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決定!2015書籍ベストワン!

周防正行著『それでもボクは会議で闘う』(岩波書店、2015年)。

2011年、映画監督の周防正行氏が、法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員に選ばれたことから、この話は始まる。

刑事事件のえん罪をどのようにしてなくしていくことができるか?そのためには、「取り調べの可視化(録音・録画)」をどれだけ実現できるかが、大きなポイントとなる。

周防監督は、3年間、計30回にわたる会議の様子を克明に記録する。議論は微に入り細をうがっており、素人の私にとっては難解な内容だが、それでもこの本は掛け値なしに面白い。

法制審議会には、裁判官、検察官、警察関係者、法律学者のほか、法律の専門家以外の、「有識者」と呼ばれる人たちも存在する。周防監督や、郵便不正事件で無実の罪を着せられた厚生労働省の村木厚子さんなど、5人が有識者として会議に臨む。

理不尽なえん罪事件を、どうしたらなくすことができるか?そのための会議であるはずなのに、実際のところ、警察や検察は、従来の取り調べのやり方を改めようとする気はさらさらない。あれこれと理由を付けて、何とかこの改革を「骨抜き」にしてやろうと執拗に「改革派」を攻撃する。

これに対して、周防さんや村木さんなどの「有識者」は、あくまでも「えん罪被害者」の視点に立ち、「取り調べの全面可視化」を含めた刑事司法の抜本的改革を主張する。

自分たちの権益を守り抜こうとする「官僚・警察・検察」

VS

刑事司法を市民の手に取り戻そうとする「有識者」という名の素人集団

…どう考えても、「有識者」には勝ち目がないのだが、5人の「有識者」たちは、改革が骨抜きにされないために、ときに主張し、ときに妥協をしながら、会議の場で最後まで闘うのである。

これとはレベルはまったく異なるが、私が以前、キャンパス・ハラスメントの規定作りをしたときに、これと似たようなことを経験し、そのときのことを思い出しながら、読み進めてしまった。あのときと、論法のレベルに至るまでじつによく似ている。もっとも私は、情けないことにここまで踏ん張ることはできなかった。

さて、法制審議会には、法律の専門家として大学教授の法律学者たちがメンバーに入っていた。

この人たちは、審議会の中でどのような役割を果たしたのだろう?

取り調べの全面的な可視化を主張する有識者に対して、できるだけ可視化の対象範囲を狭めようとする警察や検察関係者。

この対立のあいだで、法律学者たちはなんの改定案も示そうとしなかったと、周防監督は述べている。

読んでいて象徴的だったのは、次のくだりである。

「僕が〈立派な刑事訴訟法があるのに、それが全然実現されていないというのは、ちょっと勉強すれば、大した勉強をしていなくても分かるわけですよ。刑事訴訟法が悪いわけではないんですよ〉と言ったら、すかさず井上委員(井上正仁・早稲田大学教授)に〈周防委員、それは言い過ぎで、断定に過ぎます。そういうことを今おっしゃられたら議論にならないので、ちょっと言い過ぎだと思います〉と指摘された。

もちろん僕は、本当に刑事訴訟法のすべてが実現されていないと思っているわけではない。刑事訴訟法には、公正な裁判を実現するための手続きが書かれているのに、その重要な部分において、捜査側や裁く側に都合良く解釈、運用されていることがあるのではないかという意味で、「全然実現されていない」という言い方になっただけだ。勾留の要件にしてもそうだろう。本当に、法律として書かれていることにしたがって運用されているかと言えば、そうは思えない現実があるのだ。

井上さんは、「立派な刑事訴訟法があるのに、それが全然実現されていない」という僕の言葉を額面通りに受け取られ、厳しく反論した(まさか「刑事訴訟法が悪いわけではない」と言うことを断定に過ぎると怒ったわけではないと思うが)。法学者としての矜持ゆえかもしれないが、とにかく、僕はこうして三年間、いろいろと釘を刺されてきたわけだ」

どうもこの審議会においては、法学者たちは「神学論争」に終始しているように見受けられる。法制度改革に実質的な意味で資するような発言はとくにみられず、議論を積み重ねていくうちに、いつしか本質は見失われ、自らの矜持を守るためだけの議論が延々と続いていくように思えて仕方がないのである。そしてその結果、好むと好まないとにかかわらず、その理屈は国家権力の思惑の中にいとも簡単に飲み込まれてしまうのである。

最後の会議における、周防監督の発言もまた印象的である。

「私は映画監督として、今まで様々な世界を取材してきましたが、絶えず自分に言い聞かせてきたのは、「はじめの驚きを忘れるな」、ということです。その世界を知り過ぎると、全てが当たり前になってきて、その世界を初めて見た時に感じた「驚き」や「面白さ」を忘れてしまう。しかし、その「驚き」や「面白さ」こそが、映画を初めて見る観客にとっての最良の入り口になるのだと信じ、映画を作ってきました。是非、法律の専門家の皆さんにも心に留めておいていただきたいのは、専門家であるが故に当たり前に思っていることが、決して多くの市民にとっては当たり前のことではない、ということです。専門家に任せておけば良いのだ、ということではなく、多くの市民にも理解できるように言葉を尽くしていただきたいと思っています。その責任が専門家にはあると思います」

この発言がすべての学問に通ずるものであることはいうまでもない。

この本は私にとって共感することばかりなのだが、いわば法律の「素人」が書いた情緒的なこの本を、専門家が読んだら、また全然違う感想をいだくのかも知れない。そのあたりが興味深いところである。

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コメント

2011年というと、政権交代前ですね。今の政権党のもとでは、そもそも周防さんのような(本来の意味での)「有識者」は委員に選ばれないのではないかと思いますが、どうでしょう。もうしそうなら、司法を市民の手に取り戻すには市民自身の判断力がいちばん必要だということになりますね。専門家任せにもできませんが、有識者任せにしておくわけにもいきませんな。

投稿: ひょん | 2015年5月 7日 (木) 10時24分

おっしゃるとおりで、当時の法務大臣が江田五月さんだったからこそ、周防さんが選ばれたのです。周防さん自身も、「だからこそ法制審にボクのような非法律家を入れることもできるのかも知れない」「(政権が交代したら)はたしてこの部会はそのまま存続できるのだろうか」と、この本の「はじめに」で書いています。

今なら、有識者任せになんて、とてもできませんね。

投稿: onigawaragonzou | 2015年5月 8日 (金) 01時03分

ということは、周防さんたちの闘いの前に、江田さんのおそらくは孤立無援の闘いがあったんでしょうね。密室で、官僚たちに取り囲まれて。
法制審の今の構成を見ると、周防さんはもちろん村木さんの名前も見当たりません。そして、井上教授はまだいます。
「新時代の司法制度」部会のとりまとめ案を見ると、「やむを得ない場合」「記録するとマズイ場合」は記録しなくて良いと書いてあります。それを判断するのは、検察官です。
こういうことを知らなかった自分を恥じる気持ちになりますね。

投稿: ひょん | 2015年5月 9日 (土) 16時22分

たぶんほとんどの人が知らなかったと思いますよ。

大学の刑事訴訟法の授業とか法学の基礎演習あたりで、この本をテキストにすればいいのに、と思います。

モギ裁判のスピンオフ企画として、この本にもとづいた「モギ法制審議会」というのをやったら面白いのに、とも思います。

…無理でしょうけど(笑)。

投稿: onigawaragonzou | 2015年5月 9日 (土) 20時55分

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