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2017年2月

自意識過剰の肩すかし

2月26日(日)

この2日間は、新幹線と在来線を乗り継いで2時間以上かかる町で、「同業者祭り」だった。

酒豪揃いなので、懇親会が体力的にはいちばんつらい。

まあそれはともかく。

2日目の朝、会場に行くと、この日の午後におこなわれる総合討論で司会をされる先生が私にお話しされた。

「総合討論のところで、○○の話題についてフリますので、コメントを発言してください」

私は驚いた。なぜならこのときのテーマが、とてもマニアックなテーマだったからである。私にはコメントなどとてもできない話題だった。

「滅相もないことです!その話題だったら、××さんが適任じゃないですか」

そう答えると、

「いや、××さんには別の話題でコメントいただこうと思っていますので、どうか一つ、よろしくお願いいたします」

「はぁ」

朝9時半。いよいよ「同業者祭り」の2日目が始まった。

マニアな人たちが100人以上も参加している。

(こんなところで、マニアでない俺がうかつにコメントなんてできないよなぁ…)

しかし頼まれてしまったことは仕方がない。イベントが始まったのもそっちのけで、必死にコメントを考えることにした。

幸い、ノートパソコンをもってきていたので、過去に自分が書いた原稿をひっくり返して、

(何か無理やりにでもコメントに引きつけられるネタはないだろうか…)

と探し出す。

スマホも駆使して、インターネットでいろいろと調べもした。

そうやって調べながら、コメントで言うべきネタをノートにどんどん書き込んでいった。

(これならば、人前でコメントを言ったとしても大丈夫だろう…)

と、ひとまず準備が整ったのが、総合討論が始まる5分前、午後2時のことである。

2時5分から総合討論が始まった。

討論を聞いていて、あることに気づいた。

(どうやら司会者の方は、あらかじめたくさんの方にコメントをお願いしているようだ…)

司会者の方は、会場の方に次々にコメントを求めていた。司会者の方に指名された方は立ち上がって、だいたい一人5分程度ずつ話をする。それを受けて壇上のパネラーが5分ていど話をする。

そんなこんなでもう45分が経過した。

ちなみに討論時間は1時間である。

(おかしいな…。俺がまかされた話題に全然たどり着かないぞ)

…と思っていたら、終了間際に、司会者の方が、私がまかされた話題をとりあげた。

「では、○○という話題につきまして…」

(来た!)

「…××さん、コメントをお願いします」

ええええぇぇぇっ!!!

××さんは、実に的確なコメントをされた。

そりゃそうだ。××さんは、○○の話題についての専門家だもん。

…しかし、俺が午前中から必死になっていたことは、いったい何だったんだ…?

ひょっとして、私が勘違いしたのかも知れない。朝、司会者の方にコメントを頼まれたとき、

「その話題だったら、××さんが適任じゃないですか」

と私が言ったことで、司会者の方は私が断ったものと解されたのだろう。

しかし私は、その依頼がまだ「生きている」と思い込み、まるで自分が指名されると思って、バッカみたいに必死になってコメントを考えていたのである。

なんという自意識過剰であろうか!

久々に軽く死にたくなった。

急に恥ずかしくなり、「同業者祭り」が終わるや否や、脱兎のごとく会場をあとにしたのはいうまでもない。

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ボンゴロウシゲッチマン

2月23日(木)

「ボンゴロウシゲッチマン」といっても、ガッチャマンの親戚ではない。

「申し訳ありませんが」という意味の韓国語である。

先月末のうちの職場のイベントに来ていただいたクォンさんから

「職場に出張報告書を提出しなければなりませんので、参加したという証拠にイベントのときの写真を送ってください」

とメールが来たので、私が自分のスマホで撮ったイベント時の写真をお送りしたところ、

「ボンゴロウシゲッチマン(申し訳ありませんが)、出張報告に提出する写真はもっと多い方がいいので、もう少し写真を送ってくれませんか?」

と再びメールが来た。

私が撮った写真は間に合わせのものしかなかったので、そのイベントで事務担当をしていた、20代半ばの若手職員のI君が写真を撮っていたことを思い出し、I君に、

「先月末のイベントのときの写真をクォンさんに送りたいので、そのときに撮った写真をください」

と頼んだ。

I君から写真を何枚かもらったが、私が撮った写真と似たり寄ったりのものばかりで、あまり変わりばえがしないと思ったが、仕方がないと思い、とりあえずI君が撮った写真のうちの何枚かを、追加でクォンさんに送った。

すると昨日、またメールが来た。

「ボンゴロウシゲッチマン」という書き出しだったので、

(やっぱりあの写真では不十分だったのかな?)

と思い、メールを読み進めてみると、

「日本に来たときの飛行機の半券をスキャンしてその画像をおくってください。後処理で必要なので」

と書いてあった。

今度は飛行機の半券か…。

先月末のイベントの旅費はうちの職場が負担しているので、クォンさんが韓国から日本に来たときの飛行機のチケットは、うちの職場に提出してもらっていた。したがってクォンさんの手もとにはないから、韓国→日本の飛行機の半券をスキャンして送ってくれということなのだろうと、私は理解した。

(それにしてもおかしい。旅費を負担しているのはこっちなんだから、飛行機の半券をクォンさんの職場に提出する義務はないはずなんだがな…。ずいぶん出張報告書は細かいところまで要求してくるんだな…)

しかし先方がそう言ってきたのだから仕方がない。クォンさんの飛行機の半券は、たしか若手職員のI君が受け取ったはずだから、再び私はI君にメールを送った。

「クォンさんから、1月27日に日本に来たさいの飛行機の半券をスキャンしたもの(すでにこちらに提出済みのものです)を送ってほしいとのことでした。ご自身の職場に提出する必要があるようです。なかなかご面倒をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします」

早めに送ったほうがいいだろうと思い、私はI君に急いでこのメールを送ったのである。

ホッとひと息ついて、送られてきたハングルのメールをあらためて見て、驚愕した。

このメールの差出人はクォンさんではない!

「鼻うがいの先生」だ!

もう一度、ハングルのメールを読み直す。

「ボンゴロウシゲッチマン(申し訳ありませんが)、日本に帰られたさいの飛行機の半券をスキャンして送ってください。後処理で必要ですので」

先週、私が「鼻うがいの先生」主催の国際学術会議に招かれて出張したときの、帰りの飛行機の半券のことを言っていたのだ!

それであればつじつまが合う。そのときの旅費は、「鼻うがいの先生」のほうで負担していたのだから、当然、飛行機の半券は「鼻うがいの先生」に提出しなければならないのだ。

いずれにしてもこのメールは、クォンさんとはまったく無関係のメールである。

にもかかわらず私は、このメールをクォンさんから来たものと思い込み、クォンさんの提出した飛行機の半券をスキャンして送るようにと、I君にトンチンカンな指示をしてしまったのである。

ここまでの話、わかりにくいかな?

どうして私は、このメールの差出人をクォンさんだと思い込んでしまったのか?

それはこのメールが「ボンゴロウシゲッチマン」からはじまっていたためである。

クォンさんが以前に送ってきたメールと、書き出しがまったく同じだったため、てっきりクォンさんからのメールだと思い込んでしまったのだ。

だが、「ボンゴロウシゲッチマン」は、何かを依頼するときの常套表現なのである。

さて、I君にトンチンカンな指示を出してしまったので、訂正しなければならない。私はすぐにI君にメールを書いた。

「すみません!訂正です。

先ほど送ったメールはクォンさんからのものではなく、別の方から、私の先日の韓国出張に際しての飛行機の半券をスキャンして送れという内容のメールでした。メールの表現がクォンさんのものと似ていたので差出人をちゃんと見ずに早とちりしてしまいました。ですので先のメールは破棄してください。すみません。

だいぶ疲れているようです」

さて、今日。

朝、職場に行くと、自分のメールボックスに小さな封筒が入っていた。

中を開けると、ティーバッグのお茶がいくつか入っていた。

それと一緒に、メッセージが入っていた。

「お口に合うかどうかわかりませんが、これを飲んでどうぞご自愛ください」

I君の名前が書いてあった。

若手職員のI君が、見かねてお茶のティーバッグを私にくれたのである。

よっぽど私のポンコツぶりを憐れと思ったのだろう。

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あれはテッサさんだったのか?

2月22日(水)

41zf0kx2eil__sx350_bo1204203200_ひょんさんから、テッサ・モーリス=スズキさんと姜尚中氏の『Doing History』というブックレットをすすめられた。

テッサ・モーリス=スズキさんの本は、酒井直樹氏との共著『レイシズム・スタディーズ序説』(以文社、2012年)を読んで以来、意識的に集めるようにしていたが、この本は知らなかったので、さっそく読んでみた。

テッサさんの専門は日本思想史だが、韓国のこともずいぶん書いているなあ、と思いながら読みすすめていて、ハタと思い出した。

以前、「ソウルの焼き肉屋さんで待ち合わせ」というエピソードを書いた。

2001年の夏、「前の前の職場」に勤めていた頃、同僚だったOQさんの引率する学外実習にくっついて、韓国に行った。OQさんと韓国を一緒に旅行するのは、このときが初めてだった。

ソウルに着いた初日の夜、学生たちと一緒に焼肉屋で夕食をとることになった。そのときOQさんが、「これからみんなで行く焼き肉屋さんで、人と待ち合わせをしているんだけど、その人も合流してもらっていいかな?」というので、「いいですけど、どなたです?」と聞いたら、「酒井直樹さん」と答えて、ビックリした、という話。

なにしろ、本で読んだことのある、私にとっての有名人だったからねえ。目の前でOQさんと議論しているのをみて、現実ではないような気がしたものである。

以前には書かなかったが、実はそのとき、もう一人、酒井さんと一緒に来た方がいた。

そのことを、はっきりと思い出した。

欧米系の女性の方である。年齢は、酒井さんよりちょっと下くらいだったか。

日本語でコミュニケーションをとっていたと思う。

酒井さんのご家族とかお身内の方というわけではなく、同業者の方だった。

一緒に来ていたあの方は誰だったのか?

ひょっとして…あの方は…

テッサ・モーリス=スズキさんだったのではないだろうか???

私の中で、その仮説がどんどん大きくなっていった。

酒井直樹さんとテッサ・モーリス=スズキさんとは、一緒に仕事をする機会が多いようで、共著も何冊かある。関心を共有しているので、会う機会も多く、気心の知れた仲間といったところだろう。

それにテッサさんは、日本だけでなく、韓国にも何度も訪れているようである。

なぜ、酒井さんとテッサさんが韓国にいたのか?

たまたま、国際会議かなにかに招待されて、お二人がソウルに来ていたのではないだろうか。

何らかの国際会議だったとしたら、お二人がそろって韓国にいるというのも不思議なことではない。

その情報を知ったOQさんが、酒井さんとテッサさんに連絡を取ったのではないだろうか。

当時の私は、酒井さんの名前は知っていたものの、欧米系の女性のほうには何の予備知識もなかったので、関心もなく、名前を覚えようとも思っていなかったのである。

つくづく、自分が無知であることが悔やまれてならない。

あの欧米系の女性は、テッサさんだったのか?

当時の手帳をめくって調べてみると、ソウルの焼き肉屋さんでこのお二人と食事をした日が、

2001年7月11日(水)

であることが判明した。

この日に、テッサさんが韓国にいたという事実があったならば、あの女性がテッサさんであった可能性はきわめて高いのだ。

しかし残念。これ以上はわからない。

OQさんが生きていれば、「あのときの女性は、テッサさんだったんですよね?」と、直接確かめることができたんだがなあ。

OQさんの命日が近いので、久しぶりにOQさんの思い出を書いてみた。

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堀井美香最強説

オ・ダルス最強説

野上照代最強説

和泉聖治最強説

お笑い芸人最強説

「○○最強説」シリーズ

まったくどうでもいい話なのだが。

いまのところ、TBSラジオのアシスタントの中では、

堀井美香(「久米宏 ラジオなんですけど」他)

南部広美(「荻上チキのSession22」)

中澤有美子(「安住紳一郎の日曜天国」)

がベスト3かなあと思っているのだが。

この中でも、TBSラジオの番組アシスタントは、堀井美香アナウンサーが最強なのではないかという気がしてきた。

何より、自分の話をあまり喋らないのが良い。

久米宏、ジェーン・スー。竹中直人といったクセのあるパーソナリティーを前にしても、実にたおやかに対応している。

ちょっと前までは、ラジオといえば小島慶子アナが天下をとっていたが、いまはあんまり声を聴くことがなくなった。

また、むかし「伊集院光 日曜大将軍」というラジオ番組でアシスタントをつとめていた小倉弘子アナも、伊集院光との掛け合いが絶品だったが、しばらくラジオの世界から遠ざかり、いままた「ジェーン・スー 生活は踊る」のアシスタントをはじめるようになったのだが、どうも以前のようにはなじめない。あまりに自分のことを喋りすぎて、前のめりになっている感じがするのである。

前のめり傾向のある小島慶子アナや小倉弘子アナにくらべると、堀井美香アナは地味に引いた感じでアシスタントをつとめているが、それが適度な心地よさを与えるのである。

結果、堀井美香アナが、いまTBSラジオでいちばん重宝されているアナウンサーのように思える。

息長く続ける秘訣は、地味に続けることもいとわない人間になることではないだろうか。

そういえば、「久米宏 ラジオなんですけど」で堀井アナが言っていたことなのだが、アナウンサーの仕事の中に、ナレーションの影武者、というものがあるらしい。

テレビ番組でナレーションをつけるとき、まず「仮のナレーション」をつけるのだそうだ。そのときに、アナウンサーがそれを担当する。

そのあと、本番では、たとえば有名な女優さんがナレーションをつけたりする。

仮のナレーションは、その時点でまったく日の目を見ないことになる。

もともと声のきれいな堀井アナのナレーションには定評があり、僕などはむしろその方が聞きたいと思うくらいなのだが、まったく日の目を見ないのは、なんとももったいない話である。

日の目を見ない仕事もいとわずに引き受け、自分の糧にしていくことが、本当の職業人なのだろうな、と思う。

まことに、どうでもいい話である。

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墜落機

私の大好きな漫画の一つに、手塚治虫の『ザ・クレーター』という短編集があって、その中に「墜落機」というタイトルの短編がある。

戦闘機のパイロット・オクノは、空中戦のさなかに機体が故障して命からがら無人島へ不時着した。軍部は、行方不明となっているオクノを「敵基地へ突入して名誉の戦死を遂げた英雄」とみなし、彼を英霊として祭り上げた。マスコミは彼の英雄ぶりを取りあげ、果ては教科書にも登場する有名人となる。

ところがオクノは、そんなこともつゆ知らず、祖国に帰ってきてしまうのである。慌てたのは軍部である。軍部からすれば、とっくに彼は英霊であって、この世に生きていてはならない存在なのである。

そこで軍部は、オクノにふたたび、戦闘機による敵地への突入攻撃を命ずる。だが、死の恐怖を一度味わってしまったオクノは、もう二度と戦闘機には乗りたくない。いやがるオクノを無理やり乗せて、戦闘機はふたたび空を舞う。

今度は本当に死んでしまうのか、と絶望したオクノは、「ある場所」に突撃して、悲劇的な最期を遂げる。

…という物語である。

架空の国を舞台にした架空の物語なのだが、明らかにこれは、アジア・太平洋戦争中の特攻隊をモデルにした話だという想像がつく。

手塚治虫が創作した話が、まったく荒唐無稽であるかというと、そうではないことが、辻田真佐憲『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書、2016年)を読んでいて気づいた。

似たような話が、実際にあったようなのである。

1944年11月13日、陸軍の特別攻撃隊の一つ、万朶飛行隊の出撃が発表された。この日の午後四時、大本営発表がなされた。それによると、「十一月十二日レイテ湾内の敵艦船を攻撃し、必死必殺の体当たりを以て戦艦一隻、輸送艦一隻を撃沈せり。本攻撃に参加せる万朶飛行隊員次の如し」とあり、体当たりした四人の飛行隊員の名前が公表されたのである。

ところがこの中の一人、佐々木友治という隊員は、生存していたのである。陸軍報道部は頭を抱えた。特攻隊員の生存は宣伝上きわめて不都合だったからである。「英霊」になるためには、佐々木は死ななければならなかったのである。仕方がないので大本営は一度は発表の修正をおこなった。

その後、佐々木はふたたび出撃した。三日たっても帰還しなかったので、もうこれで大丈夫だと、陸軍報道部は佐々木の名を特攻隊員としてふたたび発表した。

ところがこのときも死なず、彼は生き残ったのである。現地部隊は恥の上塗りを恐れて、このことを大本営に報告せず、その結果佐々木は、生きているにもかかわらず「英霊」として扱われたのである(同書218頁)。

手塚治虫が創作した「墜落機」という短編が、まったくの荒唐無稽ではなく、手塚治虫自身がこういうエピソードを知っていて、それをもとに創作した可能性が高い。

そう思って読みなおすと、いちど「英霊」として祀ってしまった人物が実は生きていたために慌てふためいたり、もういちど彼に突撃を命じてつじつまを合わせようとしたりする当時の軍部の「本末転倒ぶり」を、強烈に皮肉った短編だといえるだろう。

しかし私たちが肝に銘じなければいけないのは、これが漫画の世界の話ではなく、現実に起こりうる話であるということである。なぜならかつて実際に、こんなことがおこなわれていたのだから。

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公用語は中国語・その3

2月15日(水)

国際学術会議の2日目。総合討論である。

壇上にいるのは、私以外は中国の方々ばかりである。

討論が始まるが、私の専門とはまるで異なる話が延々続くので、内容がサッパリわからない。

専門が異なると、韓国語はこれほど聞き取れなくなるものかと実感する。

(いよいよ俺は何のためにここにいるのかわからなくなってきたぞ)

さあ、最後に私の番が回ってきた。

(この流れで、俺は何を発言すればいいのか?)

しかしそこは司会のユン先生がうまくまとめられ、私が喋りやすいような内容の質問を投げかけてくれた。

私は思っていることを、たどたどしい韓国語でお話しした。

それでなんとか、総合討論がまとまったのである。

何も心配することはなかった。私が尊敬するユン先生を信じていればよかったのだ。

討論の一番最後に、ユン先生はおっしゃった。

「私たちは困難なテーマに取り組むことを選択したのだから、その責任を果たしていかなければならない」

それは、ユン先生ご自身の「覚悟」のようにも聞こえた。

私はこの言葉を聞いただけで、この会議に参加してよかったと思った。

そうだ。困難なテーマに取り組んでいるのだから、一筋縄ではいかないことは、当たり前なのだ。

少しでも、この分野が前進していけばいい。

お昼過ぎ、無事に討論が終わり、ほかの方々はエクスカーションに参加されたのだが、私は他に行きたいところがあった。

今回の国際学術会議の会場となった大学の図書館に、私の恩師の1人が寄贈した蔵書が、恩師の名前を冠した「文庫」として整理されているというので、ぜひ見学したいと思ったのである。

その恩師は、大学時代、とても恐い先生だったのだが、古稀をむかえ、引退するというので蔵書を韓国の大学に寄贈したのである。

ところが本をすっかり寄贈したあと、恩師はある大きな仕事を手がけることになり、不肖私も恩師のお手伝いをすることになったのであった。

この大学に来たらぜひ恩師の名を冠した「文庫」を見てみたいと思ったのであった。

この大学の先生にお願いして大学図書館に入れてもらい、書庫にある「文庫」を見せてもらうことにした。とてもよく整理されている。

実際に蔵書を整理された図書館の職員の方に説明してもらった。

「先生とはどういうご関係なんです?」と職員さん。なぜ「文庫」を見たがるのか、不審に思っているようだった。

「弟子です」

正確にいえば弟子ではないのだが、まあ弟子みたいなものなのでそう答えた。

「そうですか。恐い先生だと聞いてます」

「そうです。恐い先生でした」

「なんでも、授業中に教室の鍵を中からかけてしまって、遅刻者を中に入れなかったんですって?」

「そうです!私、学生時代、その現場にいましたから」

なんと!恩師の伝説は韓国にも広まっていたのか!

そんな話をしているうちに、すっかり図書館の職員さんと打ち解けてしまった。

「せっかく日本からいらしたのなら、この建物の中に『日本研究所』という研究室があるので、行ってみませんか?」

「はあ」

あまり気乗りはしなかったが、せっかくのご厚意なので「日本研究所」なるところを訪ねることにした。

「実は私も初めて行くんですが」と職員さん。

職員さんの案内で、「日本研究所」の部屋の扉を叩いた。

「どちら様ですか?」女性の研究員らしき方が出てきた。

「日本からお客様がいらっしゃいましてね。○○先生の文庫が見たいとおっしゃってご案内したんですが、せっかくなのでこちらにもお連れしようと思いまして」図書館職員さんが説明してくれた。

その女性研究員の方は、私を見ると、

「…もしかして、鬼瓦先生ですか?」

という。私も思い出した。

「そういうあなたは、ミンギョンさん!」

留学中に何度かお目にかかったことがある、ミンギョンさんだった。

日本にもご夫婦で留学したことがあるので、たしかご夫婦とも日本語ができたはずである。私が韓国留学中に、ミンギョンさんご夫妻と一度お酒を飲んだこともあった。

「お久しぶりです。8年ぶりくらいでしょうか」

「そうですね。いま、こちらにお勤めなんですか?」

「ええ」

ミンギョンさんはこの大学出身なので、母校に勤めることは何ら不思議ではないのだが、それにしても、私が「日本研究所」とやらを訪れなければ、再会することもなかったのである。

まことに私は、引きが強い。

韓国を旅すると、もう会うこともないんだろうな、と思う人と再会することが実に多い。

韓国にいると、人生とは実にドラマチックだと思わずにはいられないのだ。

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公用語は中国語・その2

2月14日(火)

「鼻うがいの先生」が主催する国際学術会議の当日。

朝、会場に行くと、

「お久しぶりです」

と、ある若者が近づいてきた。

「おおぉぉ!久しぶり!」

握手をしたが、名前が思い出せない。

しかし彼のことはよく覚えていた。

いまから8年前に留学したとき、留学先の大学院生だった人である。留学した当初、生活についていろいろと教えてもらったり、一緒にお酒を飲みに行ったりしていた。

「あの頃たしか、大学院生だったよね」

「ええ、修士課程でした」

「いまは?」

「中国のS大学で講師をやっています」

専門が中国史で、中国語が堪能だったから、中国の大学に就職できたのだろう。

「いまちょうど冬休みで、韓国に戻ってきたんです」

「なるほど」

留学した当初、私は韓国語がまったくできなかったので、彼とは意思疎通が全然とれなかったのだが、いまはこうしてふつうに話をしている。

「こんど西安にぜひ遊びに来てください。絶対に案内しますから」

「行ってみたいねえ」

専門分野が違うから、留学が終わったらもう二度と会うこともないんだろうな、と思っていたが、全然そんなことないんだな。

思わぬところで人は再会するものなのだ。

人生とは、これだから面白い。

次は西安で再会したい。

さて、国際学術会議である。

うすうす感じてはいたが、この会場でいわゆる日本人は私だけである。

日本語がわかる人も全然いないようだ。

発表者は、私以外すべて中国人。

参加している韓国人のほとんどは、専門家なので中国語が堪能である。

つまり、私だけが蚊帳の外なのだ。

中国人発表は、韓国語に翻訳されるのだが、それを聞いても、内容があまりに専門的すぎてまったくワカラナイ。

こうなるといったい何のために私がこの場に呼ばれたのか、わからなくなってきた。

私の発表は一番最後である。

(この場では、どうあがいても自分の意志は韓国語でしか伝えられない)

仕方がないので、韓国語で発表と討論にのぞむことになった。

ひどくしどろもどろになり、あまりの出来の悪さに軽く死にたくなったが、なんとか無事に国際学術会議が終わった。

今日も一つ、偏見がくつがえされた。

「中国人は時間を守る」

中国の方は全員、発表時間を守っていた。

いちばん守らなかったのは私である。7分ほどオーバーした。

1日目が終わり、晩餐である。

(今日こそは、酒を浴びるほど飲まされるのではないだろうか?)

と恐怖におののいたが、全然そんなことはなかった。

「弗二我」という変わった名前の店で、しゃぶしゃぶを食べた。

昨日と変わらず、中国の方々は気さくで陽気で、楽しい時間を過ごした。

何より恐いのは、明日の総合討論である。

どんな質問が出てくるかわからない。聞かれたことに対してアドリブで答えなければならない。

絶対に無理だな。

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公用語は中国語

2月13日(月)

中3日でソウル入り。

金浦空港に午後3時に着き、そこから路線バスに乗って、仁寺洞(インサドン)まで行く。「鼻うがいの先生」が仁寺洞にホテルをとってくれたのである。

ホテルに入って驚いた。

Orakaihotelなんなんだこの広さは!

うちのマンションよりも広い部屋である。

明日は朝から「鼻うがいの先生」が企画する国際学術会議である

で、今日はその前日ということで、発表者が集まって晩餐をするということになった。

「夕方6時50分にホテルのロビーに来てください」

と鼻うがいの先生に言われ、言われたとおりに行ってみると、すでにみんな集まっていた。

「お久しぶりです」

と鼻うがいの先生。

「鬼瓦さん以外は、全員中国人です」

予想していたとおりだった。中国人は全部で6人。初めてお会いする方ばかりである。

「鬼瓦さん、中国語がわかるでしょう?」「鼻うがいの先生」は、中国語がペラペラなのであった。

「とんでもない!!!」私はすぐさま否定した。

さあ困った。この場には日本語がわかる人がひとりもいないのだ!

命綱は、「鼻うがいの先生」との間の韓国語だけである。

そのままホテルの横の食堂に入り、これまたおいしい韓定食のフルコースをごちそうになる。

中国の方々は、みな気さくな方たちばかりである。

ずっと楽しげな話をしているのだが、どんなことを喋っているのか、サッパリわからない。

「何を喋っているんです?」

「外国に行くときのビザの話とか、免税店のクーポン券の話とか、大学のコマ数は週に何コマだとか、昇級のことだとか、そんな話です」

なるほど。たわいもない話ということだな。

とにかく、いい雰囲気だということだけはわかった。

さて、中国の方々と食事をして、今さらながらだが、いくつか発見があった。

1.煙草を吸う人がいない。

以前は、中国人には煙草を吸う人が多いというイメージだったが、今回は煙草を吸う人がいなかった。

2.お酒をあまり飲まない。

これも以前は、中国人との宴会ではお酒を浴びるほど飲むというイメージがあったが、そんな人は1人もいなかった。

3.残さず食べようとする。

中国では、食べ物は残して当然という意識があるのだとどこかで聞いたことがあったが、決してそんなことはなかった。むしろ積極的に、

「もったいないから食べなさい」

と、大皿の料理を取り分けてくれるのである。

というわけで、私の中の偏見が一つずつくつがえされていく。

もっとも、まだこれは前夜祭なので、明日になるとどうなるかはワカラナイ。

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韓国映画3本

むかしの韓国映画を3本ほど見た。簡単な感想を書く。

Tn_dpk0084941本目は、李光洙(イ・グァンス)原作、キム・ギヨン監督の映画「土」(1978年)である。

李光洙は、日本でいえば夏目漱石のような文学者である。「土」は、植民地時代にある農村の若者が弁護士になり、自分の生まれ故郷の村を新しい社会に変えるために民衆運動に身を投じていくという物語、だと思うのだが、原作を読んでいないのでよくわからない。

韓国では何度か映画化されているようで、私が見たのは、1978年のキム・ギヨン監督版である。

文学作品が原作なので、文芸映画ということになるのだろうが、見てみたら、かなりの珍作であった。

Tn_dpk04122a2本目は、アン・ソンギ主演の映画「成功時代」(1988年)である。

ご存じ、韓国を代表する俳優・アン・ソンギ先生の若い頃の主演作!

調味料会社に就職した営業マンが出世していく物語なのだが、ライバル会社と熾烈な争いを繰り広げるなど、高度経済成長期?にバリバリと働くビジネスマンをアン・ソンギが演じている。

日本でいえば、「課長・島耕作」的な話なのか?読んだことがないのでわからない。

映画じたいは80年代後半に製作されたものだが、映像や演出は、なんとなく日本の70年代の映画の雰囲気を感じさせ、そのあたりのちぐはぐさ加減がなんとなく心地よい。

アン・ソンギでもっている映画だな、これは。

Poster23本目は、韓国の巨匠・イム・グォンテク監督の映画「千年鶴」(2007年)。

イム・グォンテク監督は、100本以上の映画を撮っている韓国の巨匠。日本でいえば、市川崑監督的な位置か。

その100本目の映画が、この「千年鶴」である。

そういえば、市川崑監督も「つる」という映画を撮っていたな。こちらの映画は、吉永小百合の100本目の出演映画だった。

全然関係ないか。話を先に進めよう。

パンソリという韓国の伝統音楽と共に生きる、ある姉弟の物語。

実はイム・グォンテク監督の最高傑作といわれる映画に「風の丘を越えて ソピョンジェ(西便制)」(1993年)というのがあるのだが、その続編にあたるのが、この「千年鶴」である。

なので主人公の姉(ソンファ)と弟(トンホ)という設定は、同じである。しかも、姉・ソンファを演ずるのは、「ソピョンジェ」のときと同じ、オ・ジョンヘである。

このあたり、市川崑監督が、以前撮った「犬神家の一族」を晩年になってセルフリメイクした感じとよく似ている(わかりにくい)。

そしてこの映画には、あのリュ・スンリョンも出ているのだ!

実は前作の「ソピョンジェ」をまだ見ていないのだが、単独の映画としても十分に成立している。

この映画は、私がよくいう「映画的余韻」に溢れた映画である。

そして、実に切ない。

ソンファ役のオ・ジョンヘが美しいだけに、余計に切ない。

オ・ジョンヘは、ほとんどイム・グォンテク監督の映画にしか出演していないだけに、まことに貴重な女優である。

…ということで、まったくワカラナイ話でございました。

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休日出勤、あるいは一時帰国

2月11日(土)

今日も朝から1日、職場で休日出勤である。

午前中は、以前お世話になった先生が、ご自身の講座の受講生10人ほどを連れて職場を見学したいというので、対応した。平均年齢70歳はゆうに越える方ばかりである。

「ご無沙汰しております」何人かの方に挨拶された。

「はぁ」

「以前、韓国でお目にかかりました」

「そうでしたか」

8年前の留学中に、この先生が引率して韓国にいらした野で私がご案内したことがあったのだが、そのとき参加された方も何人かおられたのである。

地下の仕事部屋で、1時間半近く解説をした。ほとんど講座1回分だな。

案内のお礼にチョコレートをもらう。今日の講師料ということだろう。

午後は同じ地下の仕事部屋で、私が主催する研究会である。

いつもこの研究会は気が重い。進行役である自分の不手際ばかりが目立つ研究会だったが、少なくとも表面上は誰にも怒られることなく、午後5時半に終了した。

終わってドッと疲れが出た。

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サムギョプサルと韓定食

2月8日(水)

先月、職場にお招きしたクォンさんが、今度は私がソウルに行くときに、サムギョプサルをごちそうしてくれるという。

社交辞令かな、と思っていたらそうではなく、「8日の午後7時に、地下鉄5号線光化門駅の5番出口で待ち合わせましょう。光化門駅の近くにおいしいサムギョプサルのお店を見つけました」というメールが来た。

メールには続けて、「もしよろしければ、妻と娘も一緒でよろしいでしょうか」とあったので、「ぜひ夕食をご一緒しましょう」と返信した。

なんとも不思議なご縁である。

先月末に職場にお招きした際に初めてお会いし、専門分野も全然違うし、さほどお話しが盛り上がったわけでもないのだが、それでもお誘いを受けたのである。

私としては、たいしたおもてなしもできずに心苦しかったのだが、義理堅いクォンさんはお返しをしたいと思ってくれたのだろう。

7時に光化門駅の5番出口でお会いし、そのまま少し歩いてサムギョプサルのお店に向かった。

ところがそのお店が高級感溢れる人気店らしく、店員さんが、

「1時間半ほどお待ちいただきます」

という。さすがに1時間半は待てない。

クォンさんは、まさか予約が必要だったとは思わなかったようで、慌てて次の候補の店をスマホで探し始めた。

私はよっぽど、「サムギョプサルのお店でなくてもいいですよ。どこだっておいしくいただけますから」と言おうとしたが、せっかくのご厚意に水を差すわけにもいかず、ここはなすがままにしよう、と思った。

やがて、クォンさんは1軒のお店を見つけたらしく、タクシーでタプコル公園の近くまで移動した。

やはりここも人気店で、お客さんでごった返していたが、運よく席を確保することができた。

ふだん私が食べているサムギョプサルよりもかなりいい肉のようで、クォンさんもそうとう気を使ってくれたようだった。

私は、クォンさんの娘さんにささやかなお土産を準備していて、それを渡したところ、たいそう喜ばれた。

とくにこれといった話題で盛り上がったというわけではなかったが、サムギョプサルはとてもおいしくて、いい雰囲気で会食が終わった。

「この次は、今日行けなかった店に必ず行きましょう。今度は予約しておきますから」

とクォンさんは言った。

2月9日(木)

昨年11月に、妻の職場にお招きした方々にお礼の挨拶に行こうと、妻と2人で、非公式でソウルの近郊にある国家機関に立ち寄った。

昨年11月の行事には、お客さんのお出迎えの時に少しばかりお手伝いしたこともあり、私もまったく関係ないわけではなかったのである。

お招きしたのは、副院長以下、さまざまな肩書きの方4人だったが、どなたも気さくな方ばかりで、私自身も、そこに訪れるのを楽しみにしていた。

ソウル市内から1時間ちょっとかかる郊外にその機関はある。最寄りの地下鉄の駅を降りて15分ほど歩いて、約束時間の午前11時に到着した。

門のところで、キム先生が待ちかまえていて、「お待ちしておりました」という。副院長先生以下、4人の先生方はいずれも私たちが来るのを楽しみにしていたらしく、私たちが到着したことを知ると、たちまち集まってきてさっそく応接室に通された。

私たちが日本から持ってきた些細なお土産を渡すと、先方もお土産を準備していて、ちょっとしたプレゼント交換となった。

ハーブティーを飲みながら、近況を話したり、昨年11月の数日間の思い出話に花を咲かせたりした。

そのうちお昼になり、キム先生が、「午餐(お昼の会食)を準備していますから、そちらに移動しましょう」という。

建物を出て、車に乗って食堂に向かう。

この町はソウルの郊外にあり、いくつかの官庁が集まった地域なのだが、自然が多く残る田舎町である。

車で少しばかり移動すると、しゃれたお店に到着した。韓定食のお店である。

その店で、上品でおいしい韓定食をいただきながら、いろいろと話をする。

といっても、話をするのはもっぱら妻の方で、私は付き添いのようなものである。4人の先生方は、昨年11月以来、妻のことをすっかり慕っていた。それもそのはずである。昨年11月の6日間にわたる行事は、すべて妻がぬかりのないようにとりしきったのである。そのことを知っている4人の方々は妻に絶大な信頼を寄せていることが、会話の様子から十分にわかったのである。

4人の中でいちばん若い、女性の方が言った。

「日本で過ごした6日間は、夢のようでした」

たいしたおもてなしもできなかったと思うのだが、それでもみなさんは口々に、あの6日間の思い出を大切にしてくれていたのである。

厳めしい名前の国家機関に所属する4人の方々は、そのイメージに反して、いずれも人として魅力的な方ばかりだった。あの行事が成功したのは、この方たちの人間的な魅力によるところが大きかったのだろう。

厭わずに受け入れることの大切さ。

今回の旅では、そのことを学んだのである。

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スナック感覚でソウルへ

2月7日(火)

昨日は日帰りで「前の職場」に行き、夜11時半ごろに帰宅した。

今日は日中、都内での憂鬱な会議である。それが夕方に終わり、そのまま羽田に直行し、最終の飛行機でソウルに向かう。

金浦空港から地下鉄を乗り継いで、ソウルの定宿に着いたのが、午前0時過ぎ。

最終の飛行機でソウルに行くなどということが日常になってしまっては、いよいよ大ごとである。

K-POPアイドルじゃないんだから。

それに、明後日に帰国して、来週にまた韓国に行くのだ。

いよいよK-POPアイドルみたいになってきたぞ。

またしばらく、むちゃくちゃなスケジュールが続きます。

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映画「沈黙 サイレンス」を見てきました

2月5日(日)

「劇場で見ておかなきゃ!」と思う映画と、「後でテレビ放映したときにでも見ればいいや」と思う映画がある。

320遠藤周作原作・マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙 サイレンス」は、もちろん前者である。

今月のスケジュールを考えると、「沈黙 サイレンス」を劇場で見る機会は、おそらく今日くらいしかないだろうと思い立ち、急遽、劇場に見に行くことにした。

映画を見に行こうと思ったもう1つのきっかけは、つい先日の、三浦朱門の死、である。

三浦朱門と遠藤周作は友人関係にあった。三浦は遠藤のコンプレックスを揶揄し、遠藤は三浦の権力志向を揶揄した。

不思議でならないのは、遠藤が三浦という、考え方のまったく異なると思われる2人が、どうして友人関係にあったのか、ということである。

まことに変な話だが、三浦朱門の死が遠藤周作のことを思い起こさせ、それが、映画を見に行きたいという直接のきっかけになったのであった。

さて、映画はというと、予想以上にすばらしい映画であった。

「予想以上」と言ったのは、日本文学を海外の監督が映像化すると、得てして時代考証だの日本語のセリフ回しだのと言った細かい点に配慮が行き届かぬことがあり、それが気になって、内容を見るどころではなくなってしまう場合があったりする。あと、監督が独自の解釈を加えたりしてね。

この映画の場合、そのようなことはまったくない。

映画は基本的に原作に忠実であり、監督が原作に敬意を表し、かなり原作を読み込んで作り上げた作品だということがわかる。

そして、日本人俳優の演技もすばらしい。

窪塚洋介もイッセー尾形も浅野忠信もみなすばらしいが、とりわけすさまじかったのは、塚本晋也である。

塚本晋也監督・主演の「野火」はすばらしかったが、今回の彼の演技は、その延長線上に位置づけられる。

「野火」での主演は、この「沈黙 サイレンス」の役作りのためだったのではないだろうか、と思ってしまうほど、塚本晋也の肉体と演技はこの映画にインパクトを与えている。「野火」の撮影と連続して、この「沈黙 サイレンス」がとられたのではないか、と思うほどである。

まさに彼は、現代の「飢餓俳優」といえよう(もちろん、「飢餓俳優」なるジャンルは存在しない。私の造語である)。

この映画では、数多くの残虐な拷問場面や殺戮場面が描かれるが、個人的にすさまじいと思ったのは、加瀬亮が演じる片眼の隠れ切支丹が役人に斬殺される場面である。

ほんの1秒前まで、牢屋の番人とたわいのない雑談していた隠れ切支丹が、いきなり首を斬られ、殺されるという場面である。

「『そりば捨つとはあったからかのう』

『ごうぎい惜しかよ』

何を話しているのか知らないが番人と片眼の男との、のんびりとした会話が風にながれて聞こえてくる。一匹の蠅が格子から飛びこんできて、ねむけを誘う羽音をたてながら司祭の周りを廻りはじめる。突然誰かが中庭を走った。ずっしりと重く、鈍い音が響いた。司祭が格子にしがみついた時は、処刑を終った役人が、鋭く光った刀をおさめる時だった。片眼の男の死体は地面にうつ伏せに倒れていた。その足を引きずって、番人が、信徒たちに掘らせた穴にゆっくりと引っ張っていく。すると黒い血がどこまでもその死体から帯のように流れていった。」

原作のこの場面が、忠実に映像化されていることに驚く。

そしてこの映画を見たあと、五島列島を訪れてみたいと思ったのであった。

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プロファイリング

2月4日(土)

妻の家族と外食をする。

食事が終わり、最後のデザートである。

「デザートはこの5種類のうちから1つをお選びください」という。

バニラアイス

ゆずシャーベット

わらび餅

コーヒーゼリー

抹茶かけアイス

こういうときは、誰でも迷う。

迷ったあげく、

「2択まで絞ったぞ」と私。

すると妻は、

「○○と××でしょう」

と、一発で当ててきた!

「大正解!よくわかったねえ」

妻は、私がなぜこの2品を選んだのかを理路整然と説明した。

まるでFBI捜査官のように、私のデザートの好みをプロファイリングしているのである。

長いあいだ一緒にいると、この程度のことは、すぐにわかってしまうものなのか?

さて、その最終的に残った2品というのは…。

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映画版「あの空にも悲しみが」

2月3日(金)

韓国映画「あの空にも悲しみが」(1965年)を見る機会を得た。

『あの空にも悲しみが』は、私がこれまで読んだ本の中で、最も悲しい物語である。別名『ユンボギの日記』。

極貧の少年イ・ユンボクが、1963年6月から1964年1月まで記した日記である。この日記の内容があまりにも悲しく、そしてあまりにも前向きな内容であったことに、ユンボギの通っていた学校の先生が感動し、1964年に書籍として刊行され、ベストセラーになったのである。

この本はすぐに日本でも翻訳された。戦後、日本人の手により最初に日本語訳された朝鮮文学が、この本である。

この本については、以前、このブログにも書いたことがある

Photoウィキペディアによれば、この本が韓国で3度映画化されたそうであるが、私が見たのは、1965年版なので、おそらく最初に映画化された作品だろうと思う。

韓国には映像が残っておらず、台湾の映像資料院というところに、台湾上映時のフィルムが残っていて、それをデジタル化したそうである。

たぶん、日本でこの映画を見たのは、私を含め、数人なんじゃないだろうか?

実際に映画を見てみると、原作にほぼ忠実に作られており、本と同様、涙なくしては見られない。

何より子役の演技がすばらしい。韓国映画や韓国ドラマは、いまでも子役の演技がすばらしいが、昔からの伝統だったんだな。

それにしても驚きなのは、当時小学校4年生だったユンボギが日記を書いたのが、1963年。その日記が出版されたのが、1964年。そしてそれが映画化されたのが1965年だということである。

何というスピードだ!このとき原作者のユンボギは、まだ小学校6年生だぞ。

ユンボギが実際に体験したあの一連の悲しい出来事が、わずか2年後に忠実に映画化されているのだ。

しかも、ユンボギとほぼ同年代の子役によって、である。

この映画を、イ・ユンボク自身は、見たのだろうか?

見たとしたら、どんな気持ちだっただろうか?

なんとも複雑な思いである。

ちなみに、この作品を大島渚監督も1965年に映画化したことがある。

以前見たことがあるが、静止画のモノクロ写真に小松方正がナレーションをつけただけのもので、かなり前衛的な作品だなあと思った記憶がある。

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尻を叩く役

2月2日(木)

午前、遠方から、職場にお客さんがやってきた。

私の大学時代の1学年上の先輩であるSさんの職場の同僚、Rさんである。

大学時代の1学年上の先輩であるSさんについては、前にも書いたことがある。

以前書いた記事を引用する。

「Sさんとは、年齢がほぼ同じだと言うこともあって、仲がよかった。Sさんが4年生の時、卒論が間に合いそうにない、ということになり、徹夜でお手伝いしたことがある。結局、その卒論は不合格となったのだが。で、翌年、Sさんと私はそろって大学院に進学した。

そのSさんが、数年後、就職が決まり、遠くに引っ越すことになった。私は、その引っ越しの手伝いもすることになったのである。

いかにも「○○荘」といった感じのぼろアパートの部屋に行くと、アパートが傾くんじゃないか、というくらいの本やガラクタが散乱していた。

ありとあらゆる書類がとってある。大学入学時のオリエンテーションパンフレットとか。

「こんなのいるんですか?」

「いるよ。とにかく段ボールに詰めて」

言われるがままに段ボールに詰めた。

極めつけは、流しの戸棚から、「峠の釜めし」の駅弁の容器が、5,6個出てきたことである。

北関東出身のSさんは、帰省するたびに、名物の「峠の釜めし」を買って食べていたのだろう。

「こんなのも引っ越し先に持って行くんですか?」

「持って行くよ」

「え、どうしてです?」

「だって、これで米を炊くかもしれないじゃん」

ええぇぇぇぇ!そんなこと、絶対あり得ない。釜めしの容器でご飯を炊く機会なんて、絶対ないだろう。

のちのち必要になるかもしれないからとっておく、というのは、ゴミ屋敷のオヤジの発想である。

「全部ですか?」

「全部」

私はだんだん腹が立ってきた。1つならまだしも、5,6個あった「釜めし」の容器をなにも全部持って行くことはないだろう。

あまりに腹が立ったので、Sさんが目を離しているすきに、釜めしの「うつわ」と「ふた」を、全然別の段ボールに、バラバラに梱包してやった。

(これで、段ボールをあけたときに、「あれ?うつわはあるけどふたがない」とか、「ふたはあるけどうつわがない」となって、さぞかし困るだろうな、ククク)

なんとも地味な嫌がらせである。

一事が万事そんな感じで、ほとんどのモノを捨てることなく、段ボールに詰めるだけ詰めて、新天地まで運んでいったのであった。」

…というエピソード。

私は、Sさんの卒論を手伝い、実は修論も手伝い、そして就職の時の引っ越しも手伝った。Sさんは、卒論とか修論とか引っ越しとか、自分にとって「大きなイベント」があるたびに、長考に入り、ギリギリになるまで自分の中で抱え込んでしまう、というクセがあった。私はそのたびに、Sさんのお尻を叩き、抱え込んでいるものを共有する、という役目をしていたのである。

私は20代の大半を、Sさんとともに過ごしたが、Sさんが就職して遠くに行ってからは、つい最近まで、ほとんど音信不通の状態だった。ところが昨年あたりから、仕事で何度かお会いするようになったのである。

そしてその過程で、Sさんと同僚のRさんとも、これまで2度ほど、お会いしたことがあったのである。

2日ほど前、そのRさんから電話があった。

「2月2日の午前中に、そちらの職場にうかがってもよろしいでしょうか。少しお話ししたいことがあるもので」

「いいですよ。ただし場所が遠いですよ」

「かまいません」

まだ2回しかお会いしたことのないRさんが、わざわざ私の職場に来て話したいこととはなんだろう?お話し好きの方、という印象があったから、たんなる雑談をしに来るのだろうか、とも思った。

さて当日。

Rさんがうちの職場にお見えになった。

「はるばるとこんな遠いところまで来てくださって、ありがとうございます」

「今日は実は、ひとつ折り入ってご相談といいますか、お願いがあってやって来ました」

「何でしょう?」

「今年の秋に、うちの職場で、大きなイベントをやることはお話しましたでしょう」

「ええ、うかがいました」私も少し、協力することになっていた。

「Sさんがこのイベントの主担当なのですが」

「そうでしたね」

「実は、なかなかこのイベントの方向性がまだ見えてこなくて、Sさんも困っているようなんです」

「そうですか」

「Sさんも、ああいう慎重な方なんで、なかなかコトが進まなくて…」

「そうでしょう」Sさんらしい、と思った。

「そこで相談なのですが」

「はい」

「鬼瓦さんに、これからイベントが始まるまでのあいだ、Sさんの尻を叩いてほしいんです」

「私がですか?」

「定期的に、Sさんの尻を叩いてもらえませんか?」

「はあ」

「そうすれば、Sさんもイベントに向けて仕事が進むと思うんです」

私は驚いたと同時に、笑いがこみ上げてきた。

学生時代、私はSさんが卒論を提出するまでの間、Sさんの尻を叩き続ける役目を果たしていた。修論の時も、引っ越しの時もそうだ。

それから25年がたち、結局私は、Sさんに対してまったく同じ役目を果たすことになるのだ。人生とは、まことに面白い。

「大きなイベント」を前にして長考に入り、ギリギリになるまで自分の中で抱え込んでしまう、というSさんの性格は、学生時代のままだった。

だとしたら、尻を叩くのは自分しかいない。

そのことを知ってか知らずか、同僚のRさんは私のところに相談に来たのである。

そしてそれは、Sさんがいまの職場で同僚たちに慕われてることも意味した。

「わかりました。引き受けましょう。いままでも、私はそうしてきましたから」

「よろしくお願いします」

ということで、秋のイベントまでの間、折にふれてSさんのところまで出かけていって、尻を叩く役を仰せつかったのである。

またひとつ、仕事が増えたなあ。

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くたばれ!人生訓

不思議なことに、大会社の副社長から、不定期にメールマガジンが送られてくる。

今回送られてきたそのメールマガジンには、冒頭に広瀬中佐のエピソードが引用されていた。その方は、広瀬中佐を尊敬しておられるようである。

「大雪の早朝ウオーキングに、今年も広瀬中佐を思い出しました。広瀬中佐は、明治35年1月、45日かけ氷点下30度のシベリア2000キロを橇で単独走行。ペテルブルグ駐在5年、ロシア貴婦人にもてたということです。心身共に強靱な日本人の一人に思います。」

その方が、若者たちと読書会をしているという。取りあげている本は、ある陽明学者、というか政界のフィクサーだった人物の人生訓である。そのなかで、「心に残った箴言」として「思考の三原則」というのが紹介されている。

「私は物事を、特に難しい問題を考えるときには、いつも三つの原則に依る様に努めている。第一は、目先に捉われないで、出来るだけ長い目で見ること。第二は物事の一面に捉われないで、出来るだけ多面的に、出来れば全面的に見ること。第三に何事によらず枝葉末節に捉われず、根本的に考える」。

メールマガジンの記主は、どうもこの政界のフィクサーの本をかなり愛読しているようで、それを若者にも勧めているらしい。月一度、若者諸君と一緒にこの人の本を読んでは、刺激と元気を貰っている、と述べていた。

このメールマガジンを読んで、私がなぜ人生訓、いや自己啓発本が大嫌いなのかが、なんとなくわかった。

たとえば、ここに書いてある人生訓。

第一は、目先に捉われないで、出来るだけ長い目で見ること。

第二は物事の一面に捉われないで、出来るだけ多面的に、出来れば全面的に見ること。

第三に何事によらず枝葉末節に捉われず、根本的に考える。

ここに書かれていることは、どれもすばらしい。反論の余地もない。

しかし、である。

「長い目で見ること」とあるが、どのように思考訓練すれば物事を「長い目で見ること」ができるのかについては、この人生訓では語られていない。

「できるだけ多面的に、できれば全面的に見ること」とあるが、どのようにすれば物事を多面的に見ることができるのかについては、この人生訓では語られていない。「多面的」というだけならばたやすいが、「多面的に見る」ためには、相当な思考訓練が必要であることが、語られていないのである。

「根本的に考える」とあるが、「根本的に考える」とはどういうことなのかが、語られてはいない。物事は、「根本的に考えよう」と思って根本的に考えることができるわけではないのだ。この点も、人生訓は何も語っていない。

つまり、これらのすばらしい人生訓は、物事を長い目で見ることや多面的に見ることや根本的に考えることがどういうことかわかるという人、すなわちそれ相応のリテラシーを持っている人でなければ、まったく意味をなさないものなのである。

そして最も悲劇的なことに、人生訓に心酔する人物は、えてしてこのリテラシーを持ち合わせていない。

なぜなら、すでにこの種のリテラシーを持ち合わせていれば、人生訓など必要ないからである。

「人生訓に心酔する人間は、えてして浅薄な人間である」

という私の中にあった謎は、なんとなく解き明かせそうな気がしてきた。

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