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映画「沈黙 サイレンス」を見てきました

2月5日(日)

「劇場で見ておかなきゃ!」と思う映画と、「後でテレビ放映したときにでも見ればいいや」と思う映画がある。

320遠藤周作原作・マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙 サイレンス」は、もちろん前者である。

今月のスケジュールを考えると、「沈黙 サイレンス」を劇場で見る機会は、おそらく今日くらいしかないだろうと思い立ち、急遽、劇場に見に行くことにした。

映画を見に行こうと思ったもう1つのきっかけは、つい先日の、三浦朱門の死、である。

三浦朱門と遠藤周作は友人関係にあった。三浦は遠藤のコンプレックスを揶揄し、遠藤は三浦の権力志向を揶揄した。

不思議でならないのは、遠藤が三浦という、考え方のまったく異なると思われる2人が、どうして友人関係にあったのか、ということである。

まことに変な話だが、三浦朱門の死が遠藤周作のことを思い起こさせ、それが、映画を見に行きたいという直接のきっかけになったのであった。

さて、映画はというと、予想以上にすばらしい映画であった。

「予想以上」と言ったのは、日本文学を海外の監督が映像化すると、得てして時代考証だの日本語のセリフ回しだのと言った細かい点に配慮が行き届かぬことがあり、それが気になって、内容を見るどころではなくなってしまう場合があったりする。あと、監督が独自の解釈を加えたりしてね。

この映画の場合、そのようなことはまったくない。

映画は基本的に原作に忠実であり、監督が原作に敬意を表し、かなり原作を読み込んで作り上げた作品だということがわかる。

そして、日本人俳優の演技もすばらしい。

窪塚洋介もイッセー尾形も浅野忠信もみなすばらしいが、とりわけすさまじかったのは、塚本晋也である。

塚本晋也監督・主演の「野火」はすばらしかったが、今回の彼の演技は、その延長線上に位置づけられる。

「野火」での主演は、この「沈黙 サイレンス」の役作りのためだったのではないだろうか、と思ってしまうほど、塚本晋也の肉体と演技はこの映画にインパクトを与えている。「野火」の撮影と連続して、この「沈黙 サイレンス」がとられたのではないか、と思うほどである。

まさに彼は、現代の「飢餓俳優」といえよう(もちろん、「飢餓俳優」なるジャンルは存在しない。私の造語である)。

この映画では、数多くの残虐な拷問場面や殺戮場面が描かれるが、個人的にすさまじいと思ったのは、加瀬亮が演じる片眼の隠れ切支丹が役人に斬殺される場面である。

ほんの1秒前まで、牢屋の番人とたわいのない雑談していた隠れ切支丹が、いきなり首を斬られ、殺されるという場面である。

「『そりば捨つとはあったからかのう』

『ごうぎい惜しかよ』

何を話しているのか知らないが番人と片眼の男との、のんびりとした会話が風にながれて聞こえてくる。一匹の蠅が格子から飛びこんできて、ねむけを誘う羽音をたてながら司祭の周りを廻りはじめる。突然誰かが中庭を走った。ずっしりと重く、鈍い音が響いた。司祭が格子にしがみついた時は、処刑を終った役人が、鋭く光った刀をおさめる時だった。片眼の男の死体は地面にうつ伏せに倒れていた。その足を引きずって、番人が、信徒たちに掘らせた穴にゆっくりと引っ張っていく。すると黒い血がどこまでもその死体から帯のように流れていった。」

原作のこの場面が、忠実に映像化されていることに驚く。

そしてこの映画を見たあと、五島列島を訪れてみたいと思ったのであった。

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コメント

「「やがてパードレたちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう」
そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。
「日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ」
奉行の溜息には真実、苦しげな諦めの声があった。」

投稿: ひょん | 2017年2月 6日 (月) 18時11分

久しぶりに原作読みましたが、マーティンスコセッシ監督が原作に惚れ込んだのもよくわかります。

投稿: onigawaragonzou | 2017年2月 7日 (火) 18時54分

「私は雨のなかを教会から出て、村に一軒しかない雑貨屋で一升瓶を買った。そして神父からそっと教えてもらった村上近七さんというかくれ切支丹の家をたずねた。
 村上さんの家の屋根から雨が烈しい音をたてて地面に落ちていた。硝子戸をあけると、籠や鍬をおいた土間は暗く、幾度か声をかけたあとやっと一人の爺さまが出てきた。それが村上近七さんだった

 かくれ切支丹の人の多くがそうであるように近七爺さんも暗い、疑いぶかい眼で私を眺めた。一升瓶のおかげで、家の中に入ることは入れたが、こちらが気を使いながらする質問にも爺さんは警戒して、口かず少なく答えるだけだった。」『切支丹の里』(中公文庫)
…長崎、今こそ行けるといいですな。

投稿: ひょん | 2017年2月 8日 (水) 21時19分

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