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手書きの卒業論文・その3

4月12日(日)

新幹線と在来線を乗り継いで4時間、出張先の定宿に着いたのは、午後4時のことだった。

ホテルにチェックインしたあと、今度はバスでE君の実家へ向かう。

バスに乗ること30分。住宅街のバス停で降りると、E君の御母様がバス停まで迎えに来てくれていた。

「ご無沙汰しています」25年ぶりである。

「遠いところよく来てくださいました」

E君の実家にお邪魔したのは25年ぶりなので、もうほとんど記憶になかったが、バス停から歩いているうちに、なんとなく思い出してきた。

道すがら、御母様がいう。

「卒論のコピーなどというご面倒なことをお願いしてすみませんでした。実はいま、息子が書いた卒論の原稿を、もう一度書き起こしているんです」

なにぶん25年前の卒論のため、原本のインクが薄くなり、コピーをするとどうしても薄くなってしまった。それを御母様は、一字一字、まるで写経するように、書き写しているというのである。

私は提案した。

「私も今回初めて彼の論文を読んでみましたが、内容、表現ともに、実にすばらしいものです。ぜひこれをワープロソフトに入力して、印刷して小冊子を作って、多くの人にご覧いただいたらいかがでしょう」

すると御母様は答えた。

「ええ。そのつもりで、実はいま、パソコンの勉強をしているんです」

ご自宅に到着した。御父様が玄関で迎えてくれた。

遺影という形で、E君と久しぶりに対面した。

写真の中のE君をじっと見つめてみるが、まったく実感がわかない。

「あいつは、私たちに何も言わなかったんですよ。部長に昇進したことも、病気だったということも…。まったく何を考えていたんだか…」と御父様。「さあ、こちらに来て、お話ししましょう」

私は、E君の卒業論文の原本と、E君が写っている大学時代のスナップ写真をお渡しした。

御父様とお酒を飲みながら、いろいろな話をする。

E君の御父様は、大学の医学部の教授をずいぶん前に定年退職された方で、その博識ぶりには圧倒されるばかりだった。

時折、思い出したように、E君の話になる。

「あいつはおとなしいヤツでねえ。社交性があるわけでもない。家でも何も言わないし、こちらからいろいろと聞いても絶対に何も言わない。頑固なヤツでした。会社で上手くやっていけるのかなあと心配していたんですけど、あいつが死んだあと、同僚のみなさんが「偲ぶ会」をやってくれて、大勢の人が集まってくれたんだそうです」

「そうですか」彼を慕う人が多かったというのは、私にはよく理解できた。

「私は大学時代の彼しか知りませんが、彼自身が目立たない人間だったせいもあってか、目立たない人や弱い立場の人のことを常に考えていて、理不尽なことに対してはハッキリと拒絶していました。そういう彼の姿をちゃんと見ている人たちがたくさんいたということではないでしょうか」

「そうかも知れません」と御父様。「会社でも、まじめにコツコツとやってきたたたき上げの人が報われるような会社にしなければならないと言っていたそうです」

「E君らしいですね」

「ええ。…それで思い出したことがあります。彼が高校生のときです」御父様が続けた。

「高校に在日コリアンの同級生がいて、成績も優秀だったんです。ところがひとり、その同級生を日ごろからいじめていた同級生がいましてね。差別意識からきたいじめでしょうね。息子はそれを見て、腹に据えかねるものがあったらしい」

「ほう」

「あるとき、とうとう我慢ならなくなって、いじめていた同級生と大ゲンカをしたというんです」

「へえ」私は驚いた。「あのおとなしいE君がですか」

「ええ。そのときは、まわりの生徒たちもびっくりしたそうです。日ごろおとなしいアイツが声を荒げて大ゲンカしたってね」

「ふだんはおとなしくても、ここぞというときに声をあげたんですね。たぶん会社でも同じだったんじゃないでしょうか。だから目立たなくても、みんなに慕われていたんでしょう」

「そうかも知れませんね。

…私はね、鬼瓦さん。

息子が、本当は何をやりたかったのか、いまでもよくわからないんですよ。会社勤めすることが、彼が本当にやりたかったことなんだろうかってね。学問の道に進ませればよかったんじゃないかって、今でも思うことがあるんですよ」

「私はただ想像するしかありませんが」私は御父様に言った。

「彼が会社でやりたかったことは、どんな人間でも働きやすくなるような環境を整えることだったんではないでしょうか。そのための努力を惜しまなかったんでしょう。彼がどんな職業についていようとも、彼はそのことをしていたと思います」

「そうかも知れませんね。すると彼は、自分のやりたいようにやって、去っていったんでしょうかね」

「そうだと思います」

「あいつらしい」

気がつくと4時間がたっていた。

「また遊びに来てください。私らは夫婦二人暮らしで、時間をもてあましていますので」

「今度は大学時代の友人を連れてうかがいます」

E君の実家をあとにした。

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