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2015年5月

校長先生と生徒会長の会話

教授と学生の会話

校長先生、この学校は体罰禁止のはずでしたよね。これからは教師の体罰を認めるんですか?

いえ、健全な人間育成をすることに変わりはありません。ただ、健全な人間育成を願ってばかりはダメです。私たちは果敢に行動しなければなりません。そこで「積極的健全育成主義」を掲げることにしたのです。

しかしこれでは、体罰を容認することと同じではないですか?

いえ、決して体罰を容認するものではありません。ただ、不測の事態を考えて、切れ目のない対策が必要なのです。

不測の事態に備えて、切れ目のない対策?

そうです。まずは、事態を「校内暴力予測事態」「校内暴力切迫事態」「校内暴力発生事態」に分類して、事態に応じて「体罰待機」「竹刀を持って準備」「体罰行使」といった対策を取るのです。

その事態は、誰が認定するのですか?

校長である私です。

どうもよくわかりません。他校の生徒にも体罰をするということですか?

いえ、そんなことはありません。ただし、他校での校内暴力がわが校の存立をおびやかすような事態になった場合、これを「存立危機事態」と位置づけて体罰行使を可能とします。ほかにも、わが校に重要な影響を与える事態を「重要影響事態」、地域の子どもたちの健全育成を脅かす事態を「健全育成共同対処事態」と位置づけています。

ますますわかりません。それは誰が認定するのですか?

校長である私です。

じゃあたとえば、不良生徒たちが、竹刀を持って廊下を歩いていたとします。これは、何事態ですか?校内暴力はまだ発生していないから、「校内暴力発生事態」ではありませんよね。するとこれは、「校内暴力予測事態」でしょうか?それとも「校内暴力切迫事態」でしょうか?

それは、そのときの事態を見て総合的に判断します。

むちゃくちゃ曖昧じゃないですか!やはりどう考えても、体罰を行使する機会が増えると思うのですが。

いえ、断じてそんなことはありません。ただし、わが校への攻撃意志が不明確な場合でも、集団的体罰権行使の対象になり得ます。

結局、どんな場合でも体罰ができるということじゃないですか!しかしそうなると、体罰が好きな人が校長になったときは恐ろしいことになりますね。「事態」が都合よく解釈されて、体罰を行使する方向に向かうと思うのですが。

体罰が好きな校長など、この世におりません。どうか安心してください。最高責任者の私が言うのですから、間違いはありません。

それがいちばんアブないんですが…。これらは、さまざまな「事態」にそなえて体罰を行使するか否かを定めたものということですね。

その通りです。

ではこの規則によって、本来の目的である「健全な人間育成」は本当に達成できるんでしょうか?

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夢の国1周

5月31日(日)

どうしてロードバイクを始めたか?って?

決まってるじゃないか。友だちがいないからだよ。

こちらに引っ越してからというもの、近くに心をひらける友人がいない。もっぱら家族のみである。

昨日の夜に地震があったときも、「地震大丈夫でしたか?」と心配のメールをくれた友人は、たったの1人だけだった。

その点、ロードバイクは1人ぼっちで何時間も走っていても、まったく違和感はない。

友だちがいなくても、趣味として十分に成立するのである。

そういえば、ロードバイク愛好者にはオッサンが多いが、みんなひょっとしたら友だちがいない人たちなのかも知れない。

昨日は散髪屋に行った。

いつも困るのは、散髪を担当してくれているアラサーのTさんと、カットしてもらっている間、あたりさわりのない会話をしなければならないことである。

カットしてもらっている時間におさまるような話題にしなければならない。

「最近、ロードバイクを始めたんですよ」と私。聞かれてもいないのに、自分から喋り始めたのである。

「ロードバイクですか。いいですねえ」とTさん。「僕はクロスバイクですけど」

「ロードバイクはいいですよ。クロスバイクを乗っていたら、物足りなくなるそうですよ」と私。私は知らず知らずのうちに、ロードバイクについて語り始めていた。

「僕はクロスバイクでいいです」とTさん。「ロードバイク乗っておられる方、みなさんそうおっしゃるんですけどね、僕はクロスバイクでいいです」

「そんなこと言わずにいちどロードバイクに乗ってごらんなさい。絶対にロードバイクがほしくなりますから」

「でも乗らなきゃそのよさはわかりませんよね。だったら、ロードバイクを知らないままの方がいいです」Tさんも頑なである。

というか私自身もこの1カ月ですっかり、ロードバイクの楽しさを人に押しつける人間になってしまったのだ!

そんなわけで、こぶぎさんと二人で「吹きだまりサイクリング部」を結成することにしよう。

さて、今日はどこに行こうか。

「いちど騙されたと思って、海のほうへ行ってごらん」と妻。

「しかし、昨日も大きな地震があったばっかりだし、また地震でも起こって、津波でも来たらと思うと…」私は海のほうへ行くのがなんとなく恐かった。だからいつも、海とは反対方面にロードバイクを走らせていたのである。

「そのときは、ロードバイクで全速力で逃げればいいじゃん」

あまり気が進まなかったが、そこまで言われてしまったので、今日は海の方に向かうことにした。

出発して1時間半。

東京湾が見えた。

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着いたのは、夢の国だった。

夢の国を1周できる道があったので、夢の国を1周することにした。

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週末の夢の国ともなれば、たくさんの人でにぎわうはずである。

だが、夢の国から一歩外に出た、この道路は、実に閑散としている。

夢の国の中の賑やかな音や歓声が、まったく聞こえてこないのである。

実に不思議である。

まるで休園しているかのような静けさであった。

園内の音が、外に出ないように工夫されているのだろうか。だとしたら、実に考え抜かれた作りである。

夢の国のまわりをしばらく走っていると、歩道にたくさんの若者たちが歩いている。

みんなオシャレな服装である。あか抜けた人たちが多い。

しかし、どうもお客さんといった感じがしない。

誰ひとり、はしゃいでいる人がいないのである。みんな、黙って歩いている。

(おかしいな。夢の国に遊びに来る人は、夢の国に入る前からはしゃいでいるはずなのに…)

列をなして黙って歩いている人たちは、「関係者入口」という門に吸い込まれていった。

そうか。ここで働いている人たちなのか。

それにしても、たくさんの人たちがここで働いているんだな。

夢の国の周囲をめぐっている道路を走ってみると、オモテからでは決して気づかないような思わぬ発見があり、夢の国の別の一面が見られて、実に面白い。

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というわけで、9時から12時までの3時間の旅でした。

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ブラオニ

5月30日(土)

今日もロードバイク日和である。

ただ、相変わらず地図を持たないので、例によっていきあたりばったりである。

さて今日はどこに行こうか。

いつもの「県境を流れる川」のサイクリングロードは、安全なのだが、景色が変わらないので、つまらない。

といって、都内のまちなかを走るのは、車通りが多くて危険だが、景色が変わるので、走っていても飽きない。

そこで考えた。

都内を走るのはいいが、車通りの多い国道を走るのはやめて、できるだけ車の少ない道を選んで走ることにする。

今回は、国道に沿って走るのではなく、私鉄の線路に沿って走って、どこまで行けるか試してみることにしよう、と。

「県境を流れる川」のサイクリングロードを走り、「寅さんの町」にさしかかったとき、サイクリングロードからはずれて、町中に入る。

そして、私鉄の線路に沿って、都内に向かうことにした。

途中、菖蒲が咲いている有名な場所に立ち寄る。ちょうど菖蒲が見ごろだった。

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途中、奇妙なものを見つけた。

歩道と車道の切れ目のところに、「○○橋」という碑が置いてある。

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そうか、この遊歩道は、かつて水路だった跡だ!

そういえば以前、高校の1年後輩のアサカワが、都内にある、川を埋め立てた道を歩くのを趣味にしているといっていたが、こういうところのことをいうのだな。

このあたりはかつて、縦横に水路がめぐっていたという。

「ブラタモリ」みたいに、こういう道をずっと追いかけてみたいという衝動にかられたが、時間がかかりそうなので断念した。

その脇に立てられた七福神の石像。体型がどうも私に似ている。

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この町を出て、さらに線路沿いに西へと進む。

途中、川にぶつかり、今日はここで引き返すことにした。

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8時から12時までの、4時間の旅でした。

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いまこそ読め、阿部次郎「三太郎の日記」

読者減らしキャンペーン!

阿部次郎「三太郎の日記」を知ったのは、30年以上前の、また中学生の頃だったか。

当時NHKのアナウンサーだった鈴木健二の随筆の中で、旧制弘前高校~旧制東北大学の学生時代に阿部次郎の「三太郎の日記」を耽読した思い出を書いていて、「三太郎の日記」は、教養主義に憧れる当時の学生の誰もが読んだ本だと書いてあった。

最近、「若い頃に読んでちんぷんかんぷんだった本」を拾い読みすることが自分の中でブームとなっているが、この阿部次郎の「三太郎の日記」を、出張の移動中などで、折にふれて読んでみた(青空文庫で、簡単に読むことができる)。

若い頃に読んだときにはちんぷんかんぷんだったが、いまあらためて読むと、じわじわと心に迫ってくるなあ。

以下、私が感銘を受けたところ。

眞正なる内省は無鐵砲と盲動との正反對である。從つてそれは或意味に於いて行動の自由を拘束する。さうして時として無鐵砲と盲動とから來る僥倖をとり逃すことがあるに違ひない。併し眞正なる内省によつて抑へられるやうな行動は、本來發動せぬをよしとする行動である。さうして無鐵砲と盲動とによつて始めて得られるやうな僥倖は、之をとり逃しても決して眞正の意味の損失ではない。

(中略)無鐵砲は一切の内面的經驗を上滑りして通るに十分なる眼かくしである。彼等は自己の弱點を弱點として承認せず、自己の缺乏を缺乏として承認せざるが故に、その内面に何の征服せらる可き敵對力をも認めることが出來ない。從つて一切の精神的進歩の機縁たる可き内面的鬪爭の必然性を持たない。彼等は自己の弱點を樂觀することによつて、苦もなくその弱點の上を滑べる。さうしてその滑べり方の平滑なることを基礎として「自己肯定」の信仰を築き上げるのである。

(中略)弱い者はその弱さを自覺すると同時に、自己の中に不斷の敵を見る。さうして此不斷の敵を見ることによつて、不斷の進展を促す可き不斷の機會を與へられる。臆病とは彼が外界との摩擦によつて内面的に享受する第一の經驗である。自己策勵とは彼が此臆病と戰ふことによつて内面的に享受する第二の經驗である。從つて臆病なる者は無鐵砲な者よりも沈潛の道に近い。彼は無鐵砲な者が滑つて通る處に、人生を知るの機會と自己を開展するの必然とを經驗するからである。弱い者は、自らを強くするの努力によつて、最初から強いものよりも更に深く人生を經驗することが出來る筈である。弱者の戒む可きはその弱さに耽溺することである。自ら強くするの要求を伴ふ限り、吾等は決して自己の弱さを悲觀する必要を見ない

(中略)繰返して云ふ。無意識の背景を缺く内省の戲れと之に伴ふ情感の耽溺は無意味である。併し内省の根柢を缺く無鐵砲な自己肯定は更に更に無意味である無鐵砲を必然だと云ふのは蹣跚たる醉歩が醉つぱらひにとつて必然だと云ふに等しい。醉つぱらひには遠く行く力がない。無鐵砲な者には人生に沈潛するこゝろがわかる筈がない。

(中略)自己の否定は人生の肯定を意味する。自己の肯定は往々にして人生の否定を意味する。何等かの意味に於いて自己の否定を意味せざる人生の肯定はあり得ない。少くとも私の世界に於いてはあり得ない。私の見る處では、之が世界と人生と自己との組織である。私の見る處では、古今東西の優れたる哲學と宗教とは、凡て悉く自己の否定によつて人生を肯定することを教へてゐる。一本調子な肯定の歌は唯人生を知らぬ者の夢にのみ響いて來る單調なしらべである。

(中略)固より自己の如何なる方面を否定するかに就いては各個の間に大なる意見の相異がある。肯定せられたる究竟の價値と否定せらるゝ自己の内容との關係に就いても亦大なる個人的意見の差異があることは拒むことが出來ない。併し何れにしても大なる哲人は自己否定の慘苦なる途によつて、人生の大なる肯定に到達するこゝろを知つてゐた彼等の中には渾沌として抑制する處なき肯定によつて、廉價なる樂天主義を立てた者は一人もゐない。人生と自己との眞相を見る者は此の如き淺薄な樂天觀を何處の隅からも拾つて來ることが出來ないからである。

(中略)一向きの否定は死滅である。一向きの肯定は夢遊である。自己の否定によつて本質的價値を強調することを知る者にとつては、否定も肯定である。肯定も否定である。之を詭辯だと云ふものは總ての宗教と哲學とに縁のない人だと云ふことを憚らない。

 これらを読んで、なぜ私が昨今の「自己啓発」のようなものが大嫌いなのかが、よくわかった。

「彼らは自分の弱点を弱点として認めず、自分の欠点を欠点として承認しない。そのために、心の中で自分を克服しようという必然性を持たないのである。彼らは自分の弱点を楽観視することによって、苦もなくその弱点の上を滑ることができる。そして弱点を簡単に上滑りすることで、「自己肯定」の信仰を築き上げるのである」

阿部次郎が再三書いているのは、「無鉄砲な自己肯定の危うさ」である。

「弱点に目をつぶって、とにかく自分に自信を持ちましょう」

という根拠のない自信は、浅薄な人生、上滑りした人生に過ぎないと述べているのである。

それに対して、「弱い者」や「自己を否定する者」ほど、実は強い人間であると阿部次郎は言う。

「弱い者はその弱さを自覚すると同時に、自分の中に不断の敵を見ることができる。そのことをたえず自覚することで、不断の進展をうながす機会が与えられるのである。人は外の世界と接触するときに臆病になるものだが、自分の臆病さを自覚している者は、無鉄砲な者よりも物事を深く考えることができる。弱い者は、それを克服しようとする努力によって、最初から強い者よりもさらに深く人生を経験することができるはずである。弱い者がいましむべきは、その弱さに浸ってしまうことである。それを克服しようと思うかぎり、私たちは自分の弱さを悲観する必要はないのだ」

かつて私のまわりにも「楽観的な自己肯定」をよしとする人たちがいて閉口したものだが、最近はどうやらそれが、社会全体の雰囲気になっていて、さらにはそれが国の政策にまで蔓延している。

困った世の中になったものだなあ。

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福岡はうどんだ!

5月28日(木)

深夜ラジオのカリスマDJが言っていた。

「福岡のうどんは、コシがないのがいい。いまは讃岐うどん系のコシの強いうどんがもてはやされているが、コシがない福岡のうどんも捨てがたい。日本中のうどんが讃岐うどんになってしまったら困る」

私も同感である。福岡にかぎらず、九州のうどんはコシがないのが特徴だと思うが、たまにむしょうに食べたくなるのである。

高校時代の友人、元福岡のコバヤシが何度も私に言っていたことだが、

「福岡といえばとんこつラーメン、というのは間違い。むしろ福岡で日常に食べられているのは、うどんとちゃんぽんだ」

という。

コバヤシから聞いたときは、「そんなもんかねえ」と聞き流していたが、今になって、コシのないうどんがむしょうに食べたくなってきた。

夕方、福岡での仕事が終わり、同僚たちとも別れて1人になった私は、空港でうどんを食べることにした。

いつもだったらとんこつラーメンなのだろうが、今日は絶対にうどんである。

空港には、とんこつラーメンやさんが2軒ほどあるのだが、いつもそこそこ混んでいる。

空港の中で、1軒だけうどん屋さんがあるのを見つけた。いままで気にもとめていなかったのは、とんこつラーメンにばかり目を奪われていたからであろう。

店に入ると、お客さんはほとんどいない。やはりとんこつラーメンのほうが人気なのだろうか。

カウンター席に座って、さあ何にしようかとメニューに手をかけようとすると、店員さんが近づいてきた。

「いまは、こちらの、『明太ネバネバ涼風麺』がオススメです。もしよろしかったらどうぞ」

「はぁ」

見ると、通常のメニューとは別に、「明太ネバネバ涼風麺」の大きな写真が載っているチラシがあった。

どうもこの時期限定のメニューらしい。

しかし今日にかぎっては、いわゆるふつうの、コシがなくて温かいうどんが食べたいのだ。

メニューを開いて、あれこれと考える。

(ごぼう天うどんがいいかな…。肉うどんも捨てがたいな…)

なんてことを考えていると、別の店員さんが水を持って私のところにやってきた。

「いまは、こちらの『明太ネバネバ涼風麺』がオススメです。ぜひどうぞ」

また「明太ネバネバ涼風麺」を勧めてきやがった。

「いかがですか?『明太ネバネバ涼風麺』」

どうしてこう「明太ネバネバ涼風麺」ばかり推してくるんだ?

(俺はふつうのうどんが食べたいんだよ!)

と心の中で叫びつつ、

「肉うどんください」

「承知しました」

店員さんは、

(なんだ、「明太ネバネバ涼風麺」じゃないのかよ、チッ!)

という顔をして、厨房のほうに戻り、

「肉うどん一丁」

と、やる気のない声で注文を伝えたのであった(もちろんこれは、私の被害妄想)。

しばらくして、「肉うどん」が運ばれてきた。

食べてみたら、期待通りである!

うどんにまったくコシがない!

これだよこれこれ!これが食べたかったのだ!

だしがきいた透明なおつゆも、最高である!

これからは、福岡はとんこつラーメンではなく、うどんだな。今度来たときは、ごぼう天うどんを食べよう。

心配なのは、とんこつラーメンにお客を取られて、あんまり客が入っていないことである。

あるいは、コシの強い讃岐うどん系のうどんに、人々が慣らされてしまったせいかもしれない。

空港にいる客は、福岡県外の人がほとんどだろうから、なおさら福岡のうどんにはなじみがないのであろう。

しかし福岡のうどんは、もっと自信を持つべきである!

「明太ネバネバ涼風麺」などと、奇をてらったメニューで人の気をひくよりも、持ち前のコシのなさとだしのうまさで勝負すべきである。

私はこれまでの自分が恥ずかしくなった。

これまで私は何度も福岡に出張してきたが、地元の方に、

「お昼はどうしますか?近くにとんこつラーメン屋さんとうどん屋さんがあるんですけど、どちらにしますか?」

と聞かれる場面がたびたびあった。そのたびに私は迷うことなく、

「とんこつラーメンにします」

と答えていたのだが、それが誤りだったことに、ようやく気づいたのである。

これからは迷うことなく、

「うどんです」

と答えることにしよう。

福岡は、うどんだ!

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福岡自滅出張

5月27日(水)

午前の職場の会議が終わったあと、羽田空港から飛行機に乗って福岡に向かう。

夕方、福岡空港に到着し、そのまま博多駅に向かう。

すでに同僚の2人が、明日の仕事でお世話になる方と、博多駅ナカの「立ち飲み屋」で飲んでいた。

その方とはふだんまったく接点がないのだが、15年ぶりくらい前、やはり福岡に出張したときに、一緒にお酒を飲んだことがあった。

それくらいのおつきあいしかなかったのだが、私のことをよく覚えていただいていた。

この方のすごいところは、誰に対してもわけへだてなく、公平に接することである。初めて会った人に対しても、昔からよく知る人に対しても、同じように接してくれるのである。

こういうのを、人間力というのかも知れない。

「何を飲んでるんです?」

「地酒の飲み比べセットです」

見ると、4つのお猪口が一つの四角い枡の中に並んでいる。つまりは、4種類のお酒を飲み比べるというセットらしい。

「じゃあ私もそれにします」

これがいけなかった。

今日のメンバーは「本当の酒飲み」たちなのである。「つまみ」なしで、地酒だけを飲んでいる。

私もそれに合わせて飲んでいると、たちまち酔いが回ってしまった。

「まだゼロ次会ですよ」

「ゼロ次会?」私は驚いた。

「これから、あと3人ほど合流しますので、場所を変えましょう」

「地酒の飲み比べセット」を飲み終え、今度は居酒屋へ向かうと、すでに3人の方が来ていた。

九州といえば焼酎というイメージが強いが、福岡は日本酒の文化圏である。

1次会のあと、次は2次会である。「やきとり屋に行きましょう」

延々と日本酒を飲んだが、最後のほうは何を話したのか覚えていない。

気がつくと深夜0時をまわっていた。

6時間半も飲み続けていたことになる。

5月28日(木)

朝起きると、頭が痛い。

二日酔いである。

駅からバスに乗って、出張先の現場に着いたのが午前9時。

仕事は順調に進み、午前中でメドがついた。

仕事を終え、現場を出たあと、同僚が言った。

「今日は、ずいぶん反応が鈍いね」

「わかりますか」

「いつもの鬼瓦さんらしくないなあ」

「やっぱり空きっ腹で日本酒を飲んだのがいけなかったようです」

仕事じたいに支障はなかったのだが、仕事のテンションはいつもよりもかなり低かったのは明らかである。

こういう日は、決まって自己嫌悪になる。

「勧められるがままにお酒を飲む」なんてやめればよいのだが、これも仕事だと思って、ついまわりの酒飲みの人たちと同じペースで飲んでしまう。

そしてあとで決まって後悔するのだ。

そういえば父も、仕事をしていた頃はそうやって飲み会で自滅して帰宅することがけっこうあった。そのたびに、「ああ、たいして酒が強いわけでもないのに、勧められるがままに飲んじゃったんだろうな」と思って見ていた。

つまりこれは、父親譲りである。

午後になってもテンションが上がらないまま、福岡をあとにした。

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新書はむかしのものにかぎる

ここ3年以内に出た新書の中で、オススメのものを教えてください、と問い合わせが来た。

必死に探してみるが、まったく該当する新書がないことに愕然とする。

読みやすい新書は数あれど、知的興奮を覚える新書、というのがない。

それにくらべると、むかしの新書はよかったですなあ。

むかしの新書は、難解なものが多い。読者サービスという点からいえば、いまの新書の方がはるかに読みやすい。

むかしの新書は、専門書からちょっとだけ難易度を落とした、というレベルのものが多く、つまり、背伸びして読んでみて、なんとなく内容がわかる程度、くらいのものだった。

だがそれが、「知的興奮」というべきものであろう。いまはそんな「知的興奮」を覚えるような新書が少なくなった、ような気がする。

試みに本棚から、川島武宜『日本人の法意識』(岩波新書、1967年)を取り出して、パラパラとめくってみる。

私が学生のころは、大学の法律学の授業で、必ずこの新書が取りあげられ、なかば必読書のような存在だった。

当時は読んでもちんぷんかんぷんだったが、はたしていまはどうだろう?

…うーむ。読んでみると、やっぱり難しい。噛みごたえがあるというのは、こういう本のことをいうのだな。

気になったところを拾い読みしてみると…。

「そこで、多くの社会 -特に、政治権力に対するコントロールについて大きな関心を持つ現代の民主主義社会-では、「法律」のことばの意味をできるかぎり明確にすることに大きな努力が払われてきた。」

ふむふむ。

「(中略)「法律」の規定の対象となっている社会生活そのものの変化、「法律」の規定の基礎となっているところの・人々の価値観の変化は、「法律」の言葉の意味が完全に固定化されている場合には、法律の機能を不完全にし、或いは社会生活を攪乱し、あるいは社会によって受け入れられないものにしてしまう。だから、どの社会でも、多かれ少なかれ、法律の言葉の意味を、新しい社会的環境に際して調整するという努力が生じないわけにはゆかない」

ほう。

「だが、私の見るところでは、この意味調整の努力の型態がそれぞれの社会によって必ずしも同一ではない。法律の言葉の意味を確定的・固定的のものとする努力をすると共に、そのようなものとして意識する社会(西ヨーロッパやアメリカ合衆国)と、法律の言葉の意味を本来不確定的・非固定的のものとして意識し承認している社会(前述したように、日本はこれに該当する)とは、この意味調整の努力の型態を異にしているのである」

なるほど。

「(中略)このような法律の意味調整は、通常は、法律の「解釈」と呼ばれる操作で行われる。(中略)このかぎりでは、西洋は日本と異なるところはないのである。しかし、西洋では、法律の言葉の意味は本来確定的・固定的のものであるということが一般の信念として予定されているから、法律の解釈のはばには限界があり、したがって、或る判断基準が法律の言葉の意味にはじめから含まれているのだとして論証することが困難な場合を生じ、その場合には、新たな法的判断基準を、法律の言葉の意味に含まれていないものとして示すことを、一定の要件のもとに正当化するしくみが必要となる」

…む、むずかしい…。

「(日本の場合)裁判所はあらゆる努力をはらって、すべての法的判断基準を、法律の言葉の意味の中に本来含まれていたものとして、「解釈」することによって説明するのであり、法律学者もこれをそのまま承認している。そうして、「解釈」というのはたんなる見かけの説明でしかないこと、実際にはかなり多くの場合に当該の判断基準ないし裁判の理由づけは、裁判官ないし法律家が法律の言葉の意味にもとづいてではなくて、「条理」によって考案したものであること、を肯定しない。したがって、わが国では、いったん法律が制定されたあとは、法律の改正はきわめて稀にしか行われない」

…どうしてこんなに難しい言い回しばかりするのだろうか…。

「このようなことは、日本だけに特有な現象ではなく、西洋諸国も同様なのではないか、と思われるかもしれない。実は私自身、長いあいだそう考えていた。しかし、西洋諸国と同じなのは、前述したような抽象的な学説ないし教説だけであって、日本の法律解釈技術に多大の影響を与えたドイツにおいては、法律の条文の意味が限定されたものであることを承認した上で、それを根拠としないで「条理」を根拠として理由づけを行っている判決が、わが国とは比べものにならぬくらい数多く見出されるのである。(後略)」

「日本の法律がこの「解釈学」の呪縛の中にあるかぎり、裁判がどのようなしかたで、またどの程度で、「法律」によって制御されているか、またそのこととの関連において「法律」がどのようなしかたで、またどの程度で、社会現象を現実に制御しているか、等についての現実主義的な問題関心・現実主義的な研究態度は成立しがたいのである」

…と、ここまで拾い読みしてみて、理解するのにかなり苦労したものの、学生時代にはちんぷんかんぷんだったものが、いま読んでみると、なんとなく理解できる。

おそらく私はこの文章を読みながら、、いま私たちが直面している問題を想起しているからだと思う。

上の文章をまず読ませて、具体例をあげて論じさせるという試験問題が作れるのではないか、と夢想する。

ただ、およそ50年ほど前に書かれたこの本は、いまでもその分野では有効なのだろうか。そこがいちばん知りたいところである。

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江分利満氏の優雅な生活

ポツダム宣言、と聞いて、思い出した。

岡本喜八監督の映画『日本のいちばん長い日』(1967年公開)だ!

1ban何度も見ている映画だが、もう一度冒頭から見直してみる。

やっぱりそうだ。この映画の冒頭は、ポツダム宣言の文章から始まるのだ!

…ということは、ヤツはこの映画を見ていないのか?

何度でも書くが、「日本映画の傑作を5本あげろ」と言ったら、

「七人の侍」(黒澤明監督、1954年公開、東宝)

「砂の器」(野村芳太郎監督、1974年公開、松竹)

「飢餓海峡」(内田吐夢監督、1965年公開、東映)

「幕末太陽伝」(川島雄三監督、1957年公開、日活)

「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督、1967年公開、東宝)

なのだ。もちろん、異論は認める。

ポツダム宣言を知らない、というのは、岡本喜八監督の映画「日本のいちばん長い日」を見ていないことを白状するようなものである。

51qj5vcuz6lポツダム宣言を知らないことも残念だが、この映画を見ていないことも同じくらい残念である。ついでに言うと、同じ岡本喜八監督の「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971年公開)を見ていないのだとしたら、ますます残念である。

…今日書きたいのは、そんなことではない。

映画「日本のいちばん長い日」を見ていたら、同じ岡本喜八監督の映画「江分利満氏の優雅な生活」(1963年)を見たくなったので、久しぶりに見ることにした。

ご存じ、山口瞳の直木賞受賞作を映画化したものである。

山口瞳は、もともとサントリーの社員で、コピーライターとして活躍した。「トリスを飲んでハワイに行こう」は、山口瞳の作ったキャッチコピーである。

サラリーマンをやっているときに、『婦人画報』という雑誌に、サラリーマンの生態を描いた小説「江分利満氏の優雅な生活」を連載し、やがてそれが直木賞受賞作となった。

いわば山口瞳の、身辺雑記的な小説である。

岡本喜八監督は、時代を何歩も先取りするような斬新な映像表現を用いて、この身辺雑記的随想映画を完成させたのである。

ほんと、いま見ても、映像表現は斬新である。

それに対して、中身はいたって地味である。なにしろ、昭和30年代当時のサラリーマンの生態を描いた映画なのだから。

山口瞳の分身ともいうべき江分利満氏を、小林桂樹が演じている。

小林桂樹は、『日本沈没』の田所博士のような頑固で信念を貫き通す役にも定評があるが、江分利満氏のように飄々とした役も得意とする。

これほど演技の幅が広い役者を、私は知らない。

江分利満氏は、いたって平凡な、昭和30年代の典型的なサラリーマンである。人間関係に悩み、コンプレックスを持ち、だらしなく、凡庸である。

映画は、小林桂樹演じる江分利満氏の、日常のぼやきともいえるナレーションが延々と続く。それは時に軽妙であり、時に重苦しい。

私が印象に残ったのは、映画の中の、こんなぼやきである。

「昭和二十五年十月、長男庄助が生まれた。

母のみよにお父さんになったのよと江分利は言われた。

庄助が八か月になった時、初めて銀座のレストランに入った

(俺はこいつを食わさなきゃなれらないんだ。俺は自殺なんか考えちゃいけないんだ)

昭和二十六年の秋、夏子が奇妙な発作を起こした。病名テタニン。鶏に多い病気だった。その後半年間、こういう発作が週に一度起こった。庄助は小児喘息になった。それから十年間、よいというものは何でもやったが、庄助の喘息は治らなかった」

「江分利は口笛が吹けない。

靴ひもがうまく結べない。

音痴である。

鎌倉時代と室町時代がどっちが先がわからない。

富山と島根が隣り合わせだと思っている。

サントリーの宣伝部員のくせに写真を一度も撮ったことがない。

いつ聞いてもテープレコーダーの操作がわからない。

これで宣伝部なんて派手な商売が勤まるのかねえ。勤まらないけど勤めているんだ。勤められるのは組合制度のお蔭だと思う。

しかし江分利はなんとかやっていかなければならないのである。

江分利が発作の夏子と喘息の庄助をかかえて生きていけば、これは快挙ではないか!

才能がある人間が生きるなんて大したことじゃないんだよ。宮本武蔵なんてちっとも偉くねえ。本当に偉いのは一生懸命生きてる奴だよ。江分利みたいな奴だよ」

とくに最後の、

才能がある人間が生きるなんて大したことじゃないんだよ。宮本武蔵なんてちっとも偉くねえ。本当に偉いのは一生懸命生きてる奴だよ。江分利みたいな奴だよ」

は、グッとくる。

これはまさに、山口瞳自身の、そして岡本喜八自身の、人間に対するまなざしであり、共感である。

さまざまな事情を抱えながら、それでも何とか生きてゆけるならば、それは快挙ではないか!

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金田明夫のお得感

久しぶりにテレビドラマの話でもしようか。

4月に入ったばかりのことだったか。

103464_l「ドラマ見ていたらさあ、ちょっと気になる女優がいて」と妻。「韓国の女優、キム・ヘスに雰囲気が似ているなあ。この人誰だろう?と思っていたら、誰だったと思う?」

「さあ」と私。キム・ヘスは、韓国を代表する女優である。「誰?」

「大島優子」

ひごろ俳優には手厳しい妻が、めずらしく大島優子を褒めていた。

私としては、よくぞ言ってくれた!といった感じである。私はまったくAKBのファンでもないし、大島優子のファンでもないのだが、たまにテレビのCMや駅のポスターなんかで見るたびに、

(この人、プロ意識が高いよなあ)

と思っていたのである。

大島優子はものすごい美人というわけではなく、たぶん学校で同じクラスだったとしても、そんなに目立つようなタイプの人ではないのだと思う。

だが、そこからの「伸びしろ」がすごいなあ、と、なんとなく思っていた。

Photo…ということで、今期の一押しドラマは、TBSの「ヤメゴク」である!

このドラマ、大島優子とペアを組む、北村一輝がとにかくいい。北村一輝のおかげで、安心して見ていられるのだ。

テレビ朝日のドラマ「天国と地獄」の剛力彩芽と渡部篤郎もそうだが、「若手のアイドル的女優」と「中堅の男性俳優」でコンビを組ませれば、ドラマは安定するようだ。

そのルーツをたどると、「トリック」の仲間由紀恵と阿部寛に行き着くのかも知れない。

まあそれはともかく。

第6話では、町の巡査の役として、金田明夫がゲスト出演していた。

6b79bba4テレビドラマの「脇役マニア」の私としては、金田明夫の存在を語らないわけにはいかない。

私が最初に金田明夫を認識したのは、崔洋一監督の映画「月はどっちに出ている」(1993年)だったか。

そのあと、三谷幸喜脚本のドラマ「王様のレストラン」(1995年)で、「失礼な客」として、チョイ役で出ていた。このときの演技が実に印象的だったのである。

といっても、私は意識的に金田明夫の出ている作品を追っかけていたわけではないので、たまに見るドラマで出ていたりすると、なんとなく得した気分になるのだった。そう、「得した気分」というのが、ピッタリした表現である。

第6話で金田明夫が演じているのは、昔かたぎの人情派のおまわりさんである。

大島優子演じる主人公の麦秋(ばくしゅう)の住んでいた町のおまわりさんだったので、麦秋の幼い頃のことをよく知っていた。

ふとしたことで麦秋と再会した巡査・岩井田(金田明夫)は、麦秋が壮絶な人生を歩みつつ、警察官になったことを知るようになる。

だが麦秋は、決して自分の壮絶な過去を人に語ろうとはしない。

幼い頃の麦秋をよく知る岩井田は、何とかして麦秋の心を開かせ、背負っている重荷をおろしてやりたいと思うのである。

そのときのセリフがいい。

「いろいろと、話したくないことがあったんだね」

「岩井田さんには関係のないことです」

「でも俺は、勝手に心配する。勝手に心配になる。すまんね。これは、町のおまわりさんの性分でね。

町のおまわりさんというのはね、自分が担当している町の人全員、家族のように思っちゃうんだな。

俺は、麦秋ちゃんの町をずっと見守ってきたから、どうしても気になってね」

文字にすると伝わりにくいが、これが金田明夫が語ると、じつに説得力のあるセリフとなる。

何ということのない場面だったのだが、ウルッと来てしまった。

以前、田舎教師をしていたときのことを、ちょっと思い出したからかも知れない。いろんなことを勝手に心配したりしていたからなあ。

まあそれはともかく。

大島優子は、はたして日本のキム・ヘスになれるだろうか?

「ヤメゴク」は、飽きずに最後まで見ることができそうだ。

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ロードバイクは、人生だ!

5月23日(土)

腰痛が少しおさまってきたので、午後、ロードバイクに乗ることにした。

相変わらず地図のない、いきあたりばったりのサイクリングである。

いきあたりばったりでは長続きしない。何かゲーム的な要素があった方がよいのではないだろうか。

たとえば、ある深夜ラジオのカリスマDJは、自転車で全国のバッティングセンターをまわるという、「バッティングセンター巡礼の旅」を続けているという。趣味とダイエットを兼ねた、一石二鳥の方法である。

しかし私は、バッティングセンターに興味がない。

「自転車でブックオフの旅」というのはどうだろう?、と妻に提案すると、「本を売りに行くのならばいいが、買いに行くのはダメ」と却下された。

ま、ゲーム的な要素はおいおい考えるとして、問題は今日の行き先である。

まず、海側に行くか?山側に行くか?

どうも私は、東京湾をめざすのが、あまり好きではない。ということで、海とは反対方面に行くことにする。

次に問題になるのは、サイクリングロードを走るか?まちなかを走るか?

先週の経験から、まちなかを走るのはちょっと恐いので、やはり安心できるサイクリングロードを走ることにする。

ということで、12時半に出発し、「県境を流れる川」のサイクリングロードを、ひたすら北上することにした。

とにかくひたすら、北に向かって走る。

サイクリングロードを40キロ近く走ってから、大きな国道を左に曲がる。

もはや自分が今どこにいるのかわからなかったが、やみくもに走っているうちに、とある町の駅に着いた。

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たまたまたどり着いた町なので、まったく知らない町である。

何と読むんだ?「はる、…ひ、…ぶ」?

まったく知らない町である。

なんでも、この町が生んだ三大著名人は、クレヨンしんちゃんとビビる大木と、あと一人いるそうである。

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この町にある県立高校を見物に行こうかと思ったが、道を歩いている人に聞いたら、「ここから遠いよ」といわれたので、あっさり断念した。

気がつくと午後3時を過ぎたので、慌てて帰ることにした。

さて、問題はここからである。

再び「県境を流れる川」のサイクリングロードを、今度は逆方向に走っていくことになるのだが、猛烈な向かい風が吹いている。

それだけではない。

私はすでにこの時点で、40㎞以上も走行しているのである。

私の体力やスタミナをまったく考慮しないまま走り続けた結果、来た道を自転車で帰る体力が、まったく残っていなかったのである!

とにかく、こいでもこいでも進まない。というか、こぐスタミナと気力がぱったりとなくなってしまった。

おまけに、お尻や腰が猛烈に痛み出した。

(あ~あ。今すぐこの場で死んでしまいたい)

泣きそうになったが、とにかくロードバイクをこがないことには家に帰れないのである。こいでは休み、こいでは休みを繰り返しながら、少しずつ進んでゆく。

(行きは追い風だったから楽だったんだな…)

向かい風の恐ろしさを、あらためて知ったのであった。

一つ、わかったことがある。たぶん、ロードバイクを乗っている人ならば、誰でも感じていることなのだろうが。

向かい風を受けて走っていることは、肌で感じることができるのだが、追い風を受けて走っているときは、自分が追い風を受けて走っているという自覚が、まったくないのである。

なぜなのか?答えは簡単である。耳が前に向いてついているからである。

向かい風の場合、風の音がモロに耳に当たり、否が応でも風の音が聞こえてくる。

だが、追い風の時には、風の音が聞こえないので、追い風に助けられているという自覚がないのである。

向かい風は自覚できるが、追い風は自覚できない。

これはまさに、人生そのものではないか!

今日の教訓である!

何度も心が折れそうになりながら、向かい風の中を走って、家に着いたのが、夜の7時半だった。

なんと7時間もロードバイクで走っていたのだ!

あとで調べてみると、走行距離は、およそ90㎞!

もう体はボロボロである。

もうひとつ、今日の教訓があった。

ブログのネタになるからといって、思いつきでロードバイクで春日部まで行くべきではない。

もう2度と行かない。

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腰痛原稿

5月21日(木)

昨日から腰がものすごく痛い。

地面に落ちたものをかがんで取ることができない。

原因は明らかである。

先日の無茶なサイクリングが原因である。

ロードバイクに乗り慣れていないにもかかわらず、いきなり50㎞も走ったのがいけなかった。

昨日の午前中、前の勤務地にいた頃、お世話になっていた方からメールが来た。

私の父よりも年上のその方は、会社を退職されたあと自身の好きな研究を始めて、同好の人たちと一緒に雑誌を作ったりしていた。私も現地調査をご一緒することが多く、その方から多くのことを学んだのである。

「今度発行する会誌に原稿を書いてくれませんか。今月末まで間に合うようでしたら、お願いします。ご繁多でしょうし無理強いではありません。時間が割けそうでしたらで結構です 」というものだった。年に1度発行している会誌への、原稿依頼である。

前の勤務地を離れた今でも、気にかけていただいているのは本当にありがたかった。もちろんこの依頼には応えなくてはならない。しかも研究会誌なので、随想めいたものではなく、論文のようなきっちりした原稿を書かなくてはならない。

面白いもので、およそすべての原稿は二つに分けられる。「気乗りする原稿」と、「気乗りしない原稿」である。

これは、映画「スウィングガールズ」に出てくる名台詞、

「すべての人間は二つに分けられる。『スイングする人』と『スイングしない人』に!」

とも通じるものである。

「気乗りしない原稿」は、いつまでたっても終わらないが、「気乗りする原稿」は、びっくりするくらいの速さで書き終わるのだ。

これは、「原稿料が高いか安いか」とか、「その原稿が日の目を見るか否か」といった基準ではない。おもには、「依頼してきた方に誠実に応えたいと思うか否か」が基準である。

私は「筆が速い」と言われたりすることがあるが、すべてにわたって速いわけではない。「この人のために書かなくては!」と思ったときは速いが、そうでない場合は、平気で遅れたりする。

昨日、仕事の合間を見はからって、原稿を書き始めた。

不思議なもので、「この人のために書こう!」と思った原稿は、どんどんはかどる。

深夜2時過ぎにほとんど書き終わった。400字詰め原稿用紙にして20枚程度、およそ8000字程度である。

今日、また仕事の合間を見はからって、細かい部分を手直ししたり、書式を整えたりして、午後に原稿を送信した。

「すごく早いできあがりでオドロキの一言です。さすがです」

と返信をいただいた。自慢ではないが、こういうときの私の筆の速さは、他の追随を許さないのだ。

どんな原稿も、これくらい早く筆が進めばなあと思うのだが、なかなかそううまくはいかない。

つまり原稿とは、きわめてメンタルな存在なのである。

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豆腐が食べたくなる落語

5月19日(火)

今日は年に1度の健康診断だったが、今年はとりたてて事件が起こったわけではなかったので、省略する。

飛行機の座席で、映画を見たり音楽を聴いたりできるでしょう?

ふだん私は、ほとんどそれを利用しない。私は飛行機に乗ると、映画を見るわけでもなく、音楽を聴くわけでもなく、本を読むわけでもなく、ひたすらぼんやりと過ごすのがふつうである。

だが先日の韓国出張では、気が向いたのか、行き帰りの飛行機の中で、音楽を聴くことにした。

いろいろなジャンルの音楽がある中で、落語とか演芸の番組というのがある。

座席のポケットに入っている番組プログラムを見ると、三遊亭竜楽師匠の「徂徠豆腐」という演目が目についたので、聴くことにした。

私の元同僚のご先祖様が落語の題材になっているというこの噺。

お恥ずかしいことに、今までこの演目を聴いたことはなかった。

いちど実際に聴いてみたいと思っていたので、まさに渡りに船である。

竜楽師匠の落語というのも、初めてである。

江戸時代を代表する思想家、荻生徂徠が、まだ世に出ず、食えなかった頃の話。

徂徠の住む長屋の前をたまたま通りかかった、豆腐屋の七兵衛。

お金のない徂徠は、七兵衛から豆腐一丁を求め、それを一日の食事としていた。

しかも、その豆腐屋に払うお金すらないほど、困窮していた。

学問で身を立てるために、食べるものを惜しんで、本を読むことに費やす。

その姿勢にほだされた豆腐屋の七兵衛は、毎日豆腐とおからを徂徠に持っていくことで、彼を援助するのである。

稀代の思想家・荻生徂徠と、豆腐一筋のひたむきな七兵衛との不思議な友情の物語は、もとは浪曲として語られたそうだが、落語の人情噺としてもじつにふさわしく、すがすがしい。

竜楽師匠が演じる徂徠は、実に美味しそうに豆腐を食べる。もちろん、映像がないので音で想像するしかないのだが、音だけでも、その美味しさは十分に伝わるのである。おそらく、徂徠が空腹を満たすために豆腐を食べている情景が、思い浮かぶからであろう。

徂徠は言う。

「この世に豆腐くらいうまいものはない。だいいち、値が安い。それに、皮をむく世話もなければ、骨もない」

なるほど、さすが徂徠先生だ。けだし名言である。これほど豆腐のことを的確に褒めた言葉をほかに知らない。これを聴くと、豆腐、しかも冷や奴を食べたくなるから不思議である。

韓国から帰って以来、やたらと冷や奴を食べるようになったのは、そのせいである。

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安全は、危険だ

飛行機に乗ると、前の座席のところにポケットがついていて、その中に、「安全のしおり」というのが入っている。

飛行機が危険な状態になったときに身を守るための、マニュアルを書いたものである。

以前、上岡龍太郎が言っていた。

「『安全のしおり』という言い方はおかしい。『危険のしおり』やろ!」

たしかに、危険な状態になったときのマニュアルなのだから、「危険のしおり」といったほうが正確である。

上岡龍太郎は、これに関連して、もっと過激なことを言っていた。ある飛行機事故に関してである。

「飛行機が方向を見失い、深刻な状況に陥ったときも、『機内は激しく揺れておりますが、飛行に支障はございません』というアナウンスが流れていたんだろうなあ」

「安全」という言葉は、それだけで安全を保証するものではない。

むしろそれを強調すればするほど、そこには「危険」が隠されているとみるべきである。

韓国に留学していたとき、ニュースで、

「安全事故」

という言葉を何度も聞いた。

「安全」と「事故」という正反対の意味の言葉を結びつけているこの言葉は、日本語にはない言葉で、なんとも妙な語感なのだが、「安全対策を怠ったために起こった事故」という意味らしい。

それならば、「不注意事故」とかなんとか言えばいいと思うのだが、韓国ではこの言葉が人口に膾炙しているのである。

「安全のしおり」といい「安全事故」といい、どうも「安全」という言葉は、胡散臭い。

安全だの平和だのと、プラスのイメージを強調しようとする力がはたらいているときは、正反対の状況への想像力を失わせようとする意図があることに、われわれは気づくべきである。

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スマホのない自転車旅

5月17日(日)

15日(金)の夜に韓国から戻ってきて、翌土曜日の午前中は、体が鉛のように動かなくなった。韓国での仕事は肉体的にも精神的にもそうとうなストレスだったと推測される。

そんなわけで、土曜の午後は、家の近くの「県境を流れる川」沿いのサイクリングロードを、ウォーミングアップのつもりであてもなく30㎞ほどぶらぶらと走った。

そして今日の午後。

いつもいつもサイクリングロードというのも芸がないので、思いきって都内に出ることにした。

しかし、スマホがないので、例によっていきあたりばったりである。頼みとするのは、行き先表示の看板だけである。

「県境を流れる川」を越えて、都内の道路を進む。

最初は、妻が自転車通勤できるかどうかを確かめるために、妻の勤務先まで往復しようかとも思ったのだが、車道を走っていると、車がビュンビュン追い越してきて、思いのほか都内の道路は恐い。

(これは、とても危険すぎてたどり着けない)

都内の道路をなめていた。あまりの怖さに、引き返そうかと思った。

しかし、ここで引き返しては、あまりにもったいない。

車通りの少ない道を選んで走っていたら、いつの間にかこの場所に着いていた。

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さらに進むと、東京一の名所に着いた。

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まったく知らなかったのだが、今日はこの界隈で大きなお祭りだったようで、いつも以上に多くの客でにぎわっていた。

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やっとのことで、門にたどり着くも、ここで引き返すことにした。

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今日は50㎞以上走っただろうか。

都内の道路は、車が多くて恐い!のひと言に尽きる。

だが都内走行中、私と同世代か、あるいは私よりも年上とおぼしきオッサンが、やはりロードバイクでビュンビュン走っているのを何度も見かけて、けっこう勇気づけられた。

そして先週にくらべると、ちょっとだけお尻が痛くなくなったのが、大きな進歩である。

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ジェーン・オニの「相談は踊る」

わたくし、ジェーン・オニからの相談です。

「カレーとナンのバランスって、どうやってとったらいいの?」

最近、本格インドカレーの店が多くなりましたね。

インドカレーのお店でカレーを食べていて、いつも困るのが、

「カレーとナンのバランス」

です。

カレーにナンをつけて食べると、絶対に、カレーがあまってしまうんですよね。

ナンの大きさが、けっこう大きい場合でも、必ずカレーをあまらせてしまいます。

ところが、妻や義妹は、ナンをカレーをつけながら食べていると、実に見事に、ナンとカレーが同時になくなるのです。

同じように食べているはずなのに、どうしてでしょう?

原理的には私の場合、1回あたりにナンにつけるカレーの量が少ないために、カレーが最後にあまってしまうわけですが、それにしても、そんなにたくさんの量のカレーを、ナンにつけることはできない。

ところが妻や義妹は、それを実に上手に食べているわけです。

ジェンダー的な問題なのか?とも思ってみたのですが、それはナンの根拠もない(ナンだけに)。

それで、妻に聞いてみたんです。「どうして、ナンとカレーが同時になくなるように食べることができるのか?」と。

すると、答えはこうでした。

「ナンをスプーン代わりにして、カレーをすくって食べれば、ナンということもなく食べ終わらせられる」と。

で、実際にやってみたのですが。

なかなか、ナンをスプーン代わりにしてカレーをすくうことができない。

スプーンのようにするには、ナンを少し大きめにちぎって、スプーン状に折り曲げる必要がありますが、そうすると、今度はナンをカレーにつける回数じたいが減ってしまいますから(ナンを小さくちぎって食べれば、カレーにつける頻度は増えますが、ナンを大きくちぎった場合、今度はカレーにつける回数が減るのです)、結局は同じことです。

こんなことで悩んでいるのは、私だけでしょうか?ふつうは誰でも、カレーとナンを同時に食べ終わらせることができているのでしょうか。

そして、ナンとカレーをバランスよく食べ終わることのできる画期的な方法があったら教えてください。

以上、ジェーン・オニからの相談でした。

ちなみに今日は一日、家で一人だったので、最近凝っている「豚肉ブロックのコーラ煮」を作りました。

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樅ノ木は残るか

「山本周五郎なんて、全然ダメですよ。それよりは、藤沢周平の方がいいです」

ひどく酔っ払った人が、私にそう言った。私がうっかり、山本周五郎の長編小説『樅ノ木は残った』の話題を出したのがいけなかった。

5時から飲み始め、すでに夜11時をまわっていた、3次会でのことである。

山本周五郎の『樅ノ木は残った』は、江戸時代のいわゆる「伊達騒動」をめぐって、極悪人の汚名を着せられた原田甲斐を主人公にした物語である。

「原田甲斐は、結局『公』のために、最後に命を落とすでしょう。僕はあれが許せないんです。つまり、家族よりも『公』が大事なんだ、というメッセージでしょう。それに対して、藤沢周平は、主人公が最後に切腹することはしない。家族や愛する人のために逃げるんです。藤沢周平は、時には逃げることも大事だということを言いたかったんじゃないでしょうか」

藤沢周平をほとんど読んでいない私には、よくわからなかった。

「山本周五郎は、やはり時代の制約もあったんでしょう。『公』に尽くすことを美徳としたんです。でもそれは、言ってみれば『滅私奉公』ということでしょう。戦争賛美につながる考え方ですよ。僕にはそれが許せない」

その人は、まくし立てるように私に語った。私よりも若いにもかかわらず、私よりも確固たる信念を持った人だった。

それに対して私は、何と答えてよいかわからない。

もし、『樅ノ木は残った』が、その人の言うように、「滅私奉公」の美徳を描き、「戦争賛美」につながる考え方を助長するものだと評価されているのだとしたら、山本周五郎は浮かばれないなあと、少しばかり切なくなってしまった。

『樅ノ木は残った』から私たちが読み取るべきことは、そういうことなのだろうか。私にはわからなくなってしまった。

たしかに山本周五郎の小説には、家父長制を無批判に描いたものがあったり、師弟関係の美徳を描いたものも多い。私自身、そういう小説に感銘を受けていることも事実である。

とすれば、私の考え方が、古くて、おかしいのだろうか。

山本周五郎は『樅ノ木は残った』の中で、「伊達騒動」で極悪人の烙印を押されてきた原田甲斐を、まったく異なる角度から描き出した。事の本質は、幕府による伊達藩取りつぶしにある。

幕府は、大藩である伊達藩に内紛を誘発し、これを自滅させるという形で、取りつぶそうともくろんだのである。

幕府のねらいを見抜いた原田甲斐は、藩内で悪評を受けることも覚悟で、敵の懐に飛び込み、藩内の内紛を未然に防ごうと画策する。

本来、そんな権謀術数など厭わしいと思う原田は、ひたすら諸方面からの攻撃に耐え忍び、誤解されることも覚悟で、権力と闘ったのである。

「原田甲斐は、藩のために権力と闘うなんて、厭わしいと思っていたんですよね」と私。私は、決して「滅私奉公」の美徳を強調したのではない、ということを言いたかった。むしろそのむなしさを描いたものではないのか、と言おうとしたのである。

だがその人は言った。

「だったらなぜ、彼は最後に死を覚悟してしまうんです?小説の一番最後に、彼のことを本当に理解している宇乃という娘が出てきますよね。原田はそんな厭わしいことなどにかかわらずに、唯一心を通わせていた宇乃と一緒に逃げ出すべきだったんです。大切な人を捨てて死を覚悟するなんて、やっぱり戦争賛美と同じですよ」

うーむ。これ以上は何も言えまい。

藩に内紛を起こさせ、それを口実に取りつぶしにかかるという幕府のやり方は、いつの時代も、国家権力がおこなう手口である。現在の担当省が、国立の教育機関や研究機関に対して今現在おこなっていることも、基本的にはこれとまったく同じやり方である。

原田甲斐は、そこでひたすら忍従するという姿勢を選んだのである。自分一人がどんな責めを負わされようとも、内紛だけは起こさせてはならない。内紛を起こしてしまっては、それこそ、幕府の思うつぼである。

つまり私は、滅私奉公でも戦争賛美でもなく、むしろその逆で、国家権力がふっかけてくる理不尽な試練に、いかに闘っていくべきかをこそ、この小説から読み取るべきなのではないか、と思うのである。

しかしそんなことを、目の前で酔っ払っている彼に言ったところで、ケンカになるだけだろうと思い、私は言わなかった。言ったとしても、彼の考えが変わるわけでもない。

ちなみに酔っ払った彼は、私にこんなことも言った。

「師匠を崇拝するのはやめた方がいいですよ。僕はあなたに、これだけは言いたかった」

どうも私は、師匠を崇拝している人間に見えているらしい。

彼に限らず、私は師匠を崇拝していると多くの人に思われているようで、そのことは自分もよくわかっていた。

だから彼にも、

「自覚しています」

とのみ、答えたのだった。

私が、師匠に対してどのような思いをいだいているかなど、たぶん誰にもわからない。

彼やほかの人が思うほど、師匠を盲目的に崇拝しているというわけではない。

しかしそのことは、理解されないだろう。

人間とは、どんなにがんばっても、他人に誤解される生き物である。

『樅ノ木は残った』の原田甲斐が、まさにそうである。

あるいは、山本周五郎の短編小説「夜の蝶」はどうだ?

あの小説もやはり、汚名を着せられた人物が登場する。

たった一人、その人物の本当の気持ちを理解している人がいて、ある飲み屋で、「みんなわかっちゃいない」と、くだを巻く。以下、引用。

「おめえなんぞに、なにがわかる」老人は俯伏したまま云った。「おらあ口惜しいんだ。ほんとのことも知らねえで、世間のやつらは、いまでも高次の悪口を云いやあがる。なんにも知らねえくせ、しやがって、おらあ、がまんがならねえんだ」

「それでいいんだ、それでいいと思う」と旅姿の客は云った。「高次という人は、そんなことは承知のうえだったろう。いつか本当のことがわかるとか、わかって褒められたいなどとは、これっぽっちも考えてはいなかった筈だ。そう思わないか爺さん」

「それがどうしたってんだ」

「黙ってやることだ」と旅姿の客は云った。「爺さんが本当のことを知ってると聞いたら、高次という人はよろこぶだろう。一人でも知っていてくれると聞けば、その人はきっと本望だと思うに違いない。それでいいんだ。それでいいんだよ爺さん。もうそのその話はしなさんな」

私は山本周五郎の小説にふれるようになってから、

「誤解されてもいいや。理解してくれる人が一人でもいてくれる限りは」

と思うようになり、私に対する誤解や悪評を払拭することに躍起になることはなくなった。どうせ人間は、誤解される生き物なのだ。言いたいやつには言わせておけばよい。たとえオモテにあらわれなくとも、理解者が一人でもいれば、それでよいのだ。

原田甲斐にとっての「宇乃」が、彼が唯一安らぎを覚える、まさにその「理解者」だったのだろう。

そういう人が一人でもいるだけで、原田甲斐は本望だったのだろう。

山本周五郎が描きたかったのは、そういうことではないだろうか。

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前口上

5月12日(火)

明日から2泊3日で韓国出張だというのに、なかなか荷造りをする気が起こらない。

こういうときに限って、全然関係ない本を読んでみたくなる。

松本清張の短編小説「日光中宮祠事件」を読んでいたら、こんな表現にぶつかった。

「唐突なことをここに書くようだけれど、私は以前から岡本綺堂の「半七捕物帳」の愛読者である。いわゆる捕物帳ものは、「半七」以外には認めていない。ことに半七老人の前書は絶妙である。江戸の古い姿を伝える饒舌(おしゃべり)につづいて、

あいかわらずわたくしのお話は長くって、ご退屈かもしれませんが、いつもの癖だと思ってお聞き流しを願います嘉永六年十二月初めの寒い日でした…』

というような語り口は、心にくいくらい巧い。」

松本清張が他の作家の小説を引用して、そこから話を展開していくのはよくあることで、私が好きなスタイルなのだが、この小説では、半七老人が昔話を語るという「半七捕物帳」のスタイルをまねて、ある刑事が事件を述懐する形で、話が進んでゆく。言ってみれば、この小説で松本清張は、「半七捕物帳」の語り口をまねたのである。

私は、松本清張が引用したこのたった2,3行の前口上で、すっかり「半七捕物帳」が読みたくなった。

この前口上は、「半七捕物帳」の、どのエピソードに出てくるのか?

調べてみると、「半七捕物帳」第61話「吉良の脇指」の中に出てくる前口上だとわかった。

あいかわらずわたくしのお話は長くって、ご退屈かもしれませんが、いつもの癖だと思ってお聞き流しを願います。」

私のよく書くクドい文章の前口上としても、そっくりそのままあてはまる。

語り口が心地よいので、韓国から戻ったら、少しずつ「半七捕物帳」を読み進めていくことにしよう。

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原稿の神様、久々に降臨か

5月11日(月)

書くことがないときは、原稿の進捗状況の話を書く。

3月末に、61000字(400字詰め原稿用紙で約150枚)の原稿を書き上げたことは、すでに書いた。

その後、4月末締切の原稿、指定字数の8000字ほど(400字詰め原稿用紙で約20枚)を、5月の連休明けに書き終え、今日出した。

次回、一番近い締切は6月1日で、10000字(400字詰め原稿用紙で25枚)を書かなければならない。

これについては、まだなにも書いていない。

それよりも、2年ほど前に依頼された大部な原稿を、少しでも先に進めなければならない。

あんまり書かないと、依頼をしてきた編集者にすら、忘れられてしまう恐れがある。

ずっと先送りしてきたのだが、どうやら「原稿の神様」が降りつつあるので、この機会に進めてしまいたいところだ。

私にとっての「原稿の神様」とは、原稿に対するアイデアをくれる神様ではなく、「原稿を書きなさい」と啓示を与えてくれる神様のことである。

たいていは、悪い方向への妄想(被害妄想の誇大妄想)が極限に達したとき、

「そんなことをウジウジ考えるくらいだったら、すっぱりと断ち切って、原稿を書きなさい」

と、我に返らせてくれるのだ。

「そんなことをウジウジ考えるんだったら、原稿を書くことで勝ちなさいよ!」

とも言われる(もちろん脳内で)。

私の場合、原稿を書くことに関しては誰も応援してくれないので、自分で自分を鼓舞するしかない。

原稿を出さなければ、私の唯一の取り柄がなくなってしまうような気がする。

むかし、伊集院光が禁煙をして、しばらくして喫煙を再開したとき、信頼するラジオスタッフに、

「禁煙やめちゃったんですか?あ~あ、伊集院さんの尊敬するところ、これで一つなくなっちゃったなあ」

と言われたことが、喫煙を再開していちばんのショックだったという。

これになぞらえて言えば、今までなんとか出していた原稿を、もし出さなかったり、大幅に遅れるようなことがあったりすれば、

「あ~あ、これであなたの尊敬するところが、一つなくなっちゃったなあ」

と言われるかも知れないことを、私は常に恐れているのだ。尊敬されたいわけでもないのに。

頑張ってなんとか続いていたことが、頑張っても続かなくなったり、頑張らなくなったりしたとき、私はよく、

「これで尊敬するところが、一つなくなっちゃったなあ」

とつい、身勝手に思ったりしてしまうのだが、これは立場を変えると、私自身についてもいえる、ということである。

その危機を察知したとき、「原稿の神様」が降りてくるのだろうと思う。

ナンダカヨクワカラナイ話だが。

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創作落語・ディスプレイ長屋(試作)

えらいこっちゃ。

どうした、熊さん。

さっき大家さんと会ったらよぅ、「うちにあるディスプレイ型のパソコン17台を、長屋の連中に売ってやる」と、こういうんだ。

17台!!!??この小さい長屋に17台は多すぎるだろ!しかも、くれるんじゃなくて売るってか?迷惑な話だねえ。で、いくらで売るって?

3貫600文。

3貫600文!!!???…てことはおめえ、寛永通宝3600枚ってことかい?

そうなるなあ。

いくらなんでも高すぎるぜ。

しかしなあ八っつぁん。この前、大家さんと長屋の連中とで、寄り合いがあったろう?

あったな。

そのとき、あっしがつい、「いまのあっしらがいるのも大家さんのおかげです。あっしら、大家さんのためならなんでも引き受けます」と、こう言ってしまったんだ。

そういえば、みんなの前でそう言ってたなぁ。バカだねえ。…しかし、大家といえば親も同然、店子(たなこ)といえば子も同然というからなあ。長屋のみんなから集めた積立金から、3貫600文を出すよりほかはあるめえ。

しかしそうなると、うちの雨漏りの修理代は…?

我慢するより仕方あるめえ。

…ということで長屋のみんなは、積立金から費用を捻出して大家さんから17台のディスプレイ型パソコンを買い取った。

数日後。

おい、てーへんだてーんだ!

どうした、熊さん。

さっき秋葉原に行ったらよぅ、大家から買ったディスプレイ型パソコンに、114文の値札がついていたぜ。

1台114文か…。ということは、17台で1938文、つまり1貫938文か!

大家にずいぶんぼったくられちまったな…。

おい、てーへんだてーへんだ!

今度はどうした?

あのディスプレイ型パソコン、なんでも欠陥商品で、ディスプレイから火を噴くらしいぞ。

おいおい、イヤなモノつかまされちまったねえ。

そうこうしているうちに、ディスプレイから本当に火が噴いて、長屋が全焼してしまった。

あ~あ、とうとう全焼しちまったよ。大家さんに相談に行こう。…大家さん!大家さん!

おお、熊さんに八っつぁんかい。このたびは大変だったね。

ええ、エライ目にあいましたよ。どうしてくれるんです。

もちろん長屋を建て直そう。いい大工をこちらで用意しておいてあげたから。…金5両にまけといてやるよ。

(小声で)なんだい、カネはこっちで出せってか…。

なんか言ったかい?

い、いえ…。なんでもねえです。…ありがたいことです。あっしらが無事でいるのも、大家さんのおかげです。

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ロードバイク・2日目

5月10日(日)

ロードバイクを買ったとか、ポタリングをしたとかってのは、他人様(ひとさま)にとってはどうでもいい話なんだよな。だから聞かされるほうは、迷惑なんだろうな。

私もそう思っていたのだが、自分がその立場になってみると、やはり誰かに言いたくなってしまう。どうもすみません。

今日は、少し遠出をすることにした。

午後12時半、家を出発して、「県境を流れる川」のサイクリングロードを、ひたすら北上する。

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向かい風が強くて、思うように進めない。

むかし上岡龍太郎が、弟子が遅刻したときに、

「なんで遅刻したんや!」

と聞いたところ、

「はい、電車が遅れまして…」

と弟子が答えた。

「アカンアカン、オモロない。オモロイ言い訳を考えたら許したる…。で、なんで遅れたんや?」

今度は、

「はい、向かい風が強くて…」

と答えたところ、笑って許したもらえたという。

しかし自転車通勤の場合、この答えはギャグではなく、真実であることを実感する。

ところで私は、地図も何も持たずに出かけた。

スマホを持っていれば、サイクリングのアプリなどで、詳しい情報が分かるのだろうが、あいにくスマホを持っていないので、そういったアプリをまったく活用できないのである。

向かい風と戦いながら、午後3時前、ある町に着いた。

川沿いのサイクリングロードからはずれて、町の中に入る。

有名な陣屋跡に着いた。

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近くに駅があったのだが、なんとも昔懐かしい駅舎である。

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私の実家の近くにある駅舎も、昔はこんな感じで、とても懐かしく感じた。

この駅舎は「房総の魅力500選」に選ばれていると解説の看板にあったが、「500選」って、選びすぎだろ!

行きは2時間以上かかったが、帰りは1時間半ほどで戻ってきた。

あとで調べてみると、片道20㎞、往復40㎞の旅でありました。

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ロードバイクはじめました

5月9日(土)

他人様(ひとさま)にはどうでもいい話題みたいで、すみませんね。

先日注文したロードバイクを、ようやく手に入れた。

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さっそく、「県境を流れる川」のサイクリングロードで、乗ってみることにした。

1台しかないので、妻と交互に乗ることにした。ロードバイクに慣れるために、20分ほどかけてサイクリングロードを往復し、出発点に戻ったら相手と交替する。相手が20分間走っているあいだは休憩し、相手が戻ったら、再びロードバイクに乗り、20分ほどかけてサイクリングロードを往復する。

これを4セットほど繰り返した。

さすがに妻は疲れたらしく、「先に家に帰る」という。

私はだんだんロードバイクが楽しくなり、今度は少しだけ遠出してみよう、と思った。

で、行き着いた先が、ここである。

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ロードバイクは、ママチャリとはまったく異なるものであることがわかった。「今ごろ何言ってるんだ!」と言われそうだが。

ロードバイクがこんなに気持ちのよいものだとは思わなかった。お尻が痛くなったけれど。

ロードバイクに対する扱い方、接し方は、愛玩動物に対する接し方と似ているような気がする。

ママチャリのように、雑に扱うことはできない。どこか悪いところはないか、常に確かめなくてはならない。メンテナンスも重要である。

ロードバイクに乗って外出するときは、常にロードバイクのそばにいないといけない。

乗らないときは、家の中に置いておく。

愛玩動物のように大事に扱うことが重要なようである。

さて、明日はどこに行くか。

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現代版徒然草

最近の情報源は、もっぱらTBSラジオのポッドキャストである。

先に紹介した周防正行『それでもボクは会議で闘う』(岩波書店、2015年)も、荻上チキの「セッション22」で知った。

TBSラジオ「たまむすび」でおなじみ、コラムニストの小田島隆さんの本、『友達リクエストの返事が来ない午後』(太田出版、2015年)は、一冊まるまるが「大人の友だち論」。しかも「身も蓋もない友だち論」である。

たとえば、こんなフレーズが続く。

①「『友だち』は『愚行』とわかちがたく結びついている」 

②「どんなに親しくなっても、敬語で始まった関係は、敬語から外に出られない。そして、敬語を介して会話をしている限りにおいて、二人のあいだには、真摯な感情が通わないのだ」 

③「コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ。 

ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない」 

④「どんなに仲のいい友だちが相手でも、誰かと会うために時間を作ることは、大人にとって、簡単な仕事ではない。場所の問題もあるし、それなりにカネもかかる。と、気がついた時には、5年も顔を見ていないという事態に立ち至る。あるいは、会う機会が正月の帰省の機会に限られていて、なんだかいつも大勢の中でわめいている関係に堕していたりする。 

『今度ゆっくり飲もう』 

と、会うたびにそんな挨拶を交わしながら、ひとつも実のある話ができない。そうやって20年が経過してしまう。で、あらためて向き合ってみると、お互いに、見る影もないオヤジになっている。なんと悲しい運命ではないか」

(たしかに…。私もそんな感じで、いつかまた会おうと思いつつ、結局友人が死んでしまったという経験を、ついこのあいだしたばかりである)

⑤「友だちは、ナマモノだ。 

よほどの例外をのぞけば、ふつう、賞味期限は5年以内だ。 

ということは、昔の友だちは、過去の断片であって、現在の友だちではない。その意味で、一生の友だちは、10年モノの刺身と同じく、そもそも設定として無理だ。そんなものはいない。言葉の綾に過ぎない。 

むろん、古い友だちと付き合うことはできるし、実際われわれは、古い友だちと、折にふれて旧交をあたためてもいる。 

が、それは、古い本棚に収蔵してある古い蔵書と同じことで、本当の読書体験とは別のものだ。 

古い蔵書は大切な財産だし、貴重な思い出でもある。が、古い本は、読むための本ではない。読んだとしても、はじめて読んだときの感動は、二度と味わえない。

世にある友情の物語は、一生の友を想定しているが、あれはファンタジーに過ぎない。そんなものはいない。いるのだとしたら、それは、二人の人間が互いにファンタジーを演じることで関係を想像しているケースで、いずれにせよ、自然な感情のやりとりではない」

…ほら、身も蓋もない話ばかりでしょう。

この無常観は、さしずめ現代の『徒然草』である。

とくに④あたりは、いかにも兼好法師が書きそうな文章である

兼好法師風に古文で書いたら、どうなるのだろう?こんな感じだろうか?

「いかに仲よき友なりとも、隔たる処にあらば会ふことやすきにあらず。気がつけば五年も顔を見たらずといふことあらん。いはんや会ふついでが正月のみならば、あまたの人の中にわめきたるのみにて、なつかしく物語りするいとまもあらず。いづれ酒など飲み物語りせんとちぎるも、ひとつも実のある物語りするついでなし。かくして二十年をへてあらためて向き合ふてみるに、たがひに見る影もなき翁、媼になりたる、いとわびしきさだめにあらずや」

私は、小田島さんよりも年齢がひとまわり下だが、まだここまでは達観できない。

もう少し、ファンタジーを演じることにする。

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それでもボクは会議で闘った

周防正行著『それでもボクは会議で闘う』(岩波書店、2015年)を読んで、7年ほど前のことを、まざまざと思い出した。

今から7年ほど前、職場で、キャンパス・ハラスメントの規程を改定することになり、そのためのWG(ワーキンググループ)が、労務担当のK理事の下で作られることになった。いろいろな部局から集まった7~8名からなるWGだが、私もそのWGに加わることになったのである。

様々な部局から集まっているという性質上、全員が集まって話し合いをすることがなかなか難しい。そこで、とりまとめ役のS先生を中心に、メール会議で意見を出し合うことになった。

周防監督の本を読んだ私は、そのときのことを思い出し、古いパソコンの中を探してみたところ、なんとその当時のメール会議の記録がほぼ残っていたことがわかった。

読み返してみると、規程作りをめぐって、激しい論戦がくり広げられたことがわかる。

とはいっても、もっぱら議論をふっかけていたのは、この私であった。

そしてメール会議の記録を読み進むにつれ、当時私は、まさに周防正行監督が経験したことと同じような思いをしていたことを、あらためて思い出したのである。

いったい、そのときのメール会議は、どのようなものであったのか?

試みに、そのときの私の発言部分のすべてを公開することにする。

公開しようと思った理由は、周防監督の本に触発されたためというのがいちばん大きいが、すでに7年も経過しており、当時の関係者が退職や異動によりほとんど職場に残っておらず、公開したとしてもさしたる影響がないと考えられるためである。

…というのはすべて建前で、このときの発言をたんに自分史の一コマとして残しておきたいと思ったからにすぎない。

私の発言部分しか公開しないので、いったいどのような議論がおこなわれていたか、一読しただけでは分かりにくいと思う。ましてや相変わらず読む気が失せるくらいクドい文章を書いているので、なおさら分かりにくい。

一点だけ解説を加えると、当時、キャンパス・ハラスメントの規程改定で私が最重要と思っていた点は、キャンパス・ハラスメントの申し立てを、どこが最初に受理するか、という点であった。

当時の雰囲気では、なんとなく「部局で起きた問題は、部局で処理をすべきだ」という意見が大勢を占めていた。

しかし私はこれに猛反対した。ハラスメントの申し立ては、部局ではなく、部局を越えた組織であるところの全学の防止委員会に対しておこなう仕組みをつくるべきである、と。

理由は簡単である。部局で起きた問題を部局で処理しようとすると、部局ぐるみの隠蔽工作を行う可能性も考えられるからである。実際、そんな事件も過去に起きていた。

他大学の例では、ハラスメントの申し立てを全学の委員会が受理するという規程になっているところが多い。

ふつうに考えれば当然のことなのだが、実はある部局だけが、「部局の問題は部局で処理するべきだ」という原則に猛烈にこだわっており、WGのメール会議でも、その部局の委員は、かなり強硬にその点を主張していた。

それに対して私は、かなりキツイ調子で、その意見に何度も反論したのである。

具体的な会議の経過が分からなくとも、私の発言を追うだけで、私という人間がいかにタチの悪いヤツかというのが、よくわかる。

こんなヤツが近くにいたら、絶対にイヤだよな。

当時の記録によると、メール会議における私の発言は、2008年の6月29日にはじまり、2008年7月25日に終わっている。約1カ月にわたり、私は発言し続けた。

メール会議はその後も続いたと記憶しているが、2008年11月末から韓国に1年ほど留学することになったので、その後、規程作りには関わることなく、中途半端に終わってしまった。

その後、どのような議論を経て規程の改定がおこなわれていったのかは、よくわからない。でもたぶん、私がいない分、スムーズに進んだのだろうと思う。

さて、メール会議での私の発言は、とても長いし、読んでいて不愉快になる人もいると思うので、画面左上の「アーカイブズ」というコーナーの中で公開することとした。

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決定!2015書籍ベストワン!

周防正行著『それでもボクは会議で闘う』(岩波書店、2015年)。

2011年、映画監督の周防正行氏が、法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員に選ばれたことから、この話は始まる。

刑事事件のえん罪をどのようにしてなくしていくことができるか?そのためには、「取り調べの可視化(録音・録画)」をどれだけ実現できるかが、大きなポイントとなる。

周防監督は、3年間、計30回にわたる会議の様子を克明に記録する。議論は微に入り細をうがっており、素人の私にとっては難解な内容だが、それでもこの本は掛け値なしに面白い。

法制審議会には、裁判官、検察官、警察関係者、法律学者のほか、法律の専門家以外の、「有識者」と呼ばれる人たちも存在する。周防監督や、郵便不正事件で無実の罪を着せられた厚生労働省の村木厚子さんなど、5人が有識者として会議に臨む。

理不尽なえん罪事件を、どうしたらなくすことができるか?そのための会議であるはずなのに、実際のところ、警察や検察は、従来の取り調べのやり方を改めようとする気はさらさらない。あれこれと理由を付けて、何とかこの改革を「骨抜き」にしてやろうと執拗に「改革派」を攻撃する。

これに対して、周防さんや村木さんなどの「有識者」は、あくまでも「えん罪被害者」の視点に立ち、「取り調べの全面可視化」を含めた刑事司法の抜本的改革を主張する。

自分たちの権益を守り抜こうとする「官僚・警察・検察」

VS

刑事司法を市民の手に取り戻そうとする「有識者」という名の素人集団

…どう考えても、「有識者」には勝ち目がないのだが、5人の「有識者」たちは、改革が骨抜きにされないために、ときに主張し、ときに妥協をしながら、会議の場で最後まで闘うのである。

これとはレベルはまったく異なるが、私が以前、キャンパス・ハラスメントの規定作りをしたときに、これと似たようなことを経験し、そのときのことを思い出しながら、読み進めてしまった。あのときと、論法のレベルに至るまでじつによく似ている。もっとも私は、情けないことにここまで踏ん張ることはできなかった。

さて、法制審議会には、法律の専門家として大学教授の法律学者たちがメンバーに入っていた。

この人たちは、審議会の中でどのような役割を果たしたのだろう?

取り調べの全面的な可視化を主張する有識者に対して、できるだけ可視化の対象範囲を狭めようとする警察や検察関係者。

この対立のあいだで、法律学者たちはなんの改定案も示そうとしなかったと、周防監督は述べている。

読んでいて象徴的だったのは、次のくだりである。

「僕が〈立派な刑事訴訟法があるのに、それが全然実現されていないというのは、ちょっと勉強すれば、大した勉強をしていなくても分かるわけですよ。刑事訴訟法が悪いわけではないんですよ〉と言ったら、すかさず井上委員(井上正仁・早稲田大学教授)に〈周防委員、それは言い過ぎで、断定に過ぎます。そういうことを今おっしゃられたら議論にならないので、ちょっと言い過ぎだと思います〉と指摘された。

もちろん僕は、本当に刑事訴訟法のすべてが実現されていないと思っているわけではない。刑事訴訟法には、公正な裁判を実現するための手続きが書かれているのに、その重要な部分において、捜査側や裁く側に都合良く解釈、運用されていることがあるのではないかという意味で、「全然実現されていない」という言い方になっただけだ。勾留の要件にしてもそうだろう。本当に、法律として書かれていることにしたがって運用されているかと言えば、そうは思えない現実があるのだ。

井上さんは、「立派な刑事訴訟法があるのに、それが全然実現されていない」という僕の言葉を額面通りに受け取られ、厳しく反論した(まさか「刑事訴訟法が悪いわけではない」と言うことを断定に過ぎると怒ったわけではないと思うが)。法学者としての矜持ゆえかもしれないが、とにかく、僕はこうして三年間、いろいろと釘を刺されてきたわけだ」

どうもこの審議会においては、法学者たちは「神学論争」に終始しているように見受けられる。法制度改革に実質的な意味で資するような発言はとくにみられず、議論を積み重ねていくうちに、いつしか本質は見失われ、自らの矜持を守るためだけの議論が延々と続いていくように思えて仕方がないのである。そしてその結果、好むと好まないとにかかわらず、その理屈は国家権力の思惑の中にいとも簡単に飲み込まれてしまうのである。

最後の会議における、周防監督の発言もまた印象的である。

「私は映画監督として、今まで様々な世界を取材してきましたが、絶えず自分に言い聞かせてきたのは、「はじめの驚きを忘れるな」、ということです。その世界を知り過ぎると、全てが当たり前になってきて、その世界を初めて見た時に感じた「驚き」や「面白さ」を忘れてしまう。しかし、その「驚き」や「面白さ」こそが、映画を初めて見る観客にとっての最良の入り口になるのだと信じ、映画を作ってきました。是非、法律の専門家の皆さんにも心に留めておいていただきたいのは、専門家であるが故に当たり前に思っていることが、決して多くの市民にとっては当たり前のことではない、ということです。専門家に任せておけば良いのだ、ということではなく、多くの市民にも理解できるように言葉を尽くしていただきたいと思っています。その責任が専門家にはあると思います」

この発言がすべての学問に通ずるものであることはいうまでもない。

この本は私にとって共感することばかりなのだが、いわば法律の「素人」が書いた情緒的なこの本を、専門家が読んだら、また全然違う感想をいだくのかも知れない。そのあたりが興味深いところである。

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年に1度のゼロ次会

5月5日(火)

高校のOBによる吹奏楽団の、年に1度の定期演奏会が、私の実家の近くのホールで行われた。

楽団結成時は所属していたが、いまはもっぱら観客としてホールに足を運ぶ。

楽団の構成員は、私と同期のフクザワを最年長として、現役大学生に至るまで、実に世代の幅が広い。

(年々、知らない人が増えていくなあ)

開演前、少し早く会場に着いて、ホールに入りあぐねてうろうろしていたら、「先輩」と後ろから呼ぶ声がした。

振り返ると、5学年下のIさんである。

「後ろ姿で先輩だとわかりました」

最近よく言われるよ、と喉まで出かかった。

「ゼロ次会、行きますよね?年に1回のことですから」

ゼロ次会、というのは、演奏会の打ち上げの前に行われる飲み会のことである。

演奏会の打ち上げ、すなわち一次会は、演奏に参加した人たちを中心に、すべての世代のメンバーが参加する。この一次会は、ホールの片付けが一段落した午後7時過ぎから行われるのだが、5時に演奏会が終わってから一次会が行われる7時まで、若干時間があるので、「ゼロ次会」と称して気兼ねないメンバーで飲みに行くことが、いつしか恒例化したのである。練習に出なくなってからというもの、Iさんとは、本当に年に1度、ここで会うくらいでなのである。

「行きますよ」と答えた。

演奏会が終わり、ホールを出ると、同期のKさんがいた。

「今年は乗らなかったの?」と私。「乗る」というのは、演奏者として舞台に立つという意味である。

「曲が難しくって途中でついていけなくなっちゃって」

たしかに今年の演奏曲は、かなりハイレベルなものが多かった。昨年出演していたKさんは、今年は観客の側にまわったのである。

Kさんは、この4月から別の高校に異動したという。

「忙しい?」

「まだ異動して間もないからそれほどでも…。でも管弦楽部の顧問をやることになったから、そっちが大変ね」

数分ほど立ち話をした。

「ゼロ次会、行く?」

「ちょっと用事があって」

「じゃあまた来年」

「頑張ってくださいね」

「お互いにね」

年に1度、Kさんとは数分だけ会話を交わすだけだが、来年までまた頑張ろうと言って別れるのが、私にとっての風物詩である。それでなんとなく、今年も頑張ろうという気になる。来年も同じ会話が交わされる保証はないのだが。

舞台裏に行くと、今年もやはり、私の中学校時代の同級生の「ハマさん」が、ホール専属の舞台監督として仕切っていた。

「1年ぶりだね」とハマさん。

「最近はもっぱら客として見に来ているよ」と私。

会話はたったそれだけだが、年に1度、お互いが元気であることを確認する。

そう考えると、年に1度、この日にだけ会う人が、いかに多いことか。

ゼロ次会には、1学年下のモリカワさんも合流し、10名ほどで年に1度の話をした。

結局、なんだかんだで深夜零時近くまで飲んでしまったが、まあ年に1度のことだから、それもまたよいだろう。

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二つの再会

5月4日(月)

いちばん嬉しいことは、卒業生から連絡をもらうことである。

1週間ほど前だったか、東京で勤めている卒業生のOさんからメッセージが来た。

5月4日にCさんが東京に来るので、ぜひ先生ともお会いしたい、というのである。

OさんとCさんは、私がひそかに「詰めのあまい学年」と呼んでいる学年の二人で、私が前の職場を去るときも、二人で送別会を開いてくれた

久しぶりに二人に会えるのは、願ってもないことである。

夜9時過ぎに、Cさんは東京駅から新幹線で帰るということなので、東京駅の近くで夕食を食べましょうということになった。店はOさんが予約した。

東京駅の八重洲北口を出て少し歩いたところに、そのお店があった。最近全国にチェーン店展開をしている居酒屋である。

二人は、前日まで金沢に観光に行っていたとのことで、金沢での珍道中の話や、最近の仕事の話を聞かせてくれた。

いつも思うのだが、卒業生から仕事の近況を聞いたりすることが、いちばん楽しい。

三人で話し込んでいると、やたらとアルバイトの店員さんが話しかけてくる。

「あのう…このお店は初めてでしょうか」と店員さん。

私とCさんは、初めてだった。

「では、当店の名刺をお配りします。今日からお客様は、当店の主任です!」

この居酒屋には、風変わりなシステムがある。来店した客に名刺を渡し、肩書きは「主任」から出発。その後、来店するたびに課長、部長、専務、社長と、出世していくというシステムらしい。

ナンダカヨクワカラナイが、人生ゲームのようなものか?

また話し込んでいると、しばらくしてまたアルバイトの店員さんが話しかけてきた。

「あのう…今日はみなさんでどちらかに行かれたんですか?」と店員さん。

「いえ、久しぶりに再会したんです」

「そうですか。失礼ですけど、三人はどのようなご関係ですか?」

ずいぶん立ち入ったことを聞くものだ。

「大学時代の先生に、卒業後にこうして再会したんです」とOさん。

するとアルバイトの店員さんは驚いた顔をした。

「大学時代の先生と、大型連休に再会されるなんて、いいですね。私、実はまだ大学生で、大学の教授というと、ほとんど身構えてしまうんですけど、卒業後もこうやって一緒に飲みに行けるなんて、素敵です」

「だって、私たち三人は『友達』ですから」とCさん。

友達です、という表現に、思わず吹き出してしまった。

たしかにOさんやCさんとは、「友達」であるとしか表現のしようがない。

店員はひとしきり根掘り葉掘り聞いたあと、どこかへ行ってしまった。

「ここの居酒屋はずいぶんと店員が話しかけてくるねえ」

「どうもそういうシステムみたいです」

さて、ひとしきり話が終わり、帰ろうとすると、さっきのアルバイトの店員さんが「デザートです」といって、大きな皿を持ってきた。

皿を見てびっくりした。

そこには、気恥ずかしいくらいのメッセージがチョコレートを使って書かれていた。

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「大学時代の教授と生従さん。

卒業しても今日のように集まるのは

とてもステキなことですね」

そうか、さっき私たちにやたらと話しかけてきたのは、皿にメッセージを書くための「取材」だったのか…。

ただ、「生徒」を「生従」と書いているのはいただけない。

それに大学の場合、「生徒」ではなく「学生」である。

一番下に描かれている私の似顔絵も、どうだろう…。

しかし、短い時間でこうした絵皿を作る力量には、感心した。

たしかに、せっかくの大型連休に、卒業生が大学時代の指導教員を呼び出してお酒を飲む、というのは、通常ではなかなか考えにくいことだろう。

「不思議ですよねえ」とOさん。「先生の場合、先生にハマる学生とそうでない学生がはっきりしていたんです。ハマる学生はこうしてなんでも話せますけど、ハマらない学生は、ぜんぜん寄っても来ませんよね」

「そうだね」と私。「たとえて言うなら、私は独特の周波数を出していて、その周波数が聞こえた人だけが、私のところに寄ってくるんだと思う。言ってみれば『犬笛』みたいなもんだ」

つまりは、同じ価値観を持つ学生たちが自らの嗅覚で集まってくれる、ということなのだが、このわかりにくいたとえに、二人はわかったようなわからないような顔をした。

「おかげで、私は実にやりやすかった。だって周りは価値観が一緒の学生たちばかりだったんだもん」これは私の本音である。

あっという間の3時間だった。

再会を約束して、東京駅でお別れした。

さて、話はここで終わらない。

夜9時半過ぎ。東京駅。

東京に転勤になった、高校時代の友人のコバヤシに電話をかけてみた。

「もしもし」

「もしもし、どうした」

「どうということはないんだが…。いま東京駅にいてね」と私。

「偶然だねえ。俺はいま、有楽町付近を歩いている。

「じゃあ近くだなあ。いまからそっちへ行くわ」

ということで、急遽、高校時代の友人、元福岡のコバヤシと、有楽町で飲むことになったのである。

1時間という約束で、飲みながら話したが、福岡の仲間たちと別れたときの話が、けっこう感動的だった。

最後の最後、コバヤシは自ら率いるジャズバンドの「さよならライブ」を、あるライブハウスでおこなった。

すると、50人もの仲間が、聴きに来てくれたという。

昔から人見知りの激しいコバヤシだったが、それでも50人もの人が、彼の「さよならライブ」に駆けつけてくれたというのは驚きである。

福岡という土地を、大切にしてきたからこそだろう。

「お前、転勤のこと、ブログに書いてくれたよな」とコバヤシ。

「ああ」

「あれを読んで、泣いちまったよ」

「そうか…。だって俺も1年前に同じ経験をしているもの」

「そうだよな」

あっという間の1時間だった。

あわただしかったが、二つの再会は、私にとって「有り難い(めったにない)」幸運だった。

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大型連休のひととき・その2

5月3日(日)

大型連休のひととき、いかがお過ごしですか。

前回に引き続き、法律について思い出したことがあるので、もう少し書く。

法律は、あることを規制するために作られるものだが、その法律が悪用されることも、法律のもつ宿命的側面である。

たとえば職場を例にとると、セクハラやパワハラについての規定がある。

セクハラやパワハラを受けた場合、自分はハラスメントを受けたとして、それをしかるべき委員会に申し立てをし、その委員会は申し立てに応じて調査をし、それがハラスメントかどうかを審議する、というのが、通常の流れである。

もちろんこれは、セクハラやパワハラを受けた、立場の弱い被害者のための規則である。

ところがこの規則を逆手にとり、この規則に則ってこれを狡猾に悪用する人もいる。そして組織を混乱に陥れたりする。そもそも悪用する人間は、こういうことに対して常に狡猾なのだ。

悩ましいのは、被害者を保護するために、徹底的に被害者の立場に立った規則を作れば作るほど、それが悪用されると、悪用した人間にその規則はより有利にはたらく、という、実に皮肉な結果をもたらすことである。

そういうことが組織の中でいちどでも起こると、被害者の立場に立ったハラスメント規定に対して、懐疑的になる人たちも出てくる。

極端な例では、悪用されたというトラウマがあるために、被害者自身に対して一律に懐疑的になる人たちも出てきたりする。

組織の中でハラスメント対策がなかなか進まない原因のひとつは、ここにあると私は思う。

私自身の乏しい経験の中でも、このようなことがかつてあり、その結果、ハラスメントに対してふだんからそうとう高い意識を持つ人たちの中にも、被害者の立場に立つことに対して一定の歯止めがかかってしまったのではないか、と感じられたりするようになって、仕方がないことだと思いながらも、少し寂しい思いをしたものだった。もっとも、私の思い過ごしかも知れない。

私の中でも、明確な解決策が見いだせず、悩ましい問題である。

では、よい連休をお過ごしください。

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大型連休のひととき・その×

昔はあたりまえに行われていたことが、いまは行われていなかったり、昔は無頓着だったことに、いまは気を使うようになった、などということは、よくある。

たとえば私が子どもの頃、駅のホームでタバコを吸って、それをあろうことかホームの下の線路にめがけて「ポイ捨て」する人が、とても多かった。

だからホームから下を覗くと、線路のところにタバコの吸い殻が山ほど捨てられていた。

刑事ドラマ「あぶない刑事」の再放送をみていたら、ユウジとタカ(だっけ?)が、締め切った車の中で、タバコを黙々と吸っている。犯人を張り込んでいるのだ。

で、犯人が現れたら、車をほっぽり出して、犯人を追いかけて、拳銃をバンバンと打ちまくる。

完全な路駐じゃないか!

…というかそれ以前に、拳銃をバンバン撃ちまくるほうがダメだろ!

話を元に戻す。

しかし今はどうだろう?タバコを線路に捨てる、なんてことをする人は誰もいない。分煙があたりまえの世の中になったいま、ホームですら公然とタバコを吸う無法者はおらず、喫煙場所で吸っているのである。

もうひとつ。

先日「月曜から夜ふかし」という番組で、「ひとりあたりのゴミの出す量が最も少ないのは熊本県」「ひとりあたりのゴミの出す量が最も多いのは大阪府」と言っていた。

熊本県のある自治体では、ゴミの分別がそうとう細かいレベルにまで厳格に行われており、それが、ゴミをなるべく出さないようにすることにつながっているというのである。

逆に大阪府では、ゴミの分別が厳格ではない自治体があるため、ゴミを分別することに対する意識が低く、ゴミを多く出すことに抵抗がないのだという。

ゴミの分別という意識も、私が子どもの頃の30年前と比べると、はるかに高くなっていると思われる。私たちは無意識のうちに、ゴミを分別し、決められたとおりに捨てている。

「タバコ」に対する意識も「ゴミの分別」に対する意識も、30年前に比べるとはるかに向上していることだけは、間違いないのである。

つまり大事なことは何か?

人間の意識は向上するものである、ということである。

それは法律による規制によるところが大きいのかも知れないが、それでも、人々の意識が向上することは、評価してもしすぎることはない。

セクハラやパワハラも同じである。

ひとりひとりが、セクハラとはどういうものか、パワハラとはどういうものか、ということへの意識を高めれば、組織や社会もかなり変わってくるのではないだろうか。

分煙やゴミの分別があたりまえの世の中になるように、である。

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大型連休のひととき

5月2日(土)

大型連休のひととき、いかがお過ごしですか。

TBSラジオ「荻上チキ セッション22」で、公共放送の経営委員会について特集している回(4月8日)が、地味な内容だったが私にとっては面白かった。

内容は、経営委員会の前経営委員長代行の法律学者をゲストに呼び、ジャーナリストの神保哲生氏とともに経営委員会の実態について聞くというものだった。ゲストの法律学者は都内の有名私立大学の教授である。

公共放送の経営委員会の構成員は、外部有識者の12人からなる。公共放送の最高決定機関であり、公共放送の会長人事も経営委員会が決定する。

大学でいえば、「研究教育評議会」と「経営評議会」と「学長選考会議」を兼ねている組織である。公共放送の場合、内部の委員が一人もいないというのが特徴である。

番組の中では、なぜあのような問題のある会長が選出されたのかに焦点が当てられた。

ニュースでも明らかにされているように、会長は明らかに政権寄りの発言をして、物議を醸していた。

しかし放送法によれば、放送局は「不偏不党」でなければならない。何人からも干渉されることはないとある。

そのために、公共放送の最高決定機関である経営委員会の構成員は、「政府任命人事」ではなく、政府が指名し、国会による同意を必要とする、いわゆる「国会同意人事」によっている。

経営委員を政府任命人事とした場合、構成員は政府寄りの委員が選ばれる可能性が高い。だが、経営委員会は、公正・中立の立場から、時の政府に左右されないことが重要であり、そのためには、与党のみならず野党も意志決定に参加できる「国会同意人事」がふさわしい。

すなわち「国会同意人事」であることをもって経営委員会の「不偏不党」が担保されてきたのである。

前経営委員長代行の法律学者は、ラジオの中で再三その点を強調した。

経営委員全員が、会長の候補となる人物を推薦する権利がある。ある経営委員が、会長となるにふさわしいと思われる人物を推薦し、経営委員会で協議の上、会長となる候補者を決定する。

問題となった会長も、所定の手続きに従って経営委員会が決定したものであり、手続き上は何ら問題がなかったと、その法律学者は述べた。

にもかかわらず、なぜあのような発言をする人物が、公共放送の会長になり得たのか?

ジャーナリストの神保哲生氏は、会長決定の手続きそのものを見直すべきではないか、と主張した。会長候補者決定に至る透明性が確保されていないことや、経営委員の国会同意による任命というシステムが、実際には多数派の与党により強引に押し切られていることに問題があると指摘した。従来は全党一致での国会同意が慣習的であったものが、最近の実態はそうではなくなっているというのである。ジャーナリストは「国会同意人事」そのもののあり方を問題視したのである。

これに対して前経営委員の法律学者は、あくまで「政府任命人事」と「国会同意人事」とは、まったく異なる理念であることをあらためて強調し、「国会同意人事であると規定している以上は、与党だけではなく野党を含めた意志決定が重要であることは論理的に当然である」と繰り返した。

私には、ジャーナリストと法律学者の意見が同じ方向を目指しつつも、あまりかみ合わないまま終わってしまったように聞こえたのであるが、この感覚、どこかで身に覚えがあるなあと思い返したら、以前に似たような経験をしたことがあることを思い出した。

むかしむかし、職場のある規定作りに参加したときに、どのような文言を盛り込むかといったことが、部局の利害対立もからんで当然議論になっていったわけだが、私の上司で、その規定のとりまとめの責任者だった法律学の先生が、「ここに○○という表現を盛り込むことで、論理的にはこうなる」的な言い方で規定作りを進めていったという記憶がある。

具体的なことは忘れてしまったが、そのとき私は「実質的な意味を持たせる規定を作るはずだったものが、いつのまにか法解釈の問題や手続き論にすり替えられてしまったなあ」と感じたのだった。

そのことにとどまらず、その分野の人々に日常的にふれていく中で、自分のアイデンティティとなる学問分野の作法は、その人のプライベートな思考様式にまでも影響を与えることを痛感したものである。もちろん自戒も込めてである。

ラジオを聴いていて、そんなことを思い出したのである。

ラジオに出てきた法律学の先生は、お話を聞く限り、おそらく公共放送の経営委員の中では突出した良識派で、リベラルなお考えをお持ちの方だと推察された。

しかしその一方で、三谷幸喜脚本のテレビドラマ「合い言葉は勇気」の最終回で、民事裁判の法廷が閉廷されたあと、人権派の弁護士(杉浦直樹)が、大企業の顧問弁護士(津川雅彦)に言う、

「相変わらず君の言葉は正確だが、実に冷たい」

というセリフも、合わせて思い起こされたのであった。

さて、話をもとにもどすと、「国会同意人事」が「不偏不党を担保する」という法解釈じたいが、実は曲者である。

たとえ法解釈上はそうであったとしても、権力はいとも簡単に、そんな論理性や法解釈などをなきものにしてしまう。

理論武装は必要だが、十分ではないことを思い知らされるのである。

では、よい大型連休をお過ごしください。

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兼好法師その新世界

さて、『徒然草』の作者、兼好法師はどんな人間だったのか?

『徒然草』の一番最後、第243段に、そのヒントが隠されている。

「八才の時、私は父に質問した。

『仏とはどんなものでございますか』

すると父は答えた。

『仏とは、人が悟りを開いてなるものである」

そこで私は再び質問した。

『人はどのようにして悟りを開いて仏になるのでございますか』

すると父は答えた。

『仏の教えによって仏になるのだ』

さらに私は質問した。

『それを教えた仏には、だれが教えたのでございますか」

すると父は答えた。

『それもまた、その前の仏の教えを受けて仏になったのだ』

そこで私は質問した。

『では最初に教えた第一番目の仏はどんな仏でございますか」

すると父は笑って答えた。

『空から降ってきたか、地面から湧いてきたかしたんだろ!」

のちに父は、『息子に質問責めにあって困りました』と人に楽しそうに話していたということである」

これが、『徒然草』の最後の段である。

ここからわかることは、兼好法師は、八歳の頃からかなりの好奇心を持った「屁理屈お化け」だったということである。

その素質があったからこそ、あれほどの硬軟とりまぜた随筆を書くことができたのだ。

もし兼好法師が現代に生きていて、その素質を生かすとしたら、語りの名手といわれるラジオDJになっていたかも知れない。

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