ものづくりとパッション
ひどい風邪をひいてしまい、意識が朦朧としているので、今回は何を言い出すかわからない。
先週の、「前の職場」への旅の本来の目的について少しだけ書こう。
結論だけを言うと、「ものづくりって、いいなあ」ということだった。
この場合の「ものづくり」とは、作品をつくるとか、機械をつくる、という意味だけではなく、空間を作るとか、イベントを成功させるとか、そういうことも含まれる。
「こだわりをもって何かを作ったり育てたりする」というくらいの意味である。
どんな仕事にも、おそらく「ものづくり」の部分というのが多かれ少なかれあって、そこに気づいて、こだわれるかこだわれないかで、仕事のおもしろさが全然違ってくるのではないだろうか。
…エラそうなことを言ってすみません。
だから、「ものづくり」に苦労して完成した作品や空間を見たとしても、そこに共感する人と、共感しない人が出てくるのである。
「ものづくり」にこだわる人か、そうでないかの違いということなのだろう。
今回の旅で、久しぶりにこぶぎさんと長時間話したときに、こぶぎさんがこんなことを言っていた。
こぶぎさんは、2年に1度、この地でおこなわれる「ドキュメンタリー映画の祭典」を必ず見に行く。
今回、とても有名な評論家の映画を上映していた。
だが、その映画が残念なことに、まったくダメな映画だった。
ひどい映画だった、というのである。
「パッションがないんだよね~」とこぶぎさん。
「つまり、評論家然としているってこと?」
「そうそう。その一方で、昔からドキュメンタリー映画にこだわって作っている監督の映画の続編が、このたび公開されたんだけれど、これがまたいいのよ」
「パッションがあるんだね」
「そうだね。一人の人の人生を、最後までとり続ける、という責任感ひとつで、映画を作り続けた」
「なるほど。その人の人生に、落とし前をつけるっていうことかな」
「そう。映画に登場した市井の人たちの人生に責任を持つってのが、監督のパッションであり、本当のドキュメンタリー映画といえるんじゃないかな」
「なるほど…」
聞いていて、これはドキュメンタリー映画に限ったことではないな、と思った。
たとえば、教師稼業はどうだ?
誰かを育てるってのは、その人の人生に責任を持つという覚悟が必要なのだ、ということである。
…ま、自分ができていたかというと、それは全然できなかった。
だけれども、間違いなくいえることは、目の前にいる学生や生徒の人生を、間違っても茶化してはいけない、ということである。
ドキュメンタリー映画に登場した市井の人々の人生を、映画監督が茶化すことなく撮り続けなければならないのと同じように、である。
もう一度言う。
どんなに社会的に高い評価をもらっていたとしても、学生の人生を茶化すようなことを言ってはいけないんだぜ、青年。
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コメント
いやいや、その評論家の映画は、ラスト以外はよかったし、普段言っていることもいい。
それだけに、眼前に現れた「佇まい(たたずまい)」とのギャップがねぇ。
でも、ものづくりを言うのであれば、
わたくしめが、ものづくり自慢で持参した「ボス抜き工具」や「自作マグネチックループアンテナ」に、共感どころか電磁誘導すらなかったのは頂けませんぞ。
(参考)ツッパリが死語ではなかった時代・2と2分の1
http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/221-5850.html
投稿: モノ自慢こぶぎ | 2015年12月 2日 (水) 12時13分
そうでした。実際に目の前でお話を聞いたときにパッションがないと感じられたんですよね。他のドキュメンタリー映像作家にはパッションが感じられたのと対照的に。
私もその評論家の文章は常々愛読しておりますよ。
主張は別のところにあるので、風邪で意識が朦朧としていることに免じてご勘弁を。
投稿: onigawaragonzou | 2015年12月 2日 (水) 12時35分