古典は身を助ける
「身を助ける」シリーズ
古典がいかに人生の指針として不可欠なものであるかということを、このところずっと考えていて、思い出したことがある。
話としてはサイテーな内容であることをお断りしておきます。
前の職場での話。4年生の男子学生が私の仕事部屋に訪ねてきた。ちょうど、就職活動がいちばん大変な時期である。
「あのぅ…。公務員試験を頑張らなければいけない時期に、こんなこと先生に話していいのかどうか…いや、こんなこと先生にしか言えません。友達にも決して言えません。でも言わないと、気持ちの整理がつかないんです」
あまりにも思いつめた様子である。
「どうしたの?」私はたずねた。
「先日、公務員試験を受けてきたんですよ」
「ほう」
「朝、試験が始まる前に試験会場の前で並んでいると、すぐ後ろに○○さんがいたんです」
○○さん、というのは、やはり私の指導学生で、その男子学生と○○さんは、同学年の仲よしグループの仲間だった。
「僕に気づいた○○さんが、さかんに僕に話しかけてくるんですよ」
「そりゃあ友達なんだから、当然だろう」
「ええ。まあいつものように、ふつうにいろいろなことを話していたんですが、ほら、僕は背が高くて、○○さんは背が低いでしょう?」
「そうだね」
「立って話していると、目線がどうしても下に行ってしまうんですが、○○さんはそのとき、ワイシャツの第1ボタンと第2ボタンを閉め忘れていたみたいで…」
「……」
「何というか、…胸元が見えてしまったんです」
折しも、季節は夏であった。
「まあ不可抗力だろう」と私。
「ええ、僕も自分に必死でそう言い聞かせていたんですが、いままで○○さんのことを、そういう意味ではまったく意識したことがなくて…」
「つまり、○○さんとは、ふつうに軽口をたたき合える友達どうしにすぎないということだね」
「そうです」
ふだんの二人の関係性をよく知っている私には、その男子学生の言っていることがよく理解できた。二人は顔を合わせればお互いを罵りあい、軽口をたたき合う間柄である。
「ところが僕、そのあとの試験がボロボロだったんです」
「なるほど」
「先生、…僕の言いたいこと、わかりますか?」
「わかる」
「こんな話、ほかの友達には絶対に打ち明けられないでしょう?」
「たしかに」
だからといって俺のところに言いに来るなよ、と思ったが、それは言わなかった。
「で、僕が悩んでいるのは、直後の試験がボロボロになってしまった、ということについてなんです。もしこれが、自分が好きな女の子の胸元がつい見えてしまったというのであればわかります。でも、ふだんそんなことをまったく意識したこともない○○さんの胸元を見ただけで心がかき乱されるというのは、いったいどういうことなんでしょう?僕の心がおかしいんでしょうか?悔しくて悔しくて、自分の中で折り合いがつかないんです」
いつになく、その学生はまじめに私に聞いてきた。
さあ、どう答えたらよいものか。
「それはあなたの深層心理の中で、○○さんのことが好きだからだよ」
と答えるのは、あまりに短絡的だし、たぶん誤りである。
私は少し考えたあげく、こう答えた。
「兼好法師の『徒然草』を知ってるだろう?」
「はい」
「その中に、久米の仙人の話というのがある」
「久米の仙人、ですか?」
「空を自由に飛ぶことができる久米の仙人が、あるとき洗濯をしている女性の白いふくらはぎを見て、たちまち神通力を失い、空から落っこっちゃった、っていう話」
「へえ」
「仙人ですら、たまたま洗濯をしていた見知らぬ女性の白いふくらはぎを見た程度で、神通力を失ってしまうんだ。ましてやあなたが試験がボロボロになるなんて、当然のことだろう」
「そう言われれば、そうですね」
「あなたが経験したことは、久米の仙人が経験したことと同じことなのだ」
「なるほど」
「だから今度同じようなことがあったら、久米の仙人のことを思いなさい」
「わかりました。てっきり、こんなことを考える俺ってどうかしていると思って、ずっと悩んでいたのですが、やっぱり思いきって先生に打ち明けてすっきりしました。久米の仙人でも、神通力を失うんですよね」
「そう、久米の仙人だぞ」
「でも先生、このことは絶対に誰にも言わないでください。恥ずかしいことなので」
「もちろん、誰にも言わないよ」
…もちろん当時は誰にも言わなかったが、いまはもう何年も経っているので時効だろう。
その男子学生は、いまでは立派な公務員である。
「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通(つう)を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし」(『徒然草』第8段)
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