訣別の人
自分自身もそういう傾向にあるのだが、よくいろいろな人と訣別してしまうという人が、以前、私のところに相談に来た。
「それまではふつうに接していたり、仲よかったりしたのに、ある日を境に、顔も見たくない、声も聞きたくない、なんてことになるんです」
「ほう」
「もう絶対に連絡を取りたくない、とか。ひどいときには、その人のメールアドレスを削除してしまうこともあります」
「なるほど」
その人の、一つ一つの事例を聞いてみると、どうもその人には落ち度がないようだ。その人によれば、やがて訣別をすることになる、その相手の人たちから、ずいぶんとひどい仕打ちを受けてきた、というのである。
「聞いていると、あなたの側に落ち度があるわけではありませんね」
「そうでしょうか」
「ですのでご自分を責める必要はありません」
「それを聞いて安心しました。ありがとうございます」
さて、あるときのことである。
それまで、頻繁に相談に来ていたその人が、パッタリと来なくなった。
便りのないのはよい便り、もうすっかり問題なく過ごしているのだろうと思ってはみたが、あれだけ数々の深刻そうな相談を受けてきたこちらとしては、やはり少し心配である。
こちらからさりげなく近況を聞いてみたところ、
「環境が変わったので、以前のように相談する暇がなくなりました」
と実に素っ気ない返事が返ってきた。
それは、「もう連絡を取ってくれるな」というオーラが感じられる文章だった。
はて、私が何か、相手の気に障るようなことを言ったのだろか?
しかし何度思い返しても、私の側に心当たりはない。
あるいは、と考える。
その人が、あらゆる人と訣別する理由が、ここに隠れているのではないだろうか、と。
私はつい、その人の話を聞いているうちに、その人を弁護するような立場に、知らず知らずのうちに立っていたのではないだろうか。
私は、相手の側に一方的に非があると、思い込んでいたのではないだろうか。
訣別の原因が、相手にあるのか、その人にあるのか、いまになって、よくわからなくなった。
ただ一ついえることは、私もまた、その人にとっての訣別の対象となった、ということである。
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