ってきました。またしても、「ありがとう」のひと言もありませんでした。結局、今まで数回メールのやりとりをしていて、一度も「ありがとう」のひと言もありませんでした。

私みたいに、メールのちょっとした表現不足で心が傷つくような、面倒な人間もおりますので、よい子のみなさんは、メールの表現には十分にお気をつけくださいね。私もこれからは気をつけます。

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久和ひとみさん

3月6日(金)

中島みゆきが母校の高校の卒業式に寄せたメッセージが、ほかの何者かが作った偽のメッセージだったということで、ニュースになっていた。

テレビ局は犯人捜しに躍起になっていたが、メッセージ自体はとくに茶化している内容でもなく、ひょっとしたら、誰かが本当によかれと思ってやったのかも知れない、だからそっとしておいてやれよ、と思ったのだった。

私の母校の高校の先輩に、久和ひとみさん、という方がいた。といっても私よりも8年ほど上の先輩なので、在校中にお会いしたことはない。

フリーのアナウンサーをしていて、TBSテレビの夕方のニュース番組を担当していた。私の高校の先輩だったということもあったが、ショートカットをトレードマークに、的確にニュースを伝える姿はとてもかっこよく、当時の私の憧れの存在だった。

いちどだけ、間近にお目にかかったことがある。私が大学3年生のときだったから、1990年ごろのことだったか、高校の何十周年記念かの同窓会が開かれたとき、当時私が属していたOBの吹奏楽団がそこで2,3曲演奏し、そのときに司会をしていたのが、久和ひとみさんだった。

同窓会が終わったあと、何人かで一緒に写真を撮ってもらった。実際にお会いしても、とてもいい方で、私はますますファンになってしまった。

その後久和ひとみさんは、重い病にかかり、2001年に40歳の若さで亡くなった。

何でこんなことを思い出したかというと、私が高校を卒業し大学に進学するころ、久和ひとみさんが書いたメッセージを読んだことがあるからである。

どこに書かれたメッセージだったかは、覚えていない。また、正確な内容も覚えていないのだが、

「大学生活の4年間とは、社会に出る直前に、いまの社会に対して距離を置いて考えることができたり、社会を批判的な視点で考えたりすることができる、唯一の貴重な時間です」

というようなことが書かれていて(実際はもっといい表現で書かれていた)、私はそのとき読んだ他のどんな人のメッセージよりも、心を揺さぶられたのだった。そして私はその言葉をずっと胸にいだいて大学生活をすごした。

のちに私が大学に勤めるようになって、せめて私と関わる学生たちに対しては、大学がそういう場になるように心がけた。久和ひとみさんのメッセージは、私の仕事の上でも、大きな指針だったのである。

私がかかわった学生の多くは、卒業後も、社会に対して少し距離を置いて考えることのできる社会人になったと思う。いまでもたまに卒業生たちに会って話してみると、そのことを実感する。

私が昨年度までの教員稼業で唯一誇れることがあるとしたら、そういう学生を社会に送り出すことができたことである。

久和ひとみさんがもしいまも生きていたら、筑紫哲也さんのあとを継ぐニュースキャスターになっただろうな、と思う。

どうして、いい人は早く死んじゃうんだろうな。

…こんなことを書いたのは、最近のニュースに憂鬱になったからである。

新聞報道によると、「政府の教育再生実行会議は、職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言を首相に提出した。アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める「即戦力」となる人材を育てるのが狙い」とある。

これからの大学は、4年間で「社会に役立つ人材」を養成することになるらしい。一歩立ち止まって、今の社会に疑問を持ったり、批判的にとらえたりする思考は、大学教育からは排除されていくことになる。

現場の人間が強い意志をもってこれに抗うことができない限り、この流れは急速に進むだろう。

久和ひとみさんのメッセージに誰も共感しなくなるような時代が、もうすぐそこまで来ている。

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依頼あれこれ

3月5日(木)

ありがたいことに、いろいろな方から、仕事の依頼をいただく。

半年ほど前、見知らぬ方から講演を頼まれた。

いきなりメールが来て、しかもそれがとてもぶっきらぼうな書き方で、最小限のことしか書かれていない内容だった。

何回かメールでやりとりをしたのだが、その方は、いつも最小限のことしか書かない。たとえば、毎回、こんな感じである。

「講座の会場を3月×日で押さえました。宜しくお願い致します」

「各広報の締め切りが12月中旬のため、先生の講演テーマと簡単な趣旨説明をメールで結構ですからそれまでにはお送りください]

「送りいただいた、講演趣旨ですがやはり長いようです。少し整理して2行ほどにしていただけませんか」

えっ、これだけ?と、いつも思う。

私は古いタイプの人間なので、最小限のことしか書いていないメールが来ると、「私に関心がないのだな」「私は軽く見られているのだな」「私はそのていどの人間なのだな」と、つい思ってしまう。

なので返信するときは、いただいたメールと同じように最小限のことしか書かないことにしている。「どうせ私がクドい返信を書いたところで、迷惑なんでしょう」と。

まあ、お忙しくて私になどかまってられないのかも知れない。

昨日もその依頼者から短いメールが来た。

「当日配布する資料は、講演会の1週間前までにメールで結構ですからお送りください。資料印刷要員が待っています」

また、これだけである。

1週間も前に提出しなければならないのか!ということにも驚いたが、もっと驚いたのは、「資料印刷要員が待っています」というくだりである。

資料印刷要員って、誰だ?

それはともかく、私には、「あんたが期日通りに提出しないと、資料印刷要員が困るよ」という脅しのように聞こえてしまうのである。

…私の被害妄想か?

もちろん、相手にも事情があることはわかっているのだが、その事情を私にさりげなくアピールすることで、私の動きをあらかじめ封じておこうというねらいがあるように思えてならない。

「そう思うお前の心が汚い」と言われれば反論できないが、私はどうもそういうふうに書かれるのが、苦手なのである。

そんなふうな、「さりげない事情アピールメール」が来ると、

(たぶん、俺のことに関して迷惑しているんだろうなあ)

と、いつも深読みして落ち込んでしまうのである。

誤解のないように言うが、そう受け取る私のほうが悪いのである。

それに、私も同じことをしているのかも知れない。

まあそれはともかく。

しかし、もし期日までに出せなかったらどうしよう?と思い、「もし期日を過ぎてしまった場合は、こちらで印刷してもっていきますので、部数を教えてください」とメールで聞いたところ、

「200部です」と返信があった。

に、200部???

俺の話を聞きにそんなにお客さんが来るはずがない、と思うのだが、まあそれはさておき、200部もこちらで印刷するのはしんどい。

ということで、急遽配付資料の原稿を作ることにした。

最小限のメールのやりとりで、かなりテンションが下がっていたが、ここは一つ、全力でとり組んでやろうと思い、原稿を作ったら、文章レジュメがA4で16頁、図版レジュメもほぼ同等のページ数になった。

つまり、全部で30頁ほどである。

これを200部印刷するとしたら、30×200=6000、つまりA4で6000枚である。

でもまあ、講演会まで1週間も余裕があって、「資料印刷要員」なる人たちもいるのだから、印刷していただけるだろう。

問題は、用意した資料のページ数が多すぎて、2時間で喋り終わるか?である。

そうかと思うと、こんな依頼もあった。ここからはまた別の話。

今日職場に行ったら、昨日の出張中に私に電話があったと、事務補佐員さんが教えてくれた。

名前を聞くと、もう何年もお会いしていない、大学院時代の先輩である。

「また電話します、とのことでした」と事務補佐員さんが伝えてくれたのだが、だが私もいつも職場の仕事部屋にいるとは限らない。

「今度その方から電話がかかってきて、もし私が不在だったら、電話番号を聞いておいてください」

と私が事務補佐員さんにお願いすると、

「実は昨日、その方にお電話番号を聞いてみたんです。そうしたらその方は、『私は彼(つまり私のこと)よりも年上なので、もし私が電話番号を教えたら、彼は気を使って、きっと彼のほうから電話をかけてきてしまう。それでは大変申し訳ないので、あらためてかけ直します』とおっしゃったんです」

「はぁ」

しばらくお会いしていない、その先輩のことをだんだん思い出してきた。その先輩はむかしから、そういう律儀な面があったのだ。

年上の方から、そこまで気を使っていただいたことはいままでないぞ!私は感動した。

今日の午後、その先輩から電話が来た。原稿の依頼である。

「いずれ出版社から執筆要項が来ると思いますが、その前にぜひ、直接お願いしておかなければと思って」

私はこれにも感動した。

ここ最近、そうした根回しがまったくないまま、いきなり出版社から執筆要項が送られて来たりすることが多かったからである。

ちゃんと手順を踏んで、厭わずに実行されている先輩を尊敬した。

実に久しぶりにその先輩とお話しをしたが、昔と変わらず、よく喋る先輩だった。

礼を尽くすってのは、つくづく大事なことだ、と思った。私はそれができず、他人に不快な思いをさせていることに、反省するばかりである。

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ここはアトリエ村

3月4日(水)

今日は「山の上の工房」で、一日ものづくりの仕事である。

朝6時過ぎ、家を出る。

東京から新幹線で2時間15分。そこから在来線に乗り継いで2駅。

ここからが大変である。

工房の人に車で迎えに来てもらわないと、工房にたどり着くことができない。なぜなら、とんでもない山の上にあるからだ。

車で20分。途中、急な山道を登り、たちまち市内がが一望に見渡せるほどの標高になる。

(どこまでこの山道を登っていくんだろう?)

と不安になったころ、突然、視界が開けた。。

忽然と、集落が目の前にあらわれてくる。

こんな山の上に、こんな平場があったのか、と驚くほどである。

そしてそこに、工房はあるのだ。

「バブルのころ、ここにアトリエを作った美大の先生がいましてね。そうしたら、ほかの先生方もアトリエを作るようになりまして、ひとつの町ができあがりました」

「ほんとうに、ひとつの町のようですね」

「いつしか、ここはアトリエ村とよばれるようになりました。ところが、この場所は実は市街化調整区域で、本当は住宅を作ってはいけなかったんです」

「そうなんですか」

「ええ。ですからいまは、建て替えも建て増しもできない。食堂もないんです」

アトリエ村か…。不思議な町である。

さて、ものづくりって何だ?と思われるかも知れないが、たとえていえば、海洋堂のフィギュア作りを連想すればよい。あんな感じの仕事である。

もちろん、私自身が作るわけではない。私は、形とか色とかを決めて、指示を出して、それを職人さんに作ってもらうのである。微妙な色調や濃度の違いについても、こちらで全部判断しなければならない。

これが、実に楽しい。

職人さんも私も、いいものを作りたいと思っているから、お互い真剣である。

こちらもプロの職人さんを納得させるような指示を出さなければならない。

このアトリエ村なら、煩わしい会議もないし、人間関係に悩まされる心配もないし、時間を忘れて、じっくりとモノと向き合うことができる。

いま私がいちばん楽しいと思っている仕事は、このものづくりの仕事なのである。

私自身は、プラモデルひとつ作れない不器用な人間だが、そんな不得意な人間でも、ものづくりの仕事にかかわることはできるのだ。

ここで私は知る。仕事に「得意、不得意」というのはない。あるのは「好きか、嫌いか」だけなのだ、ということを。

人間にはたまに裏切られたりするけれど、モノは裏切らない。手をかければかけるほど、いいものができる(と思う)。

気がつくと午後6時過ぎ。

今日の作業が終わり、ヘトヘトになって、工房を出ようとすると、職人さんが私に言った。

「3月中に、あと1回、確認作業に来てください」

えええええぇぇぇっ!!!

てっきり今日でめどがついたかと思ったら、もう1回来なければならないのか…。

作業は面白いが、工房は遠すぎる!

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こんなんばっかりや

3月4日(水)

またまた旅の空です!(ただし日帰り)。

職場が変わって、東海道新幹線で出張する機会が格段に増えた。

先日飲み会の席で、私より年齢が少し上の同僚が「東海道新幹線は、どの席に座るのがいちばんいいか」という話をしていた。

「A席は最悪ですよ」という。

A席というのは、3列シートの窓側の席である。

理由を聞くと、「横に人が二人も座っていると、トイレに立てないから」。

私も以前、大変な経験をしたことがあるので、よくわかる。

ただその同僚は「年をとるとトイレが近くなるから、通路側の方がいい」と言っていたのだが、私はまだ、「トイレが近くなる」という境地までは達していない。私もあと数年したら、そうなるのだろうか…。

ということで、「年をとれば通路側の方がいい」というのが、その人の結論のようだった。

「3列シートの真ん中の席はどうです?」と聞くと、「意外と悪くないですよ」という。

理由を聞くと、「3列シートの真ん中の席、つまりB席は、ほかの席に比べて、少しだけ席の幅が広いので、ゆったり座れる」というのである。

いままでそんなこと気にもとめていなかったが、実際に新幹線に乗って座席の幅を観察してみると、たしかにB席だけが、ちょっとだけ幅が広い。

そうやって見ると、A席は幅も狭いし、トイレにも立てないしで、やはり最悪である。

その同僚は関西出身なのだが、いまの職場には関西出身の人の比率が高い。職場では、関西のイントネーションが飛び交っている。

やはり私より年上の、関西出身の別の同僚と、チームを組んで一緒に仕事をする機会が多いのだが、とにかくこまごまとした仕事や、さまざまな交渉事などが多く、その同僚は、それを厭わずにひとつひとつこなしてゆく。オモテに出ない地味な仕事を厭わずにしている姿勢を、私はその人から学んでいる。

その同僚がよく私にぼやくのだが、

「こんなんばっかりや」

というのが口癖である。

「俺にまわってくるのは、こんな地味で大変な仕事ばっかりや」

という意味である。そう言いながら、地味な仕事を厭うことなくこなしている。

私も最近、その口癖がうつってしまったらしく、ついひとりごとで、

「こんなんばっかりや」

と言ってしまう。

まるでそれは、心が折れそうになる自分を立て直すための、呪文のような言葉である。

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軽く死にたくなる法則

3月3日(火)

前回の記事を書いていて、大変なことに気づいた!

私が決まって軽く死にたくなるときとは、どんなときか?

例えば、私が家にいるときの悪い癖は…。

1.クローゼットや食器棚の引き出しを、必ず開けっ放しにする。

2.床にものを置く。

3.調理中、まな板の上に皿などを置いたりする。

4.食器を洗うとき、最初にまとめて食器に洗剤をつけて最後にまとめて洗い流すのではなく、1枚1枚、洗剤をつけては、そのつど水で洗い流す(つまり、水がもったいないような洗い方をする)。

4はちょっとわかりにくいか。

とにかく、これらをやるたびに、家族に叱られる。

「ま~た引き出しが開けっ放しだ」

「あれだけ床にものを置くなっていってるのに、いっさい直りませんな」

「どうしてまな板の上に皿を置くのか、意味がわからん」

等々。

それが自分の悪い癖だということは、自分でも重々わかっているのだが、全くなおらないのである。

そんなとき、決まって軽く死にたくなるのである。

「やっぱり俺は死んだ方がマシだ」

「死ぬ前に引き出しをしめてください」

つまり、私が「軽く死にたくなるとき」というのは、「いつもの悪い癖が、自覚していながらもつい出てしまうとき」なのだ!

そう考えれば、いままで私が「軽く死にたくなったとき」の理由が、すべて説明がつく。

表面にあらわれる癖だけではない。

思考の癖、とでも言おうか。

「思考の悪い癖」が言葉になって出たりすると、人に面倒な思いをさせたり困惑させたりして、「ああ、軽く死にたくなっちゃった」となるのである。

この感覚をわかってくれる人、いるかなあ。

しかしこの、「いつもの悪い癖」というのは、一生治らないもなのだろうか?

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原稿ため込み党のため息

3月3日(火)

間が悪かったり、しくじったりで、軽く死にたくなることばかりですよ。

まあそれでも、生きていればいいこともあるかも知れないと思いながら、わずかなことに望みをつないで、なんとか生きております。

前回は「こだわる生き方がいい」などと書いたが、そんなことを考えているのは私だけで、たんなる身勝手な思い込みにすぎない。そろそろ「こだわらない生き方」に慣れなければいけないのかも知れない。

それにつけても、私にいつもつきまとうのは、原稿である。

時間を見つけては、あまり日の目を見ないであろう原稿を、ああでもないこうでもないといいながら書いている。

それでも、400字原稿用紙で200枚弱の原稿を3月末までに書かなければならない。

若いころは、締切を絶対に守ることを心に決めていたのだが、最近は締切を過ぎることに、あまり抵抗を感じなくなってしまった。

よく、高校時代の友人・福岡のコバヤシに言われるのだが、

「民間企業では考えられない」という。

「民間企業で、約束の期日を過ぎるようなことをすると、信頼問題に関わる」

それはそうだな。そう考えると、われわれの業界は、少し甘やかされすぎている。

同業者の多くもご多分に漏れず、原稿ため込み党のようである。

先日ある同僚と廊下ですれ違ったときにたまたま原稿の話になり、やはり原稿に苦しんでいるとのことだった。

年度末に向けて原稿に苦しむというのは、この業界にはよくあることである。ま、年度末に限ったことではないのだが。

その後、その同僚とすれ違うたびに「原稿はどうなりました?」とか聞いてみると、「それどころじゃないですよ」とか、「まったくピクリとも思い浮かびません」とか、「この調子だと落としますなぁ」とか。

「落とす」とは、掲載予定の媒体に原稿を載せることができないことを意味する言葉である。

「そうですよねえ」なんて相づちを打ちながら、最初は軽く考えていたのだが。

どうもその同僚は、だんだんピリピリしてきたようで、あまりシャレにならなくなってきたようだった。

つい最近は、「原稿どうなりました?」などといつものように軽口を叩こうものなら、あまりその話題には触れたくないみたいな感じになっていることが、如実にわかってきたのである。

「もうそんな軽口はいいから!」

みたいな雰囲気になっていることが、空気でわかってきたのである。

こちらとしては、いちおうお互いを励ます意味でエールを送っていたのだが、そうなるともう、うかつに原稿のことを話題に出せない。

よかれと思って言ったことが、かえって不快に思われてしまうという、私が陥るいつものパターンである。

…というか、私だってよかれと思って以前から気にかけているのだから、進捗状況くらい教えてくれればいいのに…。

あんまりしつこく言うのも煩わしがられるだけだということに、私もようやく気づき、人間、わきまえることが大事だと思ったのだった。何度も気づいては、直らないという私の悪い癖である。

考えてみれば、私が信頼したり尊敬したりしている人は、年齢に関係なく、私よりもはるかにわきまえている人たちなのだ。

考えてみれば当然か。私よりもわきまえている人だから、信頼したり尊敬したりできるんだな。

ああ(ため息)、私も相手の心を察してわきまえられる大人になりたい。

(現時点の原稿字数…44343字)

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卒業という言葉を忘れかけていた

3月2日(月)

夜、「前の職場」の4年生のSさんからメールが来た。近況報告のメールである。

卒論発表会とそのあとの追いコンが無事に終わったこと、そして後日、同じ専攻の仲間7人で島根に卒業旅行に行ってきたことなどが書かれていた。

「卒論の口頭試問は大変手強かったですが、4人とも卒論発表会を含め無事終了しました」

4人とは、私が卒論を指導するはずだった、4人の学生たちである。

4人とも、まじめで素直でしっかりしていて、とてもいい学生だった。

とくにSさんは、私が職場を離れたにもかかわらず気にかけてくれ、時折近況報告のメールをくれるのだった。

前の職場を離れて1年近くが経った。だんだん忘れられ、気にもとめられなくなり、はては疎んじられていくことにうちひしがれていくなかで、こうしてどんな些細なことでも近況を伝えてもらえるのは、涙が出るほど嬉しいことである。

メールに、写真が添付されていた。卒論発表会、追いコン、そして卒業旅行の写真である。

ええっと、何枚送ってくれたんだ?

ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ…

に、20枚!

なんと20枚も、写真を送ってくれたのである。

送りすぎだろ!

しかし写真のどれもがいい。

どの写真も、彼らが楽しんでいる瞬間を切り取った1枚である。

とくに卒業旅行の写真は、男女7人が楽しそうに旅をしている様子がよくわかる。

(うらやましいなあ。これが青春だよなあ…)

「前の職場」を離れて、「卒業」という場面に立ち会う機会は永遠に失われてしまった。

だから今の私は、3月に何の感慨もなくなってしまった。

だがこれらの写真が、それを思い出させてくれた。

学生諸君。読んでいるかどうかわからないけれど。

社会に出たらたちまち、仕事や日々の生活に追われてしまうだろう。

大人になったら、忘れてしまうことや、気にもとめなくなることが重なり、日々はあっという間に過ぎ去ってしまう。

こだわらないのも生き方だし、こだわるのも生き方である。

私はこだわる生き方が好きだけどね。

もしあなたがこだわる生き方の人だったら、またどこかで会えるかも知れない。

縁があったら、またお会いしましょう。

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難解な本に挑戦

2月28日(土)

またまた旅の空です!

…ということで、前回書いた記事に触発されて、久しぶりに難解な本に挑戦することにしました。

鵜飼哲・酒井直樹・テッサモーリス=スズキ・李孝徳『レイシズム・スタディーズ序説』以文社、2012年。

この中の冒頭論文、酒井直樹「レイシズム・スタディーズへの視座」を読み始める。

以前、この人の文章があまりにも難解すぎて挫折してしまったが、この論文はわかりやすい。

俺の頭がよくなったのか?

そうではない。

この文章は、いま現在この社会が抱えている問題と密接にかかわっているから、具体的な事例を頭に思い浮かべながら、読むことができるのである。

たとえば著者は、人種主義が否定的に考えられている現実を前に、ヨーロッパの極右は次のように弁明するのが常套であると述べている。

私たちは白人が他の人種に比べて優越しているとは主張しないし人種に優劣があるとも思わない。問題は、人類すべてが同じ生活習慣、価値観、信仰や伝統を均質に共有しているわけではなく、異なった人種や民族には異なった生活様式があり伝統がある。異なった信念や信仰を持った者が同じ土地で、同じ政治制度の中で共生すると、必ず紛争や差別などの不幸な事態が起こるのであり、人びとは同じ信仰、同じ価値観、同じ生活習慣、同じ伝統を共有する者同士で共同体を形作って、「住み分け」するのが正常なのである。(中略)人が自分のアイデンティティに誇りをもつことのどこが悪いのだ

繰り返すがこれは、人種主義が否定的に考えられる現実を前に、ヨーロッパの極右が弁明する常套表現として著者が紹介した例文である。

著者はこのあと、次のように述べている。

興味深いことに、彼らの文化アイデンティティを強調する議論を聞くと、日本のとくに民族主義の傾向の強い人びとの多くはヨーロッパの極右に賛同せざるを得なくなってしまうだろう

賢明な読者は、ヨーロッパの極右の理屈として著者が紹介したこの常套表現が、まさにいま日本で「その作家」が述べたことと、同じ理屈であることに気づくであろう。

つまり「その作家」が述べたことは、人種主義者特有の弁明である、ということである。

この著者は、「その作家」が問題発言をする3年も前に、その発言の本質を看破していたのである。

この論文は、読んでいると自分の固定観念がくつがえるような表現にいくつも出会う。

人種主義は前近代の遺制ではない。近代化が進めば人種主義はやがて消滅するという、全く根拠のない楽天主義を密かに信奉する近代主義はたんに無責任であるだけでなく、国民主義に内在する人種主義の危険から私たちの目を逸らさせてしまう。このような近代主義的な誤謬を、私たちは〈レイシズム・スタディーズへの視座〉でまず指弾しておかなければならない

そして最後に、私は政治実践的な課題を確認しておかなければならない。それは、一言でいえば、「人種主義には実定的な外部は存在しない」、という自覚である。実定的な外部、すなわち、人種主義に汚染されていない、人種主義から完全に潔白になれるような場所は、少なくとも私たちの歴史の地平にはないのである。ということは、私たちの人種主義との戦いは、何らかの形で人種主義に関わってしまっており、自分を人種主義から完璧に解放された非人種主義者とみなしたうえで、他の人種主義者を論難するというスタンスはとれないのである。人種主義を弾劾することに、私たちは、躊躇しない。しかし、人種主義を弾劾するからといって、私が人種主義の外に立つことができるわけではない。〈中略〉人びとは人種主義の錯綜する力学のなかで、人種主義の暴力と戦わなければならないこともあるのであり、そのような文脈を正確に認識することは、私たちの人種主義批判とその研究の第一歩であり、同時に最も難しい課題だからである。なぜなら、人種主義の批判によって私たちが求めているのは、自分たちの潔白や倫理的な正しさを証明することではなく、私たちを分断し、競争させ、孤立させてゆくものを見いだし、その代わりに、私たちが人びととつながること、新しい共同的な生を探し求めること、そして人びとと協力しつつ、これまでとは違った未来を一緒に築いていくことだからである

人種隔離政策に公然と賛成しながら、「自分は人種主義者ではない」と弁明する「その作家」は、この著者の投げかけた問いに、きちんと答えなければならない。

つまりいまこの国の私たちがかかえている「悪気なき人種主義」を克服するには、まずこの論文を読むことから出発しなければならない。

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