ゴキブリ日記
7月26日(火)
「送られてきたメールというのは、これだけかね?」
「はい、これだけです」
「件名が『ゴキブリ日記』か…差出人が『元福岡のコバヤシ』とあるぞ」
「7月24日(土)
暫く敵は姿を見せない。どうしたのだろうか?このところ涼しいが、何か影響しているのだろうか…
昼飯の時に足下を見ると、海老の佃煮の脚が…一瞬ゴキブリの脚と見分けがつかなくなる。奴のせいで俺の頭は狂い始めたのだろうか…
7月25日(日)
朝起きてカーテンを開けると窓の片隅に2ミリぐらいの奴が。嫌な予感。冷蔵庫脇に先日仕掛けたゴキブリホイホイを見れば5ミリぐらいの奴が…夜、風呂に入る前に台所を見ればまた小さいのが…何故か昼に食った枝豆の枝の下から出てくる。しかも2つの枝の下から、それぞれ一匹ずつ。コイツらは一体何を考えているのか。すかさず捻り潰す。
それにしてもゴキブリホイホイには先ほどの一匹のみ。俺は製薬会社の犬に騙されているのか。
何も信用出来なくなってきた…
7月24日(月)
8時過ぎに会社から帰宅。家の中は蒸し暑い。何か嫌な感じが。一通り家のゴキブリホイホイを確認するも変化無し。再び台所に戻る。気配を感じ振り返れば、不貞不貞しく黒光りする奴がコンバットの陰から…久しぶりの敵に一瞬軽く目眩がしたが、すぐに我に返り隣の部屋に戻り新聞を探す。今朝捨ててしまった為全く無い。恐怖と焦りに汗だくになりながら部屋を探す。良く見れば部屋の片隅には陶芸ギャラリーから送られて来たカタログが。魯山人のを手に取り、台所へ。奴は慌てて逃げ洋服掛けの陰へ。洋服掛けをどけて、確実に奴を追い詰める。魯山人のカタログを投げつけると、少し外れたが慌てた奴はひっくり返ってもがいている。再び魯山人を投げつけ完全に仕留める。それにしても、まさか魯山人に助けられるとは…
奴はまだどこかに隠れている。俺の隙を陰から窺っているのか…
奴が死ぬのが先か、それとも恐怖で俺が狂うのが先か…」
「…うーむ」
「これはいったいどういうことでしょうか、先生」
「さっぱりわからん。なぜ日記のようなものを送りつけてきたのか」
「ジャン・ジュネの『泥棒日記』のむこうをはったのでしょうか」
「かもしれない。いずれにしても、そうとうな『ゴキブリ脳』だ」
「ゴキブリ脳?」
「すべてがゴキブリに見えてしまう脳のことさ。君には経験がないかい?」
「どういうことです?」
「たとえばだ。『畳の焦げ目を何度見ても虫だと思ってビビる』」
「なんですか?それ」
「むかし、『伊集院光 深夜の馬鹿力』の『だめにんげんだもの』のコーナーで読まれたネタのハガキだよ」
「知りませんよ」
「毎日見慣れているはずの、自分の家の畳の焦げ目なのに、つい、『ハッ!虫だ!』と思いこんでビックリしてしまうことって、ないかい?」
「ありません」
「私はある。こういうのを、ゴキブリ脳というのだ」
「なるほど。彼はそれに侵されているということですね」
「つまりは、空脳だよ」
「なるほど」
「そんなことより、私の実家の母から、電話が来たのだ」
「どうしたんです?」
「家にネズミが出たと。それ以来、常に枕元にネズミがいるような気がして、眠れないそうだ」
「なるほど、それはネズミ脳ですね」
「そういうことだ」
「それにしても、『元福岡のコバヤシ』の投稿メール、いつまで続くんでしょうね」
「決まってるさ。ゴキブリがいなくなるまでさ」
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コメント
「偉大なる文学、或いはゴキブリ」(元福岡のコバヤシ)
最近読んだ本の中で「グレート・アメリカン・ノベル=偉大なるアメリカ小説」という言葉が出てきた。この言葉は「アメリカン・ドリーム」と同様にアメリカ人の中では確固たる概念があるらしい。それは、まだ書かれていないが、何時か誰かが必ず書くものと信じられている。歴史の浅いアメリカでは自分達のアイデンティティを確固たるものにする為にはこうした考えが必要らしい。かのヘミングウェイは、この「偉大なるアメリカ小説」を書くことを熱望したが、叶わず自ら命を絶つこととなった。一方で既にこの「偉大なるアメリカ小説」は書かれているとする者もいるようだ。それは、マーク・トゥェインのハックルベリー・フィンの冒険であり、ハーマン・メルヴィルの白鯨だと言う者もいるらしい。
白鯨、多くの読者と同様に筆者はまだこの小説を読んだことがない。しかし、やはり多くの読者同様に、あの残酷な巨大な白い鯨と復讐という妄執に捕らわれ執拗にこの鯨を追い回すエイハブ船長の姿は誰でも思い浮かべることが出来る筈だ。モビー・デイックにより食いちぎられ、片足を失ったエイハブ船長を。
メルヴィルはこの小説の中で執拗に鯨の生態について語り続ける。鯨が世界の何かを象徴するかのように。
二十一世紀になった今、この白鯨に代わる象徴はないだろうかと考えた時に、筆者は突然何かの啓示を受ける。そう、我々人類が誕生する何億年も前から、そして我々が産まれてこのかた数万年の時を共に過ごしてきた奴がいるではないか。我々と奴は決して馴れ合うことなく、だが我々が居るところ必ず奴はいる。白鯨の白と巨大な体躯と対をなすような黒光りする小さな身体、そう、奴、即ちゴキブリが。
エイハブ船長が白鯨を執拗に追い続けたように、現代の我々は日々ゴキブリを追い続ける。そして我々はゴキブリの歴史を語ることにより、この地球の歴史を、そして我々人類の歴史を語ることになる。
我々は「偉大なるアメリカ小説」ではなく、この恐るべきゴキブリにより「偉大なる人類の小説」を書くことが出来るのではないだろうか。ギリシャの昔にあのホメロスが書いた壮大な叙事詩、また中世のイギリスで書かれたシェイクスピアの普遍的な諸作と同様に。そして筆者は夢想するのである。この不確かな二十一世紀において、我々はゴキブリにより、愚かで有りながらも偉大な我々人類のことを語ることが出来る筈だ。
そう、何時か誰かが必ずや書いてくれる筈だ。
筆者はここに、まだ残された文学に対する一筋の光を見るのである。
投稿: onigawaragonzou | 2016年7月28日 (木) 01時27分