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2015年7月

野上照代最強説

野上照代、ウラジミール・ヴァシーリエフ、笹井隆男『黒澤明 樹海の迷宮 映画「デルス・ウザーラ」1971~1975』(小学館、2015年)は、映画監督・黒澤明に関する衝撃の一冊である。

映画「デルス・ウザーラ」は、1975年に公開された、黒澤明監督によるソ連・日本の合作映画である。黒澤明にとっては通算25本目の映画である。

このころの黒澤明が、まったくの不遇の時期であったことは有名である。23本目の映画「赤ひげ」(1965)以降、ハリウッド進出をめざすが、ことごとく失敗し、果ては自殺未遂にまで追い詰められる。もはや日本で映画を撮ることが難しいのではないかという矢先に、ソ連から映画製作の依頼が来て、ソ連で映画を撮ることになる。それが「デルス・ウザーラ」である。黒澤はこの映画で、映画監督として起死回生をはかったのである。

この本は、この映画をめぐる詳細な記録である。圧巻は、詳細な「撮影日誌」である。当時、演出助手をしていた野上照代が実に詳細な撮影日誌を書き記していた。それに加え、このときのさまざまな手記やインタビューを加えて笹井隆男が再構成したものが、この本に収められている。だが主たる出典は、野上照代の日記であり、この撮影日誌は、さながら「黒澤明観察日記」でもある。

野上照代は、黒澤映画を知る人ならば、誰でも知っている。1950年、黒澤明監督の『羅生門』にスクリプター(記録係)として参加したことをきっかけに、1951年、東宝へ移り『生きる』以降の全黒澤映画に記録・編集・制作助手として参加した。

いわば黒澤明の「片腕」であり、黒澤明についてすべて知り尽くしている人である。

この「撮影日誌」を読むと、愕然とする。

この日誌にあらわれる黒澤明は、わがままで横暴で、人に当たり散らし、麻雀ばかりしていて、深酒をして酩酊し、二日酔いになり、前言をすぐに翻し、それでも自分の誤りを認めようとせず、そうかと思えば頭を抱えてプレッシャーにおびえている。イライラがつのり、DVに近いようなことまでしている。

情緒不安定、などという生やさしいものではない。完全な人格破綻者なのである。

天才芸術家の苦悩、といってしまえば聞こえがいいが、この日誌を読むかぎり、黒澤明は何とひどい人間なのだろう、と思ってしまう。

実際、まわりのスタッフやキャストたちも、黒澤明の横暴さに呆れ、ときに強烈な反感を抱き、対立する。

日誌を読み進めていくと、

(この映画、ほんとうに完成するのだろうか?完成したとしても、いい映画になるのだろうか?)

と、疑わしさまで感じてしまうのである。

黒澤明の人格破綻ぶりは、私の想像をはるかに超えるものであった。

野上照代は、それを、事細かに記している。

それもそのはずである。いちばんの被害者は、野上照代なのだ。

黒澤が野上を全面的に信頼していることは、日誌からもよくわかる。野上は、黒澤の横暴や我が儘を、何とかなだめつつ、周囲への被害を最小限度に抑えるために、ありとあらゆる努力をしている。

黒澤が気持ちよく仕事できるためにはどうすればよいかを、常に最優先に考えている。

黒澤と野上の絆は、尋常ではない。黒澤は、野上を全面的に信頼し、だからこそ野上に対して、最上級の我が儘を言い、愚痴をこぼすのである。

それを受けとめなければならない野上は、たまったものではない。

たとえば、1974年11月11日の日誌。

「『この映画が失敗したら、俺は10億からの借金を背負い込むんだ』と愚痴をこぼす黒澤を、『そんな悪い想像はいくらでもできますが、何の役にも立ちませんからやめてください』と野上が諭す」

黒澤に対してこんなことまで野上が諭さなければならないのだから、黒澤明って、本当に厄介な「かまってちゃん」である。

この本を読んでわかることは、

「黒澤明もすごいが、黒澤明にいい映画を作らせるために人生を捧げている野上照代は、もっとすごい」

ということである。

じゃあ、黒澤明は、たんなる人格破綻者だったのか?

この本の中で、池澤夏樹が一文を寄せている。

「黒澤明の横暴、我が儘、気まぐれ、酔っ払いぶりを見ていて、彼自身が内なる何かに突き動かされていたのではないかと考えた。これは比喩ではなく、ほんとうに彼の中に魔物が住み着いて、そいつが彼に無理難題を押しつけ、脅し、揺り動かしていた。その彼の内なる乱闘が外からはあの横暴と映る」

つまり、凡人にはない魔物が、天才の中には住み着いているというのである。

TBSラジオ「たまむすび」のポッドキャストを聴いていたら、これとほぼ同じことを映画評論家の町山智浩さんが言っていた。

ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンの人生を描いた映画 『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』を解説している回で、ブライアン・ウィルソンの天才音楽家ぶりについてふれ、

「ほんとうの天才音楽家とは、自分の内側から泉のようにわき出てくるメロディを抑えることができず、苦しんでいるのだ」

というようなことを述べている。ブライアン・ウィルソンもまた、天才であるが故に人格が破綻してしまった経験を持っていて、黒澤明の苦悩と近いものがある。

黒澤明もまた、内側からあふれ出す映画のイメージを抑えることができず、自分をコントロールすることができなくなってしまったのではないだろうか。

それが池澤夏樹のいう、「魔物」なのだろう。

ちなみに「デルス・ウザーラ」は、1975年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞している。

黒澤明は、この映画で完全復活をとげたのである。

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読むんじゃなかった!

たまに他人のツイッターなんかを見たりすると、

「ああ、見るんじゃなかった!」

と思ったりすること、あるよね。

ちょっと前、TBSラジオ「ジェーン・スー 相談は踊る」を聴いていたら、ある男性が、

「自分が今いる職場の部局は、自分と、若い女性の2人なのだが、先日、その女性のツイッターとおぼしきものを見つけてしまい、読んでみると、

『同じ部屋にいるやつがキモイ』

みたいなことを書いているのを読んでしまいました。その人は、私の悪口をたまに書いているようなのですが、私はどうしたらよいのでしょう?」

みたいな相談をしていた。

ジェーン・スーがどのように答えたのかは覚えていないが、うっかりツイッターを見つけて読んでしまったがための「事故」と考えて諦めるしかない。

自分に対する悪口もさることながら、自分がよく知る人の身内らしき人が、身内としてその人のプライベートな一面について無邪気にツイートしているのを目にしたりすると、やはり、

「ああ、読むんじゃなかった」

と思ったりする。

「そんなこと、書くんじゃねーよ!」

と言ってやりたくなりもするのだが、そんなことを指摘してしまったら、自分が読んでいることがバレてしまい、要は「天に唾を吐く」ような行為である。

結局は、そんなツイッターを読んで、勝手に不快に思っている自分に責任があるのだ。

だがもう少し、ツイッターを使う上では、リテラシーというか、そういうことが必要なのではないか、とも思う。

私自身は、そのへんが自信ないので、ツイッターをやらないのである。

そのあたりに自信がない人は、ぜひツイッターに鍵をかけてもらいたいものだ。

そうかと思えば、むかし卒業生からこんな話を聞いた。

その卒業生が入社したての頃、同じ課の同僚に、とてもステキでかっこいい男性同僚がいたという。

スマートでかっこよく、ウィットに富んでいて、優しい男性である。

その卒業生は、その男性にひそかに好意を持つようになった。

彼女にとっては、王子様みたいな存在だったんだろう。

ところがほどなくして、その同僚が転勤してしまった。

彼女は、その男性のことを思い続けて、仕事が手につかなくなるほどだった。

そしてあるとき、その男性が結婚したことを知る。

そのことを教えてくれたのは、その「王子様」のことをむかしからよく知っている、別の男性同僚だった。

「あいつ、よく結婚できたよなあ」

その言葉に、彼女は驚いた。

「どうしてです?」

「だってあいつ、むかしからわがままだし、ひねくれ者だし、気むずかしいし、とにかく厄介なやつだったんだぜ。それに…」

「それに…?」

「服の趣味がメチャクチャダサいことで有名だったんだぜ」

「ほんとうですか?」

彼女はビックリした。ふだん、仕事場でしか会ったことがないので、背広姿しか見ていなかったのだが、私服はメチャクチャダサかったのだ!

わがまま…、…ひねくれ者…、気むずかしい…、厄介なやつ…、そしてダサい私服…。

彼女は、その「王子様」がダサい私服を着ている姿を想像して、笑いがこみ上げてきた。

自分は、何も知らなかったのだ。にもかかわらず、まるで王子様であるかのような幻影を抱いてきたのだった。

この瞬間、自分を苦しめてきた幻影から解き放たれたような気がした。「その話、聞いてよかった」と、そのとき彼女は思ったという。

もし仮に、である。

彼女が、その話に対して「そんな話、聞くんじゃなかった」と思ったとしたら、どうだったろう。

いつまでも、「王子様」という幻影にとらわれ、苦しんでいたかも知れない。

しかし彼女は、「聞いてよかった」と思うことで、気が楽になったのである。

「読むんじゃなかった」「聞くんじゃなかった」と思うか、それとも「読んでよかった」「聞いてよかった」と思うかは、結局は自分次第だ、ということである。

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ネイルモレとケサン

久しぶりに韓国語の勉強です。

韓国語で「明日」のことを「ネイル」という。

韓国語で「明後日」のことを「モレ」という。

ところが、会話で「明後日」という言葉を使うとき、ふつう「モレ」とは言わない。

「ネイルモレ」という。

日本語でいえば、「明日明後日(あすあさって)」である。

つまり韓国語では、「明後日」のことを「あすあさって」という言い方をするのである。

韓国語を学んだとき、どうもこの表現になじめなかった。

日本語では「あさって」といえばすむところを、なぜわざわざ「あすあさって」と言うのだろう?

関西出身の妻もやはり同じ疑問を抱いたようだった。

ところが、である。

以前、妻が自分の職場の近くの沖縄料理店にランチをしに行ったとき、沖縄出身と思われる店員さんが、「あさって」のことを、

「あすあさって」

と言っていた、というのである。

「あさって」のことを「あすあさって」という言い方をするのは、海をはさんで韓国と沖縄に共通した語感として残っているのではないか、というのが妻の仮説である。

さて、話はここで終わらない。

昨日福岡に出張に行ったとき、出張先の職員さんが、こんなことを言っていた。

「例の協議会ですが、来年再来年の当番がうちの県になりました」

来年再来年???一瞬、来年と再来年、という意味かと思った。

しかしそれは違う。

その協議会の来年の当番は、すでに別の県に決定しているのである。

ということは、この方が言った「来年再来年」というのは、「再来年」を意味するのだ。

また、こんなことも言っていた。

「来年再来年が50周年です」

これも、来年と再来年が50周年です、という意味だととらえてしまってはおかしい。明らかにこれも「再来年」という意味である。

つまりこの方は、「再来年」のことを「来年再来年」という言い方をしているのである!

これは、「あすあさって」と、まったく同じ語感である!

帰ってからこのことを妻に報告すると、

「その人、福岡県出身なの?」

「え?」

「福岡県に勤めているからといって、福岡県出身とは限らないよ」

「…それも、そうだね…」

「あと、その人、『あさって』のことは何て言ったの?」

「…それは、聞いてない…」

「そっちの方が大事じゃないの?」

「…それも、そうだね…」

ということで、今度出張に行ったときに、もう一度調べてみるつもりである。

もうひとつ。

たとえば居酒屋とかで、最後にお金を支払うときに、何といいますか?

「おあいそお願いします」とか、「お会計お願いします」とか言いませんか?

しかし、福岡では違うのだ。

焼鳥屋のカウンターで焼き鳥を食べていると、となりの人が食べ終わったらしく、

「計算お願いします」

と言っていた。

反対側のとなりにいた人も、お金を支払うときに、

「計算お願いします」

と言っていた。

これにも驚いた!

なぜなら、韓国でも、食事が終わって支払いをするときに、

「ケサン」

という言い方をするからだ!

「ケサン」とは、「計算」の韓国語読みである。韓国では、「会計」といわず、「計算」というのだ。

海をはさんだ韓国と福岡で、お会計のことを「計算」という。

韓国と九州・沖縄地方とで、こうした語感の共通点は、他にもあるのではないだろうか?

これからも出張のたびに注意して聞いてみよう。

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コバヤシのいない福岡

7月26日(日)~27日(月)

福岡の話題を書いて、高校時代の友人・元福岡のコバヤシが登場しないのはどうにも淋しいという読者がいるのではないか。

ご安心を。日曜日、福岡に着いてから、いまは東京在住のコバヤシにメールをした。

「またまた福岡出張です。

問題は福岡での晩飯ですが、1人で気軽に入れて、魚が美味しくて、値段が良心的で、日曜日も開いている、そんなような店はないですかねえ?」

考えてみれば、ずいぶんわがままな質問である。いくらコバヤシの福岡での生活が長いといっても、この質問は、かなりの無茶ぶりだと、われながら思う。

だが、こんな傍若無人な質問ができるのは、コバヤシに対してくらいなものである。独り身なので状況にお構いなく気安く聞けるのである。

ほどなくして、「またまた当日ですか~」というタイトルで返信が来た。

「福岡、羨ましいですね。ところで、自炊派だったので、安くて美味い魚というのは少し悩ましいのですが、満足行くかどうかは微妙ですが、下記でいかがでしょうか?いずれもカウンターがあるので独りでも大丈夫でしょう」

このあとに、4つの店名が列記され、それぞれについて懇切な解説が書かれていた。

「なお私であれば、時間の余裕があれば唐津の寿司屋に行きますが」とも書かれていた。

そして最後にこう結んでいた。

「毎度のことではありますが、相談は当日ではなくお早めに」

いつも直前になってメールをしてくることに、さすがに呆れたらしい。

しかし私がこれほど我が儘に振る舞えるのは、コバヤシくらいしかいないのだ。

さて、ホテルにチェックインしてから、紹介された4つの店をインターネットで調べてみたが、どうも一人で入るのは気が引ける。

結局、コバヤシが紹介してくれた4つの店のどこにも入ることをあきらめ、ホテルの近くのやきとり屋さんで晩飯をすませることにした。

翌日、コバヤシに返事を書いた。

「昨日紹介いただいた店は、ネットで調べてみて、一人で入る勇気がなく、結局ホテルの近くの焼鳥屋に行きました。やはり1人だと焼鳥屋が気兼ねなくてよいです。お騒がせしました」

なんともわがままな友人である。私は。

せっかく相手に苦労してもらって、お店を紹介してくれたにもかかわらず、それとは全然違うお店に行ったのである。

コバヤシからしてみたら、「俺の言うことなんか聞きゃあしねえ!」という気持ちだろう。

実際、いままでもこんなことばかりだったのだ。

ちなみに、私は妻に対してもアドバイスを聞かない傾向にあり、しばしば妻に呆れられる。

つまり、妻とコバヤシに対して私は、「聞く耳を持たない」人間なのだ。ひどい人間だなあ。

コバヤシから返信が来た。

「そうでしたか。まあ、私もひとり飯は苦手なので気持ちはわからんでもないですが。でも、たまに勇気をもって入ってみると良かったりもしますが…。しかし、焼き鳥でよかったんなら、たとえば前に連れていった「もつ串煮込み屋」で最初に飲み、締めでとんこつラーメンと餃子というB級コースもアリだったかも知れませんね」

やはり、「どうせ俺の言うことを聞きゃあしねえ奴だ」と呆れている様子である。

最後に、今回の私の出張先が福岡県O市であることに対する返事も書かれていた。

「ところで、O市は去年の夏に、バンドのメンバーに連れられ近くの温泉に行ったあと、零戦記念館を訪ねた記憶があります。何年か前には花火大会に行きました。まあ、どうでもいい話ですが。

…と、どうも九州ネタを振られると、未練がましくつい冗長になってしまいます。失礼しました。ではまた」

この最後の部分で、コバヤシの、福岡に対する思いというのが、よくわかる。

わざわざこんなことを私に書いてきたのも、あるいは、バンドのメンバーたちとO市に行った思い出に対して、ある「感慨」や「感傷」があるからも知れない。

いずれにしても、昔からコバヤシのことをよく知る私からすれば、福岡に対するこうした愛着というか、未練というのは、実に意外である。

もともと彼は、人や土地に対して、あまり執着しない人間である。

幼い頃、転勤族だった父親の都合で、あちこちに引っ越しをしていたことが関係しているのかも知れない、と以前は思ったものである。

しかし彼にとって福岡は、執着せずにはいられない町なのである。

「どうも九州ネタを振られると、未練がましく冗長になってしまいます」

という一文に、それがよくあらわれている。

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真夏の世界遺産

7月26日(日)

1泊2日の福岡出張。

前日、少し早めに到着したのは、福岡市内の博物館でやっている「山本作兵衛展」を見に行くためである。

とにかく暑い。

博多のバスセンターに行くと、自分が乗るバスの乗り場が長蛇の列である!

それも若い男女が多い。

(何かイベントでもあるのかな?)

バスセンターは、建物の中にあるにもかかわらず、冷房がいっさい効いていないため、並んで待っていると蒸し風呂状態である。

15分ほど待って、ようやくバスがやってきたが、乗客はすし詰め状態である。

よりによって何でこんな暑い日に、さらに暑い思いをしなければならないのか?

まったくついていない。

乗客のほとんどは、「ヤフオクドーム」という、聞いたことのない名前の建物前の停留所で降りた。

きっと何かのイベントがあるのだろう。

バスはようやく博物館前に到着した。すでに汗だくである。

さて山本作兵衛は、筑豊の炭鉱の様子を描いたことで知られる炭鉱画家である。自らも炭鉱労働者であった。

山本作兵衛の作品は、数年前に世界記憶遺産に登録されたが、この事実は、ほとんど知られていない。

あとから聞いたところでは、山本作兵衛の作品が世界遺産に認定されたとき、地元の人たちもそのことを知らず、ビックリしたのだという。

私も恥ずかしながら、つい最近、山本作兵衛という画家の名前を知った。

山本作兵衛は、炭鉱労働を辞めた後、筑豊の炭鉱の様子を、記憶をたよりに描いた。つまりすべては記憶画である。

現在、当時の炭鉱のほとんどは、当時の状態をとどめていない。

つまり、当時の炭鉱の様子を知ることのできるよすがとなるのは、山本作兵衛が書いた膨大な量の「記憶画」なのである。

まさに世界記憶遺産の名にふさわしい。

7月27日(月)

出張先での業務が意外と早く終わり、飛行機の搭乗まで時間があったので、少し足をのばして、世界遺産を見に行くことにした。

鉄道に乗ること1時間半、「近代産業の町」に到着した。

とにかく暑い。

駅前の博物館を見たあと、いよいよ世界遺産を見に行くことにする。

場所がわからないので博物館の受付の人に聞いてみた。

「ここから、世界遺産の建物までどのくらいですか?」

「この暑いのに、歩くんですか?」

「ええ。他に手段がないでしょう?」

「たしかに。歩くと15分くらいかかりますよ」

「わかりました」

教えられたとおり、炎天下を、横断歩道を上ったり下りたりして、ようやく世界遺産の建物の場所に着いた。

だが驚いた。

世界遺産の建物に、まったく近づけないのである!

Photo目の前には、鉄道の引き込み線が立ちはだかっていて、メインの建物は、鉄柵のはるか向こうにわずかに見えるのみである。

ボランティアの人がいたので聞いてみた。

「あのう、この引き込み線は、現役ですか?」

「ええ、いまでも貨車で鉄製品を運んだりしています。この引き込み線があるために、あの世界遺産の建物には近づけないんです」

「なるほど」

たしかに、現役で稼働している工場なので、仕方がないといえば仕方がない。

「しかしこれでは、せっかく世界遺産になっても、ちょっと残念ですねえ」

「そうですねえ。いまは登録されたばかりでこんな状態ですが、もう少し時間がたてば、事態は改善されるかも知れません」

「そうですか」

「こんな暑い中、せっかく来ていただいても、近くで見られなくてすみません」

「いえいえ」

また炎天下の暑い中を、15分かけて最寄りの駅まで戻った。もちろん汗だくである。

鉄道で1時間半ほどかけて、空港に向かった。

世界遺産について、いろいろ考えさせられたが、この時期、炎天下の中を歩くもんじゃない。

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研修の合間に、映画の前に

7月25日(土)

話は前後するが、映画「ルック・オブ・サイレンス」を見に行く前に、職場に行った。

数日前、2010年3月に卒業したT君から突然、携帯にメールが来た。

「いま、職場の研修で、先生(つまり私)の職場の近くに2週間ほど滞在しているので、土曜日に職場にうかがいたいと思うのですが、先生のご都合はいかがでしょうか」

2010年3月の卒業生は、私が韓国留学中だったということもあり、まったく卒論指導をすることができない学年だった。

だがT君だけは、卒論の添削をしてくださいと、韓国にいる私のところへメールで下書きを何度も送ってきた。

そんなことを思い出し、卒業してからまったく会っていなかったT君と、今の職場で会うことにしたのである。

短い時間だったが、四方山話をした。

自身の言葉によればT君は「人見知り」するタイプで、在学中は、そんなに深く話をする機会はあまりなかったのだが、研修中のせっかくの週末に、こうしてわざわざ訪ねに来てくれるというのは、嬉しいことである。

ちょっとしたときに思い出してくれるというのは、ありがたいことである。

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ルック・オブ・サイレンス

7月25日(土)

劇場で、いま公開中のドキュメンタリー映画「ルック・オブ・サイレンス」を見た。

これは、昨年に見たドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」の続編ともいうべきものである。1960年代にインドネシアで起こった大虐殺をめぐる映画である。

まずはちょっとおさらい。

インドネシア独立の父と呼ばれるスカルノ大統領の治世下、1965年9月30日に、「急進的左派勢力」による国軍の首脳部暗殺事件が起こり、それに対して、スハルトを代表とする右派の軍部が制圧をする。いわゆる9・30事件である。

この事件をきっかけに、右派軍事勢力による、国内の共産党関係者への大量虐殺が始まる。その数は、100万人規模ともいわれている。

これにより共産党勢力は一掃され、スカルノの求心力も失われ、スハルトに大統領の座を奪われることになる。

インドネシアでは、いまだにその虐殺をした側の勢力が、英雄として称えられているのである。

そのため、大量虐殺の実態、というのは、これまでほとんど知らされることはなかった。

前作の「アクト・オブ・キリング」は、その大量虐殺の実態を、いわば加害者自身に告白させることによって明らかにしていったのであるが、今回の映画の主人公は、アディという名の、被害者の遺族である。被害者の視点から、インドネシアの大虐殺の実態が明らかにされてゆく。

アディの兄・ラムリは、「共産主義者」であるとして虐殺された者の1人である。アディは、自分の兄がなぜ殺されたのか、その真相を解明するために、当時の加害者のもとを訪れ、その時の真相をインタビューしていく。

驚くべきことに、そのときの加害者と被害者が、いまも同じ地域に住んでいる。50年前に起こった大虐殺の事実は、いまとなってはもう誰も触れることなく、お互いが知らないふりをしながら、加害者と被害者が同じ地域で暮らしているのである。

だがアディは、執拗に兄ラムリの死の真相をつきとめていく。そしてラムリを実際に殺した者やその手口、殺人の指示をした司令官、殺人を幇助した者など、次々と真実を明らかにしていくのである。

ところが、大虐殺に加担した加害者たちの誰もが、「責任は自分にはない」と主張する。あのときはやむを得なかったのだ、とか、俺は実際に手を下していないとか、とにかくさまざまな理由をつけて責任を逃れようとしているのである。

アディの「これまでに会った殺人者の誰もが、責任を感じていない」という言葉が、印象的である。

もうひとつ印象的だったのが、加害者の発言である。

「過去は過去だ。今さらそんなことを蒸しかえしたら、再び抑圧されていたものが吹き出すではないか。だから根掘り葉掘り探らないでほしい」

という意味のようなことを、加害者の誰もが口走る。

さらには、「今さらそんなことをほじくり返されて迷惑だ。私たちの心がどれほど傷ついているかわかるか?」という意味のようなことを、加害者やその家族が言っている。

ちょっと待てよ、と思う。殺されたのは、被害者なんだぜ。心の傷を負っているのは、被害者の家族のほうではないのか?

それがいつの間にか、加害者の心の傷という問題にすり替えられているのだ。

ことわっておくが、これはたんなる殺人ではない。国家的な虐殺事件である。殺人は国家の命令で行ったことであり、殺人者たちは自分に責任はないと主張する。

そして殺人に加担した者たちはいまも体制派として責めを負うことなく生活しているのである。

映画は、加害者に執拗に食い下がりながらも、なおも責任逃れをしようとする加害者たちをまのあたりにしてなすすべのないアディのむなしさを、あますところなく映し出す。

さて、この異常な状況を、インドネシアの特殊な事例として見てしまってよいか?

たとえばいじめ問題はどうだ?

いじめで人を死なせてしまったとする。

その時、これと似たような状況が起こるのではないだろうか。

あるいは、戦争に直面したときはどうだ?

そう、それで思い出した。

この映画の「後味の悪さ」や「救いのなさ」、何かに似ていると思ったら、むかし見たドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」に少しばかり似ているのだ。

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何なんだこの暑さは!

7月23日(木)~24日(金)

職場にかかわる研修会で、中部地方の中核都市に行く。

木曜日はまる一日、施設内で座学だったが、金曜日の午前中はエクスカーションである。

(暑いし面倒くさいから、1日目の座学だけ出て、2日目のエクスカーションは参加せずに帰ろう)

と思っていたのだが、年上の同僚に、

「明日、出えへんの?」

「ええ」

「せっかくだから参加したらええのに。めったに見れへんで」

「はあ」

と言われ、急遽参加することにした。

金曜日、朝9時15分。

Photo集合場所に少し早く着くと、すでにもう暑い。

全員が集まるまで15分くらい、日陰で待っていると、汗が止まらなくなってきた。

「どしたん?」

後ろから年上の同僚の声がした。ふりむくと、

「キミ、背中がビッショリやで。川にでも落ちたんか?」

背中はもちろん、その汗がお尻にまで流れ、ズボンの後ろがビッショリなのである。グッショリと濡れた汗のせいで、ズボンの色がまるで何かをお漏らししたように変色していた。

「汗かきなもので…」

と言ってみたが、周囲の人たちはすでにドン引きである。

その周囲の様子に、ますます汗が出るのである。

9時30分になり、エクスカーションが始まった。

「みなさん当地へようこそ」

30人ほどの参加者の前で解説の方がご挨拶された。

「今朝はすでに気温が上がっておりますけれど、ご安心ください、午後になれば、…ますます気温が上がります!」

上がんのかい!

「当地は、午前中は北の山側から北東の涼しい風が吹き、午後になると南の海側から南西の暖かい風が吹くので、午前中はしのぎやすいのがふつうなんですけれども、どうも最近はそうした気象の常識が通用しなくなってきておりまして、午前中からすでに海からの暑い風が吹いております」

うーむ。救いのない天気ということか。

「それにこの見学場所は、見晴らしを重視して作られたということから、日差しを遮る木々の緑があまりありません!」

マイナスなことばかりおっしゃる。

炎天下の中を1時間半ほど、専門家の解説を聞きながら広い敷地内を歩き回る。

説明じたいは、とても懇切丁寧で、わかりやすく、勉強になるのだが、暑いことに加えて、自分が尋常ではない量の汗をかいていることの方が気になり、説明を聞いているどころではなくなる。

(ああ、これが夏でなければ説明に集中できるのになあ)

暑さで、集中力も半減といったところである。

中部地方の中核都市は、暑い暑いとは聞いていたが、こんなに暑いところだとは思わなかった。

お昼少し前に解散し、そこからバスに乗ってとある施設を見学する。

施設内は冷房が効いていて、汗がひくかと思ったが、いっこうにひかない。ぐっしょりと不自然に濡れてしまったズボンも、乾く気配がない。

ひととおり見学が終わり、新幹線の駅に帰ろうとするが、先ほどのバスでは駅に戻れない。

受付の方に聞いてみた。

「あのう、ここから新幹線の駅に行きたいんですけど、どう行くのがいいでしょう?」

「そうですねえ。タクシーがいいと思いますけど」

「タクシーですか?」それはお金がかかる。「最寄りの駅まで歩いてどのくらいかかりますか?」

「10分以上かかりますけど、この暑さですから、やめておいた方がいいと思いますよ。絶対にタクシーの方がいいと思います」

「はあ」

だいたい、地元の人が、「暑いから歩くのはやめとけ」というくらい、この町の人たちも、この暑さには慣れていないのだ。

タクシーで新幹線の駅まで行くか?最寄りの駅まで歩いて行って、そこから新幹線の駅に向かうか?

さんざん迷ったあげく、歩いて最寄りの駅まで行くことにした。

こうなったら、もう2,3回くらい川に落っこちたつもりで歩くことにしよう。

10分ほどかけて最寄りの駅まで歩き、電車に乗って新幹線の駅に到着した。

ぐっしょり濡れたズボンは、いっこうに乾く気配がない。

一体今日は、何度川に落ちたのだろう。

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エアコン壊れる

7月22日(水)

わが家のエアコンが壊れた。

どんなに設定温度を下げても、生暖かい風しか吹いてこない。

かえって部屋が暑くなるのである。

ベランダの室外機を見ると、本来ならば水が出るはずなのに、いっこうに水が出ている気配がない。

昨年引っ越してきた時に、すでに取り付けてあったエアコンである。ずいぶん古そうなエアコンなので、壊れたとしても不思議ではない。

この暑さの中、エアコンを直さないことには、生活ができない。

しかし、賃貸マンションの場合、エアコンの付け替えは、不動産屋さんとか大家さんにことわるべきなのだろうか?

とりあえず、不動産屋さんに電話をしてみたのだが、

「本日は定休日です」

という自動音声が流れるだけである。

不動産屋さんは、水曜日が定休日なのか。

じゃあ大家さんに電話しようと思って、電話番号を調べてみるが、これが全然わからない。

考えてみれば、いままですべて、不動産屋さんを介して大家さんとコミュニケーションを取ってきたのだ。

104に電話をかけてみても、

「ご登録はありません」

という。

うーむ。謎だ。

もう1日待って、不動産屋さんに電話をするという手もあるが、明日と明後日は出張で不在となるし、できれば今日のうちに片づけておきたい。

背に腹は替えられない。エアコンの修理を業者に頼むしかない。

インターネットで検索すると、市内に家電修理業者が何件かあることが分かったので、そのうちの1件に電話をかけてみた。

「もしもし」

「あのう、…エアコンが壊れてしまったようなのですが…」

「ご自宅はどちらですか?」

「○○です」

「そうですか。では、地域担当の者に折り返し電話をさせます。ただ、いま非常に立て込んでおりまして、折り返し電話を差し上げるのに、1時間半から2時間はかかると思います」

「えええぇぇぇっ!!!そんなにかかるんですか」

「はい」

ホームページを見ると、「24時間いつでも対応」とうたっているではないか。

2時間後。電話がかかってきた。

「地域担当の者です。エアコンがどうなさいました?」

「冷房が効かないみたいで、生暖かい風しか出てこないんです」

「メーカーと型番は分かりますか?」

「えーと、○○社製の○○○です」

「それは2001年製のエアコンですね」

ということは、15年ほど前のものである。ずいぶんむかしから使っているエアコンだったのだ。

業者が続けた。

「修理におうかがいしてもようございますけれども、出張費としてまず9000円かかります」

「9000円ですか!」

「その他に、別途、修理代等がかかります」

ということは、来るだけで9000円で、修理代はそれとは別だということである。

「もし、来ていただいてみていただいた結果、修理ではなく交換した方がよいとなった場合は…」

「その場合も、出張代の9000円がかかります」

「はあ」

「それと、非常に古いタイプのエアコンなので、部品がない場合は、メーカーから取り寄せとなりますが、あるいはメーカーのほうで生産が終了している場合、部品が手に入らないこともあります」

うーむ。これでは9000円を払ってでも来てもらう価値があるか?

「ちなみに、今日来てもらって、直していただくことは可能ですか?」

「申し訳ありません。ただいま立て込んでおりまして、今日はうかがえません。明日以降になります」

なんだよ。じゃあなんのための24時間対応なんだ?

「わかりました。ではけっこうです」

と言って、電話を切った。

こうなったら、新しいエアコンを買うしかない。

近くの家電量販店に行った。

取りあえず行ってみたが、どういうものがいいのかがまったくわからない。

なにしろ、今の今までエアコンを買って取り付けたことがないのだ。

店員さんに聞いてみた。

「エアコンが壊れたので交換したいのですが」

「100V用ですか?200V用ですか?」

「はぁ?」

まずそこからわからない。エアコンには、100V用と200V用があるのだ。

「すみません。わかりません」

「では、ご自宅の契約アンペアはどのくらいですか?」

「すみません。わかりません」

これもまたわからない。

「30アンペアくらいの契約ですと、200Vではなく100Vなんですがね」

「はぁ。古いマンションなので、たぶん100Vだと思うんですが…」

自信がない。

「ではエアコンの横についているコンセントの形はわかりますか?」

「すみません。わかりません」

「では、室外機のタイプは?」

「すみません。わかりません」

俺はいったい何しに家電量販店に来たんだ?と情けなくなった。

「すみません。いったん家に戻って、デジカメでエアコンとか室外機とかコンセントとか、写真を撮ってきますので、それを見ていただけますか?」

私はそう言って、いったん家に戻った。

エアコンを買うって、こんなに面倒くさいものなのか…。

再び家電量販店に行き、デジカメで撮ったエアコンや室外機の写真を見せ、ようやくわが家にふさわしいエアコンを選ぶことができた。

「あのう、…取り付けはいつ頃でしょうか」

「ただいま立て込んでおりまして、来週の火曜日になります」

まあこういう時期だから、仕方がない。

…ということで、「はじめてのエアコン購入」というお話でした。

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深町くん現象

7月21日(火)

ここのところ忙しく、ひどく疲れているので、簡単に書くにとどめる。

またまた映画「時をかける少女」(1983年)のお話。

この映画は、主人公の芳山和子(原田知世)と、その友だちの深町一夫(高柳良一)、浅倉吾朗(尾美としのり)の3人をめぐる物語である。

幼なじみの3人だが、芳山和子は、深町一夫にほのかな好意を寄せていた。

しかし、深町一夫は、実は未来から来た人間で、ほんの1カ月ほど、「現在」という時間に滞在したに過ぎなかった。

つまり、芳山和子が幼なじみだと思っていた深町一夫とは、ほんの1カ月ほどしか一緒にいなかったのである。

だがまるで、幼い頃から知っているように、和子には思えたのだ。

芳山和子が深町一夫との思い出として記憶していた幼い頃の出来事は、実は浅倉吾朗との思い出だったのである。

それが、深町一夫との思い出として、記憶がすり替えられていたのだ。

未来から来た深町一夫は、まるでむかしからそこにいるかように、人々の記憶を操作していたのである。映画の終盤で、そのことが明かされる。

…わかりにくい説明だな。まあよい。

なぜこんなことを書いたかというと、現実の世界でも、これに近いことが起こるからである。

たとえば、その職場にまだ半年くらいしかいないのに、もう10年くらいその職場にいるんじゃないかと思われる人、いるよね。

…というか、俺のことなんだけど。

今の職場に移ってまだ1年4カ月なのだが、今日、「なんかもう、むかしからいる人みたいですね」と言われた。

前の職場でも、同じようなことを言われたことがある。

どうも私は、「むかしからいる人」と思われているらしい。

そう思う人の中には、私がむかしからこの職場にいる人間として、記憶が置き換わっている人もいるようである。

「それ、僕のことじゃありませんよ」

とか、

「その時僕はそこにいませんでしたよ」

とか、そう返答することがしばしばある。

こういう、「実際にはまだ月日が浅いのに、その人がむかしからいるように思える現象」のことを、「深町くん現象」と呼ぶことにする。

この「深町くん現象」は、心理学的に解明されていることなのだろうか?

あるいは、たんなる「空脳(そらのう)」として片づけられてしまうものなのだろうか。

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ケラリーノ・サンドロヴィッチさん

ずいぶん前に、劇団「ナイロン100℃」の舞台公演を見に行ったことがあることを思い出した。

記憶をたよりに調べてみたら、1997年に上演された「カラフルメリィでオハヨ '97 ~いつもの軽い致命傷の朝~」である。

ちょうどこのころ、演劇を見に行くことにはまっていて、演劇好きの後輩に勧められるがままに、見に行ったと記憶する。

これがとてもおもしろい芝居だった。この芝居を書いた人は、すごい才能の人だなあと思った。

その人が、ケラリーノ・サンドロヴィッチさん。劇団「ナイロン100℃」の脚本と演出を担当していた。

2002年に上演された「空飛ぶ雲の上団五郎一座」の「アチャラカ再誕生」は、脚本が「いとうせいこう、井上ひさし、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、筒井康隆、別役実」、総合演出が「ケラリーノ・サンドロヴィッチ、いとうせいこう」という超豪華メンバーだった。私はこの公演を生の舞台ではなく、のちにDVDで見たのだが、これがむちゃくちゃおもしろかった。

ケラリーノ・サンドロヴィッチさんのお連れあいって、緒川たまきさんなんだね。いまさらながら、これまたビックリである。

ケラさんに対する私の知識は、そのていどなのだが、そのケラさんが7月16日付のある新聞に書いたコラムが目にとまった。

「…このコラムで政権に触れることは避けてきたのだが、触れないのも不自然な世の中だ。たまにそうした領域の意見をツイッターで呟くやいなや、「あなたには政治的な発言はしてほしくなかった」だの「創作家は政治に言及すべきではない」だのと批判される。そうしたツイートを読むと自身の立場が相対化され、不安になるのかも知れない。しかしもう、そんなこと言ってる場合ではない。「政治的」などではない。「社会的」なだけだ。皆さんと同じである」

言葉を生業とする創作家たちが声をあげ始めた背景には、いまの政権が言葉を空虚化、空洞化しようとする(つまり言葉から生命力を奪おうとする)行為に我慢ならなくなったからではないかと思う。

言葉に生命を吹き込もうとする創作家にとって、言葉が蹂躙されることほど耐えがたいことはないからである。

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生きて帰ってきた男

同僚とは、基本的に仕事以外の話はしない。雑談をするにしても、当たり障りのない話にとどめる。

…というのが、いまの職場での私の方針なのだが、先週末の会議の打ち上げのとき、隣に座っていた、いまもっぱらペアを組んでさまざまな仕事をしている年上の同僚が、私に言った。

「最近、岩波新書のあれ読んだよ。小熊なんとかさんがね、自分の父親の半生を聞き取り調査して、記録したやつ」

「小熊さんって、小熊英二さんですか?」

「そう。すごくおもしろかった」

「そうですか。その本はまだ読んでないんですが、講談社現代新書の『社会を変えるには』はおもしろかったですよ」

「ああその本ね。読もうかどうしようか迷ってたんだけど。ずいぶん分厚そうな本だし、あんまり理屈っぽいの嫌いだからなあ」

「いや、大丈夫ですよ」

このあとひとしきり、小熊英二の本について話題になった。

数日後、その同僚からメールが来た。

「教えてくれた小熊英二『社会を変えるには』を買って、少し読みました。確かにおもしろいというか、現代世界、日本を考えるうえで、いい本ですね。また教えてください」

調子に乗って、次にその同僚に会ったときに、また本を薦めることにした。

「またおすすめの本がありますよ」

「ほう、じゃ、メモするわ」

「高橋源一郎という作家の『ぼくらの民主主義なんだぜ』っていう新書です」

「なんか、ちょっと政治的だなあ」

ああ、ちょっと踏み込んでしまったかな、と一瞬後悔した。

「で、でも…、出張の行き帰りなんかで、軽く読める本ですから」

「そう。じゃ、読んでみるわ」

うーむ。小熊英二まではよかったが、高橋源一郎は少し踏み込みすぎたか?

先方は、政治的なにおいのする本を求めていたわけではなかったのかもしれない。

人に本を薦めるのは、本当に勇気がいる。「のるかそるか」で、のってくれたときは嬉しい。

ところで、その同僚がおもしろいといっていた、小熊英二『生きて帰ってきた男 -ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書、2015年)を読むことにした。

新書とはいえ、小熊英二の本は相変わらず分厚い。

この本の主人公は、小熊英二の父、小熊謙二である。

戦時中、19歳で徴兵され、戦後はシベリアに抑留され、過酷な環境に身をさらされたのち、帰国して戦後を生き抜いていく。戦中から戦後を生きた一人の人生が、聞き取りによって詳細に復元されている。

まだ読み始めたばかりなのだが、たしかにおもしろい。

本の最初のほうでは、戦争に至るまでの一般の人々のメンタリティーがよくわかる。

たとえば、学校の生徒だった頃の次のくだりは印象的である。

「この塩清という商事担当の教師は、(中略)いつも着流しの和服で、国民服などは決して着なかった。経済指数からして、戦争に勝ち目がないことは承知していたと思われる。謙二の回想によると、彼は「どうせ私の講義の内容なんか、みんな忘れます。それよりも、私の雑談のほうが残りますよ」と言って、よく教室で雑談や時評をしていたという。

この教師の話のなかで、ことに謙二の印象に残ったのは、「新聞は下段から読む」ということだった。言論が統制され、新聞紙面には、日本やドイツの勝利を印象づける見出しが躍っていた。しかし「塩先生のアドバイス通り」に読んでいると、ちがった側面が見えてきた。

『国際面がとくにそうだったが、新聞で大見出しが目につく一面の上段には、ドイツ勝利の記事が載っている。ところが、下のほうの目立たないところに、ドイツの不利を伝える記事が小さく出ていた。そういう形で真実を報道しようとしていたのだろう。塩先生は、「新聞に読まれてはいけない。新聞の裏を読みなさい」と言っていた。この習慣は、後々まで頭に残った』」

このくだりは、いろいろと考えさせられる。

「新聞の記述を額面通り受けとってはならない。政府にとって都合のいいことばかり書いていることが多い。だが、新聞記者にも矜持があるから、どこかに真実を伝えるメッセージが含まれているはずだ」という、塩先生の教えは、いまの私たちが新聞を読む上でも、重要な指針となる。

もうひとつ、塩先生が「どうせ私の講義の内容なんか、みんな忘れます。それよりも、私の雑談のほうが残りますよ」と言ったこと。これもよくわかる。現に謙二は、「新聞は下段から読め」という塩先生の雑談を、生涯覚えていたのである。

謙二の次の言葉も印象的である。戦渦がますますはげしくなった頃の話である。

「自分が戦争を支持したという自覚もないし、反対したという自覚もない。ただなんとなく流されていた。大戦果が上がっているというわりには、だんだん形勢が悪くなっているので、何かおかしいとは思った。しかしそれ以上に深く考えるという習慣もなかったし、そのための材料もなかった。俺たち一般人は、みんなそんなものだったと思う」

これが当時の人たちの、ごく一般的な感覚だったのだろうと思う。

そういえば「新聞を裏から読め」で思い出した。

またまた安保法制の話でごめんなさい。

衆議院で強行採決されたこの法案について、「首相周辺」ないし「首相に近い参議院議員」が、「国民は時間がたてば忘れるだろう」と言った、ということが、ニュースになっていた。

これを報じたのは政府寄りの放送局だったが、ふつう考えたら、こんなのは国民を愚弄する話で、政府寄りの放送局だったら、こんな発言は流さないはずである。

どうして、政府寄りの放送局が、政府の印象を悪くするような発言をあえて流したんだろう?

ここからは私の妄想仮説。

このコメントを言った「首相に近い参議院議員」は、たぶんマスコミ関係者に相当嫌われていたのではあるまいか。

日ごろ、記者たちに対しても、上から目線でものを言い、さすがの政府寄りの記者たちも、ふだんから腹に据えかねるところがあったのではないだろうか。

それで、「首相に近い参議院議員」のこの発言を、あえて「晒す」という反撃に出たのではないだろうか。

つまりこのニュースから導き出せることは、

「『首相に近い参議院議員』なる人は、マスコミ関係者たちにとって、まったく人望のない人物である」

という仮説である。

やはり、ニュースは裏から読むべきなのだ。

…こんなことを考えている俺が、いちばん性格が悪いな。

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お笑い芸人最強説

ちょっと前のことだが、妻がある懇親会に出たとき、大学院の修士課程に在籍する女性とお話しする機会があったそうだ。

いろいろと話してみると、その人はなんと大学生の時に書いた小説が松本清張賞をとったというのだ。

つまり、現役大学院生にして、文学賞受賞作家である。

うらやましい!しかも、松本清張の名を冠した賞ですよ!

しかし、よくよく聞いてみると、実際にはけっこう大変なのだそうだ。

賞をとったあと、出版社の編集者の人から、

「作家以外の仕事を見つけておくように」

みたいなことを言われたのだという。

賞をとった作家なのだから、作家1本でやっていけるのではないか、と素人との私なんぞは思ってしまうのだが、どうもそうではないらしい。

小説だけでは、とても食えていけないから、ちゃんとした仕事を持って、安定した収入を確保した上で、小説を書きなさい、ということなのだろう。

最近は小説だけで食っていける人なんて、ほんの一握りの、ベストセラー作家だけなのかもしれない。

ベストセラー作家になり、自分の名前がブランドになれば、さらに本は売れていく。

だから店頭には同じような作家の小説ばかりが平積みされているのだ。

考えてみれば、私の書く原稿など、世間になんの影響も与えていないし、書けば書くほど赤字になるというしくみになっている。

まあこれは、完全なひがみなのだが。

ひがみついでに言えば、売れる作家になるためには、もちろん本人の才能が一番重要だが、それだけでは十分ではない。

まずお笑い芸人になることではないだろうか。

お笑い芸人になれば、映画監督でも、小説家でも、画家でも、たいていの芸術的営みにおいて注目され、幅広い支持を得ることができる。

芸術的営みだけではない。政治家になった人もいるし、起業した人だっている。

お笑い芸人は最強なのである。

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リアル・あんちゃん

7月14日(火)のTBSラジオ「荻上チキ Session22」にゲスト出演した、『寺院消滅』という本の著者、鵜飼秀徳さんの話から(ポッドキャストより)。

長崎県の五島列島に、宇久島という島がある。

同じ五島列島でも、教会が多いことで有名な福江島とは違って、宇久島には教会がない。つまり、これといった観光資源となるようなものがないのである。

この小さな島には、無住のお寺があった。住職がいないお寺である。

かつては住職がいたのだが、あるとき、島の不便な生活に耐えられず、

「こんな島、誰も住まないぜ!」

と捨て台詞を残して、島から逃げてしまった。

島の檀家さんたちは、このことを心底悔しく思い、なんとか新しい住職さんを迎えようと、みんなでお金を出しあって、お寺の庫裏(住職の住むところ)を建て直した。いつ来るともわからない、新しい住職のために、である。

さて、ここから住職さん探しがはじまる。

やがて一人の若者に白羽の矢が立つ。

福岡・博多の「ハードロック・カフェ」の店員をしていた若者である。

たまたまこの店に来ていた常連客の僧侶が、この店員に目をつけ、彼を住職にスカウトしたのである。

仏教とは縁もゆかりもない、ハードロック・カフェの店員。

ねばり強い説得にすっかり根負けした彼は、「ハードロック・カフェ」で貯めたなけなしの貯金を全部修行のために費やし、僧侶としての修行を終え、これまた縁もゆかりもない小さな島に渡るのである。

そして、小さな島のさまざまな人間関係にとまどいながら、いまでは、その島になくてはならない住職となったのであった。

…なんとも不思議な話なのだが、本当にあった話。

これって、ずっと以前に日本テレビの「土曜グランド劇場」で放送されていた連続ドラマ「あんちゃん」(1982年)を彷彿とさせる。

このドラマは、「女子プロレスのマネージャー兼トレーナーの田野中一徹(水谷豊)が、父の急死をきっかけに郷里である宇佐木町に戻り、家業の住職を継ぎ一人前の住職として成長してゆく姿を描く」というストーリーである。前に書いたように、私はこのドラマが好きだった。

だがこの話は、「あんちゃん」よりもさらに奇抜な設定である。

「事実は小説よりも奇なり」とは、こういうことをいうのだろう。

この実話、ドラマにしたらおもしろいだろうな。

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怒りをうたえ!

7月15日(水)

今から25年ほど前、まだ私が大学生だった頃のことである。

高校時代のクラスメートだった女子から、電話があった。一緒に映画を見に行かないか、という誘いである。

どんな映画なのかと聞いてみると、「怒りをうたえ」という、ドキュメンタリー映画だという。

高校時代、ほとんど話したことのないのに、なぜ私が誘われたのか、よくわからなかったが、とりあえず見に行くことにした。

全部で3時間ほどの映画で、70年安保や沖縄闘争について、当時のデモの映像がひたすら流れるというものだった。

誘ってくれた人は、とくに活動家だった、というわけではなく、およそそんな映画とは無縁とも思われる雰囲気の、どちらかといえばお嬢様という感じの人だっただけに、いったいなぜこの映画を見たいと思ったのか、まったく分からなかった。

その後、その人とはまったく音信不通になっているので、どういう心境であの映画を見ようと思ったのか、そしてなぜ私に一緒に見に行こうと誘ったのか、今も分からずじまいである。

今日の、与党による法案強行採決と、それにともなう国会議事堂前でのデモの映像を見ていて、25年前のその映画のことを思い出したのである。

Img_2324今回の一連の法案審議には、私のまわりの同世代の友人たちもさすがに怒り心頭だったようで、ある友人が国会前のデモに参加した際の写真を送ってきてくれた。ふだん、デモに参加するなどということのないその友人が、電車を乗り継いで国会議事堂前に向かったというのだから、その怒りは相当なものであったと推察される。

今回のデモですごいと思ったのは、組合などの組織的動員だけではなく、かなりなていど個人の自発的な意志による参加がみられるのではないか、ということである。

その事実こそが重要である。

ここ最近、怒りにふるえることばかりである。

安保法案の強行採決、新国立競技場建設問題、国立大学の文系学部廃止の危機、与党議員による報道弾圧発言、米軍基地移設問題、原発再稼働…。

しかし何より怒るべきなのは、政治家たちの言葉を軽さ、品格のなさである。

たとえば、音楽を専門とする音楽家は、不協和音やチューニングが合っていない音を聴くと、気分が悪くなるでしょう?

芸術についての鑑賞眼を持つ人が、ヘタな芸術作品を見ると、気分が悪くなるでしょう?

それと同じで、言葉をあつかうことを生業にする者が、軽い言葉や品のない言葉、非論理的な言葉を平気で使っている場面に出くわすと、気分が悪くなるのである。

たとえば、7月10日の「衆議院平和安全法制特別委員会」での首相の答弁。

「まさに私の念頭にあったのはですね、基本的に他国部隊が襲われた時にですね、その部隊から助けてくれといわれても、それは襲われたという状況になったことをかんがみて、われわれは、「失礼します、と。 助けることはできません」、危険な状況になったから失礼します、ということになりますよ、という意味のことでございます。

今度の法改正に置いては、駆けつけ警護はできるようになったわけでご ざいます。駆けつけ警護そのものを皆さんは否定しているわけでありますが。それはできるようになったということでございます。

それとは別にですね、まさに武力行使をしているところの後方支援でありますから、これはサマワにおける人道復興支援活動とも 全く根本的に違うわけであります。

人道復興支援活動は限りなく、かなりですね、いわば平和維持活動に近づいて行く活動であります。ただ、国連にもとづく、PKO活動ではなかった、ということであります。

それを述べていることと、いわば後方支援活動を混同させるべきではない。事実PKOについてもそうですが、後方支援活動においても、そういう状況になれば、撤収するのは当然のことであり、PKOについても ゴラン活動においてもわれわれは、撤収をしている、ということであります。

そもそも法律の中において、できることしか、できない。それは当然でありまして、順法精神のもとにおいて、それを行うのは当然のことであろうと。

私がどう思うか、思わないかは全く関わりのないことだと思います。これはまさに、法律そのものを見ていただきたいと思います。」

この答弁、何を言いたいのかまったく分からない。

なんとか理解しようと思って、字面を何度も追っていくうちに、気分が悪くなるのだ。理由は、意味不明の内容だから。

一事が万事、こんな感じで審議が進んでいったのである。

こんな意味不明な言葉で審議を乗り切ろうとする心根は、私たちを愚弄しているとしかいいようがない。

そう、怒りの根源にあるのは、「愚弄されている」という感覚なのだ。

おそらく、愚弄されたと感じた人たちが、いま国会の前に集まっているのである。

国会前に集まっている人たちの映像を見ながら、ふと思った。

25年前、ドキュメンタリー映画「怒りをうたえ」を一緒に見た高校時代の友人も、あの映画のことを思い出し、デモに参加したのだろうか。

それとも、25年も前のことなど、もうすっかり忘れてしまっているだろうか。

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土曜日の、実験室!

7月13日(月)

夜寝ていて、あまりの暑さに目が覚めてしまったら、午前2時だった。

眠れないなあと思い、テレビをつけたら、なんと大林宣彦監督、原田知世主演の映画「時をかける少女」が放送されていた。

1983年公開だから、私が中2くらいのときか?

まさに思春期「中2病」ど真ん中のころの映画である。

私と同じ年代の男子、つまり今の45歳前後の男子のほとんどが、この映画に対してかなり強い思い入れがあるはずである。

あの、ライムスター宇多丸さんも、年齢は私の1歳下だが、この映画を青春映画のベスト1にあげている。

ところで、どうして今ごろ、この映画がテレビ放送されているのだろう?

映画をしばらく見ていると、その理由が分かった。

アニメ映画の監督・細田守の最新作「バケモノの子」が劇場公開されることを記念して、このテレビ局の「金曜ロードショー」で、細田監督の過去のアニメ映画作品が連続放映されるという。

そのうちの1作に、「時をかける少女」がある。

そして、細田監督のアニメ映画「時をかける少女」がテレビ放映されることを記念して、その原点の映画とも言うべき、大林宣彦監督の「時をかける少女」が深夜に放映されたというわけである。

なんともややこしい話である。

ちなみに細田監督は、私の1歳上である。やはり「時かけ」に、ある思い入れがあったことは想像に難くない。不思議なことに「時かけ」は、ごく限られた世代の男子にのみ、強烈な印象を与えたのである。

主演の原田知世が、1967年生まれで、私と1歳しか違わないことも大きな理由であろう。

同世代の男子にとって、原田知世は、なんというか、アンタッチャブルな存在である。

原田知世が私の心をとらえたのは、当時、「YMOのファンである」ことを公言していたことも大きい。

これが、YMOファンである私の心をグッとつかんだのである。

いわば、「自らがオタクであることを公言したアイドル」の走りである。

のちに原田知世は、映画「天国にいちばん近い島」(大林宣彦監督作品、1984年)で、YMOの高橋幸宏と共演を果たしている。

このことがさらに、YMOファンの心をグッとつかんだのである。

まあ、そんなことはともかく。

久しぶりにこの映画を見て、思わず泣いてしまった。

やはりこの映画はいいなあ。

すべてが名場面なのだが、最後のほうで、息子夫婦や孫に先立たれてから何年も二人暮らしを続けている老夫婦(上原謙と入江たか子)が、

「ずっと二人きりなんでしょうか」

「ずっと二人きりなんだろうねえ」

と会話を交わす場面で、思わず号泣した。本筋とは関係ないが。

そしてラストシーン!

Imagesjatklbxu私はこの場面で、「逆ズーム」という撮影方法を知ったのである!

結局見終わったのが午前4時。

そこから再び寝床に入ったが、いつの間にか眠りについたようで、夢を見た。

私が、細田守監督の映画で声優をつとめた、という夢である。

映画のパンフレットを見ると、声の出演者として、私の名前が書いてある。

(俺は、声優としてデビューしたのか?)

しかしおかしい。スタジオで声を吹き込んだりした覚えはないぞ。

私はいつの間にか、映画に声の出演を果たしていたのだ!

これはみんなに宣伝してまわらなくては!

と思ったところで目が覚めた。

(なんだ、夢だったのか…)

いや、待てよ、映画のパンフレットを見ると、やはり声の出演者として私の名前が書いてあるではないか。

(やっぱり俺は声優としてデビューしていたのだ)

久しぶりに妹と会ったので、妹に聞いてみた。

「俺、映画で声優やってるんだけど…」

「見たよ」

「見たって?で、どうだった?」

「まあまあだった」

やはり俺は声優をやっていたのだ。

今度こそみんなに宣伝しなくては!

…というところで、目が覚めた。

(やっぱり夢だったか…)

今度は、正真正銘、目が覚めたようだった。

それにしても、どうしてこんなヘンな夢を見たのだろう?

分析できる人は、おそらくおるまい。

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暗闇の思想

松下竜一、という作家がいた。

1937年、大分県中津市で生まれ、高校卒業後、家庭の事情で進学を断念し、親の家業を継いで豆腐屋になる。

そのときの心境を綴った手記『豆腐屋の四季』が評判となり、14年続いた豆腐屋を辞め、作家に転身する。

その後、公害問題に関心を持ち、豊前火力発電所建設の反対運動に参加する。

反対運動の過程で、さまざまなバックラッシュにあう。

この国が巨大開発により高度経済成長を遂げ、世界的に経済発展していったことはすばらしいことではないか。発電所に反対するということは、この国の経済発展に水を差すことになる。よってお前は「非国民」である、と。

しかし松下は考える。

「誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬ」と。

「まず、電力がとめどなく必要なのだという現代の絶対神話から打ち破らねばならぬ。1つは経済成長に抑制を課すことで、1つは自身の文化生活なるものへの厳しい反省で、それは可能となろう」と。

そして「暗闇の思想」という言葉に行き着く。

「月に一夜でも、テレビ離れした〈暗闇の思想〉に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか」

やがて松下の運動は、火力発電所建設反対運動から、原子力発電所建設反対運動へと広がってゆく。

松下竜一の講演集『暗闇に耐える思想 松下竜一講演録』(花乱社選書、2012年)は、東日本大震災の後に公刊された。松下の死後、8年目のことである。このタイミングで公刊されたのは、当然、東日本大震災にともなう原発事故が起こったことと関わりがある。

私は震災後になってはじめて、松下竜一という作家の名前を知った。

この本は講演録ということもあり、松下の主張のエッセンスが述べられている。

この本を読んで驚いた。

「私の現場主義」と題する講演が収録されているが、この講演が行われたのが、1988年4月12日の日本武道館。私の出身大学の入学式においてである。

このとき、まさに私は、新入生としてこの入学式に参加していたのだ!

つまり私は、松下竜一のこの講演を、大学の入学式で聞いているはずなのだ。

だがこのときのことを、まったく覚えていない。

講演録を読み返すと、このときの講演では、松下竜一がこれまで歩んできた人生の話、そして、ある時期から「暗闇の思想」というキーワードを掲げて発電所建設の反対運動にのめり込んでいく話が、コンパクトに語られている。

おそらく今、大学の入学式で、このような講師を呼ぶことはあり得ないだろうし、このような内容の講演が行われることもないだろう。

それほど、30年ほど前と今とでは、時代が変わってしまったのだ。

この講演の中では、原発事故や放射能汚染への危機感についても述べられている。ちょうど、チェルノブイリの原発事故が起こった1986年から2年後のことなので、このようなことが話題になることは、当然であった。

この講演の中で、松下は述べる。

「私は、若い皆さんがこういう問題に対してあまり関心を抱かないことを、どう考えればいいのか分かりません。今や核の問題というのは、それこそ、これからの時代を担う皆さんの双肩にかかってくる、そういう問題であるはずなんです。明日にも、チェルノブイリ級の事故が、日本のどこかの原発で起きるかもしれない。その時にはもうこの狭い日本列島、どこにもその汚染から逃れる場所はありません。そういう状況に対して、なぜ若い人たちが声を挙げないのか、と思わざるを得ません」

このとき「若い皆さん」と呼びかけている、その目の前には、当時新入生だった私が、たしかにいたはずなのである。

しかし私は、この話をまったく覚えていないのだ。

そしてそれから23年たった2011年。松下の言っていたことが実際にこの国でも起こり、私は慌てふためいた。

入学式のとき、私はなぜ、松下の警鐘に耳を傾けようとしなかったのだろう?

松下の警鐘に対して、それを受けとめるだけの想像力を私は持ち合わせていなかったのだ。なんという無知な若者だったことか。

今となってはそのことが、激しい悔恨である。

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日本でいちばん美しい村

7月9日(木)~7月10日(金)

Y県O村は、日本でいちばん美しい村といわれている。

2012年と2013年の2年間、調査のために5度ほどO村を訪れた。そのことがご縁で、O村のKさんから、O村にあるお堂についてぜひまた再調査をしてほしいといわれていた。

このたび、卒業生のT君が各方面に調整をしてくれたおかげで、ようやく再調査が実現する運びとなった。

O村は、Y県の北部に位置する山間部の村で、交通手段は車しかない。県庁所在地の市から、車でおよそ2時間弱かかる。

調査メンバーは、T君のほかに、前の勤務地の時代にお世話になった3人の老先生方である。とくに老先生のIさんと調査で再会できたことが、なにより嬉しい。「また一緒に調査に出かけましょう」という約束が果たせたからである

朝、O村に到着し、案内人のKさんと再会し、お堂のある場所に向かう。

途中、発掘調査を行っている場所があったので車をとめた。

「Y県のM文センターの方が調査されている現場ですよ」とKさん。

「それじゃあ、知り合いがいるかもしれませんね」と私。

車を降りて調査現場に行くと、以前一緒に仕事をしたことがあるM文センターのSさんが調査担当として現場を仕切っていた。

「お久しぶりです」と私。

「今日はどうしたんです?こんな遠くの村まで」

Sさんは驚いた様子だった。そりゃあそうだ。まさか私がこの村に訪れているとは、思わなかったであろう。

「今日はこの村のお堂を調査する目的で来たんですが、たまたま通りかかりまして」

ま、たまたま通りかかるような気軽な村ではないのだが。

しかし、ひょんなところで知り合いと再会するものである。

Photo_4さて、お堂のある場所は、ひっそりとした沼の近くである。

「なつかしいですねえ」とT君。2年前の調査のときも、T君と訪れたのであった

「あのときは曇っていたけれど、今日は快晴だね」

「そうですね。今日は暑くなりそうです」

Photo_5沼の近くにあるお堂に向かう。

このお堂を訪れたのは2回目だが、私はこのお堂が好きだ。

なにしろ、ここからの眺めがすばらしい。天気がいいからなおさらである。

Photo_6日本でいちばん美しい村での調査なんて、最高ではないか!

午前と午後、じっくりと調査をして、予想以上の成果があがった。

「こんなに丁寧に調査していただいて、ありがとうございました」とKさん。

これで、O村のKさんとの約束が果たせた。

「まだ少し時間がありますか?」とKさんが続けた。

「ええ」

ではこの近くにある沼にご案内します。

「先ほど通った沼ではなく?」

「ええ、あの沼の向こうに、もうひとつ沼があるのです。この山道を少し登って下りたところにあります」」

Oさんについていって山道を少し登ると、突然視界が開け、沼が見えてきた。

Photo_7山の中にひっそりとある沼である。

めったに人が足を踏み入れない沼。

O村は、まことに奥が深い。

O村をどんどん好きになってゆく。

「今日はどうもありがとうございました」

O村のKさんとお別れして、O村をあとにした。

いい調査だった。

また、O村を訪れる機会はあるだろうか。

Photo_8

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ラジオの公開生放送のカタルシス

ラジオの話を、もう少し。

前にも少し書いたが、パク・チュンフン、アン・ソンギ主演の韓国映画の「ラジオスター」という映画が好きである。

落ちぶれたフォーク歌手が、起死回生を賭けて、地方局のラジオ番組のパーソナリティとして出直すことになる。

最初はラジオに対してまったく乗り気ではなかったが、次第にその町のリスナーと心を通わせるようになり、自分の居場所がラジオであることに目覚めていく、というお話。

まあ私がいかにも好きそうなストーリーである。

この映画の中で、私が最もカタルシスを感じる場面は、その男のラジオ番組が次第に人気を博するようになり、ある日、町の広場で公開生放送をおこなうことになる、という場面である。

そのとき初めて、ラジオパーソナリティとリスナーたちが対面するのである。

これぞ、「直接民主主義」ならぬ「直接聴取主義」である。

このとき、ラジオ番組はそれまでにない盛り上がりをみせる。

どうも私は、ラジオの公開生放送というものに、憧れがあるようだ。

私が好きでよく聴いているTBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」(ポッドキャストでも配信中)は、年に1度、関東地方の町で、公開生放送を行っている。

ラジオパーソナリティーである安住紳一郎の喋りに対するリスナーの反応が、ダイレクトに伝わってくるので、聴いているだけで気分が高揚する。

一度でいいから、自分の好きなラジオ番組の公開生放送に行ってみたい。

そこで質問なのですが。

自分の好きなラジオ番組の公開生放送に行ったことがある方。実際、どんな気持ちになるのでしょうか。

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決定!「ラジオ遺産」第1号

前にも書いたが、私のAMラジオの原点は、小学生の頃に聞いた近石真介である。

TBSラジオの平日の午前、いまの大沢悠里さんの時間帯に、「こんちワ近石真介」という3時間超のワイド番組を担当していた。

そして、平日の夜の8時台に、NHK第一で「おしゃべり歌謡曲」という40分番組を担当していた。

つまり、全盛期の近石真介は、AMラジオの月~金の帯番組を、2つも持っていたのである。

いま、帯番組を2つ持っているラジオパーソナリティなんていないんじゃないだろうか。

だから私にとってはラジオの神様なのである。

平日の昼間は学校があるので、TBSの午前の番組はなかなか聴けなかったが、長期休みには聴いていた。

その中に、日本香堂が提供する「はがきでこんにちは」というコーナーがあった。

5分ほどの短いコーナーで、近石真介が、リスナーからのはがきを1枚紹介して、それに対して簡単なコメントをいう、というものである。

内容は、はっきり言ってとりとめのないものばかり。そこに近石真介がとりとめのないコメントをつけていた。いってみれば「雑談」である。

毎日毎日、とりとめのない内容ばかりなのだが、たぶんリスナーからしてみたら、とりとめのない内容のはがきを書いて、パーソナリティの近石真介がそれをもとに話をふくらませてくれる、というだけで、なんというか実に親近感がわくのである。

それを毎日続けるわけだから、これは一種の「名人芸」である。

私が高校生くらいのときに、近石真介はラジオの帯番組から撤退する。だが長寿番組だったTBSのワイド番組が終了したあとも、この「はがきでこんにちは」のコーナーだけは、別のワイド番組の1コーナーとして、しばらく続いた。

そこまでは覚えているのだが、大人になってから、このコーナーのことはすっかり忘れてしまっていた。今日、急にこの番組のことを思い出し、インターネットで調べてみたら、ビックリした。

なんと、「はがきでこんにちは」のコーナーが、いまでも続いているというのである!

地方ローカル局のワイド番組の1コーナーとして、ほそぼそと続いているのだ(ただ不思議なことに、制作はTBSラジオなのだが、TBSラジオでは放送されていない)。

ウィキペディアによると、この番組が「こんちワ近石真介」の1コーナーとしてはじまったのが1971年。それからいままで、月~金、1日5分の放送が44年間も続いているということになるのだ。

そんな近石真介も、傘寿をとっくに過ぎた年齢である。

動画サイトで検索すると、最近の放送があがっていたので聴いてみたのだが、小学生のときに聴いた印象とまるで変わっていない!

リスナーの雑談に近石真介が乗っているという関係性が、とても心地よい。

しかも、驚くことに、いまだにはがきでしかお便りを受け付けていないのである!

宛先がいまだに「私書箱」というのも、まったく変わっていないのだ!

こうなるともうほとんど人間国宝級である。「ラジオ遺産」として登録すべきである!

決して大げさではなく、「はがきでこんにちは」は、ラジオが持っていた古きよきコミュニティーの、最後の砦である!

AMラジオの要素を濾過していって、最後に残った純なものが、この5分の番組の中に凝縮されているといってもよい。

リスナーのとりとめのない話を受けて、パーソナリティがとりとめのない話で返す。

かくもシンプルなコミュニケーションこそが、AMラジオのコミュニティなのだ。

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新・世界遺産論

7月7日(火)

新国立競技場の建設費用が、当初よりも900億円多い2520億円になるというニュースを聞いて、吉田満の名著『戦艦大和ノ最期』の一節を思い出した。

戦艦大和の当時の乗組員たちの間で、「世界の三馬鹿、無用の長物の見本」として「万里の長城」「ピラミッド」そして「戦艦大和」である、という話がささやかれていた、という一節がある。

「世界ノ三馬鹿、無用ノ長物ノ見本、万里ノ長城、ピラミッド、大和」ナル雑言、「少佐以上銃殺、海軍ヲ救ウノ道コノホカニナシ」ナル暴言ヲ、艦内ニ喚キ合ウモ憚ルトコロナシ」(吉田満『戦艦大和ノ最期』より)

その次の「暴言」もなかなかよい。いつの世も上層部は愚かだと思われているのだ。

それはともかく、近い将来、「世界ノ三馬鹿、無用ノ長物」の見本は、「万里の長城、ピラミッド、新国立競技場」と言われる日が来るだろう。

ピラミッドや万里の長城がどのような意志決定で作られたかを私たちは知るよしもないが、幸か不幸か私たちは、「無用ノ長物」となるであろう新国立競技場の、愚かな意志決定のプロセス、いわばその歴史的瞬間まで含めて、同時代に生きる者として見届けることができるのである。戦艦大和の乗組員が、同時代に生きる者として戦艦大和を「無用ノ長物」と喝破したように。

「人類はいかにして無用の長物を作り上げてきたか」

私たちはここから学ばなければならない。高い授業料を払って。

そういえば、「万里の長城」も「ピラミッド」も、世界遺産である。

「無用ノ長物」と揶揄されたものが、いまや世界遺産なのである。

そこでハタと気づく。

世界遺産と言われているものの多くは、搾取や収奪や犠牲の産物なのではないか。

万里の長城やピラミッドは、決して芸術を目的として作られたものではない。

「世界遺産」を、「人類が将来にわたって残すべき遺産」と定義するとき、そこには「人類の偉大な英知」だけではなく、その背景にある筆舌に尽くしがたい搾取や収奪や犠牲にも思いを致すべきである。

そもそも「世界遺産」は、それを考えるきっかけを与えてくれていると理解すべきなのだ。

先だって登録された産業革命遺産もまた然りである。

さて、近代の産業革命に関する諸施設が世界遺産に登録されたとなれば、近い将来、「エネルギー革命」を象徴するあの施設が、世界遺産として登録される日が来るかもしれない。

「人類の英知の産物」ともてはやされた果てに、その後始末をめぐって筆舌に尽くしがたい犠牲を払っている、あの施設である。

そのとき初めて、「世界遺産」が「人類が忘れてはならない遺産」として、強く意識されることだろう。

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リアル・有頂天ホテル

リアル・プリズンホテル

7月6日(月)

いよいよ、職場の大イベントの日。

「職場を上げてこのイベントを成功させるべきだ」と、先々月の大きな会議の場で大見得を切ってしまった手前、本来はこのイベントに関わりのなかった私もお手伝いすることになったことは、前回書いた

ところが、具体的なタイムスケジュールが届いたのが、前日の日曜日の夜。

自分がするべき仕事の内容もわからないまま、当日を迎えた。

朝10時半、説明会があるというので集合場所に行ったが、説明を聞いても、いまひとつ要領を得ない。

どうも、このイベントの全体像を把握している人がいないらしい。

私を含め、手伝いを名乗り出た同僚10人の役割は、「イベント会場の要所要所に張り付いて、何かあったときに対応する」という漠然としたものであった。

さて。

私は前の職場で、いろいろなイベントに携わってきたが、その中で、失敗しながらも体得した「イベントの鉄則」というのが、

1.司令塔を一人決め、司令塔は動かずに一カ所にじっとしている。

2.各役割分担の人は、それぞれの持ち場を離れてはならない。

ということだった。

ところが今回の場合、イベントの全体を把握している人が1人もいない、ということに加え、その中でもこのイベントの段取りをいちばんよくわかっている人が、あちこちと動き回ってしまっている。

つまり、きわめて心配な状況なのである。

さて、このイベントには、国際色豊かな200名近くのお客様がいらっしゃった。

その中には、超VIPの御歴々をはじめ、○○協会とか、××連盟といった諸団体、さらには各マスコミなど、さまざまな方たちがいらっしゃる。

さながら「社交界」といった趣である。

その方たちに、失礼があってはならない。

それに加え、今回のイベントは、きわめて複雑な様相を呈している。

超VIP、諸団体、マスコミごとに、昼食場所、待機場所が異なる。

そしてイベント会場も、時間を追って場所が変わってゆく。

A会場(大会場)での開幕式→B会場(イベント会場)でのテープカット→再びA会場で全体会→C会場(会議室)とD会場(会議室)で分科会→みたびA会場で全体会

という、午後1時から5時半までのあいだで、これだけ会場が変化するのである。

そのつど、200名近くのお客様を、滞りなくお連れしなければならない。

しかも、うちの職場は、迷路のように入り組んでいて、初めていらした方には、気楽に移動できるようなシロモノではない。

全員が迷子にならず、さらにすべての行事を滞りなく進めなければならない。

そして最終的には、5時45分に、お客様全員をバスに乗せて、都内にある大使館主催のレセプションに送り出さなければならないのである。

つまり、私たちに課されたミッションというのは、

「複雑に入り組んだ行事を滞りなく終え、最終的には都内の大使館主催のレセプションに間に合うように所定の時間に大型バスにお客様全員をお乗せしてお見送りする」

ということなのである。

細かいことは書けないが、粛々と進むイベントのあいだ、案の定、舞台裏は大混乱!

まるで三谷幸喜監督の映画「有頂天ホテル」を地でいく展開である。

そんな中、私はどんなことにも対応できるように、しかるべき場所で待機していた。

といったら聞こえがいいが、実際にはでくのぼうのように突っ立っているよりほかなかった。

一つだけ、役に立ったことがある。

C会場(会議室)で、いままさに分科会が始まろうとしていたとき、1人の老齢のご婦人が困った様子で会場を出ようとされていた。

「どうしましたか?」と私が聞くと、

「コインロッカーに入れた荷物を、取りに行きたいんですけど」

という。

C会場から、エントランスにあるコインロッカーまでは、だいぶ距離がある。それに迷路のように複雑で、初めて来たお客様にはとうていロッカーまでたどり着けない。

「どうしましょう。会議がはじまったしまいますし」とご婦人。

「ロッカーの鍵をお借りします。私がお荷物を取ってまいりますので」

ご婦人から鍵を受け取り、猛ダッシュでコインロッカーに走った。

私が猛ダッシュで走っていると、スタッフと廊下ですれ違うたびに、

「何何?今度はどうしたの?」

と心配そうな顔で聞いてくる。

また何かトラブルでも起こったのではないか、と心配だったのだろう。

「説明はあとです!」

と叫びながら、コインロッカーの場所に着いた。

「どうしました?」と、コインロッカーの近くにいたスタッフ。

「お客様が、コインロッカーから荷物を出してC会場に持ってきてほしいと…」

「わかりました。お手伝いします」

コインロッカーから出した荷物を持って、再びC会場へと猛ダッシュ!

C会場の外で待っていたご婦人に手渡した。

「これで間違いございませんか?」

「ありがとうございます」

分科会は、いままさに始まったところだった。

そんなこんなで、およそ30分押しで、すべての行事が終了した。

最後の会場となったA会場の外で待機していると、大勢の人たちが次々と会場から出てきた。

すると、先ほどのご婦人が近づいてきた。

「先ほどは、カバンをありがとうございました」

「いえ、大丈夫だったでしょうか?」

「ええ。実はあのカバンの中に、さきほどの分科会の資料が入っていたものですから。おかげで無事に会議に参加できました」

「そうでしたか」

いろいろと不手際はあったものの、何とか30分遅れですべての行事が終わり、お客様全員、バスに乗り込んで、都内の大使館のレセプションへと向かったのであった。

降りしきる雨の中、走り出したバスを見送りながら、

「終わりましたねえ」と私。

「さっき、ずいぶん走っていたねえ」と年上の同僚。

「ええ」

「あれぐらい走った方が、痩せていいんじゃないの?」

「はぁ…」

「おもてなし」に必要なのは、「心」だけではない。

「スタミナ」もまた、必要なのだ。

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10人の法則

7月5日(日)

明日、職場で大きなイベントがある。

先々月の大きな会議で、このイベントのことが議題に上がった。

どうもうちの職場の特徴のようなのだが、職場で行われるイベントは、そのイベントにかかわるプロジェクトのメンバー以外は、まったくといっていいほどかかわる機会がない。

それ以外のメンバーは、そのイベントにまったくタッチしないというのが不文律なのである。

…あ、この点は前の職場でも同じだったか。

ところが、今度のイベントというのが、たいそう大がかりなもので、とてもそのイベントのプロジェクトメンバーだけで対応できるものではなさそうである。

そのことが、先々月の大きな会議で明るみに出たのである。

「困りました…」とイベント担当の同僚が言う。

そこで私は発言した。

「こうなった以上は、職場全体で対応していくしかないんじゃないですか?たとえば私は、このイベントの日は体が空いてますから、人手が足りなかったら、道案内でも駐車場整理でも、何でもやりますよ。ですから、プロジェクトのメンバーだけで抱え込まないで、職場をあげて支えていかないと、国際問題になりますよ」

発言したあと、少し反省した。

構成員の中には当然、「関係ない人を巻き込むなよ」という意見の人もいると思う。そういう人にとっては、迷惑この上ないことだろう。

それに、いままでの慣習では、「イベントに関係ない人は、タッチしない」というのが不文律だったのである。

しかし、言ってしまったことは仕方がない。

言わなきゃよかったかな、と思っていたら、数日後、イベント担当の部局から一斉メールが来た。

「7月6日のイベントにご協力いただける方は名乗り出てください」

「大きな会議」での言い出しっぺとしては、ここで名乗り出ないわけにはいかない。

「外国語はできませんが、それ以外なら何でもやります」

と返事を出した。

ところがその後、当日のイベントの役割分担について、いっこうに連絡がないまま時が過ぎた。

(人が足りて、俺は必要なくなったのかな…)

と思っていたら、今日(日曜)の夜、ようやく、

「前日になってしまいましたが、ようやく明日の仕事の分担が決まりました」

というメールが来た。

そのメールで初めて、明日のイベントのお手伝いに名乗りを上げた人たちの人数がわかったのだが、その人数が、ちょうど10名だった。

同僚40名のうちの10名だから、そこそこの人数である。

「どんな組織でも、損得抜きで協力してくれる人が10名ていどは存在する」

というのが、私の経験から生み出された法則で、これを「10人の法則」と呼んでいる

会議で発言したのは無駄ではなかったのだ。

さて、明日のイベントは、成功するだろうか。

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DA・YO・NE

7月4日(土)

また時事ネタでごめんなさい。

ちょっと前、ある与党政治家が、こんなことを言っていた。

「党がガタガタとするのは、政策よりも「なんか○○党、感じが悪いよね」と国民の意識がだんだん高まっていったときに危機を迎えるのが私の経験だ。政策は大事だが、「嫌な感じ」が国民の間に広まることは心しなければいけない」

まあこれじたいは、なんということのない発言なのだが、たまたまインターネットを見ていたら、この発言について、ある人がこんなコメントを書いていた。

「私は、この人の『〈〜だよね〉という声が』『〈〜だよね〉という話で』みたいな話法が大いっ嫌いなんですよ」

このコメントを読んで、ハタと膝を叩いた。

そうか!私がこの政治家の発言をどうも不愉快だなあといつも思っていた原因は、ここにあったのか!

たしかにこの政治家は、「○○だよね、ということなんです」みたいなことをよく言っていた。

どうも私は、「○○だよね、ということなんですよ」という口癖が、たまらなく苦手なのだ。基本的には男女問わずだが、とくにエラそうなオジサンがこの口癖だと、居丈高な感じがして、耐えられなくなるのだ。

それで思い出した。

少し前の話だが、あるラジオ番組で、「道路交通法が改正されて、自転車をめぐるルールが変わった」というテーマで探究モードのメインセッションがあった。私も最近ロードバイクに関心を持ったので、ポッドキャストを聴いてみることにした。

そのときにゲストに来ていた、自転車関係のNPO法人のオジサンの話が、全部正論なんだけれど、どうもなじめない。なんとなく居丈高な感じがするのだ。

もう一度聴き返してみると、その理由は、やはり「だよね話法」だったことがわかった。

「僕らはべつに、自転車を優遇してくれと言ってるわけじゃなくて、ふつうの都市の交通手段としてちゃんと認めてね、他の国じゃ認めてるよね、どうして日本だけダメなの?と言うことを聞いているだけで…」

「検挙が3年間で2回あったら、ちゃんと勉強してもらわなきゃ困るよね、ということになっただけであって…」

どうもこの方はこれが口癖のようで、やはりこの方のお話が苦手な原因は、この「だよね話法」だったのだ。

政治家のオジサンも然り、自転車のオジサンも然り、この世の中には、一定の割合でこの「だよね話法」を使う人が存在するようである。

一見、難しいことをやさしく言い換えている配慮の表現のようにも聞こえるこの「だよね話法」が、私にはどうも居丈高に聞こえて仕方がないのである。なぜなのだろう。

そもそもこんなことが気になるのは、私だけなのだろうか?

なんかおかしな話だよね。

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社会を変えるには

7月2日(木)

親しい友人とは政治と宗教の話はしない、と決めているが、最近はそうも言ってられない。

「いまの政治は最悪だねえ」

久しぶりに会ったひょんさんとも、そんな話になる。

3年ほど前に、講談社現代新書から、小熊英二『社会を変えるには』(2012年)が出た。

小熊英二の著作を注目している私は、当然買って読んだわけだが、…というより、かなり話題になった新書なので、多くの人が読んだものと思われる。

小熊英二の著作は分厚いことで有名だが、この新書もまた分厚い。ふつうの新書の4倍くらいの量はある。

この本の「おわりに」を読んで驚いた。

「二〇〇九年の夏に大きな著作を書きあげたあと、その年の九月に意識不明になって入院し、以後一年ほど療養生活をしていました。医者に全快を告げられたのは二〇一一年の四月でした」

なんとこの人、大部な著作を書きあげたことが原因で、その直後に意識不明になり1年間の療養生活を強いられたらしい。

世の同業者に問う。ぶっ倒れて意識がなくなるほど根をつめて原稿を書いているか?

それだけでもすごいのだが、「おわりに」はさらに続く。

「療養のあいだ、あたかも外国からもどってきたかのように、しばらくぶりに日本社会の動きをいろいろと感じとってみると、五~六年前とはだいぶ変わっていることがわかりました。せっかく拾った命なのだから、復帰できたらこんどはこの変化を研究してみたい、と考えました」

それでこの新書が書かれたわけだが、今回もまた、おいおい、そんなに根をつめたらまた倒れるぞ!といわんばかりの大作である。

分厚い新書なのだが、主張はいたってシンプルである。それは、

「社会を変えるためには、デモが重要な役割を果たすのだ」

という一点である。

3年ほど前にこの本を読んだ時、

(デモが社会を変えるなんてことは、ないと思うんだがなあ)

と思っていた。変えるんだったら選挙だろう、と。

しかし、である。

選挙による民主主義が、必ずしも多数の意見を反映しているわけではないことが、ここ最近の選挙で実感されつつある(少なくとも私には)。もちろんそれは、現行の選挙制度の欠陥によるところが大きい。

つまり現状では、選挙は必ずしも民意を反映するものではないのだ。

となれば、何によって、民意を反映させたらよいのか?

小熊英二が予言したとおり、デモなんじゃないか?と、3年たった今、ようやく気づいた。

小熊は述べる。

「みんなが共通して抱いている、『自分はないがしろにされている』という感覚を足場に、動きをおこす。そこから対話と参加をうながし、社会構造を変え、『われわれ』を作る動きにつなげていくこと」

これが、デモにより社会を変える、ということである。

報道ではほとんど報じられていないが、いま、各地で政府の安全保障政策に反対するデモが広がっている。

この本を片手にデモに参加すれば、さらに意を強くすることができるのではないかと思う。

あと、個人的にこの本を読んでなるほどと思ったのは、デモとは直接関係ない部分だが、フッサールの現象学についての説明である。

「『私のことは私がいちばんよく知っている』とは言えません。相手から指摘されて初めてわかることもあります。しかし、けんかの相手から指摘されても、それは誤解だ、あるいは一面的だと感じます。では第三者ならわかるかといえば、それもあてになりません。

そもそも『私』というものも、日々変化しています。相手と仲良くしているときと、けんかをしているときでは、自分でも『自分はこんな人間だったのかな』と認識を新たにすることがあります。

それでは、こう考えたらどうでしょうか。最初から『私』や『あなた』があるのではなくて、まず関係がある。仲良くしているときは、『すばらしいあなた』と『すばらしい私』が、この世に現象します。仲が悪くなると、『悪逆非道なあなた』と『被害者の私』が、『私』から見たこの世に現象する。これを、『ほんとうは悪逆非道なあなたのことを、私は誤認していた』と考えるのではなく、そのときそのときの関係が両端に、『私』と『あなた』が現象しているのだ、と考える。

つまり、関係のなかで『私』も『あなた』も事後的に構成されてくる、と考えるわけです。関係の中で作られてくるわけですから、どちらが正しいということは言えません。(中略)関係は変化しますから、『私』も『あなた』も変化します。おたがいが、作り作られているのです」

いいかい、自分が他人からどう思われているかを常に気にしているキミ。

「ほんとうの私」「固有の私」なんてものは、存在しないんだぜ。

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イモータン・ジョーのメタファー

7月1日(水)

映画「マッドマックス・怒りのデスロード」を見る。

同世代の男子に聞きたいのだが、「マッドマックス」の第1作とか第2作とかって、見てました?

私と同世代は、子どものころに「マッドマックス」に衝撃を受けた世代らしいのだが、まったく不思議なことに、私はこれまで「マッドマックス」をまったく知らずに過ごしてきた。

私より少しだけ上の世代の映画評論家の町山智浩さんもラジオで興奮しながらこの映画について話していたので、これはすごい映画なのだろうと思い、見に行くことにしたのである。

2時間、最初から最後までクライマックスが続く、という町山さんの解説は本当だった。

見終わったあと、言葉もなく、どっと疲れて、家に帰ってすぐに寝た。

感想が言葉で表現できない。頭の中で整理できないのである。

…と思って、TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」のポッドキャストで「マッドマックス特集」をしていたので聴いたのだが、やはり宇多丸さんの熱量もハンパではない。

宇多丸さんたちの解説を聞き、だんだんとこの映画のすごさがわかってきた。宇多丸さんもやはり、「最初見た時は、言葉が出てこなかった」「見終わったあと、どっと疲れた」と言っていたので、これはこの映画を見た誰もが体験したことなのだろう。

先日見た映画「トゥモローランド」とは対極にある映画だと思ったが、そんな感想もまた、陳腐である。

あと、オーストラリア映画なので、英語がオーストラリア訛りだったことが聞き取れたが、これはますます些末な感想である。

宇多丸さんのポッドキャストで、「荒野をさすらう中年男の何気ない日常を描いた映画なのに、なぜR15指定なのか理解できない」というリスナーからのメールに笑った。

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