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ジャーナリスト

一度だけ、筑紫哲也さんを近くで見かけたことがある。

東京ドームでおこなわれたYMOの「テクノドン・ライブ」に行ったときのことだから、1993年6月10日のことである。

コンサートの中盤の休憩時間だったか、アリーナ席の前のほうで、席を立って会場を出て行く筑紫さんを見かけたのである。そのとき私はアリーナ席の少し後ろのほうにいた。

時間的にみて、(ああ、これから「ニュース23」の生放送に向かうんだな)と思った。

会場を出て行くときの横顔がにこやかな表情だったことを覚えている。

筑紫さんもYMOとか聴くんだ、とそのときはビックリした。

のちに坂本龍一は「ニュース23」のテーマ曲を作曲したり、地雷除去キャンペーンの「ZERO LANDMINE」を作曲したりしていたから、坂本龍一と筑紫さんはお互い敬意を表し合う関係だったのだろう。

筑紫さんが、ジャーナリスト出身のニュースキャスターとしてテレビに出てからというもの、「ジャーナリスト出身のキャスター」が有象無象のようにテレビに出はじめたのだが、誰ひとり、筑紫さんのあとを継ぐ者はあらわれなかった。

もちろん、筑紫さんよりも政治の裏事情に詳しいジャーナリストや、強靱な取材力を持ったジャーナリストはいたのかも知れないが、たんにそれだけに過ぎなかった。筑紫さんのような柔軟なスタンスで、政治や文化など、いま起こっているあらゆる事象を的確に語れるジャーナリストは、その後、まったくあらわれていない(池上彰さんは、筑紫さんとはちょっと違うイメージである)。

どうして、他のジャーナリストたちは、筑紫さんになれなかったのだろう?最近になって、その理由がなんとなくわかってきた。

他のジャーナリストたちは、みな「上から目線」なのである。筑紫さんは、どんな相手であっても、同じ目線に立ち、同じ言葉で語りかけた。相手によって口調を変えたり、内容を変えたりすることがなかった。

いまそれができるのは池上彰さんぐらいで、それ以外のジャーナリストは、結局のところ、弱い者や愚かな者を見下す姿勢が、見え隠れするのである。

それで思い出した。

ずっと以前、当時の都知事が、都の経営する大学の改革を断行し、大学の自治が危ぶまれるような状況に陥ったときに、私の高校時代の担任の先生が、こんなことを言っていた。

「山住正巳さんが生きていたら、都庁に怒鳴り込みに行っただろうなあ」

筑紫さんが生きていたら、いまのこの国の状況とどう戦っていただろうか。

そんなことを思ったりする。

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