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ハルキを待ちながら

この記事を、この春に「前の職場」から転出した元同僚のF氏に捧ぐ。

ハルキをめぐる冒険

続・ハルキをめぐる冒険

4月11日(月)

僕がその町で仕事をするたびに訪れるのが、昔ながらの風情が残る町並みの一角にある、プラハ出身の世界的作家の名前がついたカフェだった。

友人の弟さんが経営しているという理由で最初は訪れたのだけれど、あるとき、村上春樹が自身のホームページで「一度訪れてみたい」と書いていたのを目にして、そこに行けばひょっとしたら村上春樹に会えるかもしれない、と思うようになった。

しかし今は、そんなことすらどうでもよくなった。というのも、僕はどうもそのカフェとは縁が薄いようで、僕がその店の前に立つとかなりの確率で「closed」の看板を目にしたからである。

今の僕にとっては、そのカフェの営業時間中に尋ねることが、最大の関心事だった。だがそのためには、「定休日」と「雨」と「先輩同僚からの飲みの誘い」と「店長の気まぐれ」をすべてくぐり抜けなければならない。

そして、この町での仕事の初日である今日、幸いにしてその機会は訪れた。今日は月曜日なので定休日ではない。空も晴れ渡っている。さらに嬉しいことに、仕事がやや早めに終わり、しかも先輩同僚からの飲みの誘いもなかったのだ。

あとは、最後の難関である「店長の気まぐれ」をクリアできるかどうかである。

定休日でなくても、店長が不意な用事で休んだり、5時でお店を閉めたりすることがよくあるようだった。しかしこればかりは、行ってみないとわからない。

仕事が終わってから、大急ぎで歩いてそのカフェの前に着いたのが、午後4時20分だった。驚いたことにそこには、「営業中」という看板が立っていたのだ。

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そればかりではなかった。ドアのところには貼り紙がしてあって、

「今日は都合により5時で閉店です」

と書いてあった。僕は間一髪、このカフェに入ることができるのだ。

カフェに入ると、アルバイトらしき女性店員が「いらっしゃいませ」と言った。

「すみません。今日は5時で閉店なんですけど、よろしいですか」とその女性店員が続けた。

「かまいません」と僕は言った。

店長の姿は見当たらない。やはり店長は気まぐれなのだろうかと僕は想像した。

テーブルに座ると、僕はさっそくコーヒーを注文した。

このカフェは「ブックカフェ」というもので、店の一角には本がぎっしりと並んだ本棚があった。だが不思議なことに、この店の名前の由来となったプラハ出身の作家が書いた本は、まったくといっていいほど見当たらないことは、以前に書いた

やがて女性店員がコーヒーを運んできた。

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僕はこのコーヒーを飲むために、何度このお店に通ったことだろうと、いささか感慨深い気持ちになった。

コーヒーを飲みながらメニュー表を見渡すと、そこに「ザムザ定食」というメニューがあるのを見つけた。「ザムザ定食」というのは、もともとこのカフェにはなかったメニューだったのだが、村上春樹が自身のホームページでこのカフェについて言及したときに、「このお店のザムザ定食を食べてみたい」と、存在しないメニューをいたずらに書いてしまったがために、店長がこのメニューをこしらえたのだった。メニュー表には、次のように書かれていた。

「ザムザ定食 1200 Gregor Samsa Lunch

フランツ・カフカ「変身」の主人公であるグレゴール・ザムザ氏と、日本の著名な小説家M・H氏に捧ぐ。

特製ポテトサラダ

野菜たっぷりのスープ

まあるいロールパン

メインディッシュ(ときどき変わります。お尋ねください)

季節のフルーツ

ミニコーヒー(紅茶も可)

(内容は変更になる場合があります)」

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どれも美味しそうなもので、注文したい衝動にかられたが、今日はあと30分ほどで閉店だし、今はランチの時間をとっくに過ぎてしまっているし、それにアルバイトの女性店員さんが、この定食を作る権限を店長から与えているのかどうかすらわからなかったので、注文するのをあきらめた。

それよりも気になったのは、メニューに書かれていた「日本の著名な小説家M・H氏に捧ぐ」という一節だった。そこで僕の頭に一つの仮説が浮かんだのである。

それは、このカフェに村上春樹が来るのを待っているのは、僕などよりも店長のほうなのではないかという仮説だった。

そして本棚に並んでいる本を見て、僕は驚いた。

以前に来た時より、心なしか村上春樹の本が増えているではないか。

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僕はそこでますます確信したのである。誰よりも村上春樹のことを待っているのは、ほかならぬ店長なのだと!

けれども村上春樹の本は以前から本棚にならべられていたのかも知れないし、それにもし村上春樹を待っているのだとしたら、店長が気まぐれに外出するはずもない。

やはりそれは僕の思い違いなのだろうと考え直し、コーヒーを飲み終えた僕は、お店をあとにしたのだった。

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