2015年11月
さまざまな再会
11月28日(土)
今回の旅では、多くの人たちに再会した。
それで一つわかったことは、まだこのブログを読んでくれている人が意外に多い、ということだった。
「寝る前に読むのが習慣になって、元気をもらっています」
という同世代の男子もいた。
…ということは、これからも元気が出るような記事を書かねばならない。
多くの卒業生や現役学生たちとも再会した。
卒業生のT君と再会したことはいうまでもない。彼とは日付が変わるまで、お酒を飲みながら職場の現状に関する詳細な情報提供と意見交換をした。
旅の前、何人かの卒業生に連絡を取ってみたところ、今年卒業したSさんと、現役4年生A君から、ぜひお会いしましょうと返信が来た。
捨てる神あれば拾う神あり、とはこのことだな。
二人のおかげで、卒業生や現役4年生の何人かと、お酒を飲むことができた。とくに飲み会を仕切ってくれたSさんは、急な連絡にもかかわらず、幹事役を引き受けてくれた。
今年卒業したOさんから、1冊の本をもらった。
東京の出版社につとめるOさんが、初めて編集にかかわった本だという。
いつか、Oさんの編集で自分の本を出してみたい、というのが私の夢である。
「前の前の職場」の同僚だったこぶぎさんやKさんともお会いした。
こぶぎさんは、「吹きだまり自転車部」の今年1年間の活動報告を、タブレット端末に入れた写真を見せながら、紙芝居風に説明した。
こぶぎさん流「コブギミクス 三本の矢」、
「ふるさと納税」
「愛の商品券」
「コストコ」
についても、詳細な報告があった。
折しも、夜分遅くに、高校時代の友人・元福岡のコバヤシから、めずらしくメールが来た。
「どうも、夜分失礼します。少しは元気になりましたか?昼間に貴君のブログを読みましたが、北に向かって旧知の人たちを訪ねていろいろな人たちに会えてよかったですね。私も、ちょうど一週間前に同じように唐津~福岡と、なじみの寿司屋、バーを訪ね、バンド友だちにコーヒー屋のお兄ちゃんと旧知の人たちに会い、みんなから「お帰りなさい!」といってもらってシミジミとしていました。貴君も同じようなことをしているんだな~と少し笑ってしまいました。ということで、今日は銀座で呑んで酔っ払っているので、こんなメールを打ってしまいました。寒くなってきたので、くれぐれもお身体にはお気をつけください。ではまたそのうち」
なあんだ、酔っ払ってるのか。
「寿司屋」「バー」「バンド友だち」「銀座で呑む」というあたりが、私にはマネのできないことだが、思いは同じなのだろう。
再会がかなわなかった友人も何人かいる。
「同い年の盟友Uさん」もその一人である。
何度か連絡を取り合ったのだが、どうしても予定が合わなかった。彼とは、いつもすれ違ってばかりである。
だから私は確信した。
寿命はまだある、と。
1年10カ月めの贈り物
11月28日(土)
「前の職場」のイベント、3日目。
午後、会場に行くと、昨年の3月に卒業したSさんがいた。私が「前の職場」で最後に送り出した卒業生の一人である。
「先生、お久しぶりです」
「おおぉぉ!久しぶりだねえ」
「ここに来れば、先生にお会いできると聞いたもので…」
「わざわざ来てくれたんだね」
「実は今日、どうしても先生にお渡しなければならないものがあったので、来たのです」
「どうした?」
「私、Nさんから預かっているものがあるんです」
「N君から?」
N君というのは、2年前の3月に卒業し、民間企業に就職したN君のことである。Sさんの1年先輩にあたる。
「正確には、Nさんからではなく、Fさんから預かったんですけど」
「どういうこと?」
Fさんというのは、Sさんと同じ年度の卒業生である。
「昨年の2月ごろに、先生がこの大学をお辞めになると聞いたNさんが、勤務先の東京から先生に会いに来たことがあったでしょう?」
「そういえば、そんなことがあったねえ。そのとき、何人かで一緒に飲んだよ」
「そのとき、Nさんが、先生にプレゼントを用意していたそうなんです」
「ほう」
「ところがNさんは、プレゼントを先生に渡すのを忘れたまま別れてしまったので、そのプレゼントを、Fさんに託したそうなんです」
「…思い出した!!!」
私は急に思い出した。
1年9カ月ほど前に「詰めが甘い学年」という記事を書いた。以下、そこからの引用。
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先日、東京に就職したN君が私に会いに来た、という話は、ここに書いた。
そのとき、私にお土産を持ってきてくれたらしい。
しかし、お土産を私に渡すのをすっかり忘れてしまって、それに気がついたのが、帰りの最終の新幹線に乗る直前だったという。
この時点で、すでに詰めがあまい。
たまたま在学中のFさんが、N君と一緒に駅に向かっていたので、N君は帰り際、Fさんに「これを先生に渡しておいて」と、お土産をFさんに託した。
数日後、Fさんが「卒論発表会」のレジュメの添削の件で、私のところに来たとき、
「あ!」と叫んだ。
「どうしたの?」と聞くと、
「先日N君がこちらに来たときに、N君が先生にお土産を渡すのを忘れたといって帰りがけに私に預けていったんですが、そのお土産を、今日持ってくるのを忘れました」という。
これもまた、詰めがあまい。まさに「詰めのあまさ」の連係プレーである。
この3月に卒業予定のFさんは、すでにこちらのアパートを引き払い、隣県にある実家に戻ってしまったので、大学にはめったに来ないのだ。
「今度でいいよ」
というと、
「いつになるかわかりません」
という。果たして私は、N君からのお土産を、受け取れるのだろうか。一生受け取ることができないような気がする。
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引用終わり。
N君が持ってきてくれたお土産というのが何なのか、それからずっと気になっていたのである。
Sさんが続けた。
「実はそのプレゼント、私がずっと預かっていたんです」
「え?どういうこと?」
「昨年の2月の終わりに、追いコンがあったでしょう?」
「覚えてるよ」
「Fさんが追いコンに参加できないというので、Nさんから預かった先生へのプレゼントを、私に託したんです」
なんと、N君からのプレゼントは、Fさんから、Sさんの手に渡っていたのか!
「で、私、追いコンのときに、そのプレゼントを先生に渡そうと思っていたのに、それを渡すのをすっかり忘れてしまったんです」
「そうだったの?」
「その年の4月に、先生はこの土地を離れてしまったし、私も社会人になってしまったので、結局渡す機会がなくなってしまいました。でもそのことがずっと気になっていて、いつか先生にお渡ししなきゃ、と思っていたんです」
「それで、今日ここに来たってわけか」
「そうです」
話を整理してみよう。
N君が、勤務先の東京から私を訪ねてきたのが、2014年2月5日。
そのとき、私へのプレゼントを渡しそびれて、それをFさんに託した。
ところがFさんは、私にそれを渡す機会がないまま卒業してしまうかも知れないと思い、今度はSさんにそれを託した。
Sさんは、2014年2月28日の追いコンのときに、Fさんから預かったN君のプレゼントを私に渡そうと思ったが、そのことをうっかり忘れてしまい、現在に至った、というわけである。
そして今日、約1年10カ月めにして、ようやくそのN君からのプレゼントが、私のもとに届いたのである。
長生きはするものだなあ。
私はわざわざそのプレゼントを持ってきてくれたSさんに感謝した。
ところで、そのプレゼントとは、いったい何なのだろう?
私は当時、お菓子か何かだと思っていた。
もしお菓子だったら、賞味期限はとっくに過ぎているはずである。
袋の中身を確認しようと思ったところ、イベントが始まってしまい、袋を開けるチャンスを逸してしまった。
夜、宿泊先のホテルに戻り、ようやく袋の中身を確認することができた。
私にとって最も嬉しいプレゼントである。
N君、1年10カ月の月日がたってしまったが、ありがとう。
新・散髪屋は、人生だ!
11月27日(金)
話は、1カ月前の10月末にさかのぼる。
自宅近くにある、行きつけの散髪屋さんで散髪してもらっているとき、担当のTさんが私に言った。
「Gさんのお店、紆余曲折あって、ついにオープンしたようですよ」
「そうですか!ついにオープンしましたか。1年かかりましたね」
「そうでしたね」
Gさん、というのは、以前この店で私の散髪を担当してくれた人である。まだ30代前半という若さで、独立を考え、家族ともども引っ越しをして、実家のあるY県S市でお店を開くことにしたという。
私は「前の職場」にいたころ、仕事でS市に何度も行ったことがあるので、もしオープンしたら、一度訪ねますよ、とGさんに約束したのだった。
もちろん、そんなものは口約束で、ふつうだったら誰もが社交辞令としてかたづける種類の約束である。
しかし、そうはいかないのが私の性分。
「Gさんのお店の連絡先、わかりますか?」私はTさんに聞いた。
「ええ。つい最近、オープンしたというお知らせのハガキが来ましたから。…まさか、本当に行かれるんですか?」
「ええ。ちょうど1カ月後に、その県に出張の予定があるんですよ」
「そうでしたか。…Gさんから来たハガキ、コピーしましょうか?」
「お願いします」
「どうやら本気のようですね。もし行かれたら、Gさん、ビックリしますよ」
「本当に行けるかどうかはわかりませんけどね。…もし来月、私がこのお店に来なかったら、ははーん、さてはGさんのお店で散髪してもらったんだな、と思ってください」
「わかりました。結果を楽しみにしています」
…ということで、1カ月がたった。
今回の出張は、時間に比較的余裕がある日程だったので、
(ひょっとしたら、お店に行って散髪できるかも知れないぞ)
と思い、あれこれ調整してみたら27日(金)の午前中だったら時間がとれそうだということがわかった。
前日の26日(木)、電話をして予約を入れることにした。
「明日、カットをお願いしたいんですが」
「何時がよろしいですか?」
「朝イチの9時は、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
「じゃあそれでお願いします」
「場所はおわかりですか?」
「ええ。なんとなくわかります。駅からは遠いですか?」
「歩くとちょっとかかりますねえ」
「わかりました。では明日、お願いします」
「お待ちしております」
この時点でGさんは、私が何者かを知らない。
さて、今日(27日)。
朝8時頃にホテルを出て、バスに乗って45分かかって、駅前のバス停に着いた。大雨だったので、タクシーで目的の散髪屋さんに向かい、着いたのが9時ちょっと過ぎである。
住宅地の中にたたずむ、とてもおしゃれな建物が、目的の散髪屋さんである。
「いらっしゃいませ」
「予約をしていた鬼瓦です」
「……」
「覚えてますか?以前、I市で散髪していただいた…」
「あ、あああぁぁぁぁ!!!鬼瓦さん!どうしてここに???」
「ついにオープンしたって聞いてね。それで、出張のついでに寄ってみたんです」
「えええええぇぇぇぇぇ!!!」
Gさんはひどくビックリした様子だった。そりゃあそうだ。だって散髪をするために、首都圏から新幹線とバスを乗り継いではるばるやって来たというんだから。
Gさんは、私のことを完全に思い出してくれたようだった。
「前の店では、Y県の話で盛り上がりましたよねえ。で、僕がS市で散髪屋を開業するつもりだってお話ししたら、『オープンしたら行きますよ』と言ってくださった。でもまさか、本当に来てくださるとは…めちゃめちゃ嬉しいです」
「オープンにこぎ着けるまで、それはそれは大変でした」
散髪をしながらの話は、止めどもなく続いた。
実は、Gさんにはほんの数回しか、散髪をしてもらったことがない。
たぶん歩んできた道も、全然違う。
しかし、久しぶりに会った友人のように、なぜか話がはずんだ。
すべてが終わり、襟元についた髪の毛を払いながら、Gさんが言った。
「夢のような2時間でした。こんなことって、あるんですねぇ。この仕事を続けてて、ほんと、よかったなあ…。忘れずにはるばる訪ねてくれる人がいるなんて、こんな嬉しいことはありません」
「私も、来てよかったです」
「一緒に写真撮ってください」
「どうぞ」
Gさんの奥さんに、写真を撮ってもらった。
「駅まで車でお送りしますよ」とGさん。
「いいんですか?だっていま、営業時間でしょう?」
「大丈夫です。今日の予約は、鬼瓦さんだけですから」Gさんの奥さんが言った。
Gさんの奥さんに見送られ、Gさんの運転で駅に向かう。ほどなくして、駅に着いた。
車から降りると、私はあることに気づいた。
「あ!虹!」
「本当だ、虹ですね。…今日は記念日ですね」Gさんが言った。「また来てください」
「また来ますよ」
固い握手をして別れた。
…では、宣伝します。
「SLOW hairworks」
私の大好きな、散髪屋さんです。
北へ北へ
11月26日(木)
「前の職場」で3日間にわたっておこなわれるイベントに参加するため、北に向かう。
前日、県南のN市のKさんからメールが来た。仕事のことで相談があるという。
「明日、たまたま『前の職場』に行くことになっています。開始時間は午後ですから、新幹線を途中下車して午前中にお寄りしますよ」
ということで、急遽途中下車することにした。
予定が一つ増えたということだから、朝早く家を出なければならない。
朝7時過ぎに家を出て、県南のN市に着いたのが午前11時。
そこで1時間ほど仕事の打ち合わせをした。
「駅までお送りします」
Kさんの車に乗せてもらい、駅に向かう途中、ひらめいた。
「あのう、センターはここから近いですよね」
「ええ」
センター、というのは、私が「前の職場」にいたころ、たいへんお世話になった機関である。N市の北に接するK市にあった。そこには何人もの知り合いがいた。ただ、少しばかり、というかかなり不便な場所にあるため、車でなければなかなかたどり着けないところなのである。
少し時間があるので、立ち寄って挨拶だけしておいとましよう、と思いついたのであった。
「お願いがあるんですが、駅ではなく、センターまで行ってもらえませんか?そこで降ろしてください」
「わかりました」
Kさんはわざわざ遠回りして、センターまで乗せてくださったのである。
センターに着くと、Tさん、Iさん、Sさん、Aさんなど、私がかつてお世話になった人たちが勤務していて、突然訪れた私を見てびっくりした様子だった。
「どうしたんです?いったい」
「今日は午後に『前の職場』でイベントがありましてね、それまでちょっと時間があったんで、途中下車して立ち寄ってみたんです」
「本物ですよね?」
「ええ、本物です」
「ああ、びっくりした」
幽霊か何かだと思ったらしい。
そりゃあそうだ。ふつうだったら、私がここにいるはずはないんだもの。
1時間ほどみなさんとお話をした。
「これからどうするんです?」
「鉄道で北に向かいます。『前の職場』のイベントに出席するので」
「じゃあ、最寄りの駅まで車でお送りしますよ」
ということで、車で最寄りの駅まで送ってもらうことにした。
車中。
「今日はびっくりしました」とTさん。
「突然思い立ってご挨拶に来たんですが、たくさんの人にお会いできてよかったです。知ってる人が誰もいなかったら、どうしようかと思いました」私は続けた。「私は時々思うんですよ。お世話になった人たちにいっぺんにこれだけたくさん会えるというのは、死期が近いんじゃないかってね」
そういうと、Tさんは大笑いした。
「また来てくださいよ」とTさん。
「今度は事前にご連絡しますので」
無人駅でお別れした。
こうして私は、今回の旅の本来の目的である「前の職場」のイベント会場に向かったのである。
翌日(11月27日)。
2日目のイベントの開始時間も、午後である。
それまで時間があったので、私は「前の職場」のある町から、鉄道でさらに北の町に向かった。
その町の駅から少し離れたところに、かつて一緒にボランティア活動をしたTさんの職場がある。
Tさんの職場ではいま、私も少しかかわったボランティアのパネル展示がおこなわれている。それを見に行こうと、思い立ったのである。
「ご無沙汰してます」
「わざわざおいでいただいたんですね。ありがとうございます」
30分ほど展示を拝見しながらお話をしていたら、「前の職場」に戻らなければならない時間になってしまった。
「駅まで車でお送りしますよ」
ご厚意に甘え、送ってもらうことにした。
「わざわざありがとうございました」
「またお目にかかります」
北へ北へと、かつての仲間と再会していく旅。今回は多くの人たちと再会した。
そして私は確信した。
死期が近いな、と。
実は、私が訪れた場所は、もう一つあった。(つづく)
三連休
恐るべし、明智こぶ郎。
金田一耕助に仮託して煙にまいたつもりだったが、見事正解しやがった。
もうこうなると、何を書いても当てられそうで怖い。
というか、他の読者には、何のことやらサッパリわからないのではないか。
前回の記事とこぶぎさんのコメントを読み解くこと自体が、超難関のミステリーである。
さて、読者は推理できたかな?
ということで、小細工はやめて、ふつうの日記に戻ることにする。
金曜日の夜に「御神体の村」から帰った、その翌日からの話である。
11月21日(土)~23日(日)
この三連休は忙しかった。
土曜日の午後。都内某所でおこなわれた15人ほどの会合で、1時間ほど話をして、意見交換をした。
1時間しゃべる、といっても、その場で口からでまかせに喋ったわけではなく、それなりの事前準備をして喋ったのであった。終わったあとは8人ほどで懇親会。慣れないところで喋ったということもあり、緊張して疲労した。
日曜日。朝5時過ぎに起きて、飛行機で2時間ほどかかる県に行く。私にとってはおなじみの県である。
この県に向かう飛行機は、往路は強い向かい風のため、離陸から着陸まで2時間ほどかかるのに対し、復路は追い風なので1時間半ほどで帰ることができる。
向かい風や追い風に左右されるなんて、まるでロードバイクと同じだな。
午後1時から某所で講演会。200名ほどの人たちの前で1時間半ほどしゃべり、汗びっしょりになる。
でも、15年ほど前に知り合った人と、15年ぶりにまた一緒に仕事ができたというのが、実に感慨深い。
それだけで、もう何も言うことはない。
終わってから、講演会場となった場所の、一つ隣の駅のすぐ駅前にある料理屋さんで、主催者の方たちが懇親会を開いてくださり、美味しい魚と焼酎を堪能した。
「今日はイシガキダイのいいのが入ってますよ」
「イシガキダイ?イシダイではなく?」
「ええ、イシガキダイ」
ということで、イシガキダイのお刺身をたらふくいただいた。
県庁所在地のホテルがどこも満室だったので、県南の中核都市のホテルに泊まった。
日曜日。焼酎を飲み過ぎて、若干の二日酔いである。
だが、今日は隣県の県庁所在地に行くことに決めていた。
高速鉄道に乗り、隣県の県庁所在地に向かう。私にとっては、初めて乗る鉄道である。
速いもので、30分ほどで隣県の県庁所在地に着いた。
着いたはいいが、地図も何も持っていない。
スマホも持っていないので、何も調べることができない。
はて、目的地に行くにはどうしたらいいものか。
タクシーで行けば解決するのだろうが、ここは、公共の交通機関を使わなければならない。
目的地付近を周遊するバスがあることを知り、それに乗ったのだが、これがかなり遠回りをしながら走るので、目的地まで30分以上かかってしまった。
その目的地は、市内の中心部にあるのだが、なにしろ敷地が広い。
そこに来たら、誰もが必ず訪れるという場所をスルーして、その脇にある建物に入ってしばらく過ごした。
このタイミングだからこそ、来ようと思った場所である。
お昼になり、広大な敷地を出て、繁華街に向かって、お昼を食べる場所を探すことにする。
この町の名物を食べようと思ったのだが、やはりあれはお昼ではなく、夜にお酒とともに食べるものなのだろうか、名物をランチで食べることのできる店をついにみつけることができなかった。
その代わり、やはりこの土地の名物である、色の名前のついた牛肉が乗ったどんぶりを食べることにした。
そうこうしているうちに、帰りの時間が近づいてきた。
再び高速鉄道に乗って空港に向かい、帰途についたのであった。
ヘトヘトになった3日間であった。
さてその、2日目の懇親会がおこなわれたお店の名前というのが…。
御神体の村
11月20日(金)
僕、金田一耕助です。
日和警部から、
「あんたに見てもらいたいものがあるんじゃ」
といわれ、ある村の小さな神社にある、御神体を見に行くことが決まったのは、つい数日前のことでした。
それは、不思議ないわれのある御神体でした。
江戸時代に地中から発見されたその世にも貴重なそのモノは、たちまち当時の有名な学者の目にとまり、御神体として神社に奉納されたのだそうです。
さて僕は、朝早く家を出て、まず鉄道でその村の最寄りの駅まで行きました。
その駅で日和警部と待ち合わせをし、そこから車に乗って1時間ほどで、その村に着きました。
村では、案内人のSさんが待っていてくれました。
「これから、神社の宮司(ぐうじ)様に会っていただきます」
「はぁ」
「まず、宮司(ぐうじ)様のご説明を聞いていただきます。これが20分ほどかかります」
「はい」
「これから見せていただくものは御神体なので、くれぐれも宮司様に失礼のないようにお願いします」
「わかりました」
神社に着くと、すでに宮司様が待っておられました。
「遠いところ、ようこそおいでくださった」
案内人のSさんの言うとおり、宮司様のご挨拶と説明は、20分ほど続きました。私と日和警部は、そのお話を熱心に聞き、失礼のないように受け答えをしました。
「では、御神体を御覧に入れましょう」
神社の本殿に移動し、いよいよ宮司様により、本殿の扉が開けられました。
「これが御神体ですか…!」
私と日和警部は、息を飲みました。御神体があまりにすばらしいものだったからです。
宮司様の説明をうかがいながら、私たちはすっかりその御神体に魅せられてしまいました。
「これまで、この御神体を見に来た人は数限りないです。私はそのたびに、この本殿の扉を開け、御神体を照らして、ご説明を申し上げました」
そう言うと宮司様は、次々と有名な人の名前を挙げていきました。
なるほど、これまで多くの人たちが、この御神体に魅せられてきたのは当然だろうと思いました。
そしてそのときふと僕は、御神体を見た印象が、自然と口をついて出ました。
まるで事件の謎を解くかのように、私は自然と語り出したのです。
宮司様、案内人のSさん、そして日和警部は、僕の語ることに、次第に大きくうなずくようになりました。
そして宮司様は最後に言いました。
「いやあ、実におもしろい。実に貴重なお話じゃ」
気がつくと、神社におたずねしてからすでに1時間半もたっていました。
「長居をしてしまい、申しわけございません」と僕が宮司様に謝ると、
「いえ、時間がたつのも忘れました」
とおっしゃいました。
気がつくとあたりは少し暗くなりはじめていました。
僕たちは宮司様にお礼を申し上げ、その神社をあとにしました。
宮司様と別れてから、案内人のSさんは僕と日和警部に言いました。
「いままで私は何人もの方をこの神社に案内して、一緒に御神体を拝見しましたが、これほど長い時間、御神体と向き合った方々は、あなた方お二人だけです」
「そうですか」
「そして金田一さん、長年私もこの御神体を見てきたが、あなたの推理に刺激を受けましたよ」
「とんでもないことです」
僕は照れくさくなり、頭を掻きむしりました。
「やはり、あんたを連れてきて正解じゃった」
今度は日和警部が僕にそうおっしゃいました。
かくして、村の小さな御神体をめぐる僕の推理は、ひとまず幕を閉じたのです。
一期一会の研修会
11月19日(木)
身辺雑記を書こうとすると、「自慢話」か「愚痴」のどちらかしかないことに気づいたので、読者が不快にならないように、最近は身辺雑記を書かないようにしていたのだが、今日は仕方がない。
今週は、全国各地から集まった60名ほどの専門職の方々が、うちの職場で研修を受けるという、年に1度の「研修週間」である。
私も、木曜日の午後、2時間半ほど、30名を対象にした研修会の講師をすることになった。
(冗談じゃない!研修を受けたいのはこっちの方だ!)
何しろ研修を受けに来る人の多くは、私よりも経験豊富な人たちなのだ。年齢も、私と同じくらいの人もいれば、大学を卒業して間もないという人もいたりして、年齢層は幅広い。
そんな方たちの前で、まだこの仕事が2年目である私は何をすればいいというのだろう?
割り切って、自分が面白いと思うことを話すことにした。
ただたんに座学だけではつまらないから、ちょっとクイズ形式を入れてみたりする。
とっつくにくいシロモノを、とっつきやすくすることが、私の得意とするところである。
なので、わざととっつきにくいシロモノを選んで、それをサカナにあーだこーだやることにした。
…ま、やってることは、「前の職場」で学生たちの前で話していたことと、ほぼ同じである。
久しぶりに30人ほどの方たちの前で授業っぽいことをしてみたが、やっぱり授業を組み立てるって、面白いなあ。
私は14年ほど教壇に立っていたが、年々自分の授業に自信が持てなくなり、
(そろそろ潮時かな…)
と思って、昨年の3月をもって、教壇に立つことをやめてしまった。
今もなお、再び教壇に立ちたいとは思っていないのだが、しかし、今日久しぶりにやってみて、少し決心がぐらついた。
14年ほど教壇に立って、いくつか自分なりに心がけていたことがあった。
1.1年に1つずつ、「テッパン」(誰が聞いても、何度聞いても面白いという意味)のネタをつくる。10年続ければ、10の「テッパンネタ」ができるから、たいていの場合それで何とかなる。
2.自分が面白いと思ったことだけを話す。
3.聞き手の立場に寄り添い、聞き手が共感できるような話をする。
4.すぐに結論を言わない。聞き手に考える時間を与える。
今回も、1~4の心がけ通りにおこなったつもりである。今回は2時間半の一期一会。自分が面白いと思う「テッパンネタ」だけを厳選して授業を組み立てた。
休憩時間に、20代とおぼしき、参加者の一人の女性が、私に近寄ってきた。
「あのう…、私、こういう者です」
名刺を受け取った。初対面の方である。その人が続けた。
「Tさんって、ご存じですか?」
久しぶりに聞く名前である。
「Tさん!知ってるも何も、私が指導教員だった学生ですよ」
Tさんは、数年前に卒業した教え子だった。このブログにも、何度か登場したことがある。卒業以来、会っていない。
「私、以前Tさんと同じ職場にいたんです。今は私、職場が変わってしまいましたけど」
「Tさんも専門職に就いているんですね」
「そうです」
私は卒業後のTさんの動向についてまったく知らなかったので、とても驚いた。世間はなんと狭いことか!
「私が先生の授業を受けることをTさんに言ったら、ぜひよろしくと伝えてくれと、名刺を預かってきました。これ、Tさんの名刺です」
Tさんの名刺を受け取る。Tさんは地元で、大学のときの専門分野を活かした専門職に就いていたのだった。
名刺に書かれているTさんの職場は、まだ行ったことがなかったが、一度訪れてみたいところだった。
今度遊びに行くことにしよう。
さて、2時間半の授業が終わり、受講生が次々と研修会場をあとにする。
一人また、20代とおぼしき女性が近づいてきた。
「あのう…、私、こういう者です」
名刺を受け取った。初対面の方である。その人が続けた。
「私、先生の専門とは少し違う分野を大学で勉強したんですけど、大学時代にこの授業を受けていたら、先生と同じ分野に進もうと思ったと思います」
「そうですか」
「今日はありがとうございました。機会があったら、ここからずいぶん遠いですけれど、うちの職場にもぜひおいでください」
「たしかに遠いところですね。でもいつか必ずうかがいます」
30人受講して、そのうちの1人からもらった感想である。
私はかつて、
「私の授業を100人が聞いたとして、そのうちの3人の心を動かすことができれば、その授業は大成功である」
という法則を自分で作ったことがある。
その法則からしたら、今日の授業は、成功したというべきだろう。
しかし私は同時に知っている。
そういう授業は、世間的にはほとんど顧みられることがないことを。
久しぶりに、「前の職場」にいたときの感覚に戻った気がした。
…だからといって、再び教壇に立とうとは思わないが。
小沢栄太郎と加藤嘉
金田一映画で、印象に残る常連脇役をあげろといえば、小沢栄太郎と加藤嘉が思い浮かぶ。
小沢栄太郎は、市川崑版「犬神家の一族」(1976年公開)で、古館弁護士を演じているし、斎藤光正版「悪魔が来たりて笛を吹く」(1979年公開)では、あの玉虫公爵を演じている。
毎日放送版「横溝正史シリーズ 悪魔の手毬唄」(1977年)では多々羅放庵、同じく「横溝正史シリーズ 不死蝶」(1978年)では矢部杢衛といった、アクの強い、クセのある、重要な役どころを演じている。
毎年のように金田一関連の映画やドラマに出演していたのだ。
加藤嘉は、野村芳太郎版「八つ墓村」(1977年)では井川丑松役、斎藤光正版「悪魔が来たりて笛を吹く」(1979年)では慈道和尚役と、小沢栄太郎ほどあまり目立ってはいないが、特筆すべきは、毎日放送版「横溝正史シリーズ 悪魔が来たりて笛を吹く」(1977年)ではなんと、映画版で小沢栄太郎が演じた玉虫公爵役を演じているのである!
「悪魔が来たりて笛を吹く」の場合、映画版よりもテレビ版の方が先だから、玉虫公爵を最初に演じたのは、小沢栄太郎ではなく、加藤嘉ということになる!
しかも、「悪魔が来たりて笛を吹く」のテレビドラマ版では玉虫公爵というアクの強い役を演じていたのに対して、2年後の映画版では慈道和尚という、実に慈悲深い和尚を演じているのである!
このような例は、他に聞いたことがない。
私が、加藤嘉こそが、日本映画界最強の俳優であると考えるゆえんである。
さて、2人の縁は、「悪魔が来たりて笛を吹く」で玉虫公爵の役をともに演じたというだけにとどまらない。
田宮次郎主演の映画版「白い巨塔」(1966年公開)で、小沢栄太郎は鵜飼教授、加藤嘉は大河内教授の役で出演している。いずれもやはりクセのある役どころである。
そして驚くことに、同じ田宮次郎が主演したフジテレビ版「白い巨塔」(1978年)においても、やはり小沢栄太郎は鵜飼教授、加藤嘉は大河内教授の役で出演しているのである!
なお、映画版「白い巨塔」(1966年)とフジテレビ版「白い巨塔」(1978年)とで、同じ役どころで出演している俳優は、主演の田宮次郎を除けば、鵜飼教授を演じる小沢栄太郎と大河内教授を演じる加藤嘉をおいて他にいない!
いかにこの2人が余人をもって代えがたい役者であるかがわかる事例である。
そして奇しくも2人は、ともに1988年に生涯を終えている。
まことに因縁深きふたりである。
この二人が、今の時代にLINEをしていたとしたら、どんな会話を交わすだろう?
HKS舌禍事件
「アイランドがファンに対して舌禍事件を起こしたそうですな」
「まあもともと口の悪いヤツでしたからね。舌禍事件を起こすのも時間の問題だったんでしょう」
「どうしてそんなことになったんです?」
「何でもコンサート中に居眠りをしていたファンがいて、そのファンに軽口をたたいたそうですよ」
「ほう。例の、小馬鹿にする感じですか」
「そうだと思います」
「しかしそうなると、HKSのメンバーは、どうなっちゃうんでしょうか」
「いちばん困るのは、事務所のベテランマネージャーでしょうね。メンバーの中でもアイランドをいちばんかわいがってましたから」
「あの、HKSのイケメンたちといつもつるんでいる人ですね。マネージャーとアイランドは二人でしばしばランチに行くところが目撃されてますし、二人で飲みにいったりもしているのではないかとも噂されています」
「ファンからは『ニコイチ』なんて言われたりもしてます」
「脇が甘いですねえ。少し距離を置くことになるんでしょうか」
「いえ、そんなことはないと思いますよ。マネージャーは今回の事件について、あまり問題視しないつもりでしょう。なにしろアイランドを贔屓にしていますからね。家も近所だし」
「これを機に、マウンテンがのし上がってくるなんてのは?」
「まあ、マウンテンもマネージャーのお気に入りですからね。しかしルックスはマウンテンよりも断然アイランドですからね、マネージャーの好みはやはりアイランドでしょう。基本的にはこれまでと変わらない感じだと思いますよ」
「意外とヒルズが出てきたりして」
「ヒルズもイケメンですからねえ」
「しかし、アイランドのその事件を問題視しないというのは、問題だなあ」
「かわいがっていると、目が曇るなんてのは、よくあることですよ」
「その場に一緒にいたのが、レッドだったというではありませんか。しかしこれはアイランドの単独犯行で、横にいたレッドに罪はない。」
「レッドはいわば、マネージャーの天敵。今回ばかりは、仲間のアイランドをかばって、レッドを非難することはできないでしょうね。さあ、この事件、マネージャーはどう判断するのかな?」
「面白くなってまいりました」
「下町ロケット」見ました
こぶぎさんに勧められたTBSテレビのドラマ「下町ロケット」を見た。
ただし、第1回と第2回は見逃してしまい、録画した第3回を見た。
なんの予備知識もなく見始めたのだが、これも、池井戸潤が原作なのね。
「半沢直樹」「ルーズヴェルト・ゲーム」に続く、池井戸潤シリーズ。
なんとなく、私が子供の頃に見ていた土曜日夜10時の「横溝正史シリーズ」「森村誠一シリーズ」「高木彬光シリーズ」を彷彿とさせる。
いっそ、日曜日午後9時の枠を、かつての「森村誠一シリーズ」みたいに、特定の作家数人によるシリーズでまわしたらどうだろう。
さて、第3回を見てみたが。
「ルーズヴェルト・ゲーム」を見ていた私としては、
(同じテイストだなあ…)
と思ってしまった。
私が気になったところは、まず、松平定知さんのナレーションが、どうしても「そのとき歴史は動いた」を連想させてしまう。
もう、松平さんの名調子に圧倒されるばかりなのである。
そして、我らが談春師匠が、今回は「いい人」役で登場している。
前回の「ルーズヴェルト・ゲーム」では、悪役に徹していたので、バランスをとったのかな、と思ったり。
安田顕の芸達者ぶりには、相変わらず舌を巻く。
…と、それなりに楽しんだのだが、やはりどうしても「ルーズヴェルト・ゲーム」と重なってしまうのだ。
それに何より、「大企業に虐げられる中小企業」とか、「ライバル中小企業との競争」とか、今の私が置かれている状況と重なる部分が多く、身につまされる。
ひょっとして、こぶぎさんが勧めてくれた「特許権訴訟をめぐる裁判劇」は、第2回までで終わってしまったのか?
とすれば、やはりさかのぼって第1回、第2回を見るべきなのだろうか。
目下、思案中である。
「犬神家の一族」からの妄想
こぶぎさん、こんにちは。
無料動画サイトGyaOで、リメイク版の「犬神家の一族」(2006年公開)をやっていたので、見ることにしたんですよ。
公開当時は、リメイク版は、きっとオリジナル版(1976年公開)には勝てないだろう、と思い、見なかったのですが、今回初めて見てみたところ、思った以上によい出来だったと思いました。
…というより、オリジナル版と、セリフやカット割りが、ほとんど変わらないではないですか。
2006年版では、主要人物の平均年齢が上がったことが、大きな特徴です。
金田一耕助を演じる石坂浩二は、この当時60代半ば(オリジナル版当時は30代半ば)。それにしては、ひどく演技が俊敏です。
等々力署長(オリジナル版では橘署長)を演じる加藤武は、70代半ば(オリジナル版当時は40代半ば)。
神社の神官を演じる大滝秀治は、81歳(オリジナル版では51歳)。ただし見た目はオリジナル版のときとほとんど変わりません。
2006年版では下っ端の刑事役に尾藤イサオが出ていますが、このときすでに尾藤イサオは63歳。とても下っ端の刑事という年齢ではないのですが、そんなことを感じさせないくらい若々しいのです。
市川監督は、なぜ、リメイクといいつつも、脚本もカット割りも前作とまったく同じ作品を作り上げたのでしょうか?
こぶぎさん、僕は思うのです。
芝居でいえば、これは再演なのではないか、と。
たとえていえば、森光子の「放浪記」のようなものなのです。還暦を過ぎた石坂浩二が、若い金田一耕助を演じるというのは、そういうことなのではないでしょうか。
それを、映画で実践したのではないでしょうか。
今見返してみると、1976年版は、映画としてほぼ完璧なのです。だからこれをほとんど改変しなかったのではないでしょうか。
さて、些細なことですが。
今回、映画を見直してみて気づいたことなのですが、長女の犬神松子(1976年版では高峰三枝子、2006年版では富司純子)が、自分の部屋の和箪笥の上段部分にある扉を開けて、細長い奇妙な生物を描いた絵を拝んでいる場面が何度か登場するでしょう。
何とも奇妙なシーンなのですが、映画では、この場面についての説明が一切ありません。事件の伏線になっているわけでもありません。いわばスルーしているのです。
映画を見ている方からすれば、
(あの、奇妙な生物の絵を拝んでいるのは、何か意味があるのだろうか?)
とも思うのですが、市川監督はこの場面について、何も説明していないのです。
おそらく、犬神松子が信仰している邪教の一種なのだと思うのですが、それが、殺人とどう関わっているのかという説明がないことが、余計にこの場面を気味の悪いものにしているのです。
それと、映画の中では、犬神家は「犬神製薬」という製薬業により財をなしたとされていますが、横溝正史原作の小説では「製糸業」により財をなしたとあり、原作を改変しています。
原作の「製糸業」のモデルになった会社とは、ほら、以前僕が行った「湖の近くの温泉」があった建物ですよ。こぶぎさんが見事、正解しましたよね。
犬神家の連続殺人事件が起きたのは昭和22年ですが、戦争中は、犬神家が阿片の製造をおこない、大陸に輸出して財をなしたと、映画の中では語られています。原作の設定よりも映画の設定の方が、より犬神家のいかがわしさを際立たせているように思います。
そして「邪教」と「阿片」は、私の中で、松本清張の未完の絶筆「神々の乱心」とシンクロするのです。
ここから、松本清張「神々の乱心」と横溝正史「犬神家の一族」を合わせた、壮大な物語が描けそうな気がするのですが、妄想に過ぎるので、今はこれ以上書くのをやめておきます。
でもいつか、「神々の乱心」と「犬神家の一族」を合わせたような壮大な小説を書きたいと思うのですよ。
こんなことをこぶぎさんに向かって書いたのは、こんな訳のわからない妄想を理解してくれるのが、もうこぶぎさんしかいないのではないか、と思ったからです。
次は、いつ更新するかわかりませんが、気が向いたら更新します。
訣別の人
自分自身もそういう傾向にあるのだが、よくいろいろな人と訣別してしまうという人が、以前、私のところに相談に来た。
「それまではふつうに接していたり、仲よかったりしたのに、ある日を境に、顔も見たくない、声も聞きたくない、なんてことになるんです」
「ほう」
「もう絶対に連絡を取りたくない、とか。ひどいときには、その人のメールアドレスを削除してしまうこともあります」
「なるほど」
その人の、一つ一つの事例を聞いてみると、どうもその人には落ち度がないようだ。その人によれば、やがて訣別をすることになる、その相手の人たちから、ずいぶんとひどい仕打ちを受けてきた、というのである。
「聞いていると、あなたの側に落ち度があるわけではありませんね」
「そうでしょうか」
「ですのでご自分を責める必要はありません」
「それを聞いて安心しました。ありがとうございます」
さて、あるときのことである。
それまで、頻繁に相談に来ていたその人が、パッタリと来なくなった。
便りのないのはよい便り、もうすっかり問題なく過ごしているのだろうと思ってはみたが、あれだけ数々の深刻そうな相談を受けてきたこちらとしては、やはり少し心配である。
こちらからさりげなく近況を聞いてみたところ、
「環境が変わったので、以前のように相談する暇がなくなりました」
と実に素っ気ない返事が返ってきた。
それは、「もう連絡を取ってくれるな」というオーラが感じられる文章だった。
はて、私が何か、相手の気に障るようなことを言ったのだろか?
しかし何度思い返しても、私の側に心当たりはない。
あるいは、と考える。
その人が、あらゆる人と訣別する理由が、ここに隠れているのではないだろうか、と。
私はつい、その人の話を聞いているうちに、その人を弁護するような立場に、知らず知らずのうちに立っていたのではないだろうか。
私は、相手の側に一方的に非があると、思い込んでいたのではないだろうか。
訣別の原因が、相手にあるのか、その人にあるのか、いまになって、よくわからなくなった。
ただ一ついえることは、私もまた、その人にとっての訣別の対象となった、ということである。
予約席の客
11月10日(火)
この町で仕事をするとき、仕事場から少し歩いた小さなカフェでいつも昼食をとる。
仕事場の周りには食堂がなく、唯一あるのが、その小さなカフェなのである。
4人掛けのテーブルが3つほどあるだけの狭いお店で、女性店主が一人で切り盛りしている。ほかに男性店員が一人いるが、家族だろうか。小さいが、こじゃれたお店である。
私と同僚と、一緒に仕事をしている職人さんの3~4人で、お昼になるといつもその店に行く。
いつも同じ場所のテーブルに座る。
メニューは決まって、カレーである。
さて、仕事初日の月曜日。
いつものように、3人でお昼にそのお店に行くと、めずらしいことに、お客さんがけっこう入っていた。
だが、いつも私たちが座るテーブルだけが、空いていた。
見ると、「予約席」と書いた札が置いてある。
「あ、ここ、予約席ですか?」
「いえ、どうぞどうぞ」
そう言うと、店主は「予約席」と書いた札を取り去った。
で、いつものようにそのテーブルに座り、カレーを注文した。
翌日。
同じようにお昼にそのカフェに行く。
やはり、私たちがいつも座るテーブルに「予約席」という札が置いてあった。
「あ、予約席…」
「いえ、どうぞどうぞ」
店主は、私たちが来ると、「予約席」の札をまたも取り去ったのである。
で、いつものようにカレーを注文した。
食べ終わり、店を出てから、疑問に思った私は先輩の同僚に言った。
「二日とも、テーブルに『予約席』の札が置いてありましたけど、あれ、何なんでしょうね」
「さあ。誰かあの店を予約していたのかなあ」
「わざわざ予約をして行くほどの店ではありませんよ」
「それもそうだね」
「それに、私たちがあのテーブルで食べている間、それらしいお客さんは来ませんでしたしね」
「そうだねえ」
「ひょっとして、『予約席』って、我々のためにテーブルをとっておいてくれたんじゃないですか?」
「まさか…。だって我々がこちらに来る日程を、あの店主が知っているはずがないよ」
「そうですよね」
たしかにおかしい。
私たちが仕事でこの町に来るのは、1年に3回。4月と8月と11月である。
だが、細かな日程は、先方とのスケジュール調整によって決まるのである。
しかも各回とも、仕事をするのは、ほんの数日間に過ぎない。
私たちは、特段、店主と親しいわけでもない。ほとんど会話を交わすこともない。
そもそも私たちは、店主や店員に対して、自分たちの素性を明かしていないのである。
お店の人にとってみたら、「4月と8月と11月の数日間、なんとなくあらわれる客」に過ぎないのだ。決して常連客などというものではない。
そんな、素性がわからない、いつ来るかわからない連中のために、
「ああ、あの人たちがそろそろ来る時期だわ」
といって、「予約席」の札をテーブルに置くだろうか?
まず、あり得ないことである。
では、いったいあの「予約席」の札は、誰のための札だったのだろうか?
謎である。
そのとき私の頭をよぎったのは、シティーボーズの「洋食屋さん」というコントだったのだが、ま、それはわかる人がわかればよろしい。
面倒なことが嫌いな小さい人間
11月9日(月)
夜、高校時代の友人、元福岡のコバヤシから携帯メールが来た。
「相変わらず忙しいのでしょうが、○○との飲み会の件はいかがでしょうか?候補日くらいは発信お願いします」
○○というのは、ここ20年ほど音信不通だった高校時代の友人のことである。
少し前、音信不通だった高校時代の友人から突然メールが来て、今度コバヤシも交えて3人で一緒にお酒でも飲もう、ということになったのだが、日程調整係の僕は、忙しさにかまけてつい後回しにしていたのだった。
さすがに業を煮やしたのか、ふだんめったにメールをよこさないコバヤシからメールが来たのである。
メールはさらに続いた。
「それから、貴君のブログを読んでしまいましたが、恥ずかしいので私が立派な人のようなことを書かないように。
私はたいした人間ではありません。
面倒なことが嫌いな小さい人間です(体はデカいですが)。」
少し前にコバヤシについて書いた記事を読んだらしい。
このメールの本当の趣旨は、後半にあるのだろう、と僕は理解した。
僕はそもそも、親しい友人を美化する傾向にある。
コバヤシに限ったことではない。
以前、このブログである友人を称える記事を書いたことがある。
その友人の奥さんもその記事を読んでいたようで、後日友人から、
「うちの奥さんがあの記事を読んで言ってたよ。『一緒に住んでないからあんな美化したことが書けるんだ』って」
と言われた。ま、だいたいそういうものだろう。
こぶぎさんに対しても、ブログの中ではかなり美化して書いているつもりである。
まあそれはともかく。
メールの中にあった、「面倒なことが嫌いな小さい人間」というのは、まさに今の僕に当てはまる。
前から決まっていた出張だったとはいえ、このタイミングで長丁場の出張ができたことは、僕にとっては格好の現実逃避となった。
いわば僕も、これ幸いと、面倒なことから逃げてきたのである。
僕はコバヤシに返事を書いた。
「日程調整しなければと思いつつ、このところいろいろなことがありました。
職場で面倒な仕事を押しつけられ、それが原因ですっかり鬱になり、今は出張のおかげでかろうじて現実逃避できています。
それに加え、(中略)。
そんなこんなで、日程調整はしばらく先まで待ってもらえませんか。
友人を美化するのは私の癖で、貴殿に対してだけではありませんのでご心配なく。別の友人からも「私はそれほど立派な人間じゃない」と言われたことがあります。
ではまた」
コバヤシの返事。
「『面倒な仕事で憂鬱』というのは毎度の決まり文句なので聞き流させていただきますが、(中略)、仕事も家もというと、かなりこたえるでしょうから、あまり無理はしないでください。では、またそのうち」
この記事を読んだ読者諸賢。もうおわかりだろう。
面倒なことから逃げている小さい人間が、ほんとうはどちらなのかということを。
続・ハルキをめぐる冒険
11月9日(月)
僕がその町で仕事をするたびに訪れるのが、昔ながらの風情が残る町並みの一角にある、プラハ出身の世界的作家の名前がついたカフェだった。
友人の弟さんが経営しているという理由で最初は訪れたのだけれど、あるとき、村上春樹が「一度訪れてみたい」と書いていたのを目にして、そこに行けばひょっとしたら村上春樹に会えるかもしれない、と思うようになった。
僕は格別熱心なファンではなかったけれど、そのカフェを訪れる目的が、しだいに「村上春樹に会いに行く」ことへと変わっていった。
しかし僕は、どうもこの店とは、相性が悪いみたいだった。そもそも僕が最初にその店に訪れたのが、その店の定休日の日だったのだ。
その後も何度か訪れようとするが、特別なイベントの日で入りづらかったり、台風が来てそれどころではなかったり、相変わらず定休日に、それと気づかずに店の前までやってくることもしばしばだった。
おかげで今では、この店の定休日が水曜日であることを、すっかりと覚えてしまったのである。
昨日は日曜日だった。翌日からの仕事を控え、夕方にこの町に到着した僕は、雨の中を歩いてそのカフェに向かった。この季節にしてはめずらしいどしゃ降りの雨である。
今日は日曜日だから、定休日ではないはずである。
夕方5時過ぎ、店の前に到着すると、店の灯りはついているが、「OPEN」の看板はなく、店主と店員さんが打ち合わせをしている姿が見えた。
店の入り口の引き戸をガラガラと開けると、その音に気づいた店員さんが、こちらの方を怪訝そうな目で見つめた。
その目線で、このカフェが今日は早じまいしたことを僕は悟った。
そしてどしゃ降りの雨の中を、ホテルへと戻ったのである。
今日。
昼間の仕事ですっかりと神経をすり減らした僕は、仕事が少しばかり早く終わったことをいいことに、そのカフェのコーヒーに癒やされることだけを考えて、小雨の降る中を、歩いてカフェに向かった。仕事場からそのカフェまでは、歩いて30分ほどの道のりである。
午後4時50分。カフェの前に着いた。今日は月曜日だから、定休日ではないはずである。
店の前には「OPEN」という看板も出ている。
入り口の引き戸をガラガラと開ける。
するとその音に気づいたのか、女性の店員さんが厨房から出てきた。
「ごめんなさい。今日は5時で閉店なんです」と店員さんが言った。
「そ、…そうなんですか…」と僕は言った。
「すみません」と店員さんは言った。
(5時までは、まだあと10分あるのにな…)と思いながらも、その店員さんの有無を言わせない笑顔に、僕はすっかり根負けしてしまったのである。
つくづく、このカフェとは縁がないなあ、と思いながら、小雨の降りしきる中を、歩いてホテルに戻ることにした。
(いったいいつになったら僕は、この店で村上春樹に会えるのだろう?)と僕は思った。
それより何より、僕は一つ思い出した。
僕に村上春樹の小説を紹介してくれた人とは、もうとっくに音信不通なのである。
僕が村上春樹に会いたいと思ったのは、、僕に村上春樹の小説を紹介してくれたその人に、会ったことをいつか自慢してやろう、と考えたからだった。
でも音信不通になった今、そんなことは、まったく意味のないことだった。
それに、音信不通になった人も、僕に村上春樹の小説を紹介してくれたことなど、とっくに忘れているだろう。
僕は本当に、村上春樹に会いたかったのだろうか。
僕は帰り道に立ち寄った古本屋で、村上春樹ではなく、井上光晴の小説を買ったのだった。
滋賀県ファン
11月6日(金)
またまた旅の空です!
今回は長丁場の関西出張である。
この時期の京都は宿が取れない。
ということで、お隣の滋賀県にとることにした。
滋賀県、という県が意外と好きである。
滋賀県好きが高じて、「近江風土記」という、むかしびわ湖放送というローカル局が放送していた滋賀県の風土を紹介したローカル番組のDVDボックスを持っているほどである。滋賀県民でもないのに。
あるテレビ番組で、
「京都の人は、滋賀県民をバカにしている」
というテーマで、京都の人と滋賀の人に街頭インタビューをしていた。
たしかに京都の人は、滋賀県民をバカにしている。
許せないのは、滋賀県民である。
「お前ら琵琶湖の水を飲んどるくせに。つべこべ言うんやったら、琵琶湖の水を止めたるぞ!」
と、インタビューに答えている人は、京都人に怒り心頭のご様子である。
「じゃあ、滋賀県のよいところは、どんな点ですか?」
と聞いてみたところ、その人は
「京都に近いこと。京都にすぐ出れる」
と答えていて、大笑いした。
負けを認めてるやん!
そんな滋賀県が、好きである。
ハチミツに大根おろし
先日、久しぶりに実家に帰って泊まった。
晩ご飯は外で食べてきたというのに、母がミニトマトを持ってきて、「これを食べなさい」という。
翌朝。
起き抜けに、「これを食べなさい」と言って出されたのが、ハチミツに大根おろしを混ぜたものであった。
「何なの?これ」
「これを食べると、絶対に風邪をひかないのよ」
「わかったわかった」といって食べてみた。
別に悪くはないのだが、そのハチミツって、俺がおみやげに持ってきた、すげえ高級なハチミツだよね。
その高級なハチミツに、大根おろしを混ぜて食べるというのは、どうなんだろう。
高級ハチミツの「台無し感」が、ハンパないではないか!
「じゃあ、昨晩のトマトは?」
「夜にミニトマトを食べると、コレステロールの値が劇的に下がるんだってよ」
そういえば、以前こぶぎさんがそれに近いことを言っていた記憶が…。聞き流していたが。
「私だって下がったんだから」と母。
「へえ」
「もっとも、コレステロールを下げる薬も飲んでいるけどね」
「じゃあ薬のせいじゃん!ミニトマト関係ないじゃん!」
…というわけで、今は「ミニトマト」と「大根おろし入りハチミツ」が、母のマイブームのようである。
カツラはあなたではない
ずっと昔、「スピード」という4人組の女性アイドルグループがいた。
そのグループが人気絶頂のころ、ある深夜ラジオのDJが、
「スピードの中に、一人、面白い顔の人がいるよね」
とラジオで言ったところ、リスナーから、
「ヒトエちゃんのことを悪く言うな!」
という抗議のお便りが殺到したのだという。
後日、そのラジオDJは、抗議が殺到したことを受けて、
「みんな、なんか勘違いしてるよね。俺が言ったのは、ヒトエちゃんのことではなく、ヒロちゃんのことなんだけど」
と言った。
このエピソードから学べることは、不特定多数の人たちに対して、ある人のことを名前を出さずに評価したときに、それを聞いた人たちは、勝手に特定の人物を思い浮かべ、疑心暗鬼になる、ということである。
とくによくあるのは、「あれって、俺のことなんじゃねえか」という疑心暗鬼である。
このブログも、いってみれば不特定多数に向けて書いているので、ラジオと基本的には同じである。
たとえば、少し前に「カツラのくせに」という批判の仕方はよくない、という記事を書いた。
あれを読んだ人の中に、
(ひょっとして、俺がカツラだということが、ばれていたか???)
と疑心暗鬼になった人がいたとしたら、大間違いである。
大事なことは、私がそういうことを書く場合、「その人はこの記事を読んでいない」というのが大前提である、ということである。
だから、この記事を読んでいる人は、あてはまらないのだ。
もう一度言う。
このブログを読んでいる人は、疑心暗鬼になる必要はないのだ。
ワカバヤシ先生
11月3日(火)
私の中1のときの担任は、ワカバヤシ先生という、国語の先生だった。背が高く、ひょろっとして、髭の濃い先生である。中3のときも担任だった。ワカバヤシ先生は、以前に一度このブログに登場している。
大学を卒業して、教員免許を取得して最初に赴任したのが、私の中学校で、しかも初めて受け持ったのが、私のクラス、1年C組だった。ワカバヤシ先生にとって、私たちは初めて受け持つ生徒たちだった。
うちの中学校は当時とても荒れていて、とんでもない中学に来たものだ、と思ったことだろう。
だが当時は、そんな様子を見せないほど、落ち着いた先生だった。
今思えば、聞き分けのない中学生たちとどう接してよいのか、試行錯誤の連続だったのだろうと思う。
自慢ではないが、私は国語の成績がとてもよかった。
ワカバヤシ先生はそれを意識してか、定期試験の問題の中で、わざと難しい問題を出すことがあった。
私も解けないような問題である。
だがあるとき、たしか中3のときだったと思う。
定期試験の答案用紙が一人一人に返された。
私の名前が呼ばれ、教壇のところに行く。
するとワカバヤシ先生が、私の答案用紙を眺めながら言った。
「お前にだけは、100点を取られたくなかった」
そう言って、私に答案用紙を渡した。
そのときの、ワカバヤシ先生の顔は、今でも忘れていない。
私は、ワカバヤシ先生の出した難問を、そのとき初めて完璧に解いたのである。
…これは、いまでも時折思い出す自慢話である。
さて今日、久しぶりに実家に帰ったら、母が言った。
「ワカバヤシ先生、九中に戻ったんだってよ」
九中、というのは、私の母校である。
ワカバヤシ先生はあちこちの中学に転勤して、定年間際になって、最初に赴任した中学校に戻ったのである。
「今でも国語を教えてるんだね」
「そうみたいよ。あんたの1級下で、いま郵便局長やってる○○さんって、覚えてる?」
「さあ」
「向こうはあんたのこと覚えてるみたいよ。その娘さんがいま、九中に通っているんだって」
「へえ」
「娘さんがいま、ワカバヤシ先生に国語を習っていてね。定期試験を受けたら、とても難しかったんだって」
「相変わらずいまでも難しい問題を出してるんだ」
「で、その娘さんがワカバヤシ先生に、『先生、先生の国語の問題、難しすぎるよ!』って、文句を言ったんだって。そうしたらワカバヤシ先生、何て言ったと思う?」
「さあ」
「『むかし、最初にこの中学に赴任したとき、鬼瓦君というのがいてな。その鬼瓦君が、この問題を完璧に解いたんだぞ』って言われたんだって」
「……」
「でもその娘さん、あんたのことなんかわからないでしょ。家に帰って、お父さんに『鬼瓦君って、誰?』って聞いたら、『お父さんの1年先輩の人だよ』って答えたんだって」
「……」
私はちょっと感動した。だって、もう32年も前の話である。
32年も前の生徒のことを、まだ覚えていてくれたんだ…。
というか、あの難しい問題は、私が解いて以来32年間、ほかの誰も正解していないのか???
ワカバヤシ先生がいまだに私の名前を覚えてくれたことに、感謝した。
ワカバヤシ先生とは、中学校を卒業して以来、一度もお会いしていない。
先生が母校の中学校にいるうちに、先生に会いに行こうか。
タイヤがパンクしたので交換した
11月1日(日)
忙しくって、こぶぎさんが期待するような、ウィットに富んだ記事が書けない。
最近起こった出来事といえば、次のようなことである。
先々週の火曜日、車のタイヤがパンクした。
この日はずっと会議で、夜7時頃に終わり、そのあと書類を書いていたりして、夜9時過ぎに職場を出た。
職場からの帰り、家に向かって車を走らせていると、「ガタガタガタ」とすごい音がするので、車をとめて見てみると、左後ろのタイヤがパンクしていた。
思いあたるフシがないわけではない。朝、職場の駐車場に止めようとバックをしていたら、何かに乗り上げてしまい、あわてて前進に切り替えた。
どうもそのときにタイヤに傷がついてパンクしたのだろう。
しかし、わが人生で車のタイヤがパンクしたのは、これが初めてである。
機械音痴の私は、自分でパンクを直すことができないので、ロードサービスを呼ぶことにした。
待つこと45分、ロードサービスがやってきた。
車載のスペアタイヤに交換してもらった。
「スピードを出してはいけません」と言われたので、そろりそろりと運転して帰り、家に着いたのが夜の12時だった。もうヘトヘトである。
スペアタイヤをずっとはいているわけにはいかないので、早いうちにタイヤ交換をしたかったのだが、翌日から出張や会議が続き、ようやく昨日の土曜日になって、タイヤを交換する時間ができた。
わが家から歩いてすぐのところに、小さなタイやショップがある。
チェーン店のタイヤショップも近所にあるのだが、いちばん近い、その小さなタイやショップで交換してもらうことにした。
タイやショップには、一人、ヨボヨボのおじいさんが一人いた。
「あのー、タイヤがパンクしちゃったんで、交換してもらいたいんですけど」
「今、若いもんがちょうど外へ出ていてねぇ」と、おじいさん。
「じゃあ無理ですか?」
「大丈夫だよ」
私は心配だった。そのおじいさんは、「ドリフ大爆笑」の「もしもコーナー」で志村けんが演じるおじいさんのような動きをしていたからである。
…わかる人だけがわかればよろしい。
しかし一方で、こうも考えた。
長年この稼業を続けているということは、タイヤ交換にそうとう熟練したおじいさんなのではないだろうか、と。
私は、志村けんみたいな動きをするそのおじいさんに賭けてみることにした。
「あっちで座ってなさい」
事務所みたいなスペースにうながされ、いすに座ってタイヤ交換の様子を見ることにした。
まずスペアタイヤを外す。
これだけでおじいさんには一苦労である。
「ウーン、ウーン」となにやら唸りながら、外したタイヤをヨロヨロと転がしながら、少し離れた場所に置いた。
続いて新しいタイヤを持ってこなければならない。
敷地の端っこに新品タイヤが置かれていて、「ウーン、ウーン」と唸りながら、そこまでヨロヨロと歩き出した。
自分の身長の二倍ほどの高さのところに置いてある新品のタイヤを、今度はビールケースを踏み台にして、また「ウーン、ウーン」と唸りながら、やっとのことでタイヤを一つ持ち上げて、それを地面に下ろす。
それを今度は、「ウーン、ウーン」と唸りながら、転がして車の近くまで持ってくる。
新品タイヤを車の近くに置いて、今度は私が座っている事務スペースに向かってヨロヨロと歩いてきた。
事務スペースにある電話に手をかけ、誰かに電話をかけた。
「おい、今どこにいるんだ、早く帰って来いよ!」
外出している「若いもん」に電話をかけたらしい。
なあんだ。結局自分一人では無理だったのか。
見たところそうとうなお年なので、無理もないことである。
やがて、軽トラックの音がして、「若いもん」が帰ってきた。
私はびっくりした。
「若いもん」と言っていた人は、私が見たところ、とうに還暦を過ぎたと思われる方である。
(この人、この職場にいる限りずっと『若いもん』と言われるんだろうな…)
それでも、「若いもん」の方がそのおじいさんよりもはるかに手際よくタイヤを交換した。
…ということで、タイヤ交換は無事に終了した。
時間があれば、もっと練った描写をするのだが、とりあえず事実を書くにとどめる。
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