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2017年1月

新しい因縁

1月30日(月)

この週末は、韓国から来たお客さんのアテンドに終始した。

韓国のクォンさんは、初めてお会いする方で、座持ちが悪い私には、気の利いた会話をすることができないのだが、今回の仕事では、韓国語が話せるのは私だけなので、いわば私が命綱なのである。

最近はこんな仕事ばっかりだ。

27日(金)、夜9時過ぎに、成田空港に迎えに行き、宿泊施設までお連れする。家に帰ったのが夜11時半。

28日(土)、朝10時から17時まで、職場で国際会議。韓国と台湾のお客さんを招いて、3言語による会議である。それが終わって懇親会。会議の時は通訳業者がいたのだが、懇親会は僕が通訳をつとめなければならなかった。

懇親会が終わり、お客さんを宿泊施設にお連れする。翌日、お客さんを都内にお連れしないと行けないので、私もその宿泊施設に泊まった。

29日(日)、朝8時にお客さんをお連れして宿泊施設を出発し、10時から上野で会議。お昼12時に終わり、午後は自由時間になった。

さあ困った。自由時間をどう過ごすか?

上司からは、「夕食まで付き添ってごちそうするように」と命令されていて、とにかく夕食の時間まで、間を持たせなければならない。

まずは、お昼ご飯と食後のコーヒー。

上野の「かまくらや」という釜めし屋さんに行き、そのあと喫茶店に行ってコーヒーを飲んだのだが、どうがんばっても2時までが限界である。

「どこか行きたいところがありますか?」私が聞いた。

「いやあ、とくに考えてません」

「浅草なんかいかがです?」困ったときの浅草である。

「昨年日本に来たときに行きました」

「そうですか…」浅草が封じられた。ほかに思いつかない。

「できることなら…」とクォンさん。「娘と妻にお土産を買いたいのですが…」

「お土産ですか。わかりました」

考えた結果、有楽町のロフトと東京駅地下街に行くことにした。

上野駅から山手線に乗り、有楽町のロフトに着いたのが、2時15分。

「ここで娘のお土産を買います」

「じゃあ、1時間ほど時間をとりましょう」

クォンさんがロフトで買い物をしている間、私は近くの喫茶店で時間をつぶした。

午後3時15分。

「おかげで、娘に買いたいと思っていたものが買えました」

「そうですか。それはよかった。では次に東京駅に行きましょう」

東京駅に着いたのが午後3時半。

八重洲口の地下街には、キャラクターグッズのお店が並んでいる。

「じゃあ、ここでも1時間ほど時間をとりましょう」

私はふたたび、近くの喫茶店で時間をつぶした。

午後4時半。

「娘のお土産が買えました」

「そうですか。それはよかった」

「今度は大丸に行ってもいいですか?妻にもお土産を買わないと」

「じゃあ、1時間ほど時間をとりましょう」

私はまたまた、近くの喫茶店で時間をつぶした。

午後5時半。

「おかげで妻のお土産が買えました」

「どんなものを買ったんです?」

「柚子ソースとか、生わさびとかです。韓国では買えないので」

「そうですか。それはよかった」

まだ6時前だが、さすがにもう間が持たない。

「ちょっと早いけど、夕食に行きましょう」

東京駅八重洲口地下の串揚げ屋さんに行った。

2人だけでは、とても間が持たないと思ったが、ありがたいことに、妻とその友達も途中で合流してくれた。

「来月、ソウルに行きます」と私。

「それはいつですか?」とクォンさん。

「2月7日~9日です」

「そうですか…。8日の夜はあいてますか?」

「ええ、たぶん大丈夫だと思います」

「いちばん好きな韓国料理はなんですか?」

「サムギョプサルです」

「では、今回の旅の御礼に、ソウルでいちばんおいしいサムギョプサル屋さんを探して、ごちそうしてさしあげますよ」

「それは嬉しいですね。ありがとうございます」

座持ちが悪い私とは、この3日間、たいして話も弾まなかったと思うのだが、それでも、ありがたいと思ってくれたのだろう。義理堅いのは、クォンさんのほうである。

気がついたら4時間がたっていた。

黒霧島のロックを立て続けに飲んだせいで、翌朝ひどい二日酔いになったことはいうまでもない。

30日(月)午前11時。

成田空港までお送りした。

「では、来月8日にお会いしましょう」

「お気をつけて」

これもまた、因縁、である。

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成田空港彷徨

1月27日(金)

さて、東京駅から北へ向かう新幹線に乗った私は、1時間20分ほどかけて「新幹線の各駅停車しかとまらない駅」で降りた。

午後、この町で3時間ほど仕事をして、夕方4時51分発の新幹線で東京方面に戻る。

新幹線と私鉄を乗り継いで向かった先は、成田空港である。

明日から2日間、うちの職場で小さなイベントがあり、韓国からひとり、お客さんを招いたのである。

そのお客さんが成田空港に到着するのが午後9時だという。その方は日本語がわからない方なので、私が空港まで迎えに行くことになったのである。

ただし、初めてお会いする方なので顔がわからない。仕方がないので、「歓迎!○○先生」とハングルで書いたプラカードを作って待つことにした。

午後9時過ぎ、飛行機が到着した頃を見計らって、到着ロビーのところでプラカードを持って立っていると、ジーン・ハックマンみたいなおじさんが私に英語で話しかけてきた。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、あんた、英語わかるか?」

見栄を張って、「ええ、少しなら」と答えてしまった。

「ずっとここで待っているんだが、誰も出てこない。ここで待っているのは正しいことなのか?」

みたいなことを、どうやら言ってるようである。いや、もっと複雑な話をしているようにも聞こえる。

すると、ジーン・ハックマンみたいなおじさんは、私にEチケットのような紙を見せて、

「これなんだが…どうかね、合ってるかね?」

みたいなことをさらに聞いてくる。

しかしその紙を見ても、当然英語で書かれているので、何が何だか全然わからない。

「すみません。わかりません」

私がそう言うと、ジーン・ハックマンは、困ったような顔をして離れていった。

ジーン・ハックマンはなすすべがないようで、到着ロビーのところをウロウロとするばかりである。

到着ロビーを見渡しても、グランドスタッフが見当たらないので、聞こうにも聞けないのかもしれない。

しばらくすると、到着の出口から、客室乗務員らしき女性が出てきた。

私は意を決して話しかけた。

「あのう…」

「何でしょう?」

「あちらの方が、困っておられるようですよ」

私は、到着ロビーをあてもなくウロウロしているジーン・ハックマンを指さした。

「○○のお客様でしょうか?」

○○、とは航空会社の名前である。

「さあ、わかりません」

「私どもは、他の会社のことはわかりません。グランドスタッフにお聞きください」

そんなことわかってるわ!こちとら、つい先日、映画「ハッピーフライト」を見たばかりなんだぞ!航空業界の内部事情くらいわかるわ!俺だってグランドスタッフが近くにいればそっちに聞くさ!でもいないから、こうして聞いたんじゃないか!

…という言葉をグッと飲み込んで、

「とりあえず、話だけでも聞いてあげてください」

と粘った。

仕方ない、といった様子で、某航空会社の客室乗務員が流暢な英語でジーン・ハックマンと話し始めた。するとどこからか、グランドスタッフの人が駆け寄ってきた。

あ!映画「ハッピーフライト」でいうところの田畑智子だ!

「どうかしましたか?」

田畑智子が、ジーン:ハックマンに英語で話しかけた。

それを見て某航空会社の客室乗務員も安心し、あとは任せたわね、てな感じで去って行った。

よかった、これで解決だ。俺もいいことをしたなあ。

…と思いきや、全然そんなことはなかった。

ジーン・ハックマンがさかんに田畑智子にいろいろ聞いているのだが、どうも解決策が見当たらないようなのである。

田畑智子もタブレット端末を使っていろいろと調べたり、携帯電話かPHSみたいなものであちこちに連絡を取っているようなのだが、どうも埒があかないようなのだ。

結局、ジーン・ハックマンに加えて、田畑智子まで到着ロビーをウロウロとしはじめたぞ!

ジーン・ハックマンの投げかけた質問が、あまりにも難解なものだったに違いない。

なにしろ、グランドスタッフが解決できないんだから。

ジーン・ハックマンと田畑智子は、あっちへウロウロ、こっちへウロウロとしている。

私はといえば、韓国からのお客さんが出てくるのを待っているのだが、つい、視線がその2人のほうにいってしまう。

かれこれ40分ほど経過したが、ジーン・ハックマンと田畑智子は、まだウロウロしている。

(グランドスタッフが解決できないほど難しい問題って、いったい何があったんだ?)

と思っていたら、ジーン・ハックマンと田畑智子は、到着ロビーから外へ出てしまった。

(どこへ行ったんだろう?)

と思っていたところに、韓国からのお客さんが到着口から出てきた。

「こんにちは」

「よくいらっしゃいました」

こうして私は、無事にお客さんをお迎えすることができたのだが、はたしてジーン・ハックマンは、どうなってしまったのだろうか?

無事に解決することを祈るばかりである。

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東京駅彷徨

1月27日(金)

午前10時半過ぎ。東京駅の構内。新幹線の出発までまだ時間がある。

新幹線の改札口付近でうろうろしていると、改札口の横にある、新幹線の空席状況を知らせる電光掲示板の前で、アラサーの社会人女子っぽい二人がなにやら話している。

見た目は二人ともごく普通のアラサー女子で、手にはハンドバッグと、中におそらく駅弁が入っているであろうビニール袋をぶら下げている。ずいぶん軽装である。

「あったあった、新大阪行きだ。やっぱりここだここだ」

二人のうちの一人が、電光掲示板を確認して言うと、今度は新幹線改札口の方へ歩いた。

立ち止まって二人が言う。

「改札があるね…」

「どうやって入るんだろう…」

この会話を聞いて、私に一つの疑念が生まれた。

この二人は、新幹線の乗り方を知らないのではないだろうか?

二人はしばらく、新幹線改札口を観察している。他のお客さんがどうやって改札に入っているかを見ているようである。

「パスモで入れるのかなあ…」

「入れるかもよ」

ええええぇぇぇっ!!!

ひょっとしてこの二人、特急券を買わなければならないことを、知らないのか?乗車券も、おそらくパスモでは入れないと思うぞ!百歩譲ってSuicaだとしても、「モバイルSuica特急券」を購入しておかないと中に入れないぞ!しかもJR東日本の新幹線だけだけどね!

これが、新幹線のない時代から生きているお年寄りとか、日本に初めて来た海外からの観光客とかだったらまだわかる。だが二人は、決してそんな感じではないのだ。どこにでもいそうな、普通のOLさん(死語)なのである!

「駅員さんに聞いてみよう」

二人はうろうろと駅員さんを探して彷徨う。私も思わず後をついていった。

駅員さんを見つけた二人は、なにやら質問している。離れているので声は聞き取れない。

だがその様子から、

「新幹線に乗るには乗車券と特急券が必要です」

「どうやって買えばいいんですか?」

「あちらにあります切符売り場か、もしくはそちらにあります自動券売機をご利用ください」

みたいな会話が交わされたのだろう。

二人はふたたび彷徨いはじめた。

まず向かったのは、切符売り場である。

だが長蛇の列だった。

「すごい並んでるねえ…」

「自動券売機のほう、行ってみようか」

今度は自動券売機の方に歩いていった。こちらの方は空いている。

二人は自動券売機で新幹線の切符を買うことを試みる。

(おいおい、自動券売機で切符を買う方が難易度が高いぞ!)

私は心配になった。

案の定である。

二人は、何度試みても、自動券売機で切符を買うことができないようである。

その理由は、遠くから見ているのでよくわからないのだが、おそらく、東京駅までの切符の精算がうまくいっていないのではないだろうか。駅を乗り越したかなんかで。

そうなるとますます疑問だ。この二人は東京駅までどうやってたどり着いたんだ?

自動券売機でなすすべもなく立ち尽くした二人は、ふたたび彷徨う。

私も後についていく。

今度は別の場所にある自動券売機で試みるが、やはり同じ結果に終わる。

さらに二人は彷徨い歩き、ついに八重洲口の改札口にいる駅員さんをつかまえた。

そこでようやく切符の買い方を教わったようで、今度は自動券売機で切符を買うことができたようであった。

それにしても、謎だらけの二人である。

このご時世、新幹線の切符の買い方を知らない社会人がいるのだろうか?

鉄道に乗ったことのない人なのだろうか?

だとしたら、東京駅までどうやってたどり着いたのか?

田舎から上京してきたばかりの人なのか?

いや、むしろ田舎から上京した人ならば、当然新幹線の切符の買い方は知ってるだろう。

しかも「パスモ」を持っているくらいだから、首都圏在住であることは間違いない。

新大阪に行くのに、新幹線の乗り方を調べなかったのだろうか?

なぜ「パスモ」で行けると思ったのだろうか?

そんな軽装で新大阪まで行って、どんな用事があるのだろうか?

謎だらけである。

二人が無事に新大阪に着くように祈るばかりである。

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珍石公園

ただいま某サイトで絶賛連載中のエッセイ。今のところ2週間に1度の更新を、落とすことなく続けている。

先日、デザインが少しリニューアルされ、昨年末に撮影した「著者近影」がようやく公開された。

あれだけの枚数を撮影して、これだけかよ!と思うのだが、たぶんこれからいろいろなバージョンの「著者近影」が頻繁に更新されるものと思われる。

さて、御覧になった方は、私が石のようなものに触れていることにお気づきだろう。

あの石は何なのか?

石碑ではないか?という意見もあるが、さにあらず。

ある意味、もっと珍しい石なのだ。私も、本では読んだことがあるが、恥ずかしながら実物を初めて見たのである。

あの石が何であるかがわかれば、撮影が行われた都内の公園の名前は、いとも簡単にわかるはずだ。

今日は忙しいので、この辺で。

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自動翻訳サイトの脱力

こぶぎさんは、最強の知恵袋だな。

「ジャッキー・チェン」と「long time no see」の都市伝説にかかわるサイトをすぐに見つけてきてくれた。

日本でいう「Yahoo!知恵袋」のような中国のサイトに、それに関するやりとりがあることを教えてくれたのである。

ただ、残念!またもや中国語だ!

中国語の細かなニュアンスがわからない私は、例によって自動翻訳サイトで機械翻訳してみることにした。

まず最初のサイトにある、質問とその答えを見てみよう。

「long time no seeは書中で使うことができますか?

これは1句の非常に生粋の中国スタイル英語で、ジャッキーチェン長兄はそれを持っていてアメリカハリウッドで1の番天地に突進し出して、今に至って、この話はすでに英国の美しい人のところに受け取られて、口語に常に現われることができることから出して、ただ手紙にそれともうまくすることを使うことを慎みます。その他のものは”It has been a long time”があなたに有用さを願います。」

…たしかにジャッキー・チェンの名前が出てくるが、例によって意味がわからない。おそらく、

「long time no seeは、生粋の中国式英語で、ジャッキー・チェンはそれを持ってハリウッドで出世して今に至る。すでにイギリスでは口語で使われているが、手紙などに使うのは慎むべきだ」

という意味だろうか?

続いて二つめのサイトの、質問と答えを見てみよう。

「ジャッキーチェンは“long time no see”を創造しますか?

つまらないです!

この短い文書はである最も早く移民して行くアメリカの華人が創造は、百年に上がる歴史があるはずに、とても良く彼らの英語はない、そのためやっとあるこの種はいうものchenglishは、アメリカ人の以後で同様にこの種の見解を受け取って、そこでこの短い文書は流行で起き始める。」

質問の趣旨は、

「ジャッキー・チェンは、long time no seeという言い方を作ったのですか?」

だと思われる。

だが、それに対する答えがよくわからない。

いきなり「つまらないです!」だもの。

さらにそのあとは、何を言いたいのか、サッパリわからないのだ。

だが何度も読み返すと、「long time no seeはアメリカに移民した中国人が作った言葉だから、100年の歴史があるはずだ。だからジャッキー・チェンが作った言葉ではあり得ない」ということを言いたいのだろう。

冒頭で「つまらないです!」と言ったのは、「つまらない質問なんかするな!」ということなのか?あるいはたんに「それはウソです!」という意味だろうか。

この二つのサイトから言えることは、

「ジャッキー・チェンがlong time no seeという言葉を発明したという都市伝説が、たしかに存在した」

ということと、

「それは、真っ赤な嘘である」

ということである。

そしてさらにここで新たにわかったことは、

「ジャッキー・チェンは、long time no seeを『好久不見』に訳してそれを広めたのではなく、中国語の『好久不見』をlong time no seeと訳してそれを英語圏に広めた、という都市伝説が存在した」

ということである。

さらに、こぶぎさんの紹介された中国版ウィキペディアによると、どうもlong time no seeは、もともと北米の原住民が使っていた表現らしい。それが、19世紀末にアメリカに大量に移民した中国人の間で『好久不見』と同じニュアンスだったんで、頻繁に使われるようになったんだと。

…どうもそんなふうに読める(自動翻訳サイトにかけてみたんだが、メンドクサイので引用しない)。誤読しているかも知れないが…。

ということで、「どっちの名言でショウ」以来の快挙である!

こぶぎさん、これで授業1回分くらいできるんじゃないか?

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今日の空脳・好久不見編

ショックを受けたことがあると、先日、妻が言った。

「英語で、long time no seeという言い方があるでしょう」

「『ひさしぶり』?」

「そう。中国語では、『好久不見』っていうんだけど」

「好久不見(ハオジュープージェン)」

「そう。これって英語のニュアンスとまったく同じなんだよね」

「そうなの?」

「好は『very』という意味で、久は『long』、不見は『no see』でしょう」

「なるほど」

「で、むかし聞いたことがあるんだけど、『好久不見』という言葉は、ジャッキー・チェンが、long time no seeという英語をヒントに作り出した表現なんだって」

「マジで??!!」

「ところが、今日、英会話のラジオを聴いていたら、ショックを受けてね」

「どうして?」

「long time no seeという表現は、19世紀に、英語圏に移住した中国人が、『好久不見』を英語に直訳して使い始めたんだって」

「…ということは、もとが中国語で、それを直訳したのがlong time no seeってこと?」

「そう。だから、long time no seeはスラングなんだって」

「つまり、もとが英語でそれを中国語に直訳したんじゃなくて、もとは中国語で、それを英語に直訳したってことなんだね…で、それがまた、どうしてショックなことなの?」

「だって、今の今まで、『好久不見』はジャッキー・チェンが英語のlong time no seeから作り出した表現だって信じてきたんだよ。今、中国人がみんな普通に使っている『好久不見』が、あのジャッキー・チェンが作った表現だなんて、すごいと思わない?」

「アントニオ猪木が日本に初めてタバスコをもたらしたくらい、すごいこと?」

「その例えはよくわかんないけど、とにかく私の中では、ジャッキー・チェンを尊敬する理由の何割かは、このエピソードのおかげだったの」

妻は、自他ともに認めるジャッキーチェンファンなのだ。その理由の大きな一角が、ガラガラと崩れたのだから、よほどショックだったのだろう。

「じゃあさあ、ジャッキー・チェンがlong time no seeを『好久不見』と訳したっていう都市伝説は、いつどこで聞いたの?」

「それが覚えてないのよ。でもたしかにむかし、そんな話を聞いたのよ」

インターネットで検索してみても、ジャッキー・チェンと『好久不見』を結びつける話は出てこない。

ジャッキー・チェンがlong time no seeをヒントに『好久不見』という中国語を作り出したという都市伝説は、本当に存在したのだろうか?

あるいは妻の空脳だったのか?

さすがのこぶぎさんでも調べがつくまい。

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今日の空脳

1月22日(日)

今日は家で一人である。

お昼、今晩の夕食をどうしようかと、冷蔵庫を開ける。

(ソースがないなあ…)

夕食で使おうと思っていたソースが、冷蔵庫の中に見当たらない。

(まだ残っていたはずなのだがなあ。全部使っちゃったっけなあ)

ソースを使い切った記憶がまったくない。

(仕方ない。あとで買ってくるか…)

そう思いつつ、ソースを買ってくることをすっかり忘れてしまった。

さて、夕食を作るときになり、ふたたび冷蔵庫を開ける。

(あ!そういえば、ソースを買うのを忘れた!)

冷蔵庫の中をくまなく探してみるが、やはりソースはない。

(仕方ない。ソースなしで作るとするか…)

夕食を作り始める。

途中、何気なしに冷蔵庫を開けてみて、ビックリした。

冷蔵庫のいちばん手前に、ソースがドーンと置いてあるではないか!

ええええぇぇぇぇっ???!!!

おかしい!

だって今日は、昼間から何度も冷蔵庫を開けて、ソースがないことを確認しているんだぜ。

それなのに、どうして突然、ソースがあらわれたのか???

しかも、いちばんわかりやすい場所に置いてあったではないか!

いったん消えて、またあらわれたのか?

いや、そんなはずはない。

これって、空脳でしょうか。

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誰が異質なのか

少し前のことになるが、今年の正月に、東海テレビ制作のドキュメンタリー番組の傑作選というのが放送されていたので、見ることにした。

僕が見たのは、「ヤクザと憲法」「平成ジレンマ」の2本である。

「ヤクザと憲法」のほうは、大阪のとある小さな暴力団事務所を長期にわたり取材したドキュメンタリーである。

後者は、戸塚ヨットスクールを長期取材したドキュメンタリーである。

どちらも、社会の糾弾の対象となる組織が取材対象である。

テイストとしては、森達也監督のドキュメンタリー映画「A」「A2」に近い。

僕は、ヤクザの考え方にも戸塚ヨットスクールのやり方にも、まったく賛成できないのであるが、このドキュメンタリーを見ているうちに、そうした考えとは別の感情が生まれてきた。

それは、異質なものを排除しようとする「正当な」行為が、時に彼ら以上に暴力的であるということについてである。

ヤクザにあこがれて暴力団事務所に住み込みで働いている若者の言葉が、印象的である。

「『気にくわないもんがおるから、どついて殺してしまえ』というのは、そういうのは、ありえへんちゃうか、と。

学校でも、ちょっとおかしいやつというか、そういうもんがおったら、いじめられたりとか、いじめというのが起きていって、それが極端なこというと、死んだらええのにと思うやつがおるんちゃうかと。それは思いますね。

せやからあのぅ、自らの、異質の存在についても、認めなくとも、こっちも気にくわんと、向こうも気にくわんと、それでも互いに居るというのが、そういう社会が、ええ社会ちゃうかと。…そういう社会が、いい社会だと思いますね。

ヤクザを排除しようという、そういう、権力側からすれば思われてると。ということは、あのぅ、学校でも同じようなことが、…おかしいやつというか、風変わりな人間が出てくると、またいじめとかからかいみたいなことが起こってくると。それはあると思いますね」

たどたどしい言葉だが、「自らの、異質の存在についても、認めなくとも、こっちも気にくわんと、向こうも気にくわんと、それでも互いに居るというのが、そういう社会が、ええ社会ちゃうかと」という言葉の中に、彼がたどり着いた真理があるように思う。

「悪」を排除するという理由でいとも簡単に人権が制限されることを、人々がいったん許してしまえば、それが自分にも向けられる可能性を広げることにもつながるような気がしてならない。

自分は絶対にそうはならない、という保証は、どこにあるのだろうか。

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自動翻訳サイトの憂鬱

1月19日(木)

韓国留学中にお世話になった「鼻うがいの先生」から、

「2月に国際学術会議をやるので、発表してください」

と依頼されたのは、もう半年も前のことだった。

僕は、「鼻うがいの先生」には留学中にいろいろとお世話になったし、尊敬する先生だし、これまでも「鼻うがいの先生」主催の国際会議に何度か呼ばれたことがあったから、一も二もなく出席の返事を出した。

ところが、それからというもの、待てど暮らせど、国際会議についての具体的な連絡が来ない。

国際学術会議のザックリとしたテーマは聞かされていたのだが、自分がどんな内容を話したらよいのかとか、発表時間は何分なのかとか、他の発表者は誰なのかなど、いっさい聞かされていないまま、あと3週間ほどになってしまった。

つまり、まったく何も聞かされていないのである。

(当日、俺はいったい何を喋ればいいのか?)

でもまあこうしたことは、韓国ではよくあることだったので、あまり気にしないようにした。

これまでの経験だと、だいたい40~50分くらい喋ればいいのかなとか、原稿の締切は、2週間前位で十分に間に合うだろうな、とか、自分で勝手に予測をした。

しかし、他の発表者が誰なのかは、見当もつかない。「鼻うがいの先生」は中国をフィールドにしている先生だから、中国の先生をお呼びするだろうという予測が立つくらいである。

そうしたところ、今日、「鼻うがいの先生」からメールが来た。

それもなんと、全文中国語である!

どうやら、私以外の発表者は中国の先生ということらしい。

当然、その方たちはハングルが読めないので、中国語の堪能な「鼻うがいの先生」が中国語でメールを書いてきたのだろう。

で、私も漢字が読めるだろうということで、一緒くたにされて中国語のメールが送られてきたというわけである。

しかし、中国語を勉強したことのない私は、メールの細かなニュアンスが分からない。

そこで、自動翻訳サイトを利用することにした。

「尊敬させた各位の専門家と教授たち:

あなたはよいです!

私は均しく成功する学術の庭のキム教授大学館の。

真っ先に、私の庭を代表することは熱烈に私の庭と参加会議を訪問することを歓迎します。

バッチリ会議をするため、私は簡単に通知します。

第1、各位の航空券はすでに買って、来週に皆さんに発して、ちょっと心を放してください。

第2、各位の大著は1月25日前に私に発します。 来週のため新年を迎えて、私たちは(ただ要約です)時間を翻訳して比較的緊張していることを準備して、ちょっと許してください。

第3は、再び皆さんに告知して、発言する時間のそれぞれの位の20部くらいは、それから翌日は総合的に検討する。

質問がございましたら場合、すぐに連絡する私。

感謝します! 各位の専門家の支持と関心。

吉祥をすります!

キムは大きいことを祝って謹んで上がります」

以上である。

読んでいて、頭が痛くなってきた。

好!」を「あなたはよいです!」と訳してはいけないことくらい、私だって分かる。

どうやら「三つの通知」が書かれているようだ。

第一は、「飛行機のチケットを買ったので来週送りますので安心してください」という意味だろう。

第二は、原稿は1月25日まで、ということをいいたいのだろう。

第三は、発言時間は20分です、ということと、2日目は総合討論です、ということだろう。

「質問がございましたら場合、すぐに連絡する私」というのは、「質問がございましたら、すぐに私に連絡してください」ということを言いたいのだろう。

どれ一つ満足に翻訳できていないではないか!

ほとんど唯一意味が通じるのは、

「バッチリ会議をするため、私は簡単に通知します。」

という部分だけである。

しかし、である。

「バッチリ会議をするため」といいながら、国際学術会議のプログラムだの、タイムテーブルだの、発表者の肩書きや名前だのといった、肝心の情報が、まったく書かれていない。

当日、俺はいったい何を喋ればいいのか?

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寓話・南の国の国家元首

1月18日(水)

世界情勢にからっきし疎い僕だが、そんな僕でも憂鬱なことばかりである。

もう二度と戦争はしないと誓ったある国の権力者が、南の国を訪問した。

南の国の国家元首は、罪を犯した国民を大量虐殺したことで世界中に知られた人物である。

不戦を誓った国の権力者は、南の国の国家元首の自宅に行って、朝御飯をごちそうになったそうだ。

南の国の国家元首の自宅で朝御飯をごちそうになったのは、世界の首脳の中でも、その権力者が初めてだと、不戦を誓った国のメディアは誇らしげに報じていた。

その一方で、その国のメディアが報じていないニュースがあった。

不戦を誓ったはずの権力者は、南の国の国家元首に対して、

「ミサイル買いませんか?」

と持ちかけてきたのである。

これに対して南の国の国家元首は、

「第三次世界大戦を見たくないから、いらない」

「第三次世界大戦を始めるなら、それは世界の終わりを意味するだろう」

といって、断ったのである。

不戦を誓った国ではまったく報道されなかったが、南の国ではこのことがしっかりと報道された。

不戦を誓った国の権力者は、なぜ、南の国の国家元首がミサイルを買ってくれると思ったのだろう?

罪を犯した国民を大量虐殺するような人間だから、きっと好戦的な人物だ、だからミサイルを喜んで買ってくれるだろう、とでも思ったのだろうか。

もしそう思ったとしたら、バカだなあ、と僕は思った。

だって、南の国の国家元首は、麻薬の密売人や使用者を大量射殺した人なんだぜ。

そんな彼に対して

「ミサイル買わねえか?」

と耳元でささやくことは、

「麻薬を買わねえか?」

と言っているのと、同じことなんじゃないだろうか。

つまり、いちばん言っちゃいけないことを言ったんじゃないだろうか?と僕は思ったのである。

それにしてもこの話。

何もかもが、「世も末」な話だよなあ。

Duterte: I rejected Japan missile offer

President Duterte has declined an offer by Japanese Prime Minister Shinzo Abe to provide missiles to the Philippines, saying he does not want to see a Third World War.

Speaking at the 49th annual installation of trustees and officers of the Davao City Chamber of Commerce and Industry at Marco Polo Hotel in Davao, Duterte revealed the offer last night following Abe’s visit to Davao City on Friday.

“If we start a third world war, that would be the end (of the world),” he said.

“Actually, I told (Prime Minister) Abe, I don’t need missiles,” he said, noting that even leaders of the United States and Russia seem to be coming on good terms.

“If you just see now, Putin is conciliatory and now Trump (is reaching out to the world), “ Duterte said, referring to Russian President Vladimir Putin and incoming US President Donald Trump.

Japan’s offer came after Russia initiated an offer to provide the Philippines with submarines but Defense Secretary Delfin Lorenzana said the country couldn’t afford it.

With this, Duterte reiterated his intent to stop the country from having foreign military alliances with any country.

“I want the country free of foreign soldiers. Ayoko… sibat na kayo. (I don’t like it.. they have to go). We are good now, ” he said.

【Yahoo!NEWS(Philippine Star)2017.1.15.】

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ちぐはぐな日・市立図書館編

1月15日(日)

今日中に仕上げなければ原稿がある。400字詰め原稿用紙で6枚程度。枚数は短いが、かなりいろいろ調べなければならない。

今週は忙しくて、昨日(14日)も都内で会合があり、会合の後も「眼福の先生とその仲間たち」と夕食をご一緒したため、ほぼ1日つぶれてしまった。

残りは今日1日となった。

午前中はぐったりして何もできず、ようやくやる気が出たのが、午後2時過ぎである。

家にいても原稿が書けないから、市内にある市立図書館で原稿を書こうと思い立つ。

考えてみれば、この町に引っ越してから、まだ市立図書館に行ったことがない。

自転車で行ける距離にあるのだが、原稿を書くための資料、それにノートパソコンなど、持っていくものがやたら多い。それに、ついでに夕食の買い物も頼まれたこともあり、車で行くことにした。

午後3時近くになり、ようやく出発。

市立図書館は、この町の大型商業施設に隣接したところにある。

で、週末になると、この町の大型商業施設付近は、大渋滞になるのだ。

本日もご多分に漏れず、大渋滞だった。

〈うーむ。やっぱり自転車で行けばよかったかな?)

30分近くかかって、ようやく市立図書館の地下駐車場に着いた。

1階に上がり、まず「レファレンス」というところに行く。

「あのう…。社会人席を利用したいんですが」

「カードをお願いします」

「いえ、作っていないんですけど」

「ではカードをお作りください。6番のカウンターで受け付けております」

「6番ですか」

6番カウンターにはすでに人が並んでいて、しばらく並んで自分の番が来た。

「あのう…。この町に住んでいる者ですが、図書館がはじめてなもので、カードを作りたいのですが」

「ではこの申請書に必要事項をお書きください」

必要事項を書いて、免許証とともに提出した。

係の人が、パソコンを使って登録をはじめた。

「あれ?お客様、、以前にこの図書館のカードを作りませんでしたか?」

「そういえば、20年近く前にこの町に1年間だけ住んだことがあって、たしかそのときに作ったと思います」私は思い出した。

「いま、そのカードはお持ちですか?」

「いえ、もうこの町に住むことは一生あるまいと思って、捨ててしまいました」なにしろ20年近く前の話である。

「そうですか…。では、再発行という手続きを取りますので、カードは即日発行できません」

「ええぇぇ???そうなんですか。20年近く前ですよ。新規発行というわけにはいかないんですか?」

「そうはいきません」

なんとも杓子定規な話である。新規発行であれば、カードは即日発行されるのに、再発行だと数日間かかるというのである。ということは、後日カードを取りに来なければいけないではないか!メンドクサイ。

「では、今日は図書館を利用できないということですか?」

「いえ、この引取証をお持ちになれば利用できます」

そういって、紙の引取証を渡された。

この紙を持って、ふたたび「レファレンス」というところに行く。

「あのう…。社会人席を利用したいんですけど、席はあいていますか?」

「あいておりますよ」

「社会人席利用カード」を受け取って、社会人席に向かう。

行ってみて驚いた。パソコンを使っている人が誰もいない。

もしやと思い、「レファレンス」に戻って聞いてみた。

「あのう…。社会人席でパソコンは使ってはいけないのですか?」

「使用してはいけません」

やはりそうか。キーボードをたたく音がうるさいから、パソコン禁止なんだな。

「ビジネス席ならば大丈夫です」

「ビジネス席というのがあるんですか?ではそちらを利用します」

「わかりました。ただあいにく、いま満席でして、お待ちいただくことになります」

「どのくらい待ちますか?」

「時間制限がありませんので、なんとも言えません」

この時点で、もう4時近くである。閉館時間は6時。さあ、どうする。

「では、待ちます」

「では、あちらに座ってお待ちください」

うながされた方向を見ると、「ビジネス席を待つ人」用のパイプ椅子が3つほど並んでいて、そのうちの2つの椅子に人が座っている。

ということは、私の前に2人がビジネス席のために待っているということだな。いったいいつになったら席があくのだろう?

3番目の椅子に座って待っていると、ほどなくしてビジネス席が2つあいたようで、前に座っていた二人がビジネス席に入っていった。

(いよいよ次か…)

ところが待てど暮らせど、呼ばれないのだ。

かれこれ1時間近くたってしまった。ひょっとして、このまま待ち続けて閉館時間を迎えてしまうのではないだろうか?

5時近くになり、ようやく、

「ビジネス席があきました」

といわれ、ビジネス席に座ることができたのであった。

結局、たった1時間しか、原稿を書く時間がないまま、閉館時間を迎えた。

閉館時間になり、図書館を出て、地下駐車場から車を出し、帰ることにする。

出口の料金精算所は1カ所しかなく、自動精算になっていて、無人である。精算すると、前にあるバーが上がる仕組みになっている。

駐車券を機械に入れると、これまた機械の声で、

「駐車料金は、300円です」

と言った。

財布を見ると、小銭が200円しかない。

あとは1万円札だけである。

機械の声が続けた。

「5千円札、1万円札は使用できません」

ええええぇぇぇぇっ!!!???

さあ困った。駐車料金が支払えないのである!

どうしてこういうときに限って、小銭が200円しかないのか???

いったん、車をバックさせて駐車スペースに車を置いて、どこかで両替しなくてはならない。

だが後ろを振り向いてビックリした。

私の車の後ろには、20台くらいの車が連なっているのである!

それもそのはずである。図書館が閉館時間になったんだもの。みんながいっせいに帰る時間なのだ。

〈後ろの車にすげえ迷惑をかけている…)

前に進むことも、後ろにバックすることもできず、しばし呆然とする。

(いったん冷静になって考えよう…)

機械に「呼び出し」というボタンがあることに気づき、それを押すと、警備員さんみたいな人が来た。

「どうしました?」

「1万円札しかなくて、駐車料金が払えないのです」

「では、1階の受付に行って両替をしてください」

そう言うと、警備員さんはうまく車を誘導してくれて、脇のスペースに車を待避することができた。、

私の後に連なっていた20台ほどの車は、待ちかねたように次々と素早く精算を済ませ、地下駐車場を出て行った。

たぶん、みんなイライラしていたのだろう。ゴメンナサイ。

私はふたたび図書館の1階の受付に行き、1万円札を両替してもらい、無事に地下駐車場を出ることができたのであった。

〈さんざんな1日だったなあ…)。

年に何度かある、「ちぐはぐな日」でありました。

長々とすみません。

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「土器探し名人」と再会

1月13日(金)

今日は朝から忙しい。

午前中は、大学時代の研究室の先輩が、教え子さんたちを連れてうちの職場に来てくれた。

3時間ほど、地下の仕事部屋で資料調査をする。

「時間を忘れるねえ」

「そうですねえ。学生時代を思い出しますなあ」

先輩も私も、学生時代の一時期、この地下の仕事部屋で勉強していた。

途中、思わぬ発見があり、二人で盛り上がったが、教え子さんたちは置いてきぼりだったかも知れない。

ご一行がお帰りになるのと入れ違いで、今度は私の師匠が地下の仕事部屋にお見えになった。

1時間ほど資料調査をしたのだが、

「明日に乗る予定の飛行機が、大雪のためにすでに欠航を決めたそうなので、急遽予定を変更して、今日の夕方の飛行機で現地に行く」

と言い残して空港に向かってしまわれた。相変わらずお忙しい先生である。

夕方、今度は、私が8年前に留学した韓国の大学から、先生が学生さん数名を連れて地下の仕事部屋にお見えになることになっていた。

担当職員さんによれば、なんでも今日、ご一行はうちの職場を見学しに来るのだが、そのついでに、地下の仕事部屋も見学したいのだという。

あらかじめどなたがいらっしゃるのかについてまったく知らされていなかったのだが、ひとり、懐かしい人がいた。

「お久しぶりです!」

このブログでもたびたび登場したことのある、「土器探し名人」である!

思わず握手した。

8年前の留学中、何度となく親しくお話しさせていただいたのであるが、実はこの女性の名前を、私は知らなかった。

「私、肩書きが変わったので」

といって、「土器探し名人」は名刺をくれた。

そこでようやく、「土器探し名人」の本名がわかったのである!

8年目にして、ようやく名前を知ったのだった。

しかも今は、「研究教授」という立派な肩書きなのか!さらに驚きである。

ひとしきり挨拶をしたあと、カタコトの韓国語で、学生さんたちの前で20分ほど説明した。

自分の韓国語能力のなさに、軽く死にたくなった。

自分の喋ったことは、どれくらい伝わったのだろう?

それでも、学生さんたちは熱心に質問してくれたりした。まるで以前から知っている者同士のようなやりとりである。

ま、いってみれば私もこの大学が母校のようなものだから、同窓生のような感じなのだろう。

「どうもありがとうございました」

「お気をつけて」

ご一行は、地下の仕事部屋を出て行った。

横でずっとこの様子を見ていた担当職員さんが言った。

「お疲れさまでした」

「どうもお疲れさまでした」

「あの…横でずっと見ていたんですけど、私、韓国語は全然わからないんですが…」

「はぁ」

「全体にとても素敵な雰囲気だってことだけはわかりました」

なるほど、そう聞こえるのか。

まさか私の韓国語が、幼児並みのたどたどしいものだったとは想像もしていないのだろう。

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喫茶店難民

1月12日(木)

仕事で「前の勤務地」を訪れる。

私が来る前は雪がなかったのに、私が来てから大雪が降り始めたという。

「雪を連れてきましたね」とからかわれた。

会議が終わり、卒業生のT君と会った。この日はたまたま、週末の仕事の振替休日だという。

「どこかでお茶でも飲みながら話をするか」

「そうですね」

「この近くにあるだろうか?」

「そういえば近くの公共施設の一角に、喫茶店があったと思います」

「ああ、たしかそうだね」

その公共施設に行ってみたが、どうもそんな気配がない。

受付の人に聞いてみた。

「今日は喫茶店は開いてますか?」

「すみません。喫茶店はもう営業をやめてしまったのです」

「そうでしたか」

たしかに、以前からお客さんのほとんどいない喫茶店だったからなあ、しかたがない。

「どこか近くに、喫茶店のようなところがありますか?」

「さあ…。たしか、通りのはす向かいのビルの中にあったと思います」

「ビルですか?」

「ほら、ここから見えるでしょう」

そう言うと、受付の人はそのビルを指さした」

「ああ、あそこですね。わかりました」

雪道を歩いて、そのビルに向かう。

オフィスが集まっているビルのようである。

「コーヒーの看板がありますね」

「ビルに入ってみよう」

中は清潔な感じだが、ひっそりとしていた。

「本当に喫茶店なんかあるんだろうか?」

「レストランがあるみたいですよ」

壁に「レストラン→」と書いた貼り紙があった。

矢印の方向に歩いて行くと、はたしてレストランがあった。

しかし入口には、

「本日の営業は終了しました」

という札がぶら下がっていた。

「おいおい、まだ4時だぞ。もう閉まったのか」

「どうしましょう」

町の中心部といってもよいところなのに、喫茶店がどんどん廃れていく町なのだ!

「仕方がない。自販機で缶コーヒーを買って、座れるところを探そう」

ということで、缶コーヒーを飲みながらしばらく話した。

「先生の連載、まるで授業を聴いているようです」

「同じことをほかの卒業生にも言われたよ。授業で扱った内容も書いているからね」

みたいな話を1時間ばかりした。

T君も私も、次の約束があったので1時間ほどで解散した。

「またお目にかかります」

「今度はゆっくり飲もう」

ビルを出ると、すでにあたりは暗く、雪は前よりも強く降っていた。

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感想文学

1月11日(水)

「こんばんは。コバヤシです。ということで、最新話アップされたので、今回もしょうがないから感想でも送ってやるかと考えながら読み始めたのですが、良い意味で期待を裏切られ面白く読ませて貰いました。

出てきた地名が昔住んだことのある町から近く慣れ親しんでいた地名だったからなのか、それとも20年以上も前の学生時代に貴君からこのときのエピソードを聴かされたのを覚えていたからなのか、興味深く読み始めることが出来ました。でも、何より面白かったのは、今、貴君が研究を続けているその動機です。私は貴君の研究には正直あまり興味がありませんが、人が何故そんなことをするに至ったのかというのには興味が有ります。なかなかそんなことは面と向かって話すことはありませんから、このように文章で読むことが出来るのはいいものですね。それにしても、やはり苦労して得た知識というものは、のちのち財産になっていくものですね。卑近な例で恐縮ですが、私も学生時代にヤマジョー(注:私やコバヤシと同い年の天才的なサックスプレイヤー)にジャズは誰かに習ったほうが良いのか?とアドバイスを求めたら、「ジャズのアドリブなんてのは習うもんではない。自分でやり方を見つけていくものだ!」と言われ、独り地道にやっていったものですが、効率は非常に悪かったものの確かに得るものは多かったように思います。(ちなみにジョーは数人の一流プレーヤー師事していたのですが…)サラリーマンの仕事にしても苦労して覚えたことの方がやはり身に付くものです。まあ、そんなどうでも良いことはさておき、一番感じたのは、昔得た喜びを原動力に貴君が今も研究を続けられている幸せです。まあ、仕事にしてしまったので色々嫌なことはあるのでしょうが、同じ気持ちを失わずに続けられることがあるというのは素晴らしいことだと思います。

ということで、長々と青臭い話を失礼しました。

あと忘れるところでしたが、先日の呑み会では久しぶりにミオオに会えて良かったです。ミオオも色々苦労して、まだかなりもがいているようでしたが、久しぶりに屈託なく会うことが出来て嬉しかったようです。やはり友達は大切にせねばいけませんね。

なんだかだんだん年寄り臭い話になってきたので、もう止めます。

では、またそのうち。」

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拝啓大統領様

1月11日(水)

鬼瓦亭権三(ごんざ)でございます。

隣の国の大統領が、政権批判した芸能人を締め出すために、1万人あまりの芸能人をブラックリストに載せたというニュース、御覧になりました?

そのブラックリストの中には、韓国を代表する俳優、ソン・ガンホの名前も入っているというからもうビックリです。

このニュースを見たアタクシは、

「隣の国の大統領は、バカなんじゃないだろうか」

と、かわいそうになっちまいましたよ。

だって、そうじゃありませんか。

A0114028_49a42c956a44f_2ソン・ガンホの主演した映画に「大統領の理髪師」(2004年)という名作がありますでしょう?町で小さな理髪店を営んでいた男(ソン・ガンホ)が、ふとしたきっかけからパク・チョンヒ大統領おかかえの理髪師となり、韓国の現代史に残るようなさまざまな事件に巻きこまれながらも、たくましく生きていく、というストーリーですよ。

いってみれば、韓国版「フォレスト・ガンプ」でやんす。

映画の最後で、ソン・ガンホ演じる理髪師が、パク・チョンヒ大統領の不幸な死を、他の誰よりも悲しんでいた場面は、じーんときましたな。

彼は、散髪を通じて大統領と交流する中で、大統領を誰よりも尊敬し、忠誠を誓っていたってことが、この場面でわかるんですよ。

これはあーた、渥美清が主演した映画「拝啓天皇陛下様」(野村芳太郎監督、1963年公開)のモチーフにも通じるでしょう?

パク・チョンヒ大統領といったらあーた、今の大統領のお父さんでしょう?

隣の国の大統領は、そんな役を演じたソン・ガンホに対して感謝こそすべきなのに、恩を仇で返すとは、このことですな。

大統領は、映画をいままで見たことがないんじゃないだろうか?

あるいは、まったく感性がないかのどっちかです。

映画で思い出しましたが、この国の権力者が、元旦に映画を鑑賞したそうですよ。

ちょうどアタクシが、東京郊外のTOHOシネマズで「この世界の片隅に」を見ていたのと同時刻、その御仁は、都内のTOHOシネマズで、違う映画を見ていたんだそうです。

何を見ていたと思います?

そらあーた、「この世界の片隅に」とは真逆の、国策映画でがすよ。

ハリウッド女優を馬鹿にした次期国家元首といい、隣の国の国家元首といい、この国の権力者といい、映画の面白さを知らないってのは、本当に気の毒で気の毒で涙が出てきます。

自分が気に入らない者に対しては、大人げないほどに排除しようとするってのが、最近の世界の権力者のトレンドのようで。

アタクシもそのうち、排除されたりして。

「沈黙が生きる道」(映画「キリング・フィールド」の中のプランのセリフ)となる時代が、もうすでに来ているんですよ。

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キリング・フィールド

1月10日(火)

世界情勢にからっきし疎い僕だが、そんな僕でも憂鬱なことばかりである。

ここ最近、1980年代後半に見た「重い内容の映画」3本を、もう一度見直してみたくなった。

ひとつは、アメリカの黒人差別を描いた「ミシシッピー・バーニング」(1987年)。

ここに描かれたアメリカの白人優位主義は、たぶん今でも脈々と生きていて、それが次期国家元首を生んだのだと思う。

そう思ってこの映画をあらためて見てみると、とても過去の出来事とは思えない。

もう1つは、南アフリカのアパルトヘイトを描いた「遠い夜明け」(1987年)。

いつだったか、この国のさる高名な作家が、アパルトヘイトを容認するような発言をしたことがあったが、たぶんこの映画を見たことがなかったのだろう。

この2本については、すでに見終えて、ブログにも書いた

419y7g0ws9l_2そしてようやく見終えた最後の1本が、「キリング・フィールド」(1984年)である。

1970年代半ばのカンボジア内戦を取材したアメリカ人記者と現地の記者の絆をめぐる、実話をもとにした映画である。

映画の中では、クメール・ルージュによる恐怖支配の様子が描かれる。アメリカ人記者たちも、一時は命の危機にさらされる。

クメール・ルージュにより殺されそうになる場面は思わず息を飲むが、この場面を見ていて痛烈に思ったことは、「いま、世界を震撼させているあの集団は、クメール・ルージュとどこが違うのか?同じではないのか?」ということである。

時代は違っても、クメール・ルージュという殺戮集団が生まれてくる背景と、あの集団が生まれてくる背景には、通底するものがあるのではないだろうか。

そう考えると、40年前の出来事から、人類は何も学んでいない、ということになる。

だが私たちは、何度でも学ばなければならない。映画から。

だからこれは、今こそ見るべき映画なのである。

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似た者同士

1月10日(火)

鬼瓦亭権三(ごんざ)でございます。

ハリウッド映画を代表する女優が、ゴールデングローブ賞の授与式で、こんなスピーチをしたそうですな。

「ハリウッドにはよそ者と外国人で満ちあふれています。もしその人たちを排除してしまったら、あとはアメフトと総合格闘技(マーシャルアーツ)くらいしか見るものはなくなりますが、それは芸術(アーツ)ではありません。

こうした皆さんが私に3秒間くれたのは、次のことを言うためです。

役者の唯一の仕事は、自分たちと異なる人々の人生に入っていくことで、それはどんな感じなのかを見ている人に感じさせることです。まさにその役目を果たした力強い演技が、この1年もいっぱい、いっぱい、いっぱいありました。息をのむ、心のこもった仕事ばかりです。

しかし、この1年の間に、仰天させられた一つの演技がありました。私の心にはその「釣り針」が深く刺さったままです。

それがいい演技だったからではありません。いいところなど何ひとつありませんでした。なのに、それは効果的で、果たすべき役目を果たしました。想定された観衆を笑わせ、歯をむき出しにさせたのです。

我が国で最も尊敬される座に就こうとするその人物が、障害をもつリポーターの真似をした瞬間のことです。

特権、権力、抵抗する能力において彼がはるかに勝っている相手に対してです。心打ち砕かれる思いがしました。

その光景がまだ頭から離れません。映画ではなくて、現実の話だからです。

このような他者を侮辱する衝動が、公的な舞台に立つ者、権力者によって演じられるならば、人々の生活に浸透することになり、他の人も同じことをしていいということになってしまいます。

軽蔑は軽蔑を招き、暴力は暴力を呼びます。力ある者が他者をいじめるためにその立場を利用するとき、私たちはみな敗者となるのです。」

いやあ、周到に言葉を選んだ、じつにいいスピーチでございます。

さあ、これに対して、その国の次期国家元首が、真っ赤な顔して怒っちゃった。

なんと、ツイッターで、この女優に対してムキになって反論したんでがすよ。

「Meryl Streep, one of the most over-rated actresses in Hollywood, doesn't know me but attacked last night at the Golden Globes. She is a Hillary flunky who lost big. For the 100th time, I never "mocked" a disabled reporter (would never do that) but simply showed him "groveling" when he totally changed a 16 year old story that he had written in order to make me look bad. Just more very dishonest media!」

つまり、「俺はやってねえ」と。

権力者が、ツイッターなどのSNSで、自分に対する批判や自分の気に入らない発言に対して名指しでいちいちムキになって反論するなんて、ふつう、ありませんよねえ。

いや、そんな権力者のいる国なんて、世界中どこを探してもあるはずがありません。

え?身近にいるじゃないかって?

というか、この女優のスピーチでは、固有名詞をひとっつもあげていないのに、次期国家元首は、「俺のことだ!」とすぐにわかっちゃった。

やっぱり、思い当たるふしがあったんでしょうねえ。

人間、思い当たるふしがあると、ムキになって怒るものですからねえ。

やっぱり似た者同士なんですなあ。あの二人は。

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座右の書となるか

1月10日(火)

新年早々、気が重い仕事が続いた。

まわりからみたらたいした仕事ではないのかも知れないが、私にとっては重くのしかかる仕事である。

こういうとき、気が重い仕事の前後数日間は、他にやらなければならない仕事がたくさんあるにもかかわらず、ブレーカーが落ちたみたいに、何もできなくなる。

電池がなくなったみたいに、パッタリと活動が停止してしまうのだ。

とくに原稿がまったく進まなくなる。このブログも、書く気が起こらなくなるのである。

まったく、非効率な人間である。

今日、ひとまず気が重い仕事の山が過ぎたので、本を読むことにした。

『〆切本』(左右社、2016年)というおもしろい本を見つけた。

古今の有名な作家の、原稿の締切に関するエッセイや日記、書簡などを集めたアンソロジーである。

この本を読むと、勇気が出る。

ほとんどの作家が、文豪と呼ばれた作家も含めて、締切までに原稿が書けないことを、「あるあるネタ」として書いているのである。

この本がいいなと思ったのは、基本的に僕が好きな作家の文章ばかりが載っているということ。昨今の、不愉快な流行作家の文章がないので、安心する。

田山花袋、夏目漱石、島崎藤村、寺田寅彦、志賀直哉、谷崎潤一郎、菊池寛、内田百閒、吉川英治、獅子文六、梶井基次郎、江戸川乱歩、横光利一、林芙美子、稲垣足穂、古川ロッパ、幸田文、坂口安吾、長谷川町子、太宰治、松本清張、大岡昇平、吉田健一、木下順二、遠藤周作、山口瞳、筒井康隆、野坂昭如、梶山季之、藤子不二雄A、井上ひさし、赤瀬川源平、高橋源一郎、泉麻人、新井素子、横光利一、手塚治虫、深沢七郎、村上春樹、山田風太郎、小川洋子、谷川俊太郎、星新一、…などなど。

残念なのは、山本周五郎が入っていないことである。以前にこのブログで書いたが、『山本周五郎戦中日記』に、原稿が書けないことの苦悩を記している。

まあそれはともかく。

おもしろいのは、どの作家も、締切前に原稿が書けないという内容の文章を生き生きと書いている、ということである。

つまりこのアンソロジーを読めば、その作家「らしさ」が、存分に楽しめるというわけだ。

個人的におもしろかったのは、高田宏の「喧嘩 雑誌編集者の立場」という文章。

作家と編集者の関係がとてもよくわかる。

この文章を読むと、昨今の流行作家がどんなに差別的な発言をまき散らしても、マスコミが攻撃しない理由がよくわかる。

編集者として何度となくそうした作家に喧嘩を売った高田宏のような人は、今もいるのだろうか。

この本には、「絶対に締め切りを守る作家」の文章も載っている。吉村昭、森博嗣など。

そういえば、私の知り合いにも、締切よりもはるか前に原稿を出してしまう人がいる。

一番すごかったのは、正式な原稿依頼が来る前に、原稿を出した人がいた。

考えてみれば、全部が全部、作家は締切を守らない、というわけではないのだ。

森博嗣は、締切を守らない作家に対してかなり手厳しい。

「締切に遅れる作家を許容しているのは不合理である」「何故、合理化できないのか。彼ら(編集者)は、締切遅れの原稿を取る苦労を「美談」のように誇らしげに語る。酔っ払っているとしか思えない」

この点、同じ「締切守る派」でも、吉村昭の文章は奥ゆかしい。

しかし不思議なのは、どの文章を読んでも、不快には思わず、勇気がわいてくるということなのである。

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戦争の描き方

映画「この世界の片隅に」は、戦時下の市井に生きる人々を描いた映画で、いわゆる戦争映画とは対極にある。

私の乏しい映画体験からすれば、黒木和雄監督の映画「TOMORROW 明日」(1988年公開)が、原爆投下前日の長崎の市井の人々の日常を描いていた。日常を淡々と描くことで戦争の理不尽さを見る者に痛感させる映画は、これまでもないわけではなかったが、「この世界の片隅に」は、その完成度の高さという点で、他の映画と同列に論じることはできない。

小学生の頃に見た映画「東京大空襲 ガラスのうさぎ」(1979年公開)は、戦争に翻弄された一人の少女の成長物語だが、やや悲劇的にすぎる演出をしている。

あるいは、大林宣彦監督の映画「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986年公開)は、戦時中の子どもたちのわんぱくぶりをコミカルに描くことで、やはり戦争の理不尽さを際立たせたものだったが、ファンタジー要素が強い演出だった。

大林監督で思い出したが、故郷の尾道を舞台に映画を撮っていた監督は、あるときから、尾道で映画を撮ることをやめてしまった。

それは、ある映画で使われた戦艦大和のセットを尾道市で一般公開したことに対する抗議の意味からだったと聞く。

ふと、広島県出身の大林監督が「この世界の片隅で」を映画にしたら、どんな感じになっただろう、と夢想したりする。

栩野幸知さんが憲兵役で出演することは間違いないだろう。

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この世界の片隅に

1月1日(日)507e0f31f5a568e5

映画を見に行く。

昨年の元旦は、「スターウォーズ フォースの覚醒」を見に行ったが、今年は「この世界の片隅に」である。

ライムスター宇多丸さんが、昨年のシネマランキングで1位をつけていたので、これはぜひとも見に行かねばならないと思ったのである。

結果、号泣である。

宇多丸さんの述べるとおり、映画史上、屈指の名作である!

私ごときがこの映画を評論するような立場にはないので、たぶん私しか話題にしないだろう話を書く。

エンドクレジットを見ていて、映画の中に一瞬だけ登場する憲兵の声を、栩野幸知(とちのゆきとも)さんが演じていることことを知った。

あと、この映画の広島弁の方言指導も、栩野幸知さんが行っていることも合わせて知った。

栩野幸知さん、といっても、ふつうは誰もピンとこないだろうな。

僕がこの名前を知っているのは、大林宣彦監督の映画にしばしば出ていた役者さんだからである。

俳優のかたわら、劇用刺青師やガンエフェクトコーディネーターとしても活躍している。

大林監督の映画「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるおしきひとびとの群」(1988)では、役者として出演しているかたわら、劇用刺青師としても活躍した。

めったに名前を見かけることがなかっただけに、「この世界の片隅に」のエンドクレジットで名前を見かけたときは、ちょっと感慨深いものがあった。

でも、なぜこの映画に声の出演をしたのだろう?と思って調べてみると、栩野幸知さんは広島県呉市の出身なんだね。

呉市を舞台にしたこの映画とは、深い縁で結ばれていたということだろう。

そして栩野幸知さんの方言指導のおかげで、この映画ではリアリティーのある生き生きとしたセリフを聞くことができたのである。

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