ハルキをめぐる冒険
4月13日(月)
僕がその、プラハ出身の作家の名前のカフェを訪れようと思ったのは、たまたま今週、僕がその町に出張中で、そのカフェが友人の弟さんが経営する店だということが一番の理由だったが、理由はそれだけではなかった。
数日前、友人からメールが来て、弟さんの経営するそのカフェが、どうやら村上春樹のホームページで紹介されたらしいというのである。
教えられたとおりにそのホームページにたどり着くと、27歳女性の大学院生と名乗る読者が村上春樹に質問をして、それに対して村上春樹が答えるという内容のものだった。
「数年前、ひどくぼんやりとした沼の底にいたのですが、そのときに村上さんの本に出会いました」で始まるその大学院生の文章は、ひどく不思議なもので、僕には意味のとりかねる内容のものだったのだが、その最後に彼女は、
「その町の公園の近くにプラハ出身の作家の名前をつけたカフェがあるのですが、私の代わりに行ってみてくれませんか?」
と、村上春樹に「お願い」していたのだった。
これに対して村上春樹は、
「わかりました。今度その町に行ったら、そのプラハ出身作家の名前のカフェに入ってみますね。そしてお昼の「ザムザ定食」を食べてみます」
と答えたのだった。
僕は妻にこのホームページの内容を話した。
「この27歳女性の大学院生って、どんな人なんだろうね。最初に書いてある『数年前、ひどくぼんやりとした沼の底にいたのですが』というのは、どういう意味なのだろう」と僕は妻に訊ねた。
「さあね。それにしても村上春樹は大変ね。だって、どんな質問に対しても、村上春樹は村上春樹らしい答えをひねり出さなければならないんだもの」と妻は言った。
「なるほど、そういうものかね」と僕は言った。
とにかく僕は、大学院生と村上春樹とのやりとりがひどく印象に残った。そして、ひょっとしてあのカフェに行ったら、村上春樹に会えるかも知れない、と思ったのである。
出張先での仕事は、朝からずっと緊張を強いられっぱなしだった。ようやく夕方に解放された僕は、同僚たちと別れたあと、大雨と大風の中を、歩いてそのカフェへと向かった。
ひょっとしたら村上春樹がカフェにいるかもしれないと思いながら、すっかりぬれねずみになった僕がカフェに入ると、数人の先客がいて、会話を楽しんでいた。いずれも女性の観光客らしき人たちばかりで、村上春樹の姿はなかった。そして背広姿で全身ずぶ濡れの男性は、僕だけだった。
「いらっしゃいませ」と店主が言った。
メニューを見ると、村上春樹が書いていた「ザムザ定食」はなかった。
「チキンカレーとコーヒーをください」と僕は言った。
「コーヒーでいいですか?ミニコーヒーもありますよ」と店主が言った。
「ではミニコーヒーをください」
「コーヒーは食後でよろしいですか」
「食後にお願いします」と僕は言った。
しばらくしてチキンカレーが運ばれ、それが食べ終わった頃に、ミニコーヒーが運ばれてきた。
僕はその間、ずっと村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読んでいた。
ひょっとしたら村上春樹がこのカフェに来るかも知れない、そうしたらサインをもらおうと思い、出張先まで持ってきたのだった。
コーヒーを飲み終わっても、村上春樹は来なかった。
仕方がないので、カフェを出ることにした。
しかしここでもうひとつ僕を悩ませることがあった。
それは、店主に僕の素性を明かすべきかどうか、ということだった。
「僕はあなたの兄の友人です」と素性を明かしたら、「お代は結構です」と言われるかも知れない。いやその反対に、「それがどうしたんです?」と言われるかもしれない。
さんざん悩んだあげく、お金を払い、お店を出る直前に、素性を明かすことにした。
「あの、僕はあなたの兄の友人です」と僕は言った。
「そうでしたか。たしか前にも一度いらっしゃいましたよね」と店主は言った。
「はい。今日はたまたま出張に来たので寄らせていただきました」
「そうでしたか」
「またおうかがいします」
「どうもありがとうございました」と店主は言った。
日はすっかり暮れていて、歩き始めると背中に小さな雨の音が聞こえた。
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コメント
朝起きると、僕は「虫」になっていた。
これが、世界的作家の名前のついたカフェに別の作家の本を持ちこんで、あわよくばサインまでねだろうとする極めてスノッブな僕の行動に対する羊の報いであることは、どうやら間違いなさそうだった。
ともあれ、こんな旅先で変身したところで、どうすることもできない。窓から壁を伝ってホテルから出ると、古都の街中をさまよったあげく、昨日立ち寄ったカフェに行き着いた。
店の主人は、店のドアーに巨大な虫がへばりついていることに、最初は動転したようだった。けれど、カレンダーの昨日の日付、本棚に飾られた村上春樹の小説、そしてチキンカレーとミニコーヒーのメニュー写真を何度も6本の足で指し示すと、僕にやっと気づいたようだった。
店主はこう言った。
「とあるブログで紹介されたこともあって、このところ客が大入り満員で、虫の、いや猫の手も借りたいくらいの大忙しなんだ。どうせ行く場もないのなら、ここでバイトでもしないか」
僕は店員として働くことになった。
店の主人も来店した客も、「虫」となった僕になぜか優しかった。客のほとんどが読書好きで、僕と似た境遇の男が主人公の小説を読んでいて、その悲劇的結末を知っていることが、理由らしかった。
そして、僕は「その作品が好きすぎて虫のコスプレをしているコアな文学ファンの店員」という体で扱われた。
まかない用に、6本の足で器用に殻付きマカデミアナッツを割って作った「自家製マカデミアナッツソースのパンケーキ」も、客に出してみると好評で、韓国仕込みの「カペ・アメリケーノ」とのセットは、いつしか「サムザ定食」と呼ばれる隠しメニューとなった。
3か月が過ぎた頃、僕はバイト代の小切手をもらった。不相応な額面だった。
「このくらいあれば、バーの共同経営者にでもなれるさ」。店の主人は最後に僕を送り出す間際にそう呟いた。「ただし、俺の店は爆破しないでくれ」
僕は川に沿って河口まで歩き、二時間泣きたかったが、虫なので涙が出なかった。どこに行けばいいのかはわからなかったけれど、とにかく僕は立ち上がり、触覚についた細かい砂を払った。
日はすっかり暮れていて、歩き始めると背中に小さな雨の音が聞こえた。
投稿: コブギをめぐる冒険 | 2015年4月14日 (火) 11時03分
ハルキストでもない僕が、ハルキを気取って日々の出来事をハルキの文体に似せて書いてみたところ、コブギは僕以上にハルキを気取ってハルキが書くような小説を書いてきた。それには僕も舌を巻いた。どうやら僕のまわりで、この記事がハルキを気取ったものだということに気づいたのは、コブギとヒョンだけだったようだった。
ところで、僕が虫になったという話は、コブギが書いたとおり本当である。今日も朝から仕事場で虫のように這いずり回ったが、汗かきという体質は虫になっても変わらないらしく、絶対に汗をかいてはいけない場所なのに、いまにも汗があふれ出しそうになる私を見て、「こいつ、大丈夫か」と、虫であることよりも汗をかくことの方をみんなは心配していたのである。
仕事が終わり、僕は今日も川に沿って河口まで歩き、二時間泣きたかったが、虫なので涙が出なかった。そのかわりに、汗がとめどもなく流れたのだった。
投稿: onigawaragonzou | 2015年4月14日 (火) 21時52分
夜ふけの創作工房 ママとパパのためのはじめてのおはなしづくり講座
http://www.tbsradio.jp/utamaru/2015/04/412_4.html
ポッドキャストでどうぞ。勉強になるなあ。
(追伸)藤村Dが手がける日韓PD対決番組のOAが始まったようです(マジ☆)
投稿: スクリプトこぶぎ | 2015年4月15日 (水) 19時55分