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原稿ため込み党改め、原稿牛歩党の寄り道

3月13日(金)

常に原稿のことは考えているのだが、なかなか進まない。

旅先に、原稿を書くための資料をたくさんもってきているのだが、旅先では、せいぜい書いても数行だったり、前に書いた部分を推敲したりして終わってしまう。

原稿は牛歩の歩みであり、旅先に持ってきた資料はたんに重いだけで、ほとんど使わずに終わってしまう。その繰り返しである。

さらに悪いことに、そういうときに限って、小説を読みたくなってしまうのだ。

中島京子の『小さいおうち』(文春文庫)を読んで、この作家の語り口が心地よいと思った。

同じ作家の『イトウの恋』(講談社文庫)という小説を読む。

明治時代に日本を訪れたイギリスの女性紀行家・イザベラ・バードと、彼女に付き添って通訳をつとめた伊藤鶴吉をモデルにした小説で、小説の中ではそれぞれ、「I・B」と「伊藤亀吉」という名で、物語が進行する。

中学校教師の久保耕平は、たまたまこの「伊藤亀吉」の手記を発見し、顧問をしている郷土部の生徒・赤堀君、そして劇画作家の「田中シゲル」という女性と、イトウの人生をたどる調査を始める。

イトウの手記には、通訳として一緒に旅をするイトウの、親子ほど年齢の離れたI・Bへの恋心が切々と書かれていた。

小説中に登場する手記は、もちろんこれは作者の創作だが、I・Bに対するイトウの想いの機微を、実に丁寧に記している。これ自体がひとつの「手記文学」ともいうべきものである。

ただ、これははたして「恋」とよぶべきものなのかは、読者の判断にゆだねられるであろう。もっと深いところの、人間同士の絆というべきものだと、私は思う。

明治に生きたイトウの手記と、その謎を解き明かす現代の3人の思いが交錯する文体は、『小さいおうち』の手法を彷彿とさせる。

ほかの人があまり書かないであろう、私が印象に残った場面をひとつ。

この手記を読み解く主人公、中学校教師の久保耕平と、生徒の赤堀君は、言ってみればシャーロック・ホームズとワトソンの関係になぞらえられるが、二人が、中学校の文化祭の準備をしているとき、何気なしに会話をする場面がある。

「ねえ先生」

赤堀は言った。「このイトウという人はさ、教科書に絶対載らない人だよね」

「そうかな?」

「だって偉い通訳だったからってさ、日本の政治を動かしたわけじゃないもんね。それにさ、恋愛しても片思いで、実らなかったみたいだしさ」

「実らなかったのかな?」

「実ってないじゃないか。それに『恋愛しました』なんてことで教科書に載る人はいないわけだしね。ねえ、絶対教科書には載らないね」

「そりゃ載らないかもしれないね」

「かもしれないじゃないよ。ぜったい載らないんだよ」

「それは赤堀にとっては、いいことなの?悪いことなの?」

「いいことでも悪いことでもないよ。だけど載らないことはたしかなんだ」

「教科書には載らなくても、先生はこの人が好きだな」

「俺だってけっこう好きだよ。だからこうして準備してるんじゃないか」

どうということもない会話だが、この会話の中にこそ、作者のまなざしが読みとれるように思う。

このとき赤堀君は、歴史は教科書に載らない無数の人たちで構成されていることに気づくのである。

そしてそれこそが、イトウという人物を借りて、作者が小説という媒体で表現したかったことなのではないだろうか。

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