研究立志篇
久しぶりに映画「男はつらいよ」のお話。
「男はつらいよ」第16作「葛飾立志篇」(1975年公開)。
大学で考古学を専攻する研究者の礼子(樫山文枝)が、ふとしたことから、寅次郎の実家である柴又の「とらや」の2階に下宿することになった。
旅から帰ってきた寅次郎は、2階に下宿する礼子のことが気になってしかたがない。
礼子さんは、いったいどんな人なのか?
それを妹のさくら、さくらの夫の博、そしておばちゃんに聞くのである。
以下、その場面。
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寅「…コウコ学??コウコ学ってなんだい?親孝行の学問か?」
さくら「孝行じゃないの」
寅「え?」
さくら「考古」
寅「コウコ?」
さくら「うん、つまり古い時代の学問よ」
寅「古いって言うとあれか、カチカチ山とか桃太郎とか」
博「違いますよ、何千年も前の昔のことを、地面をほじくり返して調べるんですよ」
寅「あー、よく昔の金持ちが埋めたっていう千両箱を…。え?あの人、女のくせにそんなことやってんの?」
さくら「そうじゃないのよ」
寅「なんだよぉ~」
さくら「大昔の人が使ったね、こういうお茶碗のかけらとか石のやじりとか、そういうものを探すのよ」
寅「そんなもん探してどうするんだい?」
さくら「研究するのよ」
寅「研究してなにになんだよ?それが」
さくら「知らないわよ!、そこまで」
寅「なんだよ!」
おばちゃん「わかんない男だねえ~、そうやって偉い学者の先生たちがいろいろ研究してくださってるからこそ、私たちがこうやって平和に暮らしていられるんじゃないの」
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最後のおばちゃんのセリフ、今聞くと、心にグッと突き刺さる。
学者は、自身が好むと好まないとにかかわらず、ありがたい存在にならなければならない。
「偉い先生たちがいろいろ研究してくださってるからこそ、私たちがこうやって平和に暮らしていられるんじゃないの」
この言葉は、おばちゃんの根拠なき幻想に過ぎないかも知れない。
だがおばちゃんのこの言葉を、おばちゃんの幻想にとどめてはいけない。
それにふさわしいことを、学者はしなければならないのだ。
いまはどうだ?
学者の意見が、政治家や官僚によって平気で軽んじられる世の中だ。
政権与党のある政治家は、こんなことを言った。
「憲法調査会の場でおのおのの考えを自由に述べていただくことは結構なことであります。私たちとしても、自分たちと異なる意見を持つ方々も尊重します。その一方で、私たちは、憲法を遵守する義務があり、憲法の番人である最高裁判決で示された法理に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、自衛のための必要な措置が何であるかについて考え抜く責務があります。これを行うのは、憲法学者でなく、我々のような政治家なのです」
「憲法の番人は、最高裁判所であって、憲法学者ではありません」
ずいぶんと学者もなめられたものだ。しかもこの政治家は、「立憲主義」という言葉を意図的に悪用することに、何の躊躇もしていない。学者の意見を無視すると、こういう破綻した論理が跋扈する世の中になるという見本のような発言である。
学者はこれに、繰り返し反論しなければならない。
もう一度書く。
「研究してなにになんだよ?」
「学者先生たちがいろいろ研究してくださってるからこそ、私たちがこうやって平和に暮らしていられるんじゃないの」
いまこそ学者は、すべての力を結集してその理想に近づくべきである。
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コメント
「権力のやることに制約はない。」ついに独裁制が堂々と擁護されるようになってしまった…。
哲学者ヤスパースはこんなことを言った。知的であること、誠実であること、ナチス的であること。この三つのうち、一人の人間に共存できるのは二つまでである。
つまりこういうこと。
知的な人がナチスを支持したら、その人は悪人である。
誠実な人がナチスに入ったら、その人はものをよく考えていない。
自分で考え、善悪の判断がつく人間は、独裁を拒否する。
いまわれわれの社会は、知性と良心を問われているのだと痛切に思う。
投稿: ひょん | 2015年6月19日 (金) 10時51分
いま、「反知性主義」という言葉が流行っていますね。
内田樹によると、反知性主義者とは、「あらゆることについて」「正解をすでに知っている以上、彼らは事の理非の判断を私に委ねる気がない。『あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない』というのが反知性主義者の基本的なマナーである。『あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます』というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは『理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だからあなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性にはなんの影響も及ぼさない』と私たちに告げる」という人のことだそうです。そして次のように続けています。
「そして、そのような言葉は確実に『呪い』として機能し始める。というのは、そういうことを耳元でうるさく言われているうちに、こちらの生きる力がしだいに衰弱してくるからである。『あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない』ということは、『あなたには生きている理由がない』と言われているに等しいからである」(以上、内田樹編『日本の反知性主義』晶文社、2015年)
いま、いっせいに進められている各種法案の審議について、まさに内田樹がいうところの「反知性主義者」たちが猛烈に攻勢をかけてきていることは、もはや明らかでしょう。
この反知性主義が、この社会全体に蔓延しつつあることは憂うべきことです。もちろん大学もその例外ではありません。
こちらの生きる力がしだいに衰弱していく前に、反知性主義には抗っていかなければなりません。
投稿: onigawaragonzou | 2015年6月20日 (土) 23時39分