« 2016年ベストワン映画 | トップページ | 散髪屋は、人生だ! ~見習いのリーさん~ »

クドい文体の原点

ちょっと前に紹介した、高校時代の友人・元福岡のコバヤシが送ってきた、「めくるめく読書エッセイ」。

再度引用する。

「ところで、どうでも良い話ではありますが、会社の今の上司が、活字中毒者&漫画マニアなのですが、最近、川上未映子と何とか(名前失念)という歌人の対談集を貸して貰ったところ、意外に面白く、そう言えば最近買った文芸誌に川上未映子と村上春樹の対談があったので、読みました?と聞いたところ、読んでな無いので貸してということで会社に持って行ったら、その雑誌に詩人の工藤直子(上司曰わく巨匠らしい)と松本大洋のコラボによる連載が有り、むしろ、そちらに過剰に反応していました。この2人は実は親子だそうで、2人が一緒に仕事をするのは始めてではないかと、しきりに感激していました。前置きが長くなりましたが、上司が、松本大洋は絵も上手いし天才なんだと力説するので、高校時代の友人が子供向けの本を書いた際に松本大洋が表紙を書いてくれたと自慢していた、と言ったら、それは自慢しても良い話だ凄いことだ、と言われました。今更ながら、ふ~んと思った次第。それではということで、その上司に何か松本大洋の漫画を貸して下さい、と頼んだら竹光侍というのを貸してくれて、今読んでますが、独特の画風と相まってかなり良いですね。貴殿が自慢していたのも、成る程と思っているところです。」

とにかく一文が長いが、なんとなく味わい深い文章だ、と思って紹介したのだった。

それからしばらくたって、私はあることに気づいて、コバヤシにメールをした。

「先日貴殿が送ってくれた「読書感想メール」は、川上未映子の小説「乳と卵」の文体のパロディだったのね」

川上未映子が芥川賞を受賞した小説「乳と卵」もまた、一文が長いことに私は気づいたのである。

するとコバヤシからの返事。

「そうなんですか?残念ながら、私は川上未映子の作品自体は全く読んだことが無いので判りません。あまり深読みされても答えようがないところです」

なるほど、私の考え過ぎか。私は返事を書いた。

「やっぱり深読みというか、買い被り過ぎでしたか。単に一文をわざと長くするという文体が似ていただけだったのでしょう」

するとまたもやコバヤシからの返事。

「そりゃそうです。私はただのサラリーマンです。勝手に買い被られて、がっかりされても迷惑というものです。ただ、貴君が読んだことがあるかどうかは判りませんが、吉田健一(吉田茂の息子)は好きで、この人も一文が異様に長いので、それを読んで長いセンテンスも有りか!と考えたことは有ります。興味があれば、金沢とか東京の昔といった名作があるので読んでみてください。ただ、読みにくくて(かつ、少々くどい)ウンザリするかもしれませんので、悪しからず」

なるほど、吉田健一、か。

さっそく吉田健一(1912~1977)の文章を読んでみることにした。

ひとまず入手したのは、『交遊録』(講談社学芸文庫)である。

書き出しは、こうである。

「人間も六十を過ぎるとその年月の間に得たもの、失ったもののことを思うだけでも過去を振り返り、自分の廻りを見廻すのが一つの自然な営みになり、これは記憶も現在の意識も既に否定も反撥も許されなくなったもので満たされていることであってその中でも大きな場所を占めているのが友達である」

うーむ。たしかに一文が長い。もう少し読んでみよう。

「今まで生きて来た年数を又生きることは考えられなくて、それは少しも構わないことであるが現在までに恩を受け、或は世話になり、そして他にどうということが別になかったのでも友達がいるということの喜びを覚えさせてくれた友達を自分が生きて行くに従って失うことになるのを免れないのはその度毎に自分が死ぬようなものである一方、年とともに新たに友達が出来ることも事実であって更に自分と違って友達というのが生死を越えて存在するものとも考えられる時に友達は生きて行くうちに殖えるばかりであるという感じにもなる。併し友達が自分と違ってというのは自分が死ねば友達の記憶も含めて自分の立場からする凡てが終るからであり、その記憶を残して書きたければ書き留める他ない。それ位のことをすることに友達というものは価するはずである。今これまでの半生か何かを振り返ると、頭に浮ぶ友達の多くは既に死んでいて生死を越えての存在と言ってもこれはともに酒を酌むこともその笑顔が見たくて可笑しな話をすることもなくて打ち過ぎたということを変えるものではなくて友達甲斐がないことになっても仕方がない。そして生きていて現に生きる喜びを教えてくれる友達も何れはこっちが死ぬということがある。その友達のことを書くならばこれも今のうちである」

うーむ。クドい。だが実に含蓄のある内容である。

次の文章も味わい深い。

「日本がそれ程特殊な国である訳がない。もし日本の桜が美しいならばそれは美しいのであってそれが日本にしかないものであってもその為にこれが日本の人間にだけ理解出来る美しさなのでもなければその人間がフランスに渡って夕靄が掛った田舎の並木道に何も感じないでいることにもならない。併し日本の春の桜とフランスの秋の夕靄が掛った田舎の並木道は確かに違っている。そして同じく土佐の海岸から眺める太平洋と汽車が新潟辺りを出て窓の外に拡る日本海の色も眼に見えて違っている。又確かに外国に行けばそこの風俗を身につけることを心掛けなければならないがそれはその風俗が違っているからで、どう違っているかと言えばただ違っているのである。それだけですむことであるのは一つには人間の精神には際限なく変化に対応する働きがあるからであり、これに加えてどこへ行っても人間の精神は人間のものであるということがある。こういうことは自分の体、精神に聞いてみれば一番よく解る」

このクドい文章の中に、この国がいま社会全体をあげてキャンペーンをはっている異常な風潮をあざ嗤うような真理が述べられているではないか。

クドい文体の中に主張を忍び込ませる手法こそが、この人の文章の真骨頂である。

ということで、このブログもこれからはクドい文体で書いてみることにしようか。

|

« 2016年ベストワン映画 | トップページ | 散髪屋は、人生だ! ~見習いのリーさん~ »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 2016年ベストワン映画 | トップページ | 散髪屋は、人生だ! ~見習いのリーさん~ »