今こそ読め、『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』
いちばん好きなエッセイは何だろう?とつらつらと考えていたら、遙洋子の『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(ちくま文庫)のことを思い出したので、あらためて読んでみた。
本の冒頭、大学院のゼミでの出来事のくだりがある。登場する「教授」は、もちろん上野千鶴子である。
「発表者は二名。そのうちの一人がまだ来ない。
『すいません。』
女子学生がはいってきた。
ここまではよくある大学の風景だ。ここからが違う。
『遅れた理由を言いなさい。』
『寝坊しました。』
『あなたのせいで、これだけの人間が貴重な時間を無駄に過ごしました。どうしますか?』
『申しわけありません。』
『あなたの本来するべき発表をするために、この上にまだ皆の時間を消費しますか?』
教授は許さなかった。
『今日のこの時間を無駄に消費させますか?それとも来週のプログラムを変更させてまであなたの発表を延期する価値がありますか?』
学生は黙るしかなかった。まだ、寝癖のついたままのショートヘアが痛々しい。
『私はあなたの寝坊のために一年のプログラムを変更するつもりはありませんので、あなたの発表は放棄しますか?』
学生は泣くしかなかった。寝起きで腫らした瞼からポタポタと涙が床に落ちた。
「あーあ、泣かしちゃった。」
という思いと、
『この教授だけは怒らせてはいけない。』
という禁断のルールを目の当たりにした」
このくだりを読んで、とてもびっくりした。
これは、2003年に日本テレビで放映されたドラマ「すいか」に出てくる、浅丘ルリ子演じる崎谷教授のセリフとそっくりではないか!
崎谷教授のセリフについては、以前に書いたことがある。いまいちど引用する。
大学のゼミ。殺気立った雰囲気。
崎谷教授が立っている。その前で1人の女子学生が、泣きそうに立っている。
崎谷「あなたに、泣いてる時間はあるのですか?」
女子学生「(ウッと耐える)」
崎谷「あなたが、十分に準備をしてこなかったために、いま、まさにみんなの時間を無駄にしているのですよ。この上、あなたが泣き終わるまで、待てと言うつもりですか?」
おずおずと手をあげる男子学生。
崎谷が、「はい」と、男子学生を指す。
男子学生「(立ち上がり、おずおずと)まあ、先生の言うことは、正論やし、判るんやけどぉ、女子やから、しゃーないとちゃうんかな、と」
崎谷「なぜ、女子だと仕方がないんですか?その根拠を説明して下さい」
男子学生「だから一般論として…」
崎谷「どこをもって一般論と主張しているのですか?あなたの言葉に客観性がありますか?ここは、議論の場です。どこからか引っぱってきた、あなたの愚かな偏見を開陳する場所ではありません」
男子学生「おお、こわー」
崎谷「怖い?自分の頭で考えようとしない。自らの手で学問を捨て去ろうとする。そのことの方が、はるかに私を恐怖させます!」
崎谷教授のゼミの描写は、上野千鶴子のゼミを思わせる。
ここから一つの仮説が浮かぶ。
「すいか」の脚本家の木皿泉が、遙洋子のこの本を読んで、この部分をアレンジして脚本に書いたのではないだろうか。
遙洋子のこのエッセイが出版されたのが2000年で、ドラマ「すいか」が放送されたのが2003年だから、木皿泉が遙洋子のエッセイを読んでいる可能性は十分にある。
そう考えると、木皿泉は、遙洋子のエッセイに書かれている「上野千鶴子像」をモデルに、崎谷教授のキャラクターを作り上げたのではないだろうか。
…これって、すでに常識なのか?
…というか、ほとんどの人にとってはどうでもいい仮説かもしれない。
それはともかく。
このエッセイは、実に感動的である。
一人のタレントが、上野千鶴子のゼミで学ぶことになる。
最初はまったくわからないことばかり。周りにいる若い学生たちは、今まで自分が接してきた人たちとはまったく異なる種類の人たちばかりで、カルチャーショックを受ける。
しかししだいに、遙洋子は学問のおもしろさを体得していく。
学問は社会を動かす」の一節より。
「ゼミが始まると、大沢真理教授の写真入り新聞記事が配られた。
(中略)記事には年金の厚生省案に対する意見が掲載されていた。政府の男女平等参画審議会にも関係しておられる。これはどういうことか。
学問が学問の専門分野で終結していない。
ここで、日々発見され、生み出される新しい学問が政治に何らかの形で影響を及ぼす。それはやがて私たちの前に政治の制度として具現化される。政治は政治のプロが行うが、どう行うかという時に、その方針基盤は分野別専門家を必要とする。
その記事を読みながら、『そーだったんだ』と再認識した。
誰がつくったのか、セクハラ禁止、夫婦別姓、雇用機会均等法。そのおおもとに、ご意見番としての『学問』があった。(意見が通る、通らない、歪む、はおいといて)」
政治家や官僚に聞かせてやりたい言葉である。
学問を軽視することは、自らの政治制度を滅ぼすことを意味することに、早く気づいた方がよい。
さてこのようにして、今まで「学問」とは無縁だった遙洋子は、「学問」に出会ったことにより、変わっていく。そして、学問の本当の楽しさを知るのである。
とりわけ感動的なのは、「いつかすべてが一本の線に」に出てくる、遙洋子と上野千鶴子の会話である。
「『先生、論文って、感動するんですよね!』
『わかった?』
教授の顔が輝く。
『私は感動は、スポーツや、芸術にだけあるものだと思ってました。』
『違うのよ。学問にもあるのよ。それをわかってくれてよかった。』」
学問をするうえで一番大切なことは、学問で感動できるようになることだ。
だから、感動する論文を書かなければならないんだぜ、同業者諸君。
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コメント
『ブログ記事の公開が遅れた理由を言いなさい。』
『ハロウィーンの仮装をしていました。』
『あなたのせいで、これだけの人間が更新されないホームページを毎日、何回も訪れて貴重な時間を無駄に過ごしました。どうしますか?』
『申しわけありません。』
『あなたの本来書くべきブログ記事のアップを待つために、この上にまだ皆の時間を消費しますか?』
教授は許さなかった。
『今日のこの時間を無駄に消費させますか?それとも3年分の予定稿を書き溜めて来週から定期的に記事更新を始めるまで、あなたの発表を延期する価値がありますか?』
学生は黙るしかなかった。まだ、聖徳太子の仮装メイクが中途半端なままの顔が痛々しい。
『私はあなたの記事不掲載のために一年のプログラムを変更するつもりはありませんので、あなたが今日ネタ見せするはずだった「笏でサックスを吹く真似をしているカボチャ頭の聖徳太子」の発表は放棄しますか?』
学生は泣くしかなかった。笏を持つ手の間からポタポタと涙が床に落ちた。
「あーあ、これがホントの鬼の目にも涙。」
教授は相変わらず許さなかった。
が、このコメントのオチの甘さは、許してもらいたいようだった。
投稿: こぶぎ学園 | 2015年10月30日 (金) 09時44分