批判の品格
たとえばの話。
ダメな上役、というのは、どこにでもいる。
決断力がなかったり、人の話を聞かなかったり、腹をくくっていなかったり、プライドばかり高かったり。
そんなときには、容赦なく、面と向かって批判したものである。
同じように、ダメな上役を批判する人たちがいると、私も意を強くするわけだが、だがそういう人たちのすべてが同志というわけではない。
たとえば批判が高じて、
「カツラのくせに」
とか、
「デブのくせに」
とか言い出されてしまうと、私はついていけなくなってしまう。
私も一緒になって、
「カツラのくせに」
とは言いたくない。だって、その上役がダメであることと、カツラであることは、関係ないもの。批判の矛先が、違ってしまっているのである。
それに、もし私が批判の対象になったとしたら、その人たちから、
「デブのくせに」
とか、
「汗っかきのくせに」
とか言われかねない。
それが怖いのである。
ある雑誌を見ていたら、「人文学無用論について」というエッセイを見かけたので読んでみた。
書いた人の経歴を見ると、さる高名な芸術学系学者が書いたもののようで、昨今の「大学人文系学部不要論」をかなり強い調子で批判した文章だった。
もちろんその趣旨には賛成するのだが、書かれている文章が、なんというか、とても品がないのだ。それに、書いてあることが支離滅裂である。
これが、芸術学系学者が書いた文章なのか???
妻に読んでみてもらうと、
「この文章を読むと、『たしかに人文系の学問なんて不要だな』と思ってしまうよね」
というコメント。
つまり、こんな支離滅裂で品のない文章で、相手を批判したつもりになっていたら、それこそ敵にバカにされる、というものである。
そこで私は知るのである。
「批判をするなら、その批判が相手よりも品格のあるものでなければならない」と。
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