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ルック・オブ・サイレンス

7月25日(土)

劇場で、いま公開中のドキュメンタリー映画「ルック・オブ・サイレンス」を見た。

これは、昨年に見たドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」の続編ともいうべきものである。1960年代にインドネシアで起こった大虐殺をめぐる映画である。

まずはちょっとおさらい。

インドネシア独立の父と呼ばれるスカルノ大統領の治世下、1965年9月30日に、「急進的左派勢力」による国軍の首脳部暗殺事件が起こり、それに対して、スハルトを代表とする右派の軍部が制圧をする。いわゆる9・30事件である。

この事件をきっかけに、右派軍事勢力による、国内の共産党関係者への大量虐殺が始まる。その数は、100万人規模ともいわれている。

これにより共産党勢力は一掃され、スカルノの求心力も失われ、スハルトに大統領の座を奪われることになる。

インドネシアでは、いまだにその虐殺をした側の勢力が、英雄として称えられているのである。

そのため、大量虐殺の実態、というのは、これまでほとんど知らされることはなかった。

前作の「アクト・オブ・キリング」は、その大量虐殺の実態を、いわば加害者自身に告白させることによって明らかにしていったのであるが、今回の映画の主人公は、アディという名の、被害者の遺族である。被害者の視点から、インドネシアの大虐殺の実態が明らかにされてゆく。

アディの兄・ラムリは、「共産主義者」であるとして虐殺された者の1人である。アディは、自分の兄がなぜ殺されたのか、その真相を解明するために、当時の加害者のもとを訪れ、その時の真相をインタビューしていく。

驚くべきことに、そのときの加害者と被害者が、いまも同じ地域に住んでいる。50年前に起こった大虐殺の事実は、いまとなってはもう誰も触れることなく、お互いが知らないふりをしながら、加害者と被害者が同じ地域で暮らしているのである。

だがアディは、執拗に兄ラムリの死の真相をつきとめていく。そしてラムリを実際に殺した者やその手口、殺人の指示をした司令官、殺人を幇助した者など、次々と真実を明らかにしていくのである。

ところが、大虐殺に加担した加害者たちの誰もが、「責任は自分にはない」と主張する。あのときはやむを得なかったのだ、とか、俺は実際に手を下していないとか、とにかくさまざまな理由をつけて責任を逃れようとしているのである。

アディの「これまでに会った殺人者の誰もが、責任を感じていない」という言葉が、印象的である。

もうひとつ印象的だったのが、加害者の発言である。

「過去は過去だ。今さらそんなことを蒸しかえしたら、再び抑圧されていたものが吹き出すではないか。だから根掘り葉掘り探らないでほしい」

という意味のようなことを、加害者の誰もが口走る。

さらには、「今さらそんなことをほじくり返されて迷惑だ。私たちの心がどれほど傷ついているかわかるか?」という意味のようなことを、加害者やその家族が言っている。

ちょっと待てよ、と思う。殺されたのは、被害者なんだぜ。心の傷を負っているのは、被害者の家族のほうではないのか?

それがいつの間にか、加害者の心の傷という問題にすり替えられているのだ。

ことわっておくが、これはたんなる殺人ではない。国家的な虐殺事件である。殺人は国家の命令で行ったことであり、殺人者たちは自分に責任はないと主張する。

そして殺人に加担した者たちはいまも体制派として責めを負うことなく生活しているのである。

映画は、加害者に執拗に食い下がりながらも、なおも責任逃れをしようとする加害者たちをまのあたりにしてなすすべのないアディのむなしさを、あますところなく映し出す。

さて、この異常な状況を、インドネシアの特殊な事例として見てしまってよいか?

たとえばいじめ問題はどうだ?

いじめで人を死なせてしまったとする。

その時、これと似たような状況が起こるのではないだろうか。

あるいは、戦争に直面したときはどうだ?

そう、それで思い出した。

この映画の「後味の悪さ」や「救いのなさ」、何かに似ていると思ったら、むかし見たドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」に少しばかり似ているのだ。

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