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2016年12月

東京五輪音頭を考える

12月31日(土)

紅白歌合戦の奇祭っぷりに、磨きがかかっている。

国策に加えて、今年話題になったことをすべて拾っていかなければならないっていう強迫観念があるのか、もはや収拾がつかない状況になっている。

これ、海外の人が見たらまったく訳がわからないだろうな。

なぜ、Perfumeみたいに楽曲のクオリティーで勝負しないんだろう?

目下の私の関心は、「東京五輪音頭」は2020年の紅白歌合戦まで歌われ続けるのか?ということである。

「東京五輪音頭」の歌詞を見たら、「オリンピックのことをよく知らない人が、突然オリンピックの歌の歌詞を依頼されて、雰囲気だけで作った」感が満載である。そう思ってこの歌を聴くと、そこはかとなく可笑しい。

「(1番)

あの日ローマで ながめた月が

きょうは 都(みやこ)の 空照らす

4年たったら また会いましょと

かたい約束 夢じゃない

ヨイショ コリャ 夢じゃない

オリンピックの 顔と顔

ソレトトント トトント 顔と顔

(2番)

待ちに待ってた 世界の祭り

西の国から 東から

北の空から 南の海も

越えて日本へ どんときた

ヨイショ コリャ どんときた

オリンピックの 晴れ姿

ソレトトント トトント 晴れ姿

(3番)

色もうれしや 数えりゃ五つ

仰ぐ旗みりゃ はずむ胸

すがた形は 違っていても

いずれおとらぬ 若い花

ヨイショ コリャ 若い花

オリンピックの 庭に咲く

ソレトトント トトント 庭に咲く

(4番)

きみがはやせば 私はおどる

菊の香りの 秋の空

羽をそろえて 拍手の音に

とんでくるくる 赤とんぼ

ヨイショ コリャ 赤とんぼ

オリンピックの 今日の歌

ソレトトント トトント 今日の歌」

ほらね。

歌詞だけ読んでも、オリンピックがいったい何なのか、まるでわからないのだ。

ひょっとしてこれは、「おらが国にオリンピックがやってくる」と思っていた当時の大多数の人々の、東京オリンピックに対するイメージそのものだったのではないだろうか?

意図しているとしていないとにかかわらず、今度のオリンピックをこうした牧歌的な歌の中に雲散霧消させようとするのだとしたら、かなり問題である。

歌に罪はない。演出に罪があるのだ。

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年賀状改革

12月30日(金)

毎年年末のこの時期の最も大きなイベントは、「年賀状会議」である。

帰省先の妻の実家で年賀状を作成することが年中行事となっている。

2011年「年賀状の憂鬱」

2013年「年賀状会議」。

2014年「年賀状やめませんか」

と、何度か、年賀状漫談をこのブログにも書いてきた。

過去の記事を読んでわかるように、私は年賀状作成が苦痛なのである。

こんな風習など、なくなってしまえばいいと思っている。

だから早くこの苦痛な仕事を終わらせて、年を越したい、と思うばかりである。

毎年、年賀状には、旅先で妻と二人で写っている写真を載せることにしていたのだが、今年はとうとう、年賀状用の写真を撮ることを忘れてしまい、 年末を迎えてしまった。

(さて、今年はどうするか…)

前日29日の夜から会議が始まり、「なぜ今年は年賀状用の写真を撮らなかったのか?」と妻に詰問され、会議はしばし紛糾したが、私にアイデアが浮かんだ。

「デザインを工夫したらどうだろうか?」

私がデザインのイメージを話し、それをもとに、妻が年賀状のレイアウトをする。

試行錯誤の末、年賀状のデザインがついに完成した!

今までにない、スタイリッシュでインパクトがあるデザインである!

これまでの年賀状の中で、一番の傑作ではないだろうか!

「でもこれ…、映画をパクってない?」と妻。

「パクっているのではない。オマージュだ」と私。

とにかく、私にとっては会心の作である!「年賀状改革元年」と言ってもいい!

さて、デザインが完成したら、さっそく試し刷りである。

ここで1つ問題があった。

実は数年前から懸案だったのだが、年賀状はこれまでずっと、妻の実家にあるWindowsXP搭載のパソコンに入っている、「筆ぐるめVer.12」というソフトで作成していた。

それを、Wi-Fiによる通信でプリンターに接続させ、印刷するという手順である。

しかしこの1,2年は、パソコンの動作がすっかり遅くなってしまい、年賀状をプリントアウトすることはおろか、「筆ぐるめVer.12」を起動することすらままならなくなってしまったのである。あたりまえだ。古いパソコンなんだもん。

で、今回の年賀状も、「筆ぐるめVer.12」でデザインしたまではよかったが、いざプリントアウトする段になると、パソコンがフリーズしてしまう。

この1,2年は、だましだまし使っていたが、もう限界である。

会議の末、最新式のパソコンに、「筆ぐるめ」の最新バージョンをダウンロードして、そこにデータを全部移行した上で、印刷することに決定した。

ただし、その日はもう遅かったので、作業は翌日に持ち越された。

さて、翌日(30日)の朝。

さっそく最新式のパソコンに「筆ぐるめ」の最新バージョンをダウンロードした。

ダウンロードしてビックリした。

「筆ぐるめ」はいまや、「Ver.24」まで進んでいるんだね。

いままでどんだけ更新しなかったんだ!

さて、ダウンロードしたあとは、古いパソコンの「筆ぐるめVer.12」に入っている住所録だのレイアウトだのをバックアップして、それを最新式のパソコンの「筆ぐるめVer.24」に移行していく。

無事に移行も終了し、プリンターとの接続もなんとか上手くいき、年賀状の印刷までこぎつけた。

ただ、プリンターもかなり古いものだったので、スピードが遅かったり、途中、さまざまな理由で印刷がストップしたりして、大変だった。

結局、午前9時半から午後3時くらいまでかかって、ようやく年賀状の印刷がすべて終了した。なるべく省力化をはかりたいと思いつつ、結局足かけ2日もかかってしまった。

ただ今年は、デザインを大幅に変え、使用するソフトも刷新するという、思い切った年賀状改革をした。その結果、自分でも満足のいく年賀状になった!

どんな年賀状になったかって?

年賀状をお目にかけられないのが残念である。

ああ、年賀状なんかなくなればいいのに。

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昼間から呑む

12月30日(金)

年末年始、ロクなテレビ番組をやっていない。

むかしは、けっこう懐かしの映画を放送していたりしたものだが、最近はそれもほとんどない。

_r_a24久しぶりにGyaOをのぞいてみたら、韓国映画「昼間から呑む」(2009年)をやっているではないか!

数年前にDVDでこの映画を見たのだが、もう私は、この映画の虜になってしまった!

失恋した青年が、ひょんなことからある田舎町を旅することになり、そこでさまざまな災難に出会う、爆笑ロードムービーである。

なんの変哲もない、優柔不断なふつうの青年が、何も悪いことをしていないのに、なんとなく事態が悪い方へ悪い方へと進んでいく。

それでもめげない青年。

旅の途中で出会う人たちは、親切なのか?そうでないのか?

この青年が旅先で人に出会うたびに、「悪い予感しかしない」のである。

映画を見ている間ずっと、「ザワザワした感じ」が続く。そう、この映画は「ザワザワした感じのコメディー」なのだ。

とりわけ私自身は、韓国に1年間住んでいたことがあるので、ここに登場する人たちの些細な台詞に、

(あ~わかるわかる。こういうこと言う人、いるよな~)

と、思わず手をたたいてしまうのである。

もちろん、別にそんな経験がなくても、十分に楽しめる。

この映画は、ノ・ヨンソク監督のデビュー作で、日本円にして100万円以下の低予算で作られたという。

オフィシャルサイトによれば「山下敦弘、ウディ・アレン、ジム・ジャームッシュにも通じるオフビート感覚と独自のテンポ感」だそうで、まあ専門的なことはわからないが、とにかくおもしろいの一言に尽きる。

年末年始、何も見るものがなかったら、「昼間から呑む」がオススメです!

2017年1月9日までGyaOで公開。

158990_01ちなみに「サニー 永遠の仲間たち」も2017年1月9日まで。こちらももちろん、オススメです!

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喪中はがき

12月29日(木)

今日から年末年始の休暇である。

年賀状を作成しようと思い、この年末に届いた喪中はがきをあらためて確認することにした。

このところ忙しくて、誰から喪中はがきが届いたのか、ちゃんと確認していなかったのだが、ひとり、身に覚えのない人からの喪中はがきが妻宛てに届いていることことに気づいた。

「Y島K子さん…。まったく聞いたことのない名前だよ」と妻。

当然、私も聞いたことがない名前である。

何かの間違いだろうか?

差出人の住所に身に覚えがある。

調べてみて、すぐわかった。

私が年賀状をやりとりしていた、Y島S子さんの住所である。

喪中はがきの文面をちゃんと読んでいなかったのだが、あらためて読んでみると、

「今年八月、母・S子が九十一歳で永眠いたしました」

そうだったのか…。Y島S子さんが亡くなったのか…。

そしてY島K子さんは、S子さんの娘さんだったのだ。

S子さんが年賀状のやりとりをしていた人たちに、娘のK子さんが喪中のはがきを送ったのだな。

Y島S子さん、というのは、20年ほど前、まだ私が大学院生だったときに、通信制の大学のスクーリングの講師をしていたときの、学生さんである。

私にとって、「大学」と名の付くところで授業をした最初の場所が、その通信制の大学だった。

通信制の大学なので、学生さんの年齢層はバラバラである。若い人もいれば、人生の大先輩のような方もいらっしゃった。

Yさんは、受講生の中でもかなり年齢が上の方だったが、一番熱心で、こちらの出す課題を、いつも的確にこなしておられた。

その通信制の大学で授業を担当していたのはたしか2年間で、各年度の半期だけを受け持っていたと記憶している。つまり、半期の授業を2回ほど担当していたにすぎない。Y島さんは必ず私の授業を受講していた。

2年でその大学の講師をやめた後、東京を離れたので、それ以降、Y島さんに会うことはなかった。だが年賀状のやりとりだけは、続いたのである。

お会いしなくなって10年以上もたつと、さすがに私のことなど忘れてしまっているのではないかと、年賀状を出すのもためらわれたのだが、Y島さんは欠かさず年賀状をくださり、いまでも私の授業のことを懐かしく覚えていると書いてくださった。

そんなふうにして、今年の正月まで、年賀状のやりとりが続いていたのである。

お亡くなりになった年齢が91歳であるとわかって、とても驚いた。ということは、20年前に私の授業を聴いていたときは、すでに古稀を越えていらしたということである。

当時20代だった私が、大学と名の付く場所ではじめて授業をしたときの、最初の教え子が、古稀を越えた人生の大先輩だったのだから、人生とはまことにおもしろい。

…さて、ここまで書いてきて、1つ謎が残ったままである。

喪中はがきは、なぜ私宛てではなく、妻宛てに送られてきたのか?

Y島S子さんと妻とは、何の接点もないのである。

ここからは妻の推理。

Y島S子さんには毎年、私と妻の連名の年賀状をお送りしていた。

S子さんが亡くなった後、娘のK子さんは、S子さん宛てに送られてきた年賀状を整理して、喪中はがきを送ることになった。

しかし年賀状の中には、母のS子さんとどういう関係の人なのかが、わからない人も多かったはずである。

私もおそらくその一人だったのだろう。

K子さんからしたら、まさか母が男性に宛てて年賀状を出すなど、思ってもみなかったのだろう。

S子さんもとくに、娘のK子さんにそのことを言うわけでもなかった。

事情のわからないK子さんは、男性である私ではなく、連名で書かれているうちの妻のほうが、S子さんの関係者だと思い、妻宛てに喪中はがきを出したのではないだろうか。

一枚の喪中はがきから、いろいろなことを、思った。

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妄想漫画家

何事も、形から入るタイプである。

以前、どうしても原稿を仕上げなければならない時に、ほら、よく文豪が、山奥の温泉に籠もって原稿を書いたりするでしょう。あんな感じで、文豪を気取って山奥の温泉旅館に籠もってみたことがあったが、結局ビールを飲んだら眠たくなって寝てしまった。

実力がともなわないのに、妄想ばかりしては、失敗しているのだ。

いま、出版社のサイトに連載しているエッセイも、気分は完全に「連載を持っている漫画家」である。

担当の編集者と二人三脚で作り上げる感じが、子どもの頃に憧れた漫画の連載と重なるのである。

2週間に一度、更新されるのだが、文章に合わせた図版も用意しなければならないし、レイアウトもしなければならないので、原稿はかなり前に出しておかなければならない。できればあらかじめ数回分を書いておいて、ストックしておく必要があるのである。

だが、原稿のストックもなくなって、あんまり書く気も起こらないなあという矢先に、編集者のKさんの提案で、今後の打ち合わせと写真撮影をしましょうということになったのが、つい先日の話

公園で撮影していたとき、編集者のKさんの上司の、Y部長がわざわざ公園にやってきた。

「やあ、どうも」

Y部長は、「ザ・編集長」といった感じの人で、たぶん人と会って話をすることが苦にならないタイプの方なのだろう。

私と話しをしに、わざわざ都内の公園まで来たのだ。

「先生の文章、とてもおもしろいです」

社交辞令であることは重々わかっているのだが、あんな地味な内容の連載にダメ出しをしないというのは、それなりに気に入ってくれているということなのだろう。

あの地味な内容の連載を気に入ってくれているのは、この世の中で編集者のKさんとY部長の2人だけなのではないか、という気がしてきた。

撮影をしながら、10分ほど四方山話をして、

「じゃ、このあと別の予定があるので失礼します。遅刻した上に早退してしまいすみません」

と言ってY部長は去って行った。分刻みで人と会うあたり、やはり「ザ・編集長」である。

公園での撮影が終わったのがちょうどお昼頃で、編集者のKさんが、

「昼食をとりながら今後の打ち合わせをしましょう」

という。

いわれるがままに、公園の向かいにある超有名なTホテルの地下の上品そうな店に入って昼食をとる。

「校閲の者も言っていたのですが、先生の文章は学者にしてはわかりやすくて、直す手間がかからないとのことでした」

「学者にしては、ですか」私は苦笑した。

たぶん私は、「手のかからない」執筆者なのだろうと思う。原稿も前もって数回分を出すし、手直しする部分も少ない。そしてなにより、編集者に対して「飲みに連れて行け」とか、「どこどこの店に連れて行け」みたいな要求もしない。

打ち合わせというのは、ブレインストーミングのようなもので、編集者がまず、

「たとえば、こんなテーマで書けませんか?」

と聞いてくる。それに対して、

「いやいや、そのテーマはおもしろいですけれど、文章にするのは難しいです。」

とか、

「たしかにそれは大事なテーマですけれど、私が書くべきく内容ではない」

とか言いながら、少しずつ歩み寄っていく。

あと、私がいま考えていることとか、形になりそうでならないアイデアをあれこれと編集者に話す。すると編集者は、

「それ、おもしろいですねえ。ぜひその話も連載に加えてください」

Kさんは必ずと言っていいほど、こちらの出すアイデアに乗ってくれるのである。

「いや、そう簡単に言われましても…。文章にするのはなかなか難しいですよ。それに、いままでの文章とはちょっとカラーが違いますよ」

「いえ、大丈夫です」

つまり、何でもあり、ということなのか?

「たまには違うカラーの文章が入ってもかまいません」

「じゃあ、連載の中でいろいろと実験させてもらってもいいってことですか?」

「けっこうです」

少し気が楽になった。

1時間ほどの打ち合わせだった。たいした内容を話したわけではないのだが、なんとなく連載が続けられそうな気がしたから不思議である。

「今後ともよろしくお願いします」

打ち合わせが終わり、Tホテルを出た。

(漫画家さんも、こんな感じで編集者と一緒にアイデアを形にしていくんだろうか…)

とまた、気分は漫画家である。

年末年始に、少しでも原稿を進めておこう。

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ビートルズとYMOと僕

12月26日(月)

先日の深夜、たまたまテレビをつけていたら、民放のバラエティー番組がビートルズの特集をしていて、ふだんなら絶対に見ないようなバラエティー番組だったのだが、つい見入ってしまった。

僕はビートルズについては全然詳しくなくて、ビートルズファンからしたら常識だと思われる知識すら持ち合わせていなかったので、その番組を見ていて、なるほどと思うことが多かった。

ビートルズって、活動期間がたった8年間だったんだね。

興味深いのは、その活動期間も前半と後半に分かれるのだということ。

ビートルズはデビュー当初から人気を博し、前半期はワールドツアーにひっきりなしに出かけてとにかくライブばかりしていた。

しかしそれでは、落ち着いて音楽が作れないということで、後半期は、ライブをほとんどやらずに、スタジオで音楽制作に没頭したのだという。

もしビートルズが、ずーっと旅から旅への公演を続けていたとしたら、これほどクオリティーの高い音楽は残せなかったかも知れない。

この点、YMOも似ている。

YMOなんか、1978年から1983年のたった5年間しか活動していなかったんだぜ。

YMOも、初期はワールドツアーに明け暮れていて、ファンが求める新曲をなかなか作れずに、ライブ盤の発売でしのごうとしていたふしがある。

後半期はその反動のように、スタジオミュージシャンのごとく、音楽制作に没頭していた。

やはりいい音楽を作るには、ある時期に没頭しなければいけないのだ。

自分を省みるに、ビートルズやYMOとは全然レベルが違うのだが、この1年、旅に次ぐ旅で、落ち着いて原稿を書く時間がなかった。

このままこのような生活を続けていたら、いい原稿など書けなくなってしまうのではないか、という不安でいっぱいになる。

来年こそは、少し落ち着いて、いい原稿が書けるようにしよう。

バラエティ番組のビートルズ特集を見て思ったのは、そんなことである。

ところでYMOで思い出したのだが。

YMOが散開(YMOの場合、解散ではなく、散開という)したのが、1983年12月22日である。この日の武道館でのライブを最後に、YMOは散開した。

当時中学生だった僕にとって、このときの喪失感は言葉で言い表すことができないほどだった。

しかし同時に、すでにYMOのメンバー3人の間でコミュニケーションが取れなくなっていることを中学生なりに薄々感じていた僕は、

(散開しても仕方ないよな…)

と思ったのだった。

そんなYMOの3人も好々爺のような年齢になり、いつの間にか3人で集まってたまに音楽をしているのをテレビなどで見かけたりすると、

(1983年にYMOが散開したときは、これですべてが終わった、なんて考えていたけれど、そんなことは全然なかったんだな。長い長いYMOの活動の、途中にすぎなかったのだ)

と思うようになった。

いま、僕が一番好きなYMOの演奏は、現役時代のYMOのライブではない。

好々爺となった3人が、肩肘張らずに楽しみながら演奏している「ライディーン」である。

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最も苦痛な原稿

12月23日(金)

この世で最も苦痛な原稿は何かといえば、それは「事典の原稿」である。

事典の原稿ほど、書いていて苦痛なものはない。

ときおり、半ば暴力的に、出版社から事典の項目の執筆を依頼されることがある。

断ってしまえばよいのだが、編集委員の方がお世話になっている先生だと、なかなか断りにくい。

だいたい15項目くらいが割り当てられるが、なかには聞いたこともない項目を執筆しなければならないこともある。

(何で俺にこの項目がまわってくるのか?)

そういうときはたいてい、誰かが執筆を断ったりした場合である。

で、項目の重要度の違いによって、1項目あたりの指定文字数が異なる。1項目400字の場合もあれば、3000字の場合もあるのだ。

半ば暴力的に与えられた項目を、指定された文字数にしたがって、事典のテーマに合う感じで執筆しなければならない。

もうこれが、苦痛で苦痛で仕方がないのである。

最近も事典の項目執筆を依頼されて、嫌で嫌で仕方がなかったのだが、書かないわけにもいかず、先日ようやく脱稿した。

事典の原稿で思い出した。

以前に事典の項目を依頼されたときに、「土地」という項目を1200字で解説しろ、というのがあった。

「土地」って、漠然としすぎるだろ!!!しかも1200字でどうやってまとめればいいんだ?

まことにムチャな依頼である。

また、「杖」という項目を1200字で解説しろ、というのもあった。

「杖」の場合は逆に、1200字も書くネタがなくて困った。

同じ事典で、「のろし」を1200字で解説しろ、というのは、比較的書きやすかった。

まことに罰ゲームのような依頼である。

(こんな文章、誰も読まねえだろうなあ)

と思って苦し紛れに書いて出したら、その事典が出た直後にある人から、

「あの事典の『のろし』の項目、読ませていただきました」

と言ってくれた人がいて、ビックリした。あんな文章を読んでくれる人がいたんだと、その人の律儀さに逆に驚いたほどである。

だから私が事典を読むときは、新しいことを知ろうと思って読むのではない。

「書いた人の苦心の跡がどれだけ残っているか?」

を知るために、読むのである。

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著者近影

12月21日(水)

もうほとんど忘れられていると思うが、超大手出版社のウェブサイトで絶賛連載中のエッセイ!

その編集担当のKさんから連絡が来た。

「21日は打ち合わせを兼ねて、著者近影の写真撮影を行いますので、よろしくお願いします」

メールによれば、出版社専属のカメラマンにより、都心にある有名な公園で写真撮影をするという。

たしかに、いまのサイトに上がっている顔写真は、間に合わせに送ったスナップ写真がそのまま使われているので、いたく評判が悪い。

レイアウターの方のたっての希望で、プロのカメラマンによる著者近影の撮り直しをすることになったのである。

さて、どんな格好をしていったらいいのか、わからない。編集担当のKさんは、服装について何の指示も出してくれなかった。

(困ったなあ。着ていく服がない…)

結局、ふだん着ているジャケットを着ていくことにした。

午前10時半、超大手出版社に集合すると、編集担当のKさんのほかに、私のエッセイをレイアウトしてくださっているレイアウターの方と、出版社専属のカメラマンの方もいた。私ごときの素材に、3人がかりで撮影にのぞむというわけである。

(これはますます困った…)

出版社からタクシーで都心の公園に向かう。地下鉄で行ってもそれほど遠くないと思うのだが、さすが大手出版社は太っ腹である。

公園に着き、さっそくロケハン(ロケーション・ハンティング)がはじまる。

まずレイアウターの方と専属カメラマンがロケハンをして、撮影位置を決める。そしてその後、私がその場に立って、撮影するのである。

パシャパシャパシャパシャ!!!

望遠レンズ付きの一眼レフみたいなカメラで連写する。

「次はちょっと斜めに向いてください」

「わかりました」

パシャパシャパシャパシャ!!!

「では場所を変えましょう」

ふたたび、レイアウターとカメラマンがロケハンである。

「ではこちらにどうぞ」

「はい」

パシャパシャパシャパシャ!!!

「ちょっと太陽の光がアレですねえ」

カメラマンはそう言うと、ほら、よくプロのカメラマンが撮影するときに使う、布製の反射板みたいなヤツがあるでしょう。あれを広げだした。

「これを使いましょう」

「これ、何ですか?」

「レフ板というものです」

レフ板というのか。

カメラマンの横で、編集担当のKさんがレフ板を持って立っている。いよいよファッションモデルの写真撮影の様相を呈してきた。

パシャパシャパシャパシャ!!!

パシャパシャパシャパシャ!!!

パシャパシャパシャパシャ!!!

道行く人が、「何の撮影だ。有名人か?」

みたいな顔でこちらを見て、私の顔を見たとたん、

「誰だ、こいつ?」

みたいな顔をして去って行く。

めちゃくちゃ恥ずかしい!

「こちらの方を向いてください」

「今度は体はカメラの方を向けて、お顔は斜め上の方に向けてください」

「そこに手をかけて、何か観察しているような感じにしてください」

パシャパシャパシャパシャ!!!

パシャパシャパシャパシャ!!!

パシャパシャパシャパシャ!!!

これでもかこれでもかというくらいに、シャッターを押すカメラマン。

公園内の数カ所をまわり、1時間半ほどで撮影は終わった。

「何枚くらい撮ったんです?」

「100枚以上は撮りました」

「著者近影って、こんなにたくさん撮るものなのですか?」

「そうです。とくに外で撮影するときはふつうにこれくらいは撮ります」

100枚以上も写真を撮られたことは、生まれて初めてである。

ふだん写真を撮られ慣れていないので、ひどくぎこちないものになったと思う。

「ところで、なぜこの公園で撮影したんですか?」

「この公園は、撮影のための許可が要らないんですよ。ほかの公園だと、撮影許可を必要とするところもあって、面倒なのです」

なるほど、そういうことだったのか。

自分が写真のモデルになって公共の場で撮影されるというのは、めちゃくちゃ恥ずかしい。

ということで、まもなく、私の連載エッセイのページがリニューアルされる。

そのときに、都心のどこの公園で撮ったのかが、明らかになるだろう。

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伝説のスピーチ

大学時代の一級上の先輩であるSさんとAさんは、「同志」とか「親友」といった間柄である。

大学生の頃、はたで見ていて、うらやましい関係だな、と思った。

その後、Sさんは香川県に就職し、Aさんは福島県に就職し、二人は10年以上も会う機会がない。

僕自身は、Sさんとも、Aさんとも、ちょこちょこと会う機会があった。

いまから20年ほど前のことである。

Sさんが香川県に就職することになったとき、僕はSさんの引っ越しの手伝いをした。

いかにも「○○荘」といった感じのぼろアパートの部屋に行くと、アパートが傾くんじゃないか、というくらいの本やガラクタが散乱していた。

ありとあらゆる書類がとってある。大学入学時のオリエンテーションパンフレットとか。

「こんなのいるんですか?」

「いるよ。とにかく段ボールに詰めて」

言われるがままに段ボールに詰めた。

極めつけは、流し台の戸棚から、「峠の釜めし」の駅弁の容器が、5,6個出てきたことである。

北関東出身のSさんは、帰省するたびに、名物の「峠の釜めし」を買って食べていたのだろう。

「こんなのも香川県に持って行くんですか?」

「持って行くよ」

「え、どうしてです?」

「だって、これで米を炊くかもしれないじゃん」

ええぇぇぇぇ!そんなこと、絶対あり得ない。釜めしの容器でご飯を炊く機会なんて、絶対ないだろう。

「全部ですか?」

「全部」

僕はだんだん腹が立ってきた。1つならまだしも、5,6個あった「釜めし」の容器をなにも全部持って行くことはないだろう。

あまりに腹が立ったので、Sさんが目を離しているすきに、釜めしの「うつわ」と「ふた」を、全然別の段ボールに、バラバラに梱包してやった。

(これで、段ボールをあけたときに、「あれ?うつわはあるけどふたがない」とか、「ふたはあるけどうつわがない」となって、さぞかし困るだろうな、ククク)

なんとも地味な嫌がらせである。

一事が万事そんな感じで、ほとんどのモノを捨てることなく、段ボールに詰めるだけ詰めて、香川県まで運んでいったのであった。

さて、それから数年後。

Sさんが、結婚することになった。僕は香川県で行われる結婚披露宴に呼ばれた。

しかも、スピーチと歌を披露しろという。

仕方がないので、スピーチでは引っ越しの時のエピソードを面白可笑しく話した。

「あのときの『釜めしのうつわとふた』は、うまく見つかりましたか?Sさん」

披露宴会場は爆笑の渦となった。

このとき、Sさんの親友のAさんも披露宴に出席していた。

昨日、松山で行われた研究交流集会の懇親会でAさんとお会いしたので、このときの話をすると、

「あのスピーチは忘れられないよ」

と僕に言った。

じつはもう一人、このスピーチのことを覚えてくれた方がいた。

今回の研究交流集会を取り仕切っていたEさんである。

Sさんの元同僚であるEさんもまた、Sさんの結婚披露宴に出席していたことを、後に知った。

数年前、Eさんに初めてお会いしたとき、会うなり、

「S君の結婚披露宴で、釜飯のスピーチをされていましたよね」

と言われたのである。

「あのスピーチはよく覚えていますよ」

僕が驚いたのは、17年前のどこの馬の骨かもわからない人間(つまり僕)のスピーチを覚えてくれていたこと以上に、いまは同志としてそれぞれの持ち場で活動されている福島県のAさんと愛媛県のEさんが、じつは17年も前に、僕の「釜飯スピーチ」を一緒に聞いていたという事実である。

人間の縁というのは、実におもしろい。

さて次の日の午前、香川県のSさんが、松山で行われた研究交流集会に駆けつけた。

休憩時間の15分の間だけ、香川のSさんと福島のAさんは再会した。

二人は、会合が終われば、すぐまた移動しなければならない。

10数年ぶりのSさんとAさんの束の間の再会に、僕はちょっと感動した。

ツーショットの写真を撮ればよかったと、後悔した。

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立食パーティーの憂鬱

一般論として書くんだけど。

立食パーティーというのが、大の苦手である。

みなさんは、立食パーティーを、どうやってやり過ごしているのだろう?

以前にいわれたアドバイスは、

「最初のうちに料理をたくさん食べて、おなかを満たしておくこと」

ということだった。

最初からいろいろな人と話し込んだりしていると、最終的に料理を食べるチャンスを失ってしまうから、いつでも臨戦態勢に入れるように、あらかじめお腹を満たしていくことが重要なのだそうだ。

最近はそのアドバイスを守って、最初にスタートダッシュで料理を食べるようにしているが、しかしそれもあまり度が過ぎると、

「あいつ、すげえがっついて食ってやがる…」

みたいに思われるかも知れないと思い、つい、遠慮したりしてしまう。

あと、どんなタイミングで人に話しかければいいの?

私自身は、話しかける価値のない人間なので、向こうからこちらに話しかけてくるなんてことは、まずない。

かといって、私から話しかけるほどの勇気も持っていない。

ただありがたいことに、誰にでもまんべんなく話しかけてくれる人がいて、話しかける価値のない私のような者にも、話しかけてくれたりする。

そういう人と話をしているとき、あることに気づいた。

その人は私に話しかけてはいるのだが、途中から、その人の視線が、私ではなく、別の方に向いているのである。

私と話しながら、次に話すべき相手を探しているのだ!

で、ちょうどいい頃合いに、

「ではまた」

とかなんとかいいながら、別の人のもとに駆け寄っていく。

なるほど、立食パーティーの極意は、話をしながら、次に話すべき候補者を目で追うことが重要なんだな。

そうすれば、途切れなく会話を楽しむことができるというわけだ。

立食パーティーも後半になると、ほとんど話しかけてくれる人もいなくなり、自分から話しかけるべき人もいなくなる。

こうして手持ちぶさたになる時間が、私にとっては「軽く死にたくなるとき」なのだ。

立食パーティーをやり過ごすことができる人は、本当に尊敬する。

そしてこんなことを考えている私は、大人として失格である。

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富士山を真上から撮る

12月17日(土)

またまた旅の空です!

先週からすこぶる体調が悪いが、旅をやめるわけにはいかない。

飛行機に乗る機会が多くてしんどいのだが、最近はもっぱら、窓側の席に座って、飛行機の窓から富士山を見ることが楽しみである。

飛行機が富士山の右側を飛行するのか、左側を飛行するのかによって、飛行機の座席も自ずと決まってくる。最近は航空会社が気を利かせてくれて、飛行機の行き先にしたがって、どちらの側に富士山が見えるのかをウェブ上で教えてくれたりする。それを参考に、座席を指定することができるのである。

なので、あらかじめどちらの側に座れば富士山が見えるかを調べた上で、飛行機の座席を指定することにしている。

先週の旅の時に乗った飛行機は、調べてみると向かって左側に富士山が見えるというので、向かって左側の窓側席を事前に指定した。「○○A」という座席である。

ところが、直前になって航空会社から「機材が変更になりました。つきましてはお客様の座席も変更させていただきます」というメールが来た。

見ると「○○K」という席である。

「K」といったら、向かって右側の窓側席ではないか!

富士山が見える側とは、正反対の席である!

(困ったなあ)

「どうしたんです?」と同僚。

「じつは富士山が見える席を指定したんですが、機材が変わったとかで、正反対の席になってしまったんです」

「変わりましょうか?」

「え?」

「私、○○Aの席ですから」

「A」といえば、富士山が見える側の席である。

「いいんですか?」

「ええかまいません。でもそんなに富士山が見たいんですか?」

「ええ、何しろ縁起物ですから」

ということで、富士山の見える席に変えてもらったのである。

おかげで、なんとか富士山の写真を撮ることができた。

20161207

さて、今日の便はどうか?

どちらの席に座れば富士山が見えるのか、例によってインターネットで調べてみたところ、

「富士山のほぼ真上を飛行いたしますので、窓からは富士山をご覧いただけません」

えええええぇぇぇぇっ!!!

つまり、Aの席に座ったとしてもKの席に座ったとしても、富士山は見えないというのだ。

こんなことってあるのか…。

こうなったらどっちでもいいや、と思い、Kの席を指定した。

はたして本当に、富士山の真上を飛行するのだろうか???確かめてみたくなった。

窓の外、とりわけ真下の方をずっと見ていると、

(これ、富士山じゃねえか???)

と思われる山の上空にさしかかった。

急いで飛行機の窓から真下に向けて、写真を撮ってみた。

20161217

雪がかぶっている部分が頂上付近だとしたら、たしかにこの飛行機は、富士山の真上を飛行していることになる。

たぶん、これが富士山なのだろうと思うが、自信がない。

気を取り直して窓の外を眺めていると、しばらくして、多くの島が点在する海域にさしかかった。

島と島の間が川のように狭いところがあった。

(これはもしや…)

青春時代の映画によく出てきた島ではないだろうか???その島というのは…。

Photo

富士山は近くからは見られなかったが、空からの景色を十分に堪能した。

やはり飛行機に乗るのは冬に限る。

さて、私が降り立ったその空港というのは…。

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最近このブログを読むようになった方のために

このブログは、2008年11月に開始しました。ブログを始めて、まる8年になります。

最初は、2008年11月末からはじまった私の韓国留学の様子を余すところなく書き残そうと思ってはじめたのがきっかけですが、2010年2月末に帰国した後も、なんとなく惰性で続けて、今に至っています。最近は本業がアレなので、ブログを書く気力が続かず、サボり気味になっておりますが。

最近このブログを読むようになった方のために、少し説明いたしますと。

よくコメント欄にコメントを書いている「こぶぎ」さんという人は、「前の前の職場」の同僚だった人で、毎日欠かさずこのブログをチェックして、コメントを書いてくれています。私と同世代で、ラジオっ子だった人です。

ラジオで言えば、私がラジオパーソナリティーだとしたら、こぶぎさんはヘビーリスナー、しかも常連のハガキ職人です。

私のフリートークに触発されて、それに突っ込みを入れたり、補ったりするコメントを書いてくれます。それも、かなり凝ったコメントです。

最近は私が頻繁に出張するので、その出張先に関するクイズを出し、こぶぎさんがコメント欄でそれに答える、というやりとりがもっぱら行われています。

ただし解答は、出張先の地名をストレートに答える、というものではなくて、答えじたいが、読者にまた考えさせるという、クイズ形式になったりしています。

他の読者は、こぶぎさんのコメントの意味を読みとくことで正解にたどり着くわけで、つまりこのブログを読むには、かなり頭を使うということになるのです。

最近はもう、こぶぎさんの答えが他の読者には訳のわからないものになってしまっているのではないかと懸念しています。

他の読者はとっくに置いてきぼりなんだろうな、でもまあ別にそれでもいいか、と思わなくもないのですが、少しだけ説明を加えますと。

前回、前々回の「カルトQ」シリーズは、今回の出張の道中で立ち寄った場所に関するクイズでした。

いずれも、「水曜どうでしょう」という番組の「試験に出る石川県・富山県」というシリーズに出てきたロケ地です。前々回のクイズの答えが、「なぎさドライブウェイ」で、前回のクイズの答えが「千枚田」でした。

たまたま今回の出張のルート上に、この2カ所があったので、出張の空き時間を利用して立ち寄ったのでした。

こぶぎさんのコメントは、「水曜どうでしょう」の「試験に出る石川県・富山県」というシリーズを見た人でないとわからないような解答になっています。

それだけではありません。前回のコメントは、もっとわからなかったでしょう?

じつはこの時期、「前の職場」で毎年恒例の「モギ裁判」の学生公演があり(モギ裁判、というよりも、演劇的要素の強い法廷劇なのですが)、前の職場にいた頃、好きでよく見に行っていました。

こぶぎさんもこのモギ裁判が好きで、50㎞ほど離れた会場にわざわざ見に行っていて、この時期になると、その感想をこのブログに書いたりしていました。

残念なが私は、勤務地が移ってしまったので気軽に見に行くことができなくなりましたが、こぶぎさんは今も毎年、モギ裁判を見に行っているようです。

おそらく今年も、その感想をコメント欄に書いてくれることでしょう。

前回のコメント欄の解答には、そういうことも背景にあるのです。

ですので、ずーっとこのブログを読んでいる方でないと、こぶぎさんのコメントを読み解くのは、とても難しいわけです。

さて、話を戻しますと、最近の出張は、メンタル的にもかなりキツいので、空き時間を見つけては、「水曜どうでしょう」のロケ地に立ち寄ったりしています。

最近では、「だんごが空を飛ぶ」(2016年7月29日)とか、「正解してもどうということのないクイズ」(2015年2月20日)などが、「水曜どうでしょう」のロケ地がらみのクイズです。

しかし後者のクイズはもっと凝っていて、「先週私が訪れた「市内に小さな川が流れている町」と、今週私が訪れたこの町に、共通してゆかりのある昔の偉い学者とは、誰でしょう?」という、これだけ書いたのでは全くわからないクイズを、こぶぎさんは「西田幾多郎」と、見事に正解しているのです。

こぶぎさんは、ブログに掲載されている写真から、これが「水曜どうでしょう」の「絵はがきの旅」シリーズに出てきた金沢の武家屋敷のロケ地であることを特定し、さらにその前の週に私が訪れた「市内に小さな川が流れている町」を山口市と特定した上で、山口市と金沢市に共通する人物として、西田幾多郎を導き出したのです。

これは相当ブログを読み込まなければ、答えることができません。

しかも、当ブログではクイズに対して直接に答えを書いてはいけない決まりになっているので、答えがわかったぞとアピールするために、工夫を凝らしてコメントを書いているわけです。

これはほんの一例ですが、今後もいろいろなパターンのコメントが書かれることと思いますので、読者のみなさんはこれからも引き続きコメント欄にご注目ください。

以上、「吹きだまり再入門」でございました。

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カルトQ:世界農業遺産

12月8日(木)

こぶぎさん大正解です。

では次のクイズも簡単でしょう。

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カルトQ:日本で唯一の場所

12月7日(水)

またまた旅の空です!

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ゾフィーからの手紙

ウルトラノチチサマ

ムラハチブトイウエイガハワタシモハジメテシリマシタ。

キンダイエイガキョウカイガセイサクシタエイガノヨウデスネ。ディーブイディーニナッテイナイヨウデス。

キンダイエイガキョウカイノセイサクシタエイガノディーブイディーハ、ダイゴフクリュウマルシカモッテイマセン。

コウドウカガクニカンスルエイガヲショウカイシロトノコトデシタガ。

シンリジッケンヲテーマニシタエスガ、ヤッパリオススメナンダケドナア。

ダイガクノチカシツニモウケラレタモギケイムショデ、ヒケンシャガカンシュトシュウジンニワカレテニシュウカンエンジツヅケルトイウジッケンヲシタトコロ、サイシュウテキニダイサンジニナルトイウオハナシデスネ。

コウドウカガクノエイガトシテコレニマサルモノハアリマセン。

タダシ、ワタシガコノエイガヲミタトキハ、シバラクハタチナオレナイホドノショックヲウケマシタノデ、シンニュウセイニハヤッパリムリデショウカネ。

ソフトロセン、オワライロセンデイエバ、イジュウインヒカルノバラエティーダルマサンガウゴイタラミンナバラバラノマキガ、ニンゲンノギシンアンキノセカイヲエグッタバラエティートシテタノシメルノデハナイデショウカ。イジュウインヒカルノバングミシンケンジャンケンモドウヨウノセカイカンデス。イズレモディーブイディーニナッテオリマス。

…トカナントカススメテミテモ、ケッキョクハ、チチサマノダイスキナラブコメヲミセルコトニナルンダロウナア。

ア、モウヒトツオモイダシマシタ。カンコクエイガトイエバ、タダシクイキヨウトイウエイガガコウドウカガクノエイガトシテヨイノデハナイデショウカ。ゲンサクハ、アソビノジカンハオワラナイトイウニホンノショウセツデ、ニホンデモエイガカサレマシタ。デモカンコクノリメイクバンノホウガオモシロイデス。

…トカナントカススメテミテモ、ケッキョクハ、チチサマノダイスキナラブコメヲミセルコトニナルンダロウナア。

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ザ・コラム

小田嶋隆さんの『ザ・コラム』(晶文社、2016年)は、これまで小田嶋さんが書いた数え切れないほどのコラムの中から、選りすぐりのコラムを集めたと言うだけあって、実に小気味よい文章が並んでいる。

一番最初の「天国への団塊」は、団塊の世代に対する徹底的な批判が書かれていて、実に小気味よい。

小田嶋さんは、「団塊の世代」より少し後の世代で、私は「団塊の世代」よりも一世代ほど後の世代だが、思うところは、小田嶋さんと全く同じである。

「アレですね。永遠の勝ち組。年金踏み倒しを武勇伝として語ってしまえるメンタリティー。やんちゃ、ちょい悪を肯定的な資質として自慢できちゃう集団的厚顔無恥。徒党組んだら勝ちだからな。この国は」

この文章で、私がなぜ、団塊の世代が嫌いなのか、溜飲が下がる思いがした。

団塊の世代が酔っ払って徒党を組むと、タチが悪い。

どうしてああやって傍若無人にふるまえるんだろう?

明らかに飲み屋の店員さんが迷惑してるぞ!

…と思いながら、その団塊の世代たちの同調圧力に屈して飲み会に参加してしまう自分が、実に情けなくなる。

しかし、だ。

私たちの世代もまた、他人様のことは言えないぞ。

いつだったか、飲むと「ガッハッハ」になる人がいて、言わなくてもいいことを大きな声で言ったりする。

「いい時に職場を移ってよかったねって、みんなに言われるんですよ、ガッハッハ」

と、いまその職場につとめている人に向かって誇らしげに言っていた。

その職場で苦労をしている人からすれば、たまったものではない。

(よくそんなこと言うよなあ…)

私は絶対にそんなことは言わないぞ、と肝に銘じたのであった。

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軽く死にたくなる同業者祭り

12月3日(土)

またまた旅の空です!

恒例の、年に1度の「同業者祭り」である。

私にとっては1年でいちばん憂鬱な2日間なのだが、メシの種なので、そんなことは言ってられない。

恒例の懇親会ではいつも軽く死にたくなるのだが、今回もやはりそうだった。

もっと軽く死にたくなるのは、2次会である。

「だったら、2次会なんかでないでサッサと引き上げて宿に行けばいいじゃん!」

と言われるかもしれないが、このときばかりは、私も「同調圧力」に屈さざるを得ないのだ。

(この世界に向いてないなあ…)

毎年、この時期にこんな気持ちになるのは、もはや風物詩といえる。

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誤訳をして軽く死にたくなる

12月1日(木)~2日(金)

「光の国の姉妹都市」から帰った翌日、今度は職場で、2日間にわたるセミナーである。

このセミナーに、韓国からお客さんが2人来る。

2人とも私のよく知っている人で、Mさんは日本語がペラペラなのだが、Pさんは日本語が喋れない。

ということで2日間、私はPさんの通訳をすることになった。

初日の木曜日は、うちの職場の資料を熟覧しながら意見交換をする、という企画で、私はPさんの横にピタッとくっついて、資料を見ながら意見交換する様子を通訳した。もちろん私自身、勉強になったのだが、専門的な話が多すぎて、頭が痛くなった。

通訳の何が難しいと言って、日本人の方が勝手気ままに話す言葉を、通訳しなければならないことである。

あんまり込み入った話をグダグダ言っていると、

「そんな込み入った話、通訳できるわけねえだろ!」

と言いたくなる。

だいたい、語学をちゃんと勉強したことがないヤツほど、込み入った話をしたがるのだ!

まあそれはともかく。

夕方からの懇親会でも、引き続き通訳をした。

さて、次の日(金曜日)。朝9時半から5時まで、セミナーである。

この日は、Pさんが1時間ほど、参加者たちの前でプレゼンテーションをするのだが、その1時間のプレゼンの通訳も頼まれた。

幸い、Pさんの発表原稿をあらかじめ妻が翻訳しておいてくれたので、とくに破綻することなく終了した。

問題は、プレゼンのあとの討論である。

どんな意見が出てくるかわからない。日本人の質問を正確に韓国語訳し、Pさんの答えを正確に日本語訳しないと、間違った結論を導いてしまうことになる。

一つ、Pさんの発言について、大変が誤訳をしてしまった。

「王子が王に対して最初にすることは、○○を伝え、使臣たちの前に披露することである」

と訳したのだが、これがまったくの間違いだったことが、後でわかった。

正解は、

「王子が王になる時、最初にすることは、使臣たちと一緒に○○を決めることである」

だったのだ!

どうして私はこのような誤訳をしてしまったのか?

それは、Pさんの発言の中に出てきた、「정하다(決める)」を、てっきり「 전하다(伝える)」だと思ってしまったからである。

どちらも日本語的に言えば「ジョンハダ」と聞こえるのだが、この二つの発音の微妙な違いが、聞き取れなかったのだ。

私は「ジョンハダ」を、「전하다(伝える)」だと思い、そこから全体の日本語訳を組み立ててしまったのである!

…どうだい、なんだかサッパリわからないだろう。

ともかく、そのことに後になって気づき、私は軽く死にたくなったのである。

知識さえあれば、誤訳するなんてこともなかったのに…。

(軽々しく通訳なんて引き受けるんじゃなかった…)

自分の勉強不足をのろった。通訳って本当に難しい。

しかしまあなんとか乗り切り、セミナーは無事に終了した。

Pさんはとてもいい人で、私が通訳したことに対してひどく感謝してくれた。

2日目の懇親会が終わり、Pさんが言った。

「何から何までありがとうございます。とても充実した2日間でした。今度ソウルにいらした時は、必ず連絡してください。絶対にごちそうしますから」

「わかりました。必ず連絡します」

握手をして別れた。

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光の国からのメッセージ

11月30日(水)

光の国の姉妹都市に行ってきました!

なんと、ウルトラの父からのメッセージを発見!

だが、光の国の文字で書いてあるので、全然読めない!

さて、何と書いてあるのか…。(大喜利)

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