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2016年11月

マンツーマンツアーガイド

11月26日(土)

2日間にわたる公式行事が終わり、今日はフリーの日である。

今回の旅では、新卒入社2年目の新人君も随行していて、彼の見聞を広めるために、私に韓国を案内せよと、上司からお達しがあった。「場所は任せるから」。

ということで、私はまる1日、新人君のツアーガイドに徹することになった。

さあ、どのようなツアーにしようか?

考えた末に、郊外の町に行くことに決めた。私にとっても、久しぶりに訪れる町である。

韓国に留学していた2009年2月、当時の職場の教え子たちが、卒業旅行として韓国に来てくれたのだが、そのときに案内した町である。

新人君も、年齢からいえば大学生とさほど変わらないので、あのときのツアーを再現しよう、と思ったのである。

ソウルの宿泊先から1時間半ほど、鉄道とバスを乗り継いて、目的の町に着く。

Photo歩き続けているうちに、あまりに寒くなり、しかも途中で雪が降ってきた。

しかし雪もまた、風情がある。

Photo_2お昼になり、昼食をとることにするが、私がこの町に来ると必ず行くお店に行った。カルビ焼肉の店である。

「腹一杯食え」などと若者に肉を食わせるなんぞ、もう完全におっさんのやることだな。

夕方、宿泊先の近くに戻り、周辺を歩く。

このあたりも、7年前の卒業旅行の時に、学生たちを連れてきた町である。

あの頃から比べると、この町もずいぶんと変わった。

2数年前に新しくできた「斬新な建物」のまわりには、おびただしい数の造花のイルミネーションが飾られており、息をのんだ。

この光景を、7年前の学生たちにも見せてやりたかったなあと思ったが、もう7年前の卒業旅行のことなどとっくに忘れてしまっているだろう。

そのとき連れて行ったマッコリの店はまだ営業をしていたが、そこには寄らず、タコ料理の店に新人君を連れて行った。

Photo_3韓国の南部の海で取れるタコを使った鍋である。

「もう食えません」さすがの新人君も胃が疲れたようだ。

さて、ここでクイズです。お昼に行ったカルビ焼肉屋と、夜に食べたタコの鍋に共通するハングル2文字とは、何でしょう?

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アリランは身をたすく

11月25日(金)

公式行事の2日目は、記念シンポジウムである。といっても私は、ただお供として参加しているだけである。

昨日以来、中国から来たトウ先生とのコミュニケーションがとれないことが、悔しくて仕方がない。

英語も中国語も満足に喋れないのである。

心なしか、トウ先生も私を避けているように思えてきた。

(ああ、やっぱり俺は国際交流なんかに向いてない…)

どうして、ちょっとした英語すら、喋れないのだろう。自己嫌悪に陥るばかりである。

シンポジウムが終わり、夕方から晩餐である。

会食の席上で、あることに気がついた。

私のしている「勝負ネクタイ」と、中国から来たトウ先生の「勝負ネクタイ」が、全く同じネクタイだったのである!

ハングルが書かれた、青色のネクタイである。

どうやらトウ先生は、以前に韓国に来た時に、そのネクタイを買ったらしい。聞いてみると、買った場所も私と同じところであった。

「このネクタイに書かれたハングル、何が書いてあるかわかりますか?」主催者側の韓国の方が私たちに聞いた。

「さあ」

「アリランの歌の歌詞ですよ」

アリランとは、韓国の有名な民謡である。

「アリランですか!」

もちろん私は、アリランという歌を知っていたのだが、中国から来たトウ先生は、その歌のことを知らない様子だった。

「どんな歌なんです?せっかくだから覚えて帰りたい」と、トウ先生が言った。

主催者側の韓国の方が歌おうとしたので、すかさず私もそれに合わせて歌った。

「あ~りらん あ~りらん あ~ら~り~よ~

あ~りらん こ~げ~ろ~ の~もかんだ~」

すると、

「あなた、歌が上手いね」

と、トウ先生が英語で私に言った。

たったワンフレーズだったのだが、トウ先生には、私の歌がひどく上手に聞こえたらしい。会食中、何度も、

「あなた、歌が上手い」

と言われたのである。

そして会食が終わり、別れ際にトウ先生は私に言った。

「今度あなたが中国に来たら、一緒にアリランを歌いましょう」

トウ先生は、にこやかに私と握手をして、去って行った。

こうして2日間にわたる公式行事が、無事に終わったのであった。

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協定締結式

11月24日(木)

8時50分の羽田空港発の便に乗り、金浦空港に着いたのが11時30分頃。

空港を出てからは、日程がノンストップである。

空港まで迎えに来ていただいた車に乗り、13時から会食、14時過ぎから会議である。

今回は韓国だけでなく、中国も交えた、三者会議である。

中国の方も韓国の方も英語が堪能なので、何となく公用語が英語になる。

こんなことなら英語を勉強していればよかった。

議長国の韓国によるさまざまな提案に対して、その場で一つ一つ対応していかなければならない。

かなり大きな課題を突きつけられて、会議が終わった。

4時からはいよいよ協定締結式である。

Photo講堂に集まり、韓国と日本、韓国と中国が、それぞれ協定を締結した。

ここに至るまで、それなりにいろいろな苦労があった。

今年の夏頃から交渉をはじめ、直接会って話をしたり、メールのやりとりをしたりと、外交の下交渉のような慣れない仕事をした。

ただ、これからがタイヘンである。

はたして今日約束したことを、ちゃんと実行していけるだろうか。

協定締結式が終わり、社内見学をしたあと、午後5時半過ぎ、また車に乗り、晩餐会場へ向かう。

ここでも英語が公用語だった。

(俺は何の役にも立っていない…)

ひどく落ち込んだ。

晩餐も終盤にかかり、韓国と中国の方にお土産を準備していますと言ったらゴルフクラブですかと笑われた。どこぞの首相が嬉々として次期大統領へゴルフクラブをお土産に持っていったことが、世界では滑稽な話題となっているようである。ひょっとして同じように思われているのかもしれないと、これまたひどく落ち込んだ。

午後8時、ようやく解放され、ホテルに向かう。ソウルの夜は身の危険を感じるほど寒い。ヘタに外に出ると凍死しかねないほどである。大げさではなく。

明日もまた公式行事である。

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ついに恐れていたものが来た

11月23日(水)

祝日である。

この日の予定は、午後5時から、卒業生2人と都内で久しぶりに会うことになっていた。

そして翌日は、朝5時に家を出て、またまた韓国出張である。

午前中、腰の左後ろあたりが痛み出す。

(寝冷えかな…?)

それにしては痛い。

お昼頃、痛みがかなりひどくなり、動けないほどである。

(これはひょっとして…)

話には聞いたことがある、あの病気だろうか?

病院に行きたいが、あいにく祝日である。

近くに、急病診療所があることを思い出し、バスに乗ったのだが、痛くって座ってられない。

(ああ、俺はここで死ぬのだ)

と思いつつ、バスを降り、痛みで吐きそうになりながら歩いて、午後1時半、ようやく急病診療所に着いた。

待合室にたくさんの人がいて、これでは何時間待たされるかわからない。

(このままじゃ、俺、ここで死んでしまうぞ!)

あまりに痛がっていると、

「鬼瓦さん、お入りください」

という。

私が痛がっているのを見て、看護師さんが、

「これまで”石”をやったことあります?」

と聞く。やはり、痛がっている姿を見ただけでわかるのだろう。

「いえ、ありません」

「では、採尿しましょう」

診察室内のトイレに入り、おしっこをすると、真っ赤な色である!

ひえぇぇぇぇ~!!!!

それと、なにか”埃”のような異物が出てきた。

(ああ、俺はいよいよここで死ぬんだ)

尿を入れた紙コップを看護師さんのところに持っていくと、

「測定するまでもありません。肉眼でわかりますね。血尿です」

「け、け、け、血尿!!!」血尿と聞いただけで卒倒しそうになった。「で、でも先生。痛みが嘘のように取れました」

「石が出たのかしら」

「そういえばさっき、埃のようなものが出てきて、便器の中に入っていきました」

「じゃあ出てきたんですね」

「…ということは、先生…」

「尿管結石ですよ!」

出た!恐れていた尿管結石である

その病名だけは口にしてほしくなかった!

ああ、俺は痛風だけじゃなくこの病気ともこれからつきあっていかなければならないのか…。

それにしても俺は、痛風と結石という、中年男が苦しむ二大「かかっても死なないし、死ぬほど痛いのに自分が悪いと思われがちで誰も心配してくれない病」の両方にかかってしまうとは、因果なことである。

午後2時頃、診療が終わった。

このまま痛みが治まらなかったら、5時からの約束はもちろん、明日の韓国出張までご破算になるところだった。

それにしても俺の体は不思議である。まるでスケジュール帳のように、空いた時間に病気になりやがる。

体をいたわりながら都内に行き、久しぶりに2時間ほど、卒業生の2人と喋った。

この2人を見ていると「ザ・青春」という感じがするんだよなあ。

で、翌日(24日)。

朝4時に起き、5時過ぎに家を出て、羽田空港からソウルに向かう。

…というわけで、またまた旅の空です!

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最初に親しげに声をかけてくるヤツ

前にもこの話を書いたことがあるような気がするが。

就職するときに、人生の先輩にこんなことを言われた。

「最初に親しげに声をかけてくるヤツには気をつけろ」

何度か職場を転々としたが、この教えが正しいことをそのたびに実感した。

ひょっとして、これは全世界的な真理なのではないだろうか?

私のような凡人でも気づくようなことである。

ましてや、人を押しのけて社会的に高い地位に就くような人は、

「最初に親しげに声をかけてくるヤツには気をつけろ」

という真理は、イロハのイ、のはずである。

ところが不思議なことに、「最初に親しげに声をかけてくるヤツ」自身は、どうやらその真理に気づいていないようなのである。もし気づいているとしたら、こんなバカなことはしないはずである。

もし、「最初に親しげに声をかけてきたヤツ」がそのことを自慢げに話していたとしたら、声をかけられたヤツは、そいつを滑稽に思うに違いない。

だがもし、声をかけられたヤツがその真理に気づかない人だったとしたら、そいつもまたバカである。

つまりいま私が知りたいのは、バカなのは「最初に親しげに声をかけてきたヤツ」だけなのか?それとも声をかけられたヤツもバカなのか?ということなのである。

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めざせロッパ

ブログを書く習慣が途絶えてしまったため、ブログの書き方をすっかり忘れてしまった。

ここ最近の記事は、実にどうもつまらなくていけない。

ブログって、どんなことを書けばいいんだっけ?

古川緑波『ロッパ随筆 苦笑風呂』(河出文庫)を読んでみた。

じつは古川緑波の文章を読むのは、初めてである。

ところで最近の河出文庫は、高橋和巳の小説を相次いで出したり、福永武彦の名作『風のかたみ』を出したりと、ずいぶん私好みのものを文庫化してくれている。

「攻めるねえ、河出文庫」

と矢沢永吉さんバリにつぶやきたくなるのである。

さてこのロッパ随筆。そこはかとなく面白い。

俺がめざしていた文体は、これだったことに思い至る。

古川緑波といえば、1日も休むことなく書き続けた「古川ロッパ昭和日記」が有名である。

書き続けたからこそ、あの軽妙な文体が獲得できたんだな。

書き続けることを、やめてはいけない。

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切符を握りしめる少年

子どもの頃、電車に乗るときに切符をどうしていましたか?

ポケットにしまっていた?財布にしまっていた?

僕は電車に乗っている間、切符を右手に握りしめて持っていました。

いまでも、その癖がときおりあらわれることがあります。

どうしてこんな話を思い出したかというと、先日、朝のラジオを聴いていたら、僕と同世代のラジオパーソナリティが、オープニングトークでそんな話をしていたからです。

そのラジオパーソナリティもまた、私と性格がよく似ているらしく、子どもの頃、切符をずっと握りしめて電車に乗っていた、と言っていました。

そして最近、モバイルSuicaを始めたら、これがすこぶる便利で、いまではこれが手放せないと言っていたのです。

モバイルSuicaが、どれだけ一般に普及しているのか、よくわかりませんが、僕はかれこれ10年ほど、モバイルSuicaの愛用者です。

ガラケーからスマホに変えるときも、モバイルSuicaが使えるスマホを買う、というのが第一条件でした。なので、iPhoneではなく、アンドロイド携帯にしたのです。

そこで、一つの仮説が浮かびました。

「子どもの頃、電車に乗るときに切符を握りしめていた人は、大人になるとモバイルSuicaにハマる」

いまのところ、サンプルは二人だけですけど。

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逆境を好機に変える天才

11月19日(土)

午後から都内の大学で、ささやかな「同業者の集い」があり、参加する。ふつうはこのテの集いには参加しないのだが、友人から頼まれたので、憂鬱だが参加することにした。

集いのあとは、近くの居酒屋で懇親会。2次会まで出て、久しぶりに痛飲した。

11月20日(日)

北へ向かう各駅停車の新幹線に乗り、1時間20分ほどかかる町まで、日帰りの仕事である。また今週末もつぶれたのである。

心がどんよりしているときは、有名人の日記を読むとよい、というのが僕の鉄則。旅の道中で、三田完『不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む』(文藝春秋、2016年)を読む。

俗に、「なかにし礼」派か、「阿久悠」派か、と問われることがあるが、僕にとっては、「市川森一」派か、「山田太一」派か、と問われるくらい、難しい。どっちかというと、「阿久悠」派であり、「市川森一」派なのだが。

この本は、阿久悠の日記そのものではなく、作家・三田完の目を通じた阿久悠日記が語られている。だから阿久悠の日記は断片的にしか読むことができないのが残念である。

三田さんは阿久悠の日記を読みこむなかで、ある時期に「逆境(苦境)を好機に変える天才」という文言が何度か登場することに気づく。

「今日は何も話したくない。『逆境を好機に変える天才』と云う言葉を信じるのみ。(84.12.26)

「しっかりしたい。いや、しっかりしろと怒鳴りたくなるくらいコンディションが悪い。もう一度『苦境を好機に変える天才』と暗示をかけよう」(85.1.12)

この時期、かなり精神状態がアレだったらしい。

1984年は、阿久悠が47歳の時である。今の私の年齢と同じである。

この時期、すこぶる精神状態が悪かったらしく、

「10月下旬頃のあたたかさだと云う。妙に生あたたかく気持が悪い。そのせいではないが、精神状態がひどく悪い。居直ること、割切ること、対することをいつの間にか忘れてしまったようで、少々自己嫌悪にかられる」(84.1212)

「度胸について考える。A型について考える。自己嫌悪の日々。この年齢になって、実に情ない」(84.12.22)

などと書いている。

なるほどこの年代はそういうものなのだと、今の自分に言い聞かせる。

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犬笛授業

最近ブログの更新が滞っているのは、火中の栗を拾うような仕事ばかりしていて、心を折らずに生きることで精一杯だからである。

自分のことを棚に上げて言うのだが、この業界には厄介な人や因習が多く、その中でバカなふりをして生きていくのは、相当しんどい。

そんな中、先週金曜日(11月11日)、久しぶりに学生たちの前で授業をする機会があった。

うちの職場の同僚たちの中には、都内の大学で、週に1度、非常勤講師をするという人が多いのだが、私は依頼があってもずっと断っていた。

その理由は、忙しくてその余裕がないということと、もう1つは、「都内の私大生は恐い」という都市伝説めいた話を、半ば信じていたからである。

前の職場、前の前の職場で学生たちに恵まれていた私にとって、

「都内の私大では学級崩壊みたいなことが起きている」

みたいな話を聞くと、恐くて授業なんかできないなあと思ったのである。

今回、都内の超有名私大の、面識のない先生から依頼が来た。

「オムニバス授業なので、2回ほど授業をしてください。専門の学科の2年生80名くらいが受講する授業です」

と言われ、2回だけなら負担も軽いし、専門の学生が受講するなら多少マニアックな話をしても理解してくれるだろうと思い、お引き受けすることにしたのである。

当日。

恥ずかしながら、その都内の超有名な大学に生まれて初めて足を踏み入れた。

ビックリした。

JRの駅の目の前にあるではないか!

この路線はじつによく使う路線なのだが、この駅で降りることなんぞ、めったにないことだった。なので、この大学がこんな有名な駅の目の前に立地しているなんて、今の今まで知らなかったのである。

少し早めに着き、今回のオムニバス授業を仕切る先生とお話をした。いわく、

「最近の学生は、授業なんてまじめに聴きませんから」

という。

「いえ、なかには熱心な学生はいますよ。前のほうに座っている学生は授業をよく聴いています。でも、後ろのほうに座っている学生は、全然ダメです」

「そうですか…」

やはり都市伝説は本当だったのか?

しかし若干気になったのは、その先生が少し上から目線で話されていたことである。

そういう方からすれば、学生はそういうふうに映るのではないだろうか?

さて授業のほうは、学級崩壊することもなく、1回目が無事に終わった。90分、いつもの調子で喋った。

オムニバス授業を仕切る先生も、一緒に授業を聴いておられたのだが、

「やっぱり後ろのほうで座っている学生は全然ダメでしたね。寝てるやつもいましたし」

という。どんな授業でも寝ている学生はつきものなので、私は全然気にならなかった。それに、教室のいちばん後ろで居眠りをしているその先生の姿を私は見逃さなかった。

私は常々思うのだが。

私の話すことや書くことには、犬笛のようなもので、届く人と届かない人がいる。

ある人には届くが、別の人にはまったく響かない。

今までそんな経験を何度もしてきたのである。

授業のあとのリアクションペーパーが送られてきたが、学生たちの反応もまずまずである。ということは、犬笛が聞こえたということか?

いちばん後ろに座っていた先生には、犬笛が聞こえただろうか?

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日本のデンゼル・ワシントン

まったく映画のド素人が書く話なので、的外れのことを言っているかもしれないが、1980年代は、公民権運動やベトナム戦争について、物怖じせずに映画を作っていたような気がする。

80年代後半は、僕が高校から大学に進学する頃だった。その頃は、暇なときに劇場に足を運んで映画を見たりした。

覚えているのは、「ミシシッピーバーニング」(1988年)と、「遠い夜明け」(1987年)である。前者はアメリカ南部の黒人差別の問題を取りあげ、後者は南アフリカのアパルトヘイトの問題を取りあげていた。

「ミシシッピーバーニング」のほうは、ジーン・ハックマンという頭の毛の薄いおじさんがベテラン刑事を演じていたのだが、この人のたたずまいがじつにかっこよくて、なるほど、絵になる人というのはこういう人をいうのだなと思ったものである。

ストーリーをすっかり忘れてしまったので、つい最近この映画を見返してみたのだが、これがじつにすごい映画である。

人間が人間を差別することは、かくも恐ろしいものかと思わせる。

恐ろしいのは、差別をしようと思ってい差別をしている人もさることながら、そうではない、ふつうの人々である。

いじめはなぜ起きるのかについて知りたければ、この映画を見ればよい。

この映画では、南部の白人たちによる黒人に対する激しい差別が批判的な視点で描かれている。しかし見逃してはならないのは、南部の白人たちそのものが、差別されているという現実である。この映画の中で、くりかえし「南部は田舎だ」とバカにされているのだ。

差別は連鎖することを思い知らされる。

映画の中で、南部の強烈な人種差別主義者が、政治演説をおこなって白人たちの熱狂的な支持を得る場面があるが、それが過去のものだと、どうしていえるだろう。

今こそこの映画を見るべきである。

さて、もう1つの「遠い夜明け」。いささか冗長な映画だが、この映画で印象的なのは、黒人指導者ピコを演じる、若き日のデンゼル・ワシントンである。

彼が話す台詞には、説得力がある。

法廷で彼が話すシーンを見ていて、日本でこの人を演じるとしたら、堺雅人しかいないのではないか、と思ってしまった。

堺雅人の話す台詞もまた、説得力がある。

つまり堺雅人こそが、日本のデンゼル・ワシントンだと思うのだが、どうだろう。

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またまた旅の空でした

11月13日(日)

もともと僕は引きこもり体質で、できることなら誰とも会わず1日を過ごしたいといつも思っている。

しかし実際はそういうわけにいかず、むしろ知らない人や気を使う人たちと無理やり話をしながら、関係を作っていくことがもっぱらの仕事になってしまった。

そういうことが苦にならない人が本当にうらやましいのだが、僕はそういうことが苦にならないようにふるまわなければならないのである。

Photo_3この2日間は、旅先でそんな仕事ばかりしていて、すっかり憔悴してしまった。

(もう人と会うのはまっぴらごめんだ…)

午後2時、すべての仕事が終わり、出張先をあとにした僕は、ある場所に立ち寄ることにした。

先日同僚から、ある場所で面白い展示をやっていると聞き、調べてみると、今日がその展示の最終日である。

午後2時にこの出張先の最寄りの駅から電車に乗れば、ギリギリ、開館時間に間に合うことがわかった。

そういえば、その場所に行く直通の電車があったはずだと思ってスマホで調べてみると、それよりも3つの鉄道会社の電車を乗り継いで行った方が時間的に早いことがわかった。

電車を乗り継いで、4時前にその場所に到着した。

むかしの版木が並べられた展示の中の一つに、版木の裏面をわざと展示しているものが、一点あった。

そこには、むかしの人の落書きが描かれていたのである。

「いまいましい。摺にくし」

「こんなしごといやなり」

なんとそこには、仕事に対する愚痴が書かれていたのだ。

この落書きと対面をはたした僕は、すっかり安堵して、そのはす向かいにあるいつものカフェに立ち寄ったのであった。

Photo_2幸い、気まぐれな店主は、今日は店を開けていて、すっかり腹ぺこになった僕はチキンバターカレーとミニコーヒーを堪能したのであった。

さて、今回の出張先と、そこから電車を乗り継いで落書きを見に行った場所というのは…。

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くたばれ!ポンチ絵

ちょっと話題がさかのぼる。

先々週くらいまで、この業界恒例の「申請書祭り」だった。

今年は私も申請書を書かなければならなかったので、悪戦苦闘した。

何人かの方に申請書の書き方について相談したりすると、中には

「申請書の中に、図がないとダメだ」

とアドバイスする人がいた。

「図、ですか?」

「そう、ポンチ絵」

私はこの、ポンチ絵、という言葉が大嫌いである。

最近は、何かというとすぐポンチ絵だ。

とくにえらいお役人さんは、何かというとすぐポンチ絵を描けという。

おまえの読解能力のなさを棚に上げてポンチ絵を描かせるのは、私に言わせれば怠慢以外の何物でもないと思うのだが、今の風潮は、「いいポンチ絵を描く人が仕事のできる人」ということになっているらしい。

アッタマに来たので、いっさいポンチ絵のない申請書を書いてやった。

申請書を最終提出する前に、2人の「有識者」に見てもらい、アドバイスをもらうことになっているのだが、2人の「有識者」はいずれも、

「とてもわかりやすい申請書です」

とコメントをくれて、ポンチ絵がないことについては、まったく気にならない様子だった。

ポンチ絵なんかなくったって、わかるやつにはわかるんだ、と安心した。

そうかと思うと、世間にはポンチ絵の好きな人もいる。

ある方から、作成した申請書を見せてもらった。

その方は、ポンチ絵を描くことがすごく得意な方で、申請書の至る所にポンチ絵が描かれていた。

「ほら、どうです?このポンチ絵なんてのは、最近の流行を取り入れたポンチ絵です。すごいでしょう」

「はあ」

たしかにそのポンチ絵はすごい。

だが問題は、そのポンチ絵が複雑すぎて意味がまったくわからないことである。

その方は得意になってポンチ絵を見せてくれたのだが、そのポンチ絵を見たところで、何が言いたいのかまったくわからないのだ。

結論。

ポンチ絵にしたところで、わからないものはわからない。

頭にスッと入る文章こそが、人の心を動かすのだ。

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それがどうした

11月12日(土)

またまた旅の空です!

会合の席で、ある方が私に言った。

「○○君が、××賞を取ったぞ」

○○君、というのは、私と同世代の仲間の一人である。

「そうですか」

「知らなかったのか」

「ええ」

「ダメじゃないか!ニュースに出ていたぞ」

その方は、私がそのニュースを知らなかったことに驚いていたようだった。

「最近出張続きで、ニュースなんてみていなかったもので…」

と言い訳をしたが、そもそも私は、その賞になんぞまったく興味がない。

「年末にお祝いの会でもしようという話が出ている」

「そうですか…」

その賞をもらうと、この業界ではハクがつくらしい。

だが、それがどうした、という感じである。

その賞は、「有識者」が選ぶ賞なのだが、私の見立てでは、その○○さんの作品は、いかにも有識者受けする作品で、おそらく賞を取るだろうと思っていたので、さほど驚くべきことではなかった。

むしろ僕からすれば、その作品は、○○さんの悪い面が出てしまっているなあと思い、あまり評価をしていなかった。

つまり評価というのは、そういうものである。

その方は私に、「君もがんばれ」的なことをおっしゃってくれたのだが、私は、逆立ちしたって有識者に評価される作品なんて書けないし、書こうとも思わない。

そんな評価なんぞ、私にとってはどうでもよい。

有識者にさえその価値がわからないところに価値を見いだすことこそが、自分にとっていちばんワクワクすることなのだから。

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引きの強い人たち

11月3日(木)

世の中には不思議なこともあるものだ。

今回の旅で、行きたかった場所が一つあった。

ある雑誌にコラムを書いたのだが、行ったことのない場所について書いたので、機会があったらぜひ一度その場所を訪れなければならないと思っていた。

出張先でお世話になっているMさんに相談したところ、この機会に、その場所に車で連れて行ってくれるという。

その場所は、車で行かないとたどり着けないような山間部の渓谷で、私がいま滞在している町から、車で1時間半ほどかかるところにあった。私のような外国人が、おいそれと行けるような場所ではない。それが今回、Mさんの運転する車で、その場所を訪れることができたのである。

Photo駐車場から500メートルほど歩くと、眼前に、以前に写真で見た景色が広がった。

辺鄙な場所にあるので、当然、ここを訪れる人などほとんどいない。

初めて見る景色に感動しながら、1時間半ほどこの場所に滞在し、駐車場に戻ろうと、もと来た道を歩いていると、反対側から、一人の男性が歩いてきた。

見たことのある男性である。

「○○さん!」

私は思わず声を上げた。

「鬼瓦さん!」

その男性も、私を見て驚いた。

その男性は、私がその場所についてのコラムを書いたときに、その場所の写真を提供してくれた方だった。

私はこの場所についてのコラムを書いたとき、まだこの場所を訪れたことがなかったので、20年以上前にその場所を訪れたことがあるというその方に、そのとき撮った写真の提供をお願いしたのである。まだデジカメなどなかった時代の話である。

それにしても、交通が不便な、こんな山奥の渓谷で、知り合いにばったり会うなんてことがあるだろうか?

「驚きました。どうしてこちらへ?」私はその方にたずねた。

「あなたに写真をお貸ししてから、この場所のことが気になりましてね。いまどうなっているのかなあと思って、約20年ぶりに来てみたんです」

気になったからといって、ふと思い立っておいそれと再訪できるような場所でもない。

「お一人で、どうやって来たんです?」

「路線バスを乗り継いできました。以前に来たときのようにね。でもこの場所もだいぶ変わりましたねえ」

私よりも8歳ほど年上の方なのだが、学生のノリでこの場所に来たかのようである。

「こんなことってあるんでしょうか?」

「私もビックリしました。悪いことはできませんねえ」

私もまた、自分の書いたコラムのことが気になって、この場所に来たのである。

コラムを書いた人間と、そのコラムに写真を提供した人間が、同じタイミングでこの場所を訪れるという、なんとも奇妙な再会である。

「これが女性だったら、ドラマチックだったんでしょうけどね。おじさんどうしの再会というのがなんとも…」

「私たち、どうやらこれで運を使い果たしたようです」

引きの強い二人というべきなのだろう。

しばらくこのあたりを一緒に見学したあと、その方が言った。

「一つ、お願いしてもいいですか?」

「何でしょう?」

「山を下りたところの幹線道路まで、車に乗せてもらえませんか?」

「いいですよ。幹線道路などといわずに、せっかくだから駅とかバスターミナルまでお送りしますよ」

「いえ、山を下りたところの幹線道路で降ろしてもらえば結構です。あとは適当にバスに乗って移動しますから」

その方は、本当に山を下りたところの幹線道路にさしかかったところで、車を降りた。

「本当にここでいいんですか?」

「ええ、大丈夫です」

また路線バスを乗り継いでどこかに行くのだろうか。

「今度は日本でお目にかかりましょう」

「そうしましょう」

うらやましいほどの自由人である。

さて、私が訪れたその場所というのは…。

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ソメク論争

10月31日(月)

その、歓迎会でのこと。

「ソメクを飲みますか?」と社長。ソメクとは、コップ一杯のビールにお猪口一杯分の焼酎を混ぜた飲み物のことである。

「ええ、いただきます」

ふつうは、コップ一杯の中に、ビールと焼酎を混ぜて作るのだが、社長のやり方は違っていた。ヤカンの中に、瓶ビール一本分のビールと、韓国焼酎1本分の焼酎を、ドボドボと入れはじめたのである。

なんとも大胆なソメクの作り方である。

「その作り方、初めて見ました」

私が驚いて言うと、今度は横にいた部長が言った。

「私は以前、とても不思議なソメクの作り方を見たことがあります」

「どんな作り方ですか?」

「栓を開けた焼酎の瓶の上に、やはり栓を開けたビール瓶を逆さに乗せるのです」

「……」

「しばらくすると、不思議なことに焼酎がビール瓶の方に上がっていきます」

「……」

「そうすると、ビール瓶のほうに焼酎が混ざるでしょう?で、あるていど時間がたったら、ビール瓶を素早く元に戻し、ビール瓶に入っているお酒のほうをソメクとして飲むのです。そうすると、ちょうどいい感じのソメクになる、というんです」

社長を含めて、そこにいた人たちは、誰一人その作り方を知らなかった。

「実際やってみましょう」

Photo_3部長はそう言うと、焼酎の瓶とビール瓶の栓を開け、素早い動作で、焼酎の瓶の上にビール瓶をひっくり返して乗せたのである。

しばらく様子を見てみるが、焼酎がビール瓶のほうに上っていく気配が、外から見ただけではわからない。

「おかしいんじゃないか?」と社長は言った。

「いえ、私はたしかに見たんです」と部長。

「ふつう、ビール瓶が下だろう」

「いえ、社長、それは違います。焼酎が下だから、少しずつ焼酎が上っていって、ソメクができあがるんです。で、ビール瓶に入っているお酒のほうだけを飲むんです」

「でも見てごらん。いっこうに焼酎が上っていく気配がないぞ。ビール瓶が下の方が正しいんじゃないか?」

そう言うと社長は、おもむろに瓶を反対に置いた。つまり、ビール瓶を下に、焼酎の瓶を上に置いたのである。

Photo_4「ほら見てごらん。ビールが上に上っていくだろう」

見るとたしかに、ビールの泡が焼酎の瓶のほうに上っていくのがわかった。

「やはりこちらの方が正しかったのだ」と社長は誇らしげに言った。

「さあ、飲もう」

論争に勝った社長はそう言うと、逆さに置いた焼酎の瓶を取り外し、あろうことか、ビール瓶に入ったお酒と焼酎の瓶に入ったお酒を、ヤカンの中にドボドボと混ぜて入れたのである!

おいおい、それじゃあさっきの飲み方と結局同じじゃないか!

いままでの論争は、いったい何だったのか?

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池のある町

11月1日(火)

しばらく更新が滞ってしまった。こぶぎさんもとうとうしびれを切らしてしまったらしい。

日曜日から、またまた韓国に滞在している。

Photo今回訪れた町は、ちょうど1年ほど前も訪れた町である。泊まっているホテルも同じで、ホテルの前には、少し大きな池があることは、このブログの読者であればおなじみであろう。もっぱらこのホテルに泊まる理由は、このホテルから訪問先の会社までが近いためである。

訪問先の会社の社員の方々は、みな親切な人ばかりである。

Photo_2私一人のために、場所を作ってくださり、時間を割いてさまざまな段取りを組んでくださるのだ。

月曜日に、社長や部長も同席して、、ちょっとした歓迎会をしていただいた。

2社長は数日前に人事異動でこちらに来たばかりだそうで、まだこの町に慣れていないようだった。

「こちらにいらっしゃるのは何回目ですか?」社長が私に聞いた。

「15年ほど前から、10回以上は来ていると思います」と私。

「じゃあ、私よりもよく来ているじゃないですか。むしろ私がお客さんといっていいくらいだ」

穏やかな感じの社長さんは、そうおっしゃった。

私が訪れたその会社というのは…。

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