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2016年6月

ザ・在来線

6月30日(木)

またまた旅の空です!

飛行機、バス、在来線などを乗り継いで、出張先に到着した。

朝6時に家を出て、6時間近くかかって会場に着いた。

Photo写真は、目的地に行く途中の、在来線の駅のホームだが、久しぶりに「ザ・在来線」といった感じの駅のホームだったので、しばしノスタルジーに浸ったのであった。

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名調子

名調子、ということで思い出したのが、NHKラジオで放送していた「にっぽんのメロディー」である。進行役は、中西龍だった。

中西龍は知ってるよね?フジテレビの時代劇「鬼平犯科帳」でナレーションをやっていた人である。

その中西龍が、NHKのアナウンサー時代に、ラジオで毎日、「にっぽんのメロディー」という10分番組(だったと思う)を担当していたのである。私は小学生のころ、この番組をよく聴いていた。

「歌に思い出が寄りそい、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れてゆきます。みなさまこんばんは。お心豊かにご無事な毎日でしょうか。にっぽんのメロディーです」

童謡「赤とんぼ」のテーマ曲をバックに、中西が毎回必ずする挨拶である。

「この時間は、森繁久弥さんの曲を2曲放送いたします」

投稿者からのおはがきを紹介し、リクエストされた「懐かしい歌」を2曲ほどかける。

エンディングで再び童謡「赤とんぼ」のメロディーが流れはじめる。その曲をバックに、毎回必ず、季節の俳句を紹介し、その俳句を情感こめて解説していた。

「たてつかれ 教師は悲し 暖炉燃ゆ  木村蕪城

『先生の考え方はね、僕から言わせると古すぎるんですよ』

『そういうけどねえ君。君だって今に先生の年齢になれば、世の中というものはそういう君の考え通りにはいかないということが、わかるようになるんだよ』

『大人っていうのはですねえ。すぐ、何かといえばそういう言い方をするでしょう?僕はそこら辺がいちじるしく気に入らないんですよ』

…などという会話が、教師と生徒との間にあったのでしょうか。

その口論の傍らで、ストーブはあかあかと燃えています。

たてつかれ 教師は悲し 暖炉燃ゆ

おやすみなさい」

この語り口は、いま思い出しても、しびれるほど素晴らしかった。

いろいろな語り手の「名調子」を集めてみたいものである。

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原稿の神様の降臨

6月26日(日)

相変わらず鬱状態が続いているのだが、今日は都内で、80名ほどのお客さんの前で、1時間半ほど話す仕事である。

久しぶりだなあ。こんな大人数の前で話すなんて。

話をしているうちに、だんだん調子が戻ってきた。

ひたすら喋り続け、1時間半の予定が、5分オーバーして終わった。

大勢の人の前で1時間半ほど喋り続けると、気分が高揚してくる。

(このテンションでいけば、原稿が書けるかも…)

終わって、主催者の人に挨拶をして会場を出たあと、喫茶店に入って原稿を書き始めた。

すると、筆が進むこと進むこと。

夕方の4時半くらいから7時くらいまでのあいだで、3000字程度の文章を3本、つまり9000字程度の文章が書けた。

ここ1カ月ほど、パッタリと筆が進まなかったのは、いったい何だったのか?

ひょっとして私の気持ちを高める原動力は、授業だったのではないだろうか。気分を高揚させるクスリのようなものだったのではないだろうか。

大勢の人の前で喋る機会が、自分にとっていかに大切な時間だったかに、いまになってようやく気づいたのだった。

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ツイッターには向いてない

ある党首討論会で、司会をつとめた社会学者を自称する若い大学院生が、野党の党首である老練な政治家に対して、

「再婚相手は見つかったんですか?」

と執拗に質問してその政治家を怒らせたという。

これは、あらゆる意味でセクハラの本質が最もよくあらわれた出来事である。

「年上の男性」が「若い女性」に、「まだ結婚しないのか?」といった典型的でわっかりやすいセクハラ発言ではないけれども、本質的なところでは同じ発言である。

若い大学院生が、年齢が親子ほど離れている老練な政治家に対してセクハラ発言をするというのは、通常ではあり得ない状況である。

「年上の男性」が「年下の女性」に対して言ったのとは真逆で、「年下の男性」が「年上の男性」に対して言ったとしても、セクハラは十分に成立するのである。つまり、性別や年齢の上下というのは、セクハラの本質的要素ではないことがわかる。

そして不思議なことに、その司会者は、最弱の野党党首にのみセクハラ発言をして、たとえば与党党首に対して、

「お子さんはまだですか?」

とは絶対に質問しない。「司会」という優位な立場を利用して、その場で最弱な者を選んで非常識発言をおこなったのである。報復のリスクが最も小さい者は誰かというのを、司会の大学院生は巧妙に狙い撃ちしたわけである。

ここにセクハラの本質があると思う。

もうひとつ重要なのは、この司会者がとったセクハラ発言に対して、ほかの党首の誰も、いさめようとはしなかったことである。つまり目の前でおこなわれていたセクハラ発言を、黙認していたことになる。

加害者には、直接に発言した人間だけではなく、その周りにいてわかっていながら止めなかった人間も含まれるのだということが、よくわかる事例である。

…てなことを鬱状態の中でつらつらと考えていたのであるが、私が考えていたようなことを、コラムニストの小田嶋隆さんがすでに明快にツイートしていた。

「小沢さんに対して「怒るのは度量が小さい」みたいな言い方をしてる人たちは、自分がセクハラを訴える女子社員に「職場のセクハラはジョークでかわすぐらいの余裕で対処するのが大人の女」だとかいう腐ったアドバイスを浴びせかけるセカンドレイプオヤジと同じ言い方をしてるってことを自覚すべきだぞ」

140字以内で本質を言い当てる小田島さんは、さすが文章のプロである。

やっぱり俺はツイッターには向いてないな。

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スマホは生きろ、ガラケーは死ね

最近の最も衝撃的なニュースは…。

TBSラジオが、6月末をもってポッドキャストから撤退する、というニュースである!

採算が合わないという理由のようで、今後は「TBSラジオクラウド」というストリーミング方式で配信するのだという。

ということは、これからはiPodにダウンロードして聴く、という方法はできなくなるということである。

ストリーミング方式による配信ということは、もはやネット環境のあるスマホでしか聴けなくなるということである。

いまだにガラケーを使っている私には、もう聴くな、ということか。

というか、いまどきiPodで音楽なんか聴くな、ということなのか?もうiPod Classicなんかで音楽聴いているヤツなんていないんだろうな。

ガラケー派、iPod Classic派には、生きづらい世の中になりつつある。

せめてダウンロードできるうちは聴き続けよう。

というわけで、やらなければならない仕事がたくさんあるのだが、完全な現実逃避ということで、ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフルのポッドキャストを聴くことにした。

BUBBLE-Bという人がゲストの「麻婆道」の話が、くだらなすぎてむちゃくちゃ面白い。

ひたすら麻婆豆腐について語る、という企画なのだが、この人の言葉のチョイスとか語り口は、ケーシー高峰を思わせるくだらなさである。

で、もうひとつは、お待ちかねの「みなもと太郞先生」、2回目の登場である。

前回は、「さいとうたかを特集」ということで、さいとうたかをの偉大さについて語る内容だったが、その前提となる日本の漫画史の話がおもしろすぎて、ほとんど本題に入ることなく終わってしまった。

今回はその続き、というわけだが、やはり1時間では語り尽くせるものではなかった。

日本の漫画史における手塚治虫の「ジャングル大帝」の意義について、みなもと太郞先生の語り口にすっかり魅了されたところで、時間切れで終わってしまった。

みなもと太郞先生の恐るべき記憶力と、正確なデータ、それにもとづく論理的な分析、さらに止めどなくあふれ出る語りは、まさに「真の研究者」と呼ぶにふさわしい。

私が尊敬する「眼福の先生」を思わせる。

話題にあがる漫画の事例について、こちらがすべて知っているわけではないけれども、そんなことは関係なしに、語られている内容のすごさが実感できる。

真の研究者とは、ああいう人のことを言うんだな。

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ぶよぶよするもの

だいぶストレスがたまっている。最近は、精神的に追いつめられていて、とくに書くべきネタもない。

こういうときは、坂本龍一の80年代の音楽を聴くか、松本清張の小説を読むか、にかぎる。つまり、むかし愛聴していた音楽なり愛読していた小説を読むと、安心するのである。

松本清張の小説の、あの「心がざわざわする」感じがたまらない。

たとえば、『山の骨』。

「…当主の藤四郎が半年前に四十歳の働き盛りで病死をした。七七忌もとうに過ぎたので、その妻が消毒を兼ねて女中や店員を使い大掃除にかかったのだが、屋根裏から出た包み物には、妻も心当たりがなかった。よほど前からそこにあったとみえて、風呂敷も、その間からはみ出た新聞紙も埃で真っ黒になっている。包みは固いものではなく、手で押さえるとぶよぶよとしていた」

もう、この一節を読むだけで心がざわざわする。「屋根裏から出た包み物」、「心当たりがない」、「風呂敷」と「はみ出た新聞紙」が埃で真っ黒、そして、「手で押さえるとぶよぶよする」。

いったい何なんだ?こんないかがわしいものはない!

さらに描写は続く。

「…あんまり汚いので中庭に持ち出して麻紐を切り、風呂敷と新聞紙の包みを開けると、中からワンピースとスリップなどが一緒にくるんだままで出てきた。ワンピースは夏もので、その柄も色も、また下着も、若い女のものだった」

一瞬「なまものか?!」とドキッとしたが、中から出てきたのは若い女性の夏物衣料。しかし、それだって十分にいかがわしい!

ここから、この包みを開けたその家の「雇人」は、故人とその「モノ」の関係について次々とあらぬ妄想を広げていくのだが、このあたりの叙述は、松本清張の真骨頂である。

そこで、ハタと考える。

これを、実際にやってみたらどうなるか?

つまり、何かを新聞紙と風呂敷に包んで、麻紐で縛って、屋根裏とはいわないまでも、押し入れに仕込んでおく。もちろん中身は、「手で押さえるとぶよぶよよする」何かである。

で、私の死後、身内の者が、その得体の知れない「ぶよぶよするもの」を見つける。風呂敷と、その間からはみ出た新聞紙は、埃で真っ黒である。

(気色悪いなあ…)

おそるおそる開けてみると、中身は、生前の私とは一見なんの関わりもないようなものである。

残された者たちは、この説明のつかない「ぶよぶよするもの」を、どのように推理するだろうか。

そのことを確かめたいのだが、自分が死んでしまっては確かめようがないことに気づき、この遊びは断念することにした。

面白いと思ったんだがなあ。

どうもストレスがたまると、おかしなことばかり考えていけない。

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頭痛徒然草

6月18日(土)

7時間畳の上で座り続ける仕事が2日間続いたせいか、頭痛が激しい。

最近は、体調の悪くないときというのが、ない。

そんなときは、つらつらと、いろいろなことを考えてしまう。

歴史的な名曲が、セルフカバーでダメになる、ということが、よくあるよね。

たとえば、オフコースの「さよなら」。

YMOが好きだった高校時代、オフコースは大嫌いだった。その頃ラジオで坂本龍一が「オフコースは嫌い」という発言をしていて、たぶんネタの要素も強かったんだと思うが、私もそれを真に受けて、オフコースはまったく聴かなかった。

大人になったいまは、好きでも嫌いでもない。

ただ、あらためてオフコースの「さよなら」を聴くと、日本のポップス界の名曲だと思うのだけれど、小田和正がそれをセルフカバーしているバージョンはいただけない、と思ってしまう。

同じような理由で、やはり日本のポップス界の名曲であるスターダスト・レビューの「木蓮の涙」もオリジナル曲は素晴らしいが、のちにアコースティックバージョンでセルフカバーされたときは、全然よくなかった。

年をとってセルフカバーされた「さよなら」も「木蓮の涙」も、たんなるオッサンの感傷歌にすぎなくなってしまったのである。

どうして年をとると、若いころのよい部分を、ダメにしてしまうんだろう。

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7時間座り続ける仕事

6月16日(木)

またまた旅の空です!

久しぶりにこの町を訪れた。

0615

飛行機から見える富士山の形から、どの町に行ったか、わかるかな?(わかるか!)

世の中、ツラい仕事がたくさんある。

責任の重い仕事とか、細かい計算を絶対に間違っちゃいけない仕事とか、炎天下での力仕事とか。

だがツラい仕事は、労働の内容や使うエネルギーの量ではかれるものではない。

今回の私の仕事はというと、「じっと見守る」という仕事である。

私自身が肉体や神経を使って仕事をするわけではなく、それをじっと見守る仕事なのである。

その意味でいうと、大変な仕事ではない。

だが、その、じっと見守る場所というのが、外界から遮断された、畳の部屋なのである。

しかも、座布団がない。

いや、正確に言うと、「ひょっとするとあれ、座布団なのかな?」と思われるものが、部屋の片隅に置いてあるのだが、使っていいものかどうか、わからない。

つまり、座布団のない畳の部屋で、なにもせずに座っていないといけないのである。

「適宜席をはずしてもよござんすよ」

といわれるものの、まじめな私は、席をはずすことができない。席をはずしたところで、外界から遮断されている場所なので、行き場がない。

なにより、自分の目の前で実際に力と神経を使って仕事をしている人が、根をつめておられるので、こちらとしてもそれに応えなければならないのである。

誤解のないように言っておくが、用意していただいた畳の部屋自体は、とても快適である。暑くもなく寒くもなく、しかも明るく広々としているのだ。

問題は、私自身が、畳の上に座るのにふさわしくない体型をしている、ということである。

正座をしてもあぐらをかいても、足がしびれて、足の血行が悪くなるのである。

まったく、難儀な体型である。

そんなこんなで、朝9時から夕方5時まで、昼の1時間の休憩をはさんで7時間!も、座布団のない畳の部屋でじっと座り続けたのである。

帰り道は、歩いていても足がフラフラとなり、風邪の初期症状のような感じで、体がだるくなった。

…これがツラいと感じるのは、私だけだろうか?

地味な仕事だと、人はいうかも知れない。しかし地味な仕事こそ、大切な仕事なのだ。

明日もまた、まったく同じ仕事である。

今日は早く休んで、明日に備えよう。

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上製本、糸かがり綴じ

6月13日(月)

2年ほど前に急死した大学時代の友人・E君の遺稿集が完成し、彼の御母様から送られてきた。

彼の卒業論文を大学から取り寄せたのが昨年の3月頃であったから、遺稿集の完成までにほぼ1年を費やした。

手書きの卒業論文を、彼の御母様と御兄様がワープロソフトに入力し、プリントアウトしたものを、私が校正した。

校正を3回おこなった。卒業論文は専門用語が数多く使われていたこともあり、校正にはことさら注意を要した。

校正の過程で、彼独特の書き癖のようなことにも気づいた。

お恥ずかしいことだが、大親友のIさん、同い年の従兄弟のUさんに混じって、巻末に追想記を書かせてもらった。

彼を偲ぶ写真が13枚、最後の2頁に並べられていた。その中に2枚、私も一緒に写っている写真があった。大学時代に友だち数人で旅行に行ったときの写真である。その頃の私は、ガリガリに痩せていた。

「卒業論文をわざわざ製本するなんて、恥ずかしいからやめてほしい」と、彼なら言うだろう。彼の性格ならば、きっとそうだ。

恥ずかしいからという理由で当時ほとんど誰にも見せなかった卒論を、こうして冊子にすることは、彼の本意ではなかったかもしれない。ただ、残された御家族にとっては、彼を偲ぶよすがである。

大学を卒業して20年以上がたち、その間、わずか数回しか会わなかったことが、いまでも悔やまれてならない。

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ズートピア

6月12日(日)

現在公開中のディズニー映画「ズートピア」を観た。

この映画のすばらしさについては、町山智浩さんやライムスター宇多丸さんの映画評に尽きているので、そちらを参照のこと。

差別や偏見やいじめといった問題に対する理想的な解答が、この映画の中にある。

私が最も印象的だったのは、「差別や偏見のない健全な社会を!」と、一点の曇りもなく思っている人の無邪気な発言が、差別される側の心を傷つける場合があることを思い知らされる場面である。誰もが被害者になり得るのと同様、誰もが加害者になり得ることを、この映画ではちゃんと描いている。

あと思ったのは、個人の作家性に頼らず、チームで作り上げた映画だな、ということ。たとえば日本のアニメ映画は、かなり個人の作家性に頼っているところがあると思うのだが、この映画は、何人もの人たちが知恵を絞り、議論を重ねて、ストーリーを練り直している、ということがよくわかる。だから間然するところがないのである。

社会に根強く存在する差別や偏見に対して強烈なメッセージを発している映画である一方、この映画のジャンルは、「ミステリー」「サスペンス」だという。なるほど、確かにこれは、上質のミステリー映画でもある。

この映画を観て、森村誠一の小説『野性の証明』を思い出したのは、たぶん世界でも私だけだろう。

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Lecture booksノスタルジー

先日、妻がある場所で、Aさんという人にあった。妻の記憶の中では、Aさんは体格のがっしりした、角刈りの人だったというイメージだったのだが、実際に会ってみると、Aさんは痩せぎすで色白で長髪の人だったというのである。

「Aさんに会う前の、私の脳の中にいたAさんは、いったい誰だったのだろう?」と妻は言った。

いわゆる「空耳」ならぬ「空脳」である。

この話を聞いて思い出したのが、大森荘蔵+坂本龍一『音を視る、時を聴く 哲学講義』(朝日出版社、1982年)という本である。

Photo当時、朝日出版社は「Lecture books」というシリーズを出していて、その道の専門家と、その分野に関心のある著名人の対談形式による学問の入門書のようなものだった。入門書といっても、大学の講義並みに内容は難しかった。

中学校3年生のころだったか、YMOのファンだった私は、坂本龍一がかかわっている本だという理由だけで、この本に飛びついた。

本の帯には「〈私〉はいない」と書かれてあって、それがまた、中学生の私には衝撃的だった。

内容はひどく難しかったが、ワクワクしながら読んだ。

この本をきっかけに、このシリーズの別の本も何冊か読んだ。玉石混淆だったことは否めないが、いずれも面白かったと記憶している。

『音を視る、時を聴く』は、このシリーズの中でも屈指の傑作だったようで、この本だけは、いまから10年ほど前に、ちくま文庫から復刊されている。

いま読んでも、内容は難しい。それに、いまの学問水準に照らしてどうなのか、といった点はよくわからない。

しかしこの本は、「考えることの楽しさ」を教えてくれた。

いくら考えても正解なんてわからない。でもそれが学問なのだ、ということを教えてくれた。

いまはこういう学問が、肩身が狭くなりつつある。

「正解がない」ことを恐れずに物事を考える機会が、めっきり少なくなってしまった。

このシリーズ、他の本も復刊してくれないかなあ。

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父の主治医

6月10日(金)

人間の縁、というのは、実に面白い。

昨年の11月、父が重篤な病に陥り、かかりつけの病院に入院したのだが、そのときの主治医のK先生による適切な治療のおかげで、最悪の事態には至らず、いまは自宅でふつうの生活を続けている。

5月の大型連休に実家に戻った折に、母からこんな話を聞いた。

この4月に、父の主治医のK先生は病院を辞め、開業医となったという。そしてその場所が、私がいま住んでいる町だというのである。

調べてみると、私がいま住んでいるマンションから、目と鼻の先である。

私は父の病状の説明を聞くために、K先生に一度だけお目にかかったことがあるのだが、その説明は実にまじめで懇切で、素人だからといってバカにすることなく、専門的な話をきっちりとされていていた。

「かかりつけの医者、K先生に変えてみようかなあ」と私。

「そうしなさいよ。…でも、あの先生、恐いわよ」と母。

「そうなの?」

「お父さんが、これから車の運転はできますか?って聞いたら、『絶対にダメです!死にたいんですか?』ってひどく怒られたんだから」

「あの先生、何でもかんでも『ダメ!』っていうんだからなあ。まいったよ」と父。

「そうなの?」

「入院中に『天ぷら食べてはダメですか?』って聞いたら、『そんなの、ダメに決まってるでしょ!』とひどく怒られた」

「そりゃあ、天ぷらはダメだろうよ、医者じゃなくったってわかる」

「そうかね」

「とにかく、おまえも診療を受けたら、怒られるかもよ」

お医者さんに怒られるのが、いちばんつらい。

そんなこともあったので、なかなかK先生の病院に行けないままでいたのだが、今日、意を決して、行くことにした。

何より、これまでかかっていたお医者さんが、あんまりいい先生ではなかったので、ここらでかかりつけのお医者さんを変えたいと思っていたところだったのである。

マンションから歩いて2分の住宅地の中に、「メディカルステーション」という、開業医の集合住宅、といった感じの一角が忽然とあらわれた。その中の建物の一つが、K先生の病院である。

4月にできたばかりなので、何もかもが新しい。

「今日はどうしました?どこかお悪いのでしょうか?」

「実は、…、先生が前の病院におられたとき、父が患者として、先生のお世話になりまして…」

父の病名を話すと、K先生は完全に思い出したようだった。

「ああ!私が病院を辞める直前の患者さんでしたね」

「そうです」

「その後、お父様は…?」

「おかげさまで、自宅でふつうに生活しております」

「それはよかった。病気が悪化しなかったんですね」

「そのようです。で、先生がこちらに移られたと聞いて、私の住まいがここから歩いて2分のところですので、私もこれから先生にお世話になろうかと」

「そういうことですか」

両親が言っていたのとは裏腹に、K先生は全然恐くなかった。むしろこれまでのかかりつけのお医者さんの中で、もっとも懇切な先生だった。

「これからよろしくお願いします」

「こちらこそ」

4月に開業したばかりのK先生の病院は、まだ少しドタバタ感があったが、それもまた、人間らしくていい。

なにより、病院まで歩いて2分というのが、かかりつけの病院としてはありがたいのだ。

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野心と功名心

近藤正高『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書、2015年)を読むと、タモリって、自由人のように見えて、意外ときっちりしている人なんだな、ということがよくわかる。かなり戦略的な人生ともいえる。

私自身も、できれば自由気ままに、自分のやりたいことだけをやってのんびりと過ごしたいと常日頃から思っているのだが、現時点でそれができていないというのは、「野心」とか「功名心」といったもののほうがまだ自分の中で勝っているからなんだろう、と思う。

まあだいたいこの稼業を選択した人間というのは、多かれ少なかれ「野心」や「功名心」がなければ生き残っていけない仕組みになっているのだ。自分はそうではないと、いかにそれを否定しようとも、無意識のレベルでは、そうである。

そこのところを認めた上で、この稼業を続けていかなくてはならない。

 

 

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回転寿司にご用心

こちらに引っ越して間もないころのこと。

家から歩いてすぐのところに回転寿司屋があった。「ネタ」に自信があるという回転寿司屋である。

文字通りベルトコンベアに乗ったお寿司が広い店内をまわっていて、その中で、何人かの職人さんたちがお寿司を握っていた。ベルトコンベアに沿って客が座るカウンターがあった。その一部は、4~6人掛けのボックス席になっていた。

ま、よくある回転寿司屋さんである

カウンターでお寿司を食べていると、私から見て正面がボックス席になっていて、そこで小さな子どもを連れた家族が座って、お寿司を食べている。

これも、よくある風景。

だがこの風景こそが、私がもっとも嫌悪する風景なのである。

回転寿司のボックス席に座る家族は決まって、小さな子どもを、お寿司がまわっているベルトコンベア側に座らせている。

例外なく、そうである。

そこでどんな問題が起こるかというと、小さな子どもは、まわってくるお寿司に、汚ったねえ手でベタベタと触りやがる。

そして、その皿をスルーするのである。

そしてその小さな子どもが汚ったねえ手でベタベタと触りやがった寿司が、こちらにまわってくるのだ。

さらに悪いことに、大人たちは、小さな子どものいたずらに、まったく注意を払っていない。つまり子どもをほったらかしにして、自分たちが食べることに一生懸命になっているのである。

どうして、小さな子どもが汚ったねえ手でベタベタと寿司に触っていることに、連れてきた大人たちは罪の意識を感じないのだろうか?

どうして、小さな子どもを、お寿司がまわっているベルトコンベア側に座らせるのだろうか?

ちょっと考えれば、わかりそうなものである。

しかし例外なく、小さな子どもを連れてきた大人たちは、子どもをお寿司にいちばん近いベルトコンベア側に座らせる上に、彼らをほったらかし続けるのである。

この光景を見るたびに、私は殺意を覚えていた。

この日もそうだった。正面のボックス席に座っている小さな子どもが、イスの上に立ち上がって、まわっている寿司にいまにも汚ったねえ手で触りそうな勢いである。家族たちは、そのことにまったく気づく様子もなく、寿司を食べている。

その様子をじっと観察していた私は、

(おいおい!)

と思って、店員さんに注意しようとした。

その瞬間、信じられないことが起こった。

寿司を握っていた職人さんが、私の視線に気がついたのか、まるで私の視線をふさぐように、私と、その小さな子どものあいだに立ちはだかったのである。

そしてあろうことか、私に話しかけてきたのだ。

「いやあ、中国人留学生ってのは、意外とまじめですねえ。うちの店でもアルバイトで使っているんですがね。仕事を早く覚えようとするし、礼儀正しいんだ、これが」

何でそんな話を、このタイミングで私にしてくるのか?関係ないやん!

その職人さんは、私からその小さな子どもが見えないように、つまり死角になるように立ちはだかって、延々と関係ない話を始めたのである。

しかし気になるのは、小さな子どもの動向である。こうしているうちにも、汚ったねえ手で寿司をベタベタ触っている恐れがあるのだ。

気になって視線を横にずらしたりすると、それに合わせて職人さんも、右に左にと不自然な動きをして、なんとか私から小さい子どもが見えないようにしている。まるで反復横跳びのように。

何なんだ、この仕打ちは!!!???

どう考えても、クレーム封じとしか思えない。クレームを言いそうな客の前に立ちはだかって、話をそらそうという作戦なのである。

しかし注意すべきは、小さい子どもをベルトコンベア側に座らせる家族のほうなのではないだろうか?

すっかりお寿司を食べる気がしなくなり、早々とその回転寿司屋を後にした。

もう二度とこの回転寿司屋に来るもんか!と決意した。もちろん、いまもその店には行っていない。

今度は食欲旺盛な4歳の姪をこの店に連れてきて、ベルトコンベア側に座らせて復讐しようか、とよっぽど思ったが、お金をかけてまでそんなことをするのはバカらしいと思い、こんな店とはかかわらないほうが無難だと思い直した。

このお店の目を通るたびに、この時のことを思い出すのだ。

小学生以下の子は、回転寿司のベルトコンベア側に座ってはいけない、という法律を作ってくれませんかねえ。

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おかゆにご用心

先週の木曜日(2日)の夜あたりから、猛烈な寒気とともに、お腹が痛くなった。下痢はあるが、吐き気はない。

台湾からの帰国後、あまりに疲労がたまり、思いのほか体力が弱ったためにより「食あたり」になったのだろうと、私は判断した。

七転八倒の苦しみで、食べ物も喉が通らない。

「消化のよいものを食べる必要があるから、炊飯器でおかゆでも炊いて食べなさい」

と言い残して、土曜日、妻は一週間ほどの出張に出かけていった。

炊飯器でおかゆ、か。

実は私、おかゆがあまり好きではない。

だからおかゆに関する知識が、まるでないのである。

おかゆと雑炊って、どう違うんだっけ?

それくらい、おかゆに関心のない人間なのだ。

しかし背に腹は代えられない。消化のよいものを胃に入れるために、おかゆを炊飯器で炊くことにした。

炊飯器の内側を見ると、「おかゆ」と書いてあるところがあり、水の量が線で示されている。

2種類の作り方があることに気づいた。

一つは「全」と書かれている作り方。もうひとつは、「五分」と書かれている作り方。

「全」とか「五分」って、何だ?

目盛りを見ると、「全」と「五分」では水の量が違う。「全」よりも「五分」のほうが入れる水の量が多い。

私のイメージでは、「全」のほうが水の量が多く、「五分」のほうが水の量が少なくていいような気がするのだが、どうやらそれとは反対らしい。

それくらい、私はおかゆに関して無知な人間なのである。

気を取り直して、炊飯器に米1合を入れ、「全」の目盛りに合わせて水を入れた。

あとは炊飯器の指示に従って炊くだけである。

しばらくして、炊きあがった。

蓋を開けてみて、驚いた。

ビックリするくらいの量のおかゆである。

お米を1合入れただけで、こんなに大量のおかゆができあがるものなのか?

1回で食べ終わるかと思っていたが、とても無理である。

よそってもよそっても、おかゆが減らない。

しかも、おかゆは少し食べただけでも腹がいっぱいになる。

さらに始末の悪いことに、味がないためにあっという間に飽きてしまうのである。

しかし、飽きたからといって捨てるわけにもいかず、といって、いつまでも炊飯器の中に残しておいたら、ふつうのご飯が炊けなくなる。

しばらく炊飯器を保温状態にしていたら、おかゆがさらにドロッドロになってしまって、かなりヘビーな食べ物になってしまった。

味も飽きるなあ。

ということで、2日ほどかけて、苦行のように、1合のおかゆを食べきったのであった。

もう二度と炊飯器でおかゆは作らない。

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続・出世する人

体調が悪いので、悪いことしか思い浮かばない。

昔の知り合いから、思い出したようにメールが来ることがある。

昔の仲間と食事会をしませんかというお誘いなのだが、僕自身、その人たちを仲間であると認識したことはなく、何より平日の昼間に都内でランチなどというのは、こちとら仕事が忙しくどだい無理な話であるので、メールが来るたびにお断りしていた。

今回は、ランチではなく、ディナーだというのでお誘いが来たが、あいにく提示された日は忙しく、やはりお断りしなければならない。

メールの最後には、

「せっかくなので○○さんや××さんにも声をかけてみようと思いますが、お二人ともお子さんがおられますから、夜は難しいかも知れません」

と書かれていた。私は○○さんも××さんも、全然親しくはないので、会ったところで話題がないし、たんにこの人が僕をダシに使ってこの二人と会う機会をつくりたいということなのだろうと即座に理解したが、そんなことより私が気になったのは、「お二人ともお子さんがおられますから、夜は難しいかも知れません」というくだりだった。

いやいや、アンタだって同じくらいの年齢のお子さんがいるけど、大丈夫なのかい?と。

○○さんも××さんも母親で、子育てのこともあるから、夜飲み歩くのは難しいだろう、とその人は判断したわけだが、同時に父親である自分が夜に飲み歩くことには、何の疑問も感じていないのである。

ジェンダー的に、かなり問題発言ではないか?

その人は、差別や偏見に対して理論武装をして抗おうというある任意団体の幹部を長らくしていて、いちおう僕も名前だけはその団体に加入していた。

僕は差別や偏見が大嫌いな人間なので、そうしたことについても関心があるわけなのだが、かといって僕は、その人と一緒に活動したいかというと、そんなことは全然なかった。なんとなく、その人に対して違和感を抱いていたからである。

そしてその違和感の理由が、メールの最後に、「お二人ともお子さんがおられますから、夜は難しいかも知れません」というジェンダーバイアス発言であることに、気づいたのである。

反差別:反偏見を高らかに唱える任意団体の幹部が、無邪気にジェンダーバイアス発言をしていることは、矛盾しているのではないか?もっといえば、その人は実は無邪気な家父長的権威主義者なのではないだろうか、と。

そう思う根拠は、ないわけではないのだが、ここでは省略する。とにかく、いままでのその人の言動を見ていると、なんとなくそんな感覚が見え隠れするのである。

だが、そんなことを考える僕の心がねじ曲がっている可能性は十分にある。なにしろ、反差別・反偏見をむねとする任意団体で長いこと幹部をつとめている人である。実際には誠実な人柄であるに違いないのである。

○○さんや××さんと、いまでもこまめに連絡を取り合う関係にあるということは、誠実な人柄であることの何よりの証拠である。

だから、「母親だから子育てに忙しくて、夜のお酒の席にお誘いできない(自分は父親だから参加できるけど)」という発言は、彼の誠実な人柄から出た言葉で、決してジェンダーバイアスが無意識に出た発言ではないのだと思いたい。

…うーむ。いかに体調が悪いとはいえ、話題が暗すぎる。

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体調最悪の時に書く喜劇論

6月6日(月)

先週の木曜日あたりから急激に体調が悪くなった。

おそらくその前の週の台湾出張の影響だろう。

食あたりのような症状が続き、意識も朦朧とした状態が続いた。

昨日(日曜日)は職場で私が仕切らなければならない会合があり、どうしてもそれだけは休むことができない。なんとかその時間だけは乗り切ろう。

体を病むと、心まで病んでくる。

どうにも私の仕切った会合は今ひとつだったようで、

「キミキミ、これは社運をかけたプロジェクトなんだよ。そんな程度でお上が納得する研究だといえるか?もっとちゃんと考えてもらわなければ困るよ!」

という意味のことを上司からやんわりと言われたような気がする。

最近は、二言目にはお上、お上だ。

最近の俺は、どっちに向いて研究をしているのか?

こんなことのために、今まで生きて来たのか?

研究なんて、くそ食らえだ!

そんなことを思い悩むとますます体調が悪くなり、いっそ首でも括って…などとも思ったが、こういうときには「お笑い」を見るしかない。しかも、関西ではなく、東京の、である。

「笑点」の司会が昇太師匠になったというニュースを聞いて、三波伸介のことを思い出し、ありし日の三波伸介を見ようと、動画サイトを渉猟するが、それほど多くは残っていない。

以前、爆笑問題のラジオで、太田光が三波伸介のことを語っていたが、三波伸介が急死したときの喪失感は尋常ではなかったと言っていたのを聴いて、私もまったく同じだったことを思い出した。それほど、三波伸介は私に染みついているのである。

できれば「てんぷくトリオ」のコントを見てみたい。

手元に、山田洋次監督の映画「九ちゃんのでっかい夢」(1967年)のDVDがあり、そこでてんぷくトリオがコントをやっているシーンがあったことを思い出した。

おそらく、てんぷくトリオのコントが現在ソフト化されているものは、この「九ちゃんのでっかい夢」くらいではないだろうか。

てんぷくトリオって、やっぱり面白いなあ。何よりテンポがよい。

「九ちゃんのでっかい夢」だけでは飽き足らず、伊東四朗と三宅裕司の舞台「いい加減にしてみました2」「伊東四朗一座」「社長放浪記」なども手元にあったので、見直してみた。

これらの舞台では明らかに、三宅裕司は三波伸介の役回りである。

「いい加減にしてみました2」の伊東四朗、三宅裕司、小倉久寛は、まさに現代版「てんぷくトリオ」である。

これらの舞台を見るにつけやはり思い出すのは、喜劇人としての三波伸介の存在感である。

しかし疑問なのは、山田洋次監督は、あれほど芸達者な三波伸介を、なぜ映画に使わなかったのだろうか、という点である。彼がもっぱら使ったのは、ハナ肇と渥美清だが、三波伸介ほどの芸達者であれば、ハナ肇や渥美清に負けないキャラクターが演じられたはずである。実際、三波伸介は、渥美清と藤山寛美をかなり強くライバル視していたのだ。

だが三波伸介は、喜劇映画俳優として大成することはなかった。むしろ、テレビ司会者として人気を博していくのである。

三宅裕司もまた、同じである。映画「サラリーマン専科」は、結局、松竹の人気喜劇映画シリーズにはなり得ず、3回で終わってしまった。やはりテレビ司会者としての人気のほうがまさっていたのである。

このあたり、やはり二人は似ている。

私が、三波伸介の幻影を追い続け、笑点の司会は三宅裕司こそふさわしいと過去に書いたのは、そういう理由からなのである。

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現代版「神々の乱心」

いま、いちばん売れている新書。

現政権の背後に潜む、極右系政治団体。

マスコミがこれまでほとんど触れなかったこの団体に対し、著者はわずかな手がかりをもとに、その実態を明らかにしていく。

行き着いたのは、ある新興宗教の存在である。

つまり、ある新興宗教の洗礼を受けた者たちが、政権の内部に食い込んでいく。

これはまるで、松本清張の未完の絶筆『神々の乱心』を思わせる。

『神々の乱心』は、大正末期から昭和初期にかけて、宮中と政権に入りこもうとする新興宗教団体の陰謀を描く歴史ミステリーである。

この新書で語られていることは、まさに『神々の乱心』を地で行く展開である。

つくづく、松本清張の慧眼には目を見張らざるを得ない。

この新書を読んだ人には、『神々の乱心』も合わせて読むことをおすすめする。

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海街diary

録画しておいた、是枝裕和監督の映画「海街diary」を見た。

評判に違わず、実にいい映画である。

何気ない日常をみずみずしく切り取り、よけいな説明的セリフがない、というのが、是枝監督の映画の特徴だと思うが、私は逆に、よけいな説明的映像がないところに、強く惹かれる。

たとえば、広瀬すず演じる、四女のすずが、同級生の風太たちと花火大会に行く場面。

花火の映像は映し出されず、花火を見るすずの表情だけを映し出す。

それだけで、この花火大会が感動的だということが十分に伝わるのである。

これがふつうの映画だったら、空に花火が上がっているカットを入れ込むだろうな。でもそれでは台無しである。

あるいは、風吹ジュン演じる海猫食堂の店主・二ノ宮幸子がなくなり、葬式がおこなわれた場面。

お葬式の会場を出た四姉妹と、リリー・フランキー演じる「山猫亭」の店主・福田仙一が言葉を交わす。仙一は幸子の友人で、ひそかに好意を寄せていた。

「いい葬式や。いい人生やったね」と、山猫亭の店主。

「写真の二ノ宮さん、とてもいい顔してましたね。あれ、福田さんが撮ったんでしょう?」

「うん、最後のデートのときのね」

もちろんこの時、二ノ宮幸子の遺影がインサートされることはない。もしそういう演出をしたら、それこそ台無しというものである。

この映画にはよけいな説明的セリフがないのと同様、よけいな説明的映像もない。セリフの代わりに映像に語らせ、映像の代わりにセリフで表現している。

この絶妙なバランスこそが、是枝監督の映画の真骨頂である。

絶妙なバランスといえば、この映画にみえる人間関係の距離感もまた、絶妙である。とくに、幸と椎名、佳乃と坂下、千佳と浜田、すずと風太、幸子と仙一の関係は、凡百の映画では短絡に描いてしまうところだろうが、この映画ではそこを「寸止め」にし、そのことによりかえってリアルに描くことに成功している。

あと、四姉妹の物語ということでいえば、向田邦子「阿修羅のごとく」をどうしても連想してしまう。父と娘との関係、四姉妹それぞれの抱えている事情、そして男がみんな情けなく描かれているところなど、いくつもの共通点が見いだせる。

これらが、是枝監督の作家性によるものなのか、それとも原作者の吉田秋生によるものなのか。原作も読まねばならない。

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