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原点は青森

6月11日(木)

ここしばらくJR東日本の新幹線に乗っていなかったが、久しぶりに乗ってみたら、「トランヴェール」の巻頭エッセイが、山田五郎さんに変わっていた。

連載のタイトルは「旅先はアート日和」。今月号のエッセイのタイトルは、「ナンシー関の照れ笑い」というものだった。

ナンシー関、亡くなって13年たつのか。

いまから7年ほど前、出張で訪れた町のデパートで「ナンシー関 大ハンコ展」というのをやっていて、仕事が終わったあと、その展覧会を見に行った。

そのあと、本のリサイクルショップでナンシー関の書いた文庫本を手に入るかぎり集め、徹底的に読んだことがある。

しかしその文庫本も、昨年の引っ越しのときに全部売ってしまった。惜しいことをしたと思う。

話を山田五郎さんのエッセイに戻すと。

いまから30年前、当時山田五郎さんが担当していた雑誌の編集部に、青森から出てきたひとりの女性があらわれる。「大きな体で小さな消しゴムをつまみ、カッターナイフ1本で、あっという間に味のある版画を彫り上げる」。彼女の作品は雑誌に採用され、そればかりではなく、並外れた観察眼の鋭さから、抜群のテレビ評、芸能人評を書くようになり、多くの読者を獲得するようになる。ナンシー関の誕生である。

編集者としての山田さんは、ナンシー関の作家性に絶大な信頼を寄せ、価値観を共有し、やがて二人はかけがえのない友人となっていく。亡くなって13年たってもなお、ナンシー関に対する山田さんの友情は変わらない。

「あれから13年たった今も、芸能人が何かしでかすたびに『ナンシー関ならこう言ったはず』と想像する人が後を立たない」と山田さんは書く。私も、そのひとりである。ナンシー関の没後、その文体をまねたテレビ評が週刊誌に次々とあらわれたが、誰もナンシー関には及ばなかった。たぶん多くの人が、「タモリロス」ならぬ「ナンシー関ロス」を味わったのだと思う。

久しぶりに手に取った「トランヴェール」で、ナンシー関に対する友情に満ちた山田さんの文章を目にしたというのも、何かの縁かも知れない。

このエッセイで「なるほど!」と思ったのは、ナンシー関の「消しゴム版画」の原点は、同じ青森出身の版画家・棟方志功だったということである。ナンシー関にとって、子どもの頃から版画は日常の中に存在していたのである。。

以前にもこのブログに書いたことだが、ナンシー関は、矢野顕子のベストアルバム「ひとつだけ」によせて、こんな文章を書いている。

「『ひとつだけ』は、矢野顕子の歌唱する力を改めて認識させてくれる曲だと思う。

ハマリすぎなので言うのが、ちょっと恥ずかしいくらいだけど、「ひとつだけ」の入っているアルバムを、上京したての浪人の時に本当によく聴いた。そのうえ、それまで矢野顕子の曲は黙って聴くものだと思っていたのに、いつも一緒に歌ってたりした。別に都会のコンクリートジャングルは冷たいとか思っていたわけではないんだけど」

これだけの文章だが、ナンシー関にとって矢野顕子は大きな存在だったことがよくわかる。

そして矢野顕子も、青森出身である。

青森出身のナンシー関は、同じ青森出身の棟方志功や矢野顕子の影響抜きには、語れないのではないだろうか。

…と、青森出身の祖父母をもつ私は、そう考えるわけです。

ナンシー関が39歳の若さで亡くなったのは、2002年6月12日のことだった。

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