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碩学脱線トーク

話は1週間ほど前にさかのぼる。

3月9日(水)~10日(木)

2日間にわたり、「眼福の先生」と一緒に、7名ほどでうちの職場にある資料を調査することになった。

予想以上に大変な調査となり、2日間、朝から夕方までぶっ続けで調査したためか、かなりヘトヘトになった。

それでも2日目にはなんとか調査が無事に終わり、それなりの成果が出た。

「無事に終わったので、軽く打ち上げでもしましょう」

と、駅の近くにある和食チェーン店で夕食をとることにした。

ただ私は、職場の後かたづけもあるし、翌日からの南九州出張の準備もしなければならなかったので、用事を済ませたあと、1時間ほど遅れて、その和食チェーン店に合流した。

お店の入り口に入ると、奥の方の座席で、「眼福の先生」が、マシンガントークをしているのが見えた。

傘寿を越える「眼福の先生」が最近ますますお元気なのは、何よりである。

この2日間の調査が十分な成果を得て終わったこともあり、先生は満足されたのであろう。

さて、そのマシンガントークの内容なのだが。

あとで聞くところによると、きっかけは、私と同世代のAさんが、

「(眼福の)先生は、大学の卒業の時に、在阪の放送局である「A放送」に内定が決まっていたそうですね。どうして、在阪のA放送に行こうと思われたんですか?」

と質問したことで、先生の思い出話に火がついたらしい。

「それについてはね…」と、先生は、ご自身の生い立ちから始まる壮大なトークを始められたのである!

打ち上げが始まって1時間がたち、私が遅れて合流したときは、まさにその話の途中だった。

圧巻は、60年ほど前に大学生だったころの寮生活の話。

寮生活をともにした先輩、同級生、後輩たちの、生い立ちやら家庭環境やら性格やらその後の人生やらを、おもしろエピソードを交えて、一人一人についてお話になった。

「わき道の話」が、さらにわき道にそれていく。

聞いている私たちは、どんどんと先生のお話になる「道なき道」のジャングルへと連れて行かれてしまう。

それはまるで、一大叙事詩と言ってもよい。

本題って何だったっけ?と、しばしば先生が本題に戻ろうとするが、ご自身のトークはもはやご自身でも止められなくなっていた。

調査に参加した私や私の妻、そして同世代のAさんは、初めて聞く話ばかりで、それはそれで面白かったのだが、眼福の先生と古くからおつきあいのある大先輩の方々は、何度も聞いたことのある話だったようで、黙って聴いておられた。

結局、私が遅れて来てから2時間半ほど、眼福の先生のトークは続き、最後に、

「寮の先輩の紹介で、在阪の放送局に内定をもらったんだけれど、そういえば自分は大阪が嫌いだった、ということを思い出し、内定をことわって大学院に進んだ」

という結論で終わったのであった。

もし眼福の先生がオールナイトニッポンのパーソナリティだったら、2時間ぶっ続けでフリートークをするんだろうな、と想像した。

そしてもし、今から60年ほど前に眼福の先生が在阪の放送局に就職していたら…。

きっと名プロデューサーとして名を残していただろうと、私は確信したのである。

(記事のタイトルは、「底抜け脱線ゲーム」のパロディ)

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