誰が異質なのか
少し前のことになるが、今年の正月に、東海テレビ制作のドキュメンタリー番組の傑作選というのが放送されていたので、見ることにした。
僕が見たのは、「ヤクザと憲法」「平成ジレンマ」の2本である。
「ヤクザと憲法」のほうは、大阪のとある小さな暴力団事務所を長期にわたり取材したドキュメンタリーである。
後者は、戸塚ヨットスクールを長期取材したドキュメンタリーである。
どちらも、社会の糾弾の対象となる組織が取材対象である。
テイストとしては、森達也監督のドキュメンタリー映画「A」「A2」に近い。
僕は、ヤクザの考え方にも戸塚ヨットスクールのやり方にも、まったく賛成できないのであるが、このドキュメンタリーを見ているうちに、そうした考えとは別の感情が生まれてきた。
それは、異質なものを排除しようとする「正当な」行為が、時に彼ら以上に暴力的であるということについてである。
ヤクザにあこがれて暴力団事務所に住み込みで働いている若者の言葉が、印象的である。
「『気にくわないもんがおるから、どついて殺してしまえ』というのは、そういうのは、ありえへんちゃうか、と。
学校でも、ちょっとおかしいやつというか、そういうもんがおったら、いじめられたりとか、いじめというのが起きていって、それが極端なこというと、死んだらええのにと思うやつがおるんちゃうかと。それは思いますね。
せやからあのぅ、自らの、異質の存在についても、認めなくとも、こっちも気にくわんと、向こうも気にくわんと、それでも互いに居るというのが、そういう社会が、ええ社会ちゃうかと。…そういう社会が、いい社会だと思いますね。
ヤクザを排除しようという、そういう、権力側からすれば思われてると。ということは、あのぅ、学校でも同じようなことが、…おかしいやつというか、風変わりな人間が出てくると、またいじめとかからかいみたいなことが起こってくると。それはあると思いますね」
たどたどしい言葉だが、「自らの、異質の存在についても、認めなくとも、こっちも気にくわんと、向こうも気にくわんと、それでも互いに居るというのが、そういう社会が、ええ社会ちゃうかと」という言葉の中に、彼がたどり着いた真理があるように思う。
「悪」を排除するという理由でいとも簡単に人権が制限されることを、人々がいったん許してしまえば、それが自分にも向けられる可能性を広げることにもつながるような気がしてならない。
自分は絶対にそうはならない、という保証は、どこにあるのだろうか。
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