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樅ノ木は残るか

「山本周五郎なんて、全然ダメですよ。それよりは、藤沢周平の方がいいです」

ひどく酔っ払った人が、私にそう言った。私がうっかり、山本周五郎の長編小説『樅ノ木は残った』の話題を出したのがいけなかった。

5時から飲み始め、すでに夜11時をまわっていた、3次会でのことである。

山本周五郎の『樅ノ木は残った』は、江戸時代のいわゆる「伊達騒動」をめぐって、極悪人の汚名を着せられた原田甲斐を主人公にした物語である。

「原田甲斐は、結局『公』のために、最後に命を落とすでしょう。僕はあれが許せないんです。つまり、家族よりも『公』が大事なんだ、というメッセージでしょう。それに対して、藤沢周平は、主人公が最後に切腹することはしない。家族や愛する人のために逃げるんです。藤沢周平は、時には逃げることも大事だということを言いたかったんじゃないでしょうか」

藤沢周平をほとんど読んでいない私には、よくわからなかった。

「山本周五郎は、やはり時代の制約もあったんでしょう。『公』に尽くすことを美徳としたんです。でもそれは、言ってみれば『滅私奉公』ということでしょう。戦争賛美につながる考え方ですよ。僕にはそれが許せない」

その人は、まくし立てるように私に語った。私よりも若いにもかかわらず、私よりも確固たる信念を持った人だった。

それに対して私は、何と答えてよいかわからない。

もし、『樅ノ木は残った』が、その人の言うように、「滅私奉公」の美徳を描き、「戦争賛美」につながる考え方を助長するものだと評価されているのだとしたら、山本周五郎は浮かばれないなあと、少しばかり切なくなってしまった。

『樅ノ木は残った』から私たちが読み取るべきことは、そういうことなのだろうか。私にはわからなくなってしまった。

たしかに山本周五郎の小説には、家父長制を無批判に描いたものがあったり、師弟関係の美徳を描いたものも多い。私自身、そういう小説に感銘を受けていることも事実である。

とすれば、私の考え方が、古くて、おかしいのだろうか。

山本周五郎は『樅ノ木は残った』の中で、「伊達騒動」で極悪人の烙印を押されてきた原田甲斐を、まったく異なる角度から描き出した。事の本質は、幕府による伊達藩取りつぶしにある。

幕府は、大藩である伊達藩に内紛を誘発し、これを自滅させるという形で、取りつぶそうともくろんだのである。

幕府のねらいを見抜いた原田甲斐は、藩内で悪評を受けることも覚悟で、敵の懐に飛び込み、藩内の内紛を未然に防ごうと画策する。

本来、そんな権謀術数など厭わしいと思う原田は、ひたすら諸方面からの攻撃に耐え忍び、誤解されることも覚悟で、権力と闘ったのである。

「原田甲斐は、藩のために権力と闘うなんて、厭わしいと思っていたんですよね」と私。私は、決して「滅私奉公」の美徳を強調したのではない、ということを言いたかった。むしろそのむなしさを描いたものではないのか、と言おうとしたのである。

だがその人は言った。

「だったらなぜ、彼は最後に死を覚悟してしまうんです?小説の一番最後に、彼のことを本当に理解している宇乃という娘が出てきますよね。原田はそんな厭わしいことなどにかかわらずに、唯一心を通わせていた宇乃と一緒に逃げ出すべきだったんです。大切な人を捨てて死を覚悟するなんて、やっぱり戦争賛美と同じですよ」

うーむ。これ以上は何も言えまい。

藩に内紛を起こさせ、それを口実に取りつぶしにかかるという幕府のやり方は、いつの時代も、国家権力がおこなう手口である。現在の担当省が、国立の教育機関や研究機関に対して今現在おこなっていることも、基本的にはこれとまったく同じやり方である。

原田甲斐は、そこでひたすら忍従するという姿勢を選んだのである。自分一人がどんな責めを負わされようとも、内紛だけは起こさせてはならない。内紛を起こしてしまっては、それこそ、幕府の思うつぼである。

つまり私は、滅私奉公でも戦争賛美でもなく、むしろその逆で、国家権力がふっかけてくる理不尽な試練に、いかに闘っていくべきかをこそ、この小説から読み取るべきなのではないか、と思うのである。

しかしそんなことを、目の前で酔っ払っている彼に言ったところで、ケンカになるだけだろうと思い、私は言わなかった。言ったとしても、彼の考えが変わるわけでもない。

ちなみに酔っ払った彼は、私にこんなことも言った。

「師匠を崇拝するのはやめた方がいいですよ。僕はあなたに、これだけは言いたかった」

どうも私は、師匠を崇拝している人間に見えているらしい。

彼に限らず、私は師匠を崇拝していると多くの人に思われているようで、そのことは自分もよくわかっていた。

だから彼にも、

「自覚しています」

とのみ、答えたのだった。

私が、師匠に対してどのような思いをいだいているかなど、たぶん誰にもわからない。

彼やほかの人が思うほど、師匠を盲目的に崇拝しているというわけではない。

しかしそのことは、理解されないだろう。

人間とは、どんなにがんばっても、他人に誤解される生き物である。

『樅ノ木は残った』の原田甲斐が、まさにそうである。

あるいは、山本周五郎の短編小説「夜の蝶」はどうだ?

あの小説もやはり、汚名を着せられた人物が登場する。

たった一人、その人物の本当の気持ちを理解している人がいて、ある飲み屋で、「みんなわかっちゃいない」と、くだを巻く。以下、引用。

「おめえなんぞに、なにがわかる」老人は俯伏したまま云った。「おらあ口惜しいんだ。ほんとのことも知らねえで、世間のやつらは、いまでも高次の悪口を云いやあがる。なんにも知らねえくせ、しやがって、おらあ、がまんがならねえんだ」

「それでいいんだ、それでいいと思う」と旅姿の客は云った。「高次という人は、そんなことは承知のうえだったろう。いつか本当のことがわかるとか、わかって褒められたいなどとは、これっぽっちも考えてはいなかった筈だ。そう思わないか爺さん」

「それがどうしたってんだ」

「黙ってやることだ」と旅姿の客は云った。「爺さんが本当のことを知ってると聞いたら、高次という人はよろこぶだろう。一人でも知っていてくれると聞けば、その人はきっと本望だと思うに違いない。それでいいんだ。それでいいんだよ爺さん。もうそのその話はしなさんな」

私は山本周五郎の小説にふれるようになってから、

「誤解されてもいいや。理解してくれる人が一人でもいてくれる限りは」

と思うようになり、私に対する誤解や悪評を払拭することに躍起になることはなくなった。どうせ人間は、誤解される生き物なのだ。言いたいやつには言わせておけばよい。たとえオモテにあらわれなくとも、理解者が一人でもいれば、それでよいのだ。

原田甲斐にとっての「宇乃」が、彼が唯一安らぎを覚える、まさにその「理解者」だったのだろう。

そういう人が一人でもいるだけで、原田甲斐は本望だったのだろう。

山本周五郎が描きたかったのは、そういうことではないだろうか。

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