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難解な本に挑戦

2月28日(土)

またまた旅の空です!

…ということで、前回書いた記事に触発されて、久しぶりに難解な本に挑戦することにしました。

鵜飼哲・酒井直樹・テッサモーリス=スズキ・李孝徳『レイシズム・スタディーズ序説』以文社、2012年。

この中の冒頭論文、酒井直樹「レイシズム・スタディーズへの視座」を読み始める。

以前、この人の文章があまりにも難解すぎて挫折してしまったが、この論文はわかりやすい。

俺の頭がよくなったのか?

そうではない。

この文章は、いま現在この社会が抱えている問題と密接にかかわっているから、具体的な事例を頭に思い浮かべながら、読むことができるのである。

たとえば著者は、人種主義が否定的に考えられている現実を前に、ヨーロッパの極右は次のように弁明するのが常套であると述べている。

私たちは白人が他の人種に比べて優越しているとは主張しないし人種に優劣があるとも思わない。問題は、人類すべてが同じ生活習慣、価値観、信仰や伝統を均質に共有しているわけではなく、異なった人種や民族には異なった生活様式があり伝統がある。異なった信念や信仰を持った者が同じ土地で、同じ政治制度の中で共生すると、必ず紛争や差別などの不幸な事態が起こるのであり、人びとは同じ信仰、同じ価値観、同じ生活習慣、同じ伝統を共有する者同士で共同体を形作って、「住み分け」するのが正常なのである。(中略)人が自分のアイデンティティに誇りをもつことのどこが悪いのだ

繰り返すがこれは、人種主義が否定的に考えられる現実を前に、ヨーロッパの極右が弁明する常套表現として著者が紹介した例文である。

著者はこのあと、次のように述べている。

興味深いことに、彼らの文化アイデンティティを強調する議論を聞くと、日本のとくに民族主義の傾向の強い人びとの多くはヨーロッパの極右に賛同せざるを得なくなってしまうだろう

賢明な読者は、ヨーロッパの極右の理屈として著者が紹介したこの常套表現が、まさにいま日本で「その作家」が述べたことと、同じ理屈であることに気づくであろう。

つまり「その作家」が述べたことは、人種主義者特有の弁明である、ということである。

この著者は、「その作家」が問題発言をする3年も前に、その発言の本質を看破していたのである。

この論文は、読んでいると自分の固定観念がくつがえるような表現にいくつも出会う。

人種主義は前近代の遺制ではない。近代化が進めば人種主義はやがて消滅するという、全く根拠のない楽天主義を密かに信奉する近代主義はたんに無責任であるだけでなく、国民主義に内在する人種主義の危険から私たちの目を逸らさせてしまう。このような近代主義的な誤謬を、私たちは〈レイシズム・スタディーズへの視座〉でまず指弾しておかなければならない

そして最後に、私は政治実践的な課題を確認しておかなければならない。それは、一言でいえば、「人種主義には実定的な外部は存在しない」、という自覚である。実定的な外部、すなわち、人種主義に汚染されていない、人種主義から完全に潔白になれるような場所は、少なくとも私たちの歴史の地平にはないのである。ということは、私たちの人種主義との戦いは、何らかの形で人種主義に関わってしまっており、自分を人種主義から完璧に解放された非人種主義者とみなしたうえで、他の人種主義者を論難するというスタンスはとれないのである。人種主義を弾劾することに、私たちは、躊躇しない。しかし、人種主義を弾劾するからといって、私が人種主義の外に立つことができるわけではない。〈中略〉人びとは人種主義の錯綜する力学のなかで、人種主義の暴力と戦わなければならないこともあるのであり、そのような文脈を正確に認識することは、私たちの人種主義批判とその研究の第一歩であり、同時に最も難しい課題だからである。なぜなら、人種主義の批判によって私たちが求めているのは、自分たちの潔白や倫理的な正しさを証明することではなく、私たちを分断し、競争させ、孤立させてゆくものを見いだし、その代わりに、私たちが人びととつながること、新しい共同的な生を探し求めること、そして人びとと協力しつつ、これまでとは違った未来を一緒に築いていくことだからである

人種隔離政策に公然と賛成しながら、「自分は人種主義者ではない」と弁明する「その作家」は、この著者の投げかけた問いに、きちんと答えなければならない。

つまりいまこの国の私たちがかかえている「悪気なき人種主義」を克服するには、まずこの論文を読むことから出発しなければならない。

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コメント

自分を免責して人種主義を批判することはできない。自らの内なる問題としてのみ、それを批判し乗り越えなければならない。ということでしょうか。その通りだと思います。…もう少し平明に言ってくれてもいいと思うけど、厳密を期すとこうなるんでしょうね。
私の知る限り、「その作家」(「この」でも「あの」でもない 笑)はかつて一度も自分の発言を撤回したり謝罪したりしたことがない。そして今回もまた(ニュースサイト「リテラ」参照)。自分が信じたいことだけを信じるタイプのようですが、その点で今の政策責任者と全く同じですね。

投稿: ひょん | 2015年3月 3日 (火) 00時12分

記事に引用した文章は、この人の書いた本の中でもかなりわかりやすい方の部類だと思います。

たしかにもう少し平明に言ってくれればいいんでしょうけど、これだけ厳密に書けば、批判しようにもとりつく島がないだろうし、あるいはそれが狙いなのかな、と深読みしたりもします。

投稿: onigawaragonzou | 2015年3月 4日 (水) 01時49分

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