新書はむかしのものにかぎる
ここ3年以内に出た新書の中で、オススメのものを教えてください、と問い合わせが来た。
必死に探してみるが、まったく該当する新書がないことに愕然とする。
読みやすい新書は数あれど、知的興奮を覚える新書、というのがない。
それにくらべると、むかしの新書はよかったですなあ。
むかしの新書は、難解なものが多い。読者サービスという点からいえば、いまの新書の方がはるかに読みやすい。
むかしの新書は、専門書からちょっとだけ難易度を落とした、というレベルのものが多く、つまり、背伸びして読んでみて、なんとなく内容がわかる程度、くらいのものだった。
だがそれが、「知的興奮」というべきものであろう。いまはそんな「知的興奮」を覚えるような新書が少なくなった、ような気がする。
試みに本棚から、川島武宜『日本人の法意識』(岩波新書、1967年)を取り出して、パラパラとめくってみる。
私が学生のころは、大学の法律学の授業で、必ずこの新書が取りあげられ、なかば必読書のような存在だった。
当時は読んでもちんぷんかんぷんだったが、はたしていまはどうだろう?
…うーむ。読んでみると、やっぱり難しい。噛みごたえがあるというのは、こういう本のことをいうのだな。
気になったところを拾い読みしてみると…。
「そこで、多くの社会 -特に、政治権力に対するコントロールについて大きな関心を持つ現代の民主主義社会-では、「法律」のことばの意味をできるかぎり明確にすることに大きな努力が払われてきた。」
ふむふむ。
「(中略)「法律」の規定の対象となっている社会生活そのものの変化、「法律」の規定の基礎となっているところの・人々の価値観の変化は、「法律」の言葉の意味が完全に固定化されている場合には、法律の機能を不完全にし、或いは社会生活を攪乱し、あるいは社会によって受け入れられないものにしてしまう。だから、どの社会でも、多かれ少なかれ、法律の言葉の意味を、新しい社会的環境に際して調整するという努力が生じないわけにはゆかない」
ほう。
「だが、私の見るところでは、この意味調整の努力の型態がそれぞれの社会によって必ずしも同一ではない。法律の言葉の意味を確定的・固定的のものとする努力をすると共に、そのようなものとして意識する社会(西ヨーロッパやアメリカ合衆国)と、法律の言葉の意味を本来不確定的・非固定的のものとして意識し承認している社会(前述したように、日本はこれに該当する)とは、この意味調整の努力の型態を異にしているのである」
なるほど。
「(中略)このような法律の意味調整は、通常は、法律の「解釈」と呼ばれる操作で行われる。(中略)このかぎりでは、西洋は日本と異なるところはないのである。しかし、西洋では、法律の言葉の意味は本来確定的・固定的のものであるということが一般の信念として予定されているから、法律の解釈のはばには限界があり、したがって、或る判断基準が法律の言葉の意味にはじめから含まれているのだとして論証することが困難な場合を生じ、その場合には、新たな法的判断基準を、法律の言葉の意味に含まれていないものとして示すことを、一定の要件のもとに正当化するしくみが必要となる」
…む、むずかしい…。
「(日本の場合)裁判所はあらゆる努力をはらって、すべての法的判断基準を、法律の言葉の意味の中に本来含まれていたものとして、「解釈」することによって説明するのであり、法律学者もこれをそのまま承認している。そうして、「解釈」というのはたんなる見かけの説明でしかないこと、実際にはかなり多くの場合に当該の判断基準ないし裁判の理由づけは、裁判官ないし法律家が法律の言葉の意味にもとづいてではなくて、「条理」によって考案したものであること、を肯定しない。したがって、わが国では、いったん法律が制定されたあとは、法律の改正はきわめて稀にしか行われない」
…どうしてこんなに難しい言い回しばかりするのだろうか…。
「このようなことは、日本だけに特有な現象ではなく、西洋諸国も同様なのではないか、と思われるかもしれない。実は私自身、長いあいだそう考えていた。しかし、西洋諸国と同じなのは、前述したような抽象的な学説ないし教説だけであって、日本の法律解釈技術に多大の影響を与えたドイツにおいては、法律の条文の意味が限定されたものであることを承認した上で、それを根拠としないで「条理」を根拠として理由づけを行っている判決が、わが国とは比べものにならぬくらい数多く見出されるのである。(後略)」
「日本の法律がこの「解釈学」の呪縛の中にあるかぎり、裁判がどのようなしかたで、またどの程度で、「法律」によって制御されているか、またそのこととの関連において「法律」がどのようなしかたで、またどの程度で、社会現象を現実に制御しているか、等についての現実主義的な問題関心・現実主義的な研究態度は成立しがたいのである」
…と、ここまで拾い読みしてみて、理解するのにかなり苦労したものの、学生時代にはちんぷんかんぷんだったものが、いま読んでみると、なんとなく理解できる。
おそらく私はこの文章を読みながら、、いま私たちが直面している問題を想起しているからだと思う。
上の文章をまず読ませて、具体例をあげて論じさせるという試験問題が作れるのではないか、と夢想する。
ただ、およそ50年ほど前に書かれたこの本は、いまでもその分野では有効なのだろうか。そこがいちばん知りたいところである。
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