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いまこそ読め、阿部次郎「三太郎の日記」

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阿部次郎「三太郎の日記」を知ったのは、30年以上前の、また中学生の頃だったか。

当時NHKのアナウンサーだった鈴木健二の随筆の中で、旧制弘前高校~旧制東北大学の学生時代に阿部次郎の「三太郎の日記」を耽読した思い出を書いていて、「三太郎の日記」は、教養主義に憧れる当時の学生の誰もが読んだ本だと書いてあった。

最近、「若い頃に読んでちんぷんかんぷんだった本」を拾い読みすることが自分の中でブームとなっているが、この阿部次郎の「三太郎の日記」を、出張の移動中などで、折にふれて読んでみた(青空文庫で、簡単に読むことができる)。

若い頃に読んだときにはちんぷんかんぷんだったが、いまあらためて読むと、じわじわと心に迫ってくるなあ。

以下、私が感銘を受けたところ。

眞正なる内省は無鐵砲と盲動との正反對である。從つてそれは或意味に於いて行動の自由を拘束する。さうして時として無鐵砲と盲動とから來る僥倖をとり逃すことがあるに違ひない。併し眞正なる内省によつて抑へられるやうな行動は、本來發動せぬをよしとする行動である。さうして無鐵砲と盲動とによつて始めて得られるやうな僥倖は、之をとり逃しても決して眞正の意味の損失ではない。

(中略)無鐵砲は一切の内面的經驗を上滑りして通るに十分なる眼かくしである。彼等は自己の弱點を弱點として承認せず、自己の缺乏を缺乏として承認せざるが故に、その内面に何の征服せらる可き敵對力をも認めることが出來ない。從つて一切の精神的進歩の機縁たる可き内面的鬪爭の必然性を持たない。彼等は自己の弱點を樂觀することによつて、苦もなくその弱點の上を滑べる。さうしてその滑べり方の平滑なることを基礎として「自己肯定」の信仰を築き上げるのである。

(中略)弱い者はその弱さを自覺すると同時に、自己の中に不斷の敵を見る。さうして此不斷の敵を見ることによつて、不斷の進展を促す可き不斷の機會を與へられる。臆病とは彼が外界との摩擦によつて内面的に享受する第一の經驗である。自己策勵とは彼が此臆病と戰ふことによつて内面的に享受する第二の經驗である。從つて臆病なる者は無鐵砲な者よりも沈潛の道に近い。彼は無鐵砲な者が滑つて通る處に、人生を知るの機會と自己を開展するの必然とを經驗するからである。弱い者は、自らを強くするの努力によつて、最初から強いものよりも更に深く人生を經驗することが出來る筈である。弱者の戒む可きはその弱さに耽溺することである。自ら強くするの要求を伴ふ限り、吾等は決して自己の弱さを悲觀する必要を見ない

(中略)繰返して云ふ。無意識の背景を缺く内省の戲れと之に伴ふ情感の耽溺は無意味である。併し内省の根柢を缺く無鐵砲な自己肯定は更に更に無意味である無鐵砲を必然だと云ふのは蹣跚たる醉歩が醉つぱらひにとつて必然だと云ふに等しい。醉つぱらひには遠く行く力がない。無鐵砲な者には人生に沈潛するこゝろがわかる筈がない。

(中略)自己の否定は人生の肯定を意味する。自己の肯定は往々にして人生の否定を意味する。何等かの意味に於いて自己の否定を意味せざる人生の肯定はあり得ない。少くとも私の世界に於いてはあり得ない。私の見る處では、之が世界と人生と自己との組織である。私の見る處では、古今東西の優れたる哲學と宗教とは、凡て悉く自己の否定によつて人生を肯定することを教へてゐる。一本調子な肯定の歌は唯人生を知らぬ者の夢にのみ響いて來る單調なしらべである。

(中略)固より自己の如何なる方面を否定するかに就いては各個の間に大なる意見の相異がある。肯定せられたる究竟の價値と否定せらるゝ自己の内容との關係に就いても亦大なる個人的意見の差異があることは拒むことが出來ない。併し何れにしても大なる哲人は自己否定の慘苦なる途によつて、人生の大なる肯定に到達するこゝろを知つてゐた彼等の中には渾沌として抑制する處なき肯定によつて、廉價なる樂天主義を立てた者は一人もゐない。人生と自己との眞相を見る者は此の如き淺薄な樂天觀を何處の隅からも拾つて來ることが出來ないからである。

(中略)一向きの否定は死滅である。一向きの肯定は夢遊である。自己の否定によつて本質的價値を強調することを知る者にとつては、否定も肯定である。肯定も否定である。之を詭辯だと云ふものは總ての宗教と哲學とに縁のない人だと云ふことを憚らない。

 これらを読んで、なぜ私が昨今の「自己啓発」のようなものが大嫌いなのかが、よくわかった。

「彼らは自分の弱点を弱点として認めず、自分の欠点を欠点として承認しない。そのために、心の中で自分を克服しようという必然性を持たないのである。彼らは自分の弱点を楽観視することによって、苦もなくその弱点の上を滑ることができる。そして弱点を簡単に上滑りすることで、「自己肯定」の信仰を築き上げるのである」

阿部次郎が再三書いているのは、「無鉄砲な自己肯定の危うさ」である。

「弱点に目をつぶって、とにかく自分に自信を持ちましょう」

という根拠のない自信は、浅薄な人生、上滑りした人生に過ぎないと述べているのである。

それに対して、「弱い者」や「自己を否定する者」ほど、実は強い人間であると阿部次郎は言う。

「弱い者はその弱さを自覚すると同時に、自分の中に不断の敵を見ることができる。そのことをたえず自覚することで、不断の進展をうながす機会が与えられるのである。人は外の世界と接触するときに臆病になるものだが、自分の臆病さを自覚している者は、無鉄砲な者よりも物事を深く考えることができる。弱い者は、それを克服しようとする努力によって、最初から強い者よりもさらに深く人生を経験することができるはずである。弱い者がいましむべきは、その弱さに浸ってしまうことである。それを克服しようと思うかぎり、私たちは自分の弱さを悲観する必要はないのだ」

かつて私のまわりにも「楽観的な自己肯定」をよしとする人たちがいて閉口したものだが、最近はどうやらそれが、社会全体の雰囲気になっていて、さらにはそれが国の政策にまで蔓延している。

困った世の中になったものだなあ。

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