ボブ・ディランにはなれない
ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞で、私のようなにわかファンが増えたのではないだろうか。
ニュースを見ていると、ガロの「学生街の喫茶店」がかかり、
「学生でにぎやかなこの店の片隅で聴いていたボブディラン」
という歌詞が注目され、その作詞家が取材を受けていたりとか、
(そういえば、むかしホフディランという日本のバンドがあったよなあ)
と思い出し、調べてみると、インターネットのニュースで、
「ホフディランに祝福のツイートが急増」
とか、相変わらず全然関係ないところに飛び火しているところが、この国のいつものパターンで笑える。
さっきもラジオ番組でボブ・ディランの話題が出ていたのだが、最近ボブ・ディランの日本公演に行ったという人が、
「コンサートで懐かしい曲を聴きたいと思っていたら、ボブ・ディランはむかしの曲を一切やらず、全部新曲ばかりを歌っていた。アンコールでようやくむかしの曲をやってくれるのだが、アレンジが当時とは全然違う」
とこぼしていて、
「つまりボブ・ディランは、いまも新しいことを求める現役だということだ」
とまとめていた。
そういえば私の友人も、つい最近ボブ・ディランの日本公演に行ったそうで、同じようなことを言っていた。新曲ばかりで、いちばん聴きたかった「風に吹かれて」を歌ってくれなかったのだと。
そんな話を聞くと、むかし書いたものの焼き直しを新連載に書いている私なんぞは、全然ダメな人間だというのがよくわかる。やはり常に新しいものに挑戦していかないといけない。
ノーベル文学賞を受賞したことに関して、いまだに全然コメントしていないというのも、ボブ・ディランの美学をあらわしている。
それにひきかえ私なんぞは、新連載がはじまったなどと、ブログで宣伝したり、日ごろ連絡を取らないような人たちにまで宣伝したりするんだから、まったく、美学もへったくれもない人間である。
ボブ・ディランにはなれそうもない。
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